――――ケホ、ケホ
(ん…………?)
喉にすこし違和感を感じて、セイバーは眉をしかめた。
たいしたほどではないのだが、つばを飲み込む時に若干の痛みを感じる。声を出してみると同等の痛みが喉に走った。
(風邪でもひいたのだろうか)
彼女とて人の子。竜の因子なんてものが入っていても、人並みに風邪もひく。
まだ熱が出るところまではいっていないが、用心せねばなるまい。
(もしや昨日の昼のあれがいけなかった……?)
そろそろ楽しいおやつの時間。居間に向かいながらセイバーは考える。
昨日ちょっと油断して、クーラールームで昼寝をしてしまったのだ。あんまり涼しくてつい、というやつである。
あの部屋で寝ることは家主である衛宮士郎にかたく禁じられているが、偶然にもライダーはバイト、イリヤスフィールは遊びに来ていなくて、部屋にはセイバーしかいなかった。
クーラールームで寝るのが禁止なのは、ひとえにあそこで寝ると風邪をひくからと言われていたのだが。
(シロウが現代の仕組みにおいて言うことは、いつも正しい…………)
己が主人であり恋人である少年の言った言葉をふかく噛みしめる。尊敬の念と、彼の言葉に背いてしまったほんの少しの罪悪感をもって。
尊敬と言うには大げさな話の気もするが、彼女は真剣だった。そこは身内びいきと惚れた欲目というやつかもしれない。
障子の向こうから聞こえてくる居間の雰囲気は、やけに騒がしかった。
「うわーーーー、リンってば信じられなーーい!」
「な、なによ! 風邪じゃないわよ、魔術回路の拒否反応だってば!!」
「似たようなものよ。どっちにしろリンはバカ決定ーー♪」
カラリと障子を開けると、赤いあくまが白いこあくまにからかわれているという、居間の外から予測したのとまったく同じ景色がひろがっていた。
とはいえ普段からあまり互いに手を出さないこの二人の間で、からかい、からかわれるという構図が成立しているのは珍しい。何かよっぽど大きな隙が凛にあったということなのだろう。ちなみに普段はもちろん、そのからかいのベクトルは二人の横で苦笑している彼――衛宮士郎のところに行くのだけど。
「来ていたのですね、イリヤスフィール」
「こんにちは。お邪魔してるわセイバー」
「それで、なにやら騒がしいようですがどうしたのでしょう?」
「聞いて聞いて。リンったら夏風邪ひいたんだって!」
「ひいてないってば!!」
そういえば先日、彼女が三日ほど姿を見せない日があったか。
凛は頑なに風邪であることを否定する。それが不思議に思えて、セイバーは問いかけた。
「はあ…………。凛が風邪をひくことが、なぜこの騒ぎに?」
彼女が普段から隙を見せない、完全無欠の優等生であることに関係するのだろうか。セイバーが王として隙なく暮らしていた時ならともかく、凛が風邪であることをひたすらに否定する理由は、他に思い浮かばなかった。
しかし。
「あら。セイバー、知らないの?」
イリヤスフィールはにんまりと笑い。
「この国ではね。夏風邪はバカがひくっていうんだよ?」
「なっっっ……………………!!!??」
絶句。
「…………? セイバー?」
訝しそうに問うてくるイリヤスフィール。その声で我に返った。
気取られるわけにはいかない。――――まさか自分が夏風邪をひいている、などと。
「い、いえ、なんでもありません。それより今の言葉は――――」
「あ、そうそう。だからね、リンはバカなのよ♪」
「だから風邪じゃないっっ! 魔術回路の拒否反応だって言ってるでしょ!!」
凛は歯をむいて怒っている。もうここまで来ると、理由などどうでもいいのだろう。イリヤスフィールはひたすら凛をバカ呼ばわりできるのが嬉しいらしく、凛はそれに怒り心頭だ。そこに原因が風邪かどうかなど関係はない。
しかしセイバーには別の問題があった。
言い争う二人を視界から追いだし、すがるように蚊帳の外にいた少年へと声をかける。
「シ、シロウ。今の話は本当ですか?」
「ああ、夏風邪はバカがひくって話か? まあたしかにそう言うけど、黒猫が前を横切ると不幸になるとか、そういうレベルだぞ」
軽く笑う士郎。だがセイバーはとてもそんな気分にはなれない。
彼の言う現代の常識は正しいのだと、身をもって証明したばかりだ。ならばきっと、この言葉も正しい。
――――今の自分の状態が風邪であると認めるわけにはいかない。
(愚か者などという烙印をおされるわけにはっ……!)
