「――――――――」
 意識が急激に浮上して、その勢いのままセイバーは目を開けた。
 まだはっきりしない頭でもここがどこかはわかる。なにせ意識が途切れる前と景色が変わっていないのだから。
 ここは自分の部屋ではない。すぐ隣で眠っている士郎の部屋だ。
「…………ん…………」
 無意識に右手を握りしめる。寝る前に握ったままだった士郎の手の感触が、そのまま伝わってきた。
 彼の体温を心地よく感じながら、一度だけまばたきをする。と、目尻に小さな違和感を感じた。
 不審に思って左手をあててみると、カサリ、とした感触。
(…………これはたしか…………)
 思い出す。そういえばさっき、いつの間にか目尻に涙が滲んでいて――――それを優しく拭ってくれたのが、今握っている彼の指だったような――――
(――――――――!!!!!)
 一気に意識が覚醒する。朦朧としていた思考回路は完全に通常の状態へと切り替わった。その涙が流れるまでに至る行為まで思い出すのは、寝起きの頭にはあまりにもインパクトが強かったらしい。
 どうやらそのまま寝てしまったせいで、乾いた涙が固まって残っていたようだと結論づけ、セイバーは急いでその跡を消す。なんだか無性に恥ずかしかった。
(わ、私としたことが――――)
 …………彼は、この残滓を見ただろうか。
 願わくば、士郎が気づいてませんように。
 しかしそれを願うには、少々遅すぎるだろう。士郎が気づいていようといまいと、もう事は起きてしまっているのだから。
 誤魔化してもごまかしきれない現状の気恥ずかしさをごまかすために、なんとなく腹をたててみるのも、照れ隠しとしては正常な反応かもしれない。
(だいたい、この涙はシロウのせいなのですから、全てシロウが悪いのです!)
 彼だけでなく自分もその行為を望んでいた、などとは考えない。というか、気づいたら悶死してしまうかもしれない。
(私だけ泣き顔を見られるというのは不公平だ。シロウだって涙くらい――――)
 涙くらい。
 そういえば。
「……貴方も、泣いたことがありましたね……」
 さっきまでの理不尽な激情は波が引くように消え、代わりに狂おしい切なさが波のように押し寄せた。
 思い出す。初めて彼の涙を見た時のことを。

『―――もういい。いいから、自分の為に、笑わないと』

 あの聖杯戦争の最中。彼女を抱き締めながら、悔しそうな顔で、叩き付けるような言葉と共に流した彼の涙。
(…………と、殿方の泣くところは初めて見ましたが…………)
 セイバーの育った環境では、男の涙はある意味タブーだった。不吉とかそういう意味ではなく、男子たるもの女子供のように人前で涙を流すことなど許されないという風潮があったのだ。
 しかしあの時の士郎の涙は、女々しいとは少しも思わなくて。
「シロウ…………」
 もう一度、彼の手を握る右手に力をこめる。
 あの時士郎が何を思って泣いたのか、セイバーにはいまだにわからない。
 ただ、わかるのは。
 彼が泣いた理由は、おそらく自分だったということだけ。
 ――――あの時の彼は、本当に苦しそうで。
 自分があんな顔をさせていたのかと思うと、思い返すだけで胸が痛かった。
「シロウ……っ、シロウ……」
 胸に沸き上がる痛みから逃れるように、懺悔をするように。
 セイバーは彼の名を呼びながら、握った彼の手を持ち上げて指に口付ける。
 ああ、でもまだ足りない。だって涙が乾いても、その涙の跡は目に見えないだけで、確かに残っているはずだ。なかったことになどなりはしない。
 こうしてる今にも、彼が泣いている幻想が見えて仕方がない。
 それが幻想なのだと確かめるため。そして万一幻想ではなかったら、その涙を拭うため。
 セイバーは士郎の顔を見上げ――――
「――――――――」
「――――――――」
 ばちり、と一対の目と視線が合った。
 誰であるかは、もちろん言うまでもない。
「シッ、シッ、シッ、シッ、シッッ!?」
「……なんか犬になって追っ払われてる気分だが……とりあえずおはよう、かな? セイバー」
「シ、シロウ!! いつ、いつから起きていたのですか!!?」
「…………ええと、たしかセイバーに手を握られたような気がして、目が覚めた。それが何分か前だったな」
 つまり最初からということだ。ということは、さっきまでの行為は全て彼の知るところとなっているはず。
 よく見れば士郎の顔も赤い気がする。明かりのない部屋の中でもそう思うのだから、きっと間違いなく赤いのだろう。今の彼女と同じように。
 これ以上士郎と目を合わせていられなくて、セイバーは彼の腕を握りしめて顔を埋めた。
 火照った頬をさまそうと必死に心を落ち着けていると。
「―――セイバー。さっきどうかしたのか?」
 心配げな士郎の声が上から降ってきた。
「……え……?」
「今、俺の名前呼んでただろ。なんか、その声がさ……」
 ひどく悲しげに聞こえたのだ、と。
 腕の中にいて、セイバーの顔が見えないからだろう。彼女が泣いているとでも思ったのか、士郎は不安そうな声を出す。
 見当違いの心配がおかしくて、そしてとても嬉しくて、セイバーは顔を上げて微笑した。
「大丈夫です、シロウ。少し以前のことを思い出していただけですから」
「……以前のこと?」
「ええ。―――貴方と共に戦っていた頃、頑なにシロウの説得を拒んでいた時のことを少し」
 彼が泣いていた時のことを、などと言えば士郎は恥じるかもしれないので、多少ポイントのずれた返答をする。それにこの事に関しても、彼に言いたいことがあったのだ。
「―――シロウは怒っているでしょうか」
「? 怒ってるってなにを」
「貴方は私の事を思って幸せになるべきだと言ってくれたのに……私は私の都合しか考えていなかった。王としての責務があると、シロウの説得も私への想いも頑なに拒んでいました。
 あの時のシロウは、そんな私に苛立っているようでした。……今もその事に関して……」
 続け辛くて、言葉を切る。胸によぎった不安に思わず士郎の腕を抱き寄せた。
「…………そうだな。たしかに怒ってた」
 後の言葉を継いだ士郎に、ピクンと体がはねる。
「あ、でも誤解のないように言っておくと、別にセイバーが俺の言うこと聞かないから怒ったんじゃないぞ。セイバーが自分の事を何も考えてないのを怒ってたんだ」
「―――ええ、そうなのでしょうね」
 士郎は何度も言っていた。もし聖杯を手に入れたなら、他人の為ではなく自分の為に使えと。
「あとは……セイバーに告白したのを受け入れてもらえなかったって話だけど。
 そっちは、別になんとも思わなかったかな」
「む。……シロウは私がシロウの事をどう思っていようと、別に構わないというのですか?」
「ああいや、そうじゃなくてさ。……怒らないか?」
「聞いてから決めます」
 それじゃ約束にならないじゃないか、と士郎はぶつぶつ呟いた後。
「セイバーに受け入れてもらえないのは、セイバーが頑固だったからで」
「が、頑固とは何ですか!」
「まあ聞けって。
 ともかく、受け入れてはもらえなかったけど、セイバーが俺のことをどう思ってたかは……なんとなくわかってたから」
「わかってた――――?」
「そう。だってあの夜も、こうして寝ただろ」
 言って士郎はさっきから繋いだままの手を持ち上げた。
「っ――――!」
 セイバーの顔に熱が出る。
 それはあの晩、初めて二人きりで肌を重ねた夜のことを言っているのだろう。
 魔力補給という名目で抱かれ、けれどそんな名目では言い訳が立たない事を、彼と同衾をしたあの晩を。
 たしかにあの行為は、純粋にセイバーの甘えでしかなく。
「それに、最後にセイバーは俺の想いを受け入れてくれた。側にはいられなくても、あれで俺は十分に報われたんだ」
 あの朝日の中で、最後に告げた彼への想い。
 あの一言だけで、それだけで十分だったと言うのだろうか、彼は。
「シロウ…………」
「なによりセイバーは、今ここにいる。こうして俺の想いに応え続けてくれてる。だったらあの頃の事はもう怒っちゃいない。
 どうもセイバー自身のことを考えてないっぽいところはまだ言いたいことはあるけど」
「それはお互い様です、シロウ」
 士郎は苦笑した。彼にも若干の自覚はあるようだ。しかしそれが治らないのが士郎の士郎たるゆえんとも言える。
 けれど――――そうか。
「私の気持ちは、シロウに伝わっていたのですね……」
 抱き寄せた彼の腕を頬にあてる。士郎の腕はあの時と同じく温かかった。
「思い当たったのは後になってからだけどな。
 考えてみれば、王の責務とかのせいで受け入れてもらえなかったっていうけど、セイバーがそこまで頑固じゃなかったらそもそも聖杯なんて求めなかっただろうし、そうしたら俺たちは逢えなかった。だからセイバーはそれでいいんだよ」
「……シロウ。一言余計です。せっかくの良い雰囲気が壊れます」
「そ、そうか? ごめん」
 本当はそんなに怒ってはいない。頑固という言葉には反論したいところではあるのだが、たしかに自分が王の責任を間違えてなかったら、彼と会うことがなかったのは事実だ。
 しかしせっかくなのだから。
「謝罪したいというのなら、明日シロウが起床した時に、私も一緒に起こしてください」
「へ? なんでさ」
「―――シロウは本当に女心がわかっていない。
 毎回シロウが私を起こさぬよう寝床を抜けるのは、私への気遣いだということは理解しています。しかしあの日の翌朝もそうでしたが、目が覚めた時隣に貴方の姿がないのでは、何のために一緒に寝ているのかわからないではありませんか」
「う…………すまん。気づかなかった」
 セイバーの口が自然と笑みの形をつくる。
「わかってくだされば結構です。では、お願いしますねシロウ」
「ああ。約束する」
 そして、もう一度かたく互いの手を握り締めて。
 二人は朝まで一緒に眠ることにした。






 お題その2、「涙の跡」。ホントは出会い、再会、別れの涙なんでしょうけどお題的には。でもうちもう再会しちゃってるんで(笑)
 Fateトゥルーでのセイバーのあの告白は、良くも悪くも士郎の心を奪っていってしまった感があります。あの一言で士郎の想いは報われたけど、そのため士郎はセイバーを思い続けることになったのではないかな。早くて数年、長くて一生、士郎は他の女性を好きにはなれない気がする。あのエンディングで士郎があれだけ吹っ切れてたのは、まだ彼の中で想いが死んでいないからでは。そういう見方もできるのではないかと思います。桜あたりに言わせると、側にいないことを選んだくせにふざけるなって感じですが。セイバー自身にはそんな気は微塵もなかったはずですけどね。
 まーセイバーだけじゃなく士郎のためにもセイバーと士郎を一緒にいさせて、というのはグッドエンド支持者にはおそらく鉄壁の掟、暗黙の了解かと思いますが。……ほんと、呆れるほど不器用で、その分見惚れるほど真っ直ぐな、似た者夫婦ですねこの2人。




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