この身は、かつて国を背負い、今は大切な士郎の剣を担うという身。己の評価が落ちることは、ひいては自分の背負う物の評価をも落とすということになる。
王であったかの時代、国の品行を落とさぬよう王として立派な行いが求められたものだ。
ならば今、彼のために求められることは。
「…………私が愚か者ではないと証明しなければ」
「ん?」
セイバーの小さな呟きは、士郎には聞こえなかったらしい。彼は不思議そうな目で彼女を見ていた。
シン、と空気が張り詰めたように静まり返る。
時刻は午前零時。
これが冬場なら空気はもっと静謐としていただろうが、あいにく今は夏。
ただ、それでも彼女の周りだけは、気配が凛と澄んでいた。
「――――かつて人々は、己が身の潔白を証明するため、あえて困難なことに挑戦したという」
それは火の上を渡ることだったり、冬場の氷の上を裸足で歩くことだったり。
「ならば私もそれに倣おう。自分が愚か者ではないと証明するために」
彼女の目の前に置かれているのは洗面器とバケツが2つ。
中に入っているのは…………冷水だった。
それもただの冷水ではない。冷蔵庫の冷凍庫部分から拝借した、氷をふんだんに入れてある。
「我が身は健康である。風邪などひいていない。それを今から証明する」
宣言を聞くものは誰もいなかったが、彼女は世界中に宣言するかのように堂々と言い放った。
自分は風邪をひいていない。だから冷水を浴びても問題ない。
禊ぎ、という風習もこの国にはあるという。冷たい水を浴びて、身を潔白に保つ術だということだ。
そんな二重の意味から、彼女はこの方法を選択した。
道場にいる時のように精神を統一し、一息に。
――――ザバァッッ!!
溶けきらない氷が体にぶつかり、夏とは思えないほど冷たい水が全身の肌を流れ落ちる。
続けてもう一杯。白いブラウスが肌にべったりと貼り付いた。
本来ならば、この行いは白い着物を着て行うという。しかし彼女はそんなものを持っていなかったので、仕方なしにいつも着ているブラウスで代用したのだ。
しかし着衣は偽物でも、気持ちは本物だった。
「明日にはきっと結果が出る」
決して負けられない結果が。
セイバーは最後の一杯をためらうことなく浴びた。
明日の必勝を胸に誓って。
「――――ックシュン!! エホッ、ゴホッッッ!!」
熱。咳。くしゃみ。
トドメとばかりに頭痛と喉の痛み、ついでに寒気。
翌朝目が覚めたとき、セイバーを襲ったのはまさにほぼフルセットの症状だった。
頭は熱くてぼうっとしているのに背筋がゾクゾクする。この状態はまぎれもなく。
(風邪――――を、ひいて、しまったのか――――)
そんなはずはないと思っていたけれど。いや、きっと信じたくなかったのだ。
彼女とてこれが普段ならば、素直に風邪をひいたと認めただろう。しかしそれでも、今回ばかりは認めるわけにいかなかった。
結果、これである。
ガンガンと痛む頭をおさえ、ふらつく足下を叱咤しながら部屋を出る。
まだほんの少しだけ、風邪ではないと否定したがる自分がいた。だからセイバーは普段通りに起き出す。
一歩。二歩。顔が熱い。三歩。四歩。吐き気がする。
「お。おはよう、セイバー」
ふと、眼前から声がした。
こんな茹だった頭でも誰だかわかる。
挨拶を返そうとして顔をあげ――――
「シ――――――――」
視界がぐるんと反転して。
意識がぐるぐると暗転した。
次に目蓋を開けると、目にうつったのは見慣れた自室の天井だった。
「…………ぁ…………?」
状況が理解できずに思わず声がもれる。たしか今日は一度起きたと思っていたのだけれど。
だが現在の状態を把握する前に、慌てた様子の少年の顔が視界に飛び込んでくる。
「セイバー! 気がついたか!?」
それは誰よりも傍にいて欲しい赤毛の少年で。
思いもかけず彼の姿が見られたことが嬉しかったのか。
「…………シロウ…………」
熱っぽい吐息と共にもらした呟きは、彼女自身にも意外なことに安堵の響きを含んでいた。
一方名前を呼ばれた少年の方も、安堵の混じったため息を吐き出す。
「……心配したんだぞ。突然倒れたりするから……また熱中症かと思ったら、今度はガタガタ震えてるし」
彼女が目をさましたことで安心したのだろう。口元には穏やかな微笑を漂わせながら、士郎はかたく絞ったタオルをセイバーの額にのせる。そして。
「風邪みたいだな。ゆっくり寝てれば治るはずだから、今日はおとなしくしてろよ」
彼女が言ってほしくはなかった言葉を、口にした。
「――――――――」
もう逃れられない。自分だけではなく、他人にまで断じられてしまった。
この症状は間違いなく風邪。ならば。夏風邪をひいてしまった自分は――――
涙がにじみそうになるのを必死にこらえる。だが、そんな彼女の努力もむなしく、士郎がセイバーの様子に驚きの声をあげる。
「え? セイバー? ど、どうしたんだ?」
「…………シロウ。私は、馬鹿なのでしょうか」
「へ?」
鳩が豆鉄砲を食らったような顔で問い返す士郎。はっきりと言葉に出すことは自分で事実を認めるようで屈辱的だったが、それでもセイバーは声を振り絞る。
「昨日、イリヤスフィールが言っていたでしょう。夏に風邪をひくのは馬鹿のすることだと。
私は……自分が利口かどうかはともかく、愚か者ではないよう努めてきたつもりでした。時に間違い、時に愚かなことをしでかしても、愚か者とまで陥らないよう努めてきたつもりです。
だから昨晩も身の潔白を証明するため、禊ぎを行ったのですが…………結果はご覧のとおりです。
私は、自分では気づかなかっただけで、やはり国を滅ぼすほどの愚か者だったのでしょうか――――」
悔しい。ただ悔しくて、どんどん視界が歪んでいく。
士郎はポカンと口をあけてセイバーを見ていたが、やがて苛立ったように、
「ああ、そうだな。セイバーは馬鹿だ」
「なっ――――」
遠慮会釈のない彼の言葉につい声を出した。
しかし次の瞬間、顔に何かが押し当てられ、思考回路が止まる。
その何かが彼女の目元の涙をぬぐっていった時、ようやくそれが士郎の服の裾だとわかった。
「まったく信じやすいにもほどがあるぞ。そんなのは迷信に決まってるだろ。バカだって健康なら夏風邪はひかないし、どんなに利口な人だって条件さえそろえば夏にも風邪をひく。
黒猫が前を横切っただけで人間は不幸にならないし、茶柱が立っただけで幸せになれるはずはないんだ」
ぐい、ぐい、と強めに何度も士郎の裾が目元をぬぐう。服は鼻先にもおしあてられ、心地よい彼の匂いが鼻孔をくすぐった。
いきなり生々しく感じ取れる士郎の存在にセイバーは慌てる。
「シッ、シロウ、目が痛いです」
「うるさい。お仕置きだ。黙ってろ」
怒っているようなぶっきらぼうな口調。何を言ってもやめてくれないと悟り、けれどお仕置きされる理由が思い当たらず理不尽な想いを抱えつつもセイバーは抵抗を諦めた。
ごし。ごし。ごし。
痛いくらいの布の感覚が、なぜか気持ちいい。
ひとしきり彼女の目元がこすられ、その勢いで目元が赤くなる頃、やっと士郎は手をとめた。
離れた手が、今度は頭にのび、軽くぽんぽんと優しくたたく。頭と髪に触れる彼の手のひらが、指が、とてもあたたかかった。
「――――もうバカなことしないでさ。早く良くなってくれよ」
――――ああ、
唐突に理解した。彼が怒っている理由を。
――――心配をかけたんだ……
「…………申し訳ありませんでした。シロウ」
小さな声で謝ると、士郎は再び穏やかに笑みを見せてくれた。
「じゃあ風邪だって認めて、ちゃんと寝ててくれるか?」
コクンと頷く。このうえさらに無理をして彼を心配させるなど、本物の大馬鹿だ。
自分からもぞもぞ布団の中に潜り込む。口元まで布団を引き上げると、少し気持ちが落ち着いた。
士郎は彼女の額の濡れタオルをひっくり返すと、立ち上がって移動する。
行ってしまうのか、とちょっとだけ寂しく思いながら見ていると、彼は部屋の隅に腰をおろした。
「今日はここでセイバーの様子を見てることにしようと思うんだ。うっとうしかったら言ってくれ」
ふるふると首を横に振った。うっとうしくなどあるわけがない。
士郎の視線を感じながら、目を閉じる。
ただこれだけのことがとても嬉しくて、やはり自分は単純な愚か者なのかもしれないと、セイバーは思った。
お題その17、「夏風邪にご注意」。
頑固者のセイバーさんは、時にこーゆうおバカをしでかすと思います。そしてそれを間違えた方向に突っ走って解釈するよーな気がします。推進力がスゴいから、方向が間違ってるとトンでもないとこまで突っ走るとゆー。
そしてそれを訂正するのが、士郎であってほしい(笑)←願望 ほら、彼女の、自分の身を永遠に世界の犠牲にしてまでも聖杯を求めるっていうのを訂正したのは士郎だったし。
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