夕焼けこやけの 赤とんぼ
 負われて見たのは いつの日か

 目の前をすうっと通り過ぎた小さな黒い影を、思わず目で追いかけた。
「………………お」
 正体を知って今度は意図的に目で追ってみる。相手はかなりのスピードで動き回るが、さすがに視界から見失うほどのスピードは持っていない。
 俺の目があちこちへさまよっているのに気づいたのか。買い物についてきてくれたセイバーがきょとんとして問いかけてくる。
「シロウ。何を見ているのですか?」
「とんぼだよ。ほら」
 空を気持ちよさそうに飛んでいるのは、俗に言う赤とんぼ。正式名称はアキアカネとか言ったろうか。
 夏頃にはまだ茶色っぽいとんぼだが、秋が深まるにつれ紅葉するかのごとく赤くなるという不思議なとんぼだ。
 よくよく注意して見ると、とんぼは空一面を飛び交っている。十匹や二十匹じゃきかない。
 商店街の方では見かけなかったけど、衛宮邸の近くには田んぼも多い。やっぱりこっちの方に集まってくるのかもしれないな。
「夕焼けこやけの赤とんぼ―――にはまだちょっと時間が早いか」
 空の端はだんだん赤みを増しているが、夕焼けと言うには少し早い。真っ赤な夕焼けの下で見ると、また風情があると思うんだが。
 セイバーはまたも不思議そうに、
「なんですか? 今の、ゆう…………なんとかとは」
「赤とんぼっていう歌があってさ。夕焼けこやけの赤とんぼっていうのは、日本人にとってお決まりの文句なんだ」
「ほう。歌ですか」
「ああ。イギリス人のマザーグースぐらい有名だぞ」
「むむ…………ブリテンの頃にはまだそんな歌はありませんでしたからよくわかりませんが、シロウたちにとって非常に馴染み深いものであることはわかりました」
 セイバーはうなりながらも一応理解してくれたみたいだ。
 となると、彼女の興味はもちろん次の段階に移るわけで。
「それでシロウ。赤とんぼとはどのような歌なのですか?」
 やっぱりそうきたか。
 ――――まあ、人に歌って聞かせられるほど俺の歌はうまくないが、他ならぬセイバーのためなんだし。
 俺自身も懐かしかったから、少し記憶を掘り起こしてみることにした。

 ―――夕焼けこやけの 赤とんぼ
 ―――負われて見たのは いつの日か

「負われて、というのはどういう意味なのでしょう」
「母親の背に背負われて、って意味かな。小さい頃、母親に背負われて夕焼けの中で赤とんぼを見たのは、いったいいつの頃だっただろうかっていう事」
 遠坂がこの『負われて』を『追われて』だと勘違いしており、笑いをこらえるのに必死だったのは墓まで持ってゆく255の秘密のうちのひとつである。正しい意味を教えておいたが、この話は一成に教わったっていうのは、遠坂にも一成にも双方ともまだバレていない。
「母君に背負われていた時の、思い出の歌なのですね……」
 一方セイバーは感慨深げに歌の意味を噛みしめている。
 その目はどこか遠くの、俺の知らない景色を見つめているようだった。
 つい、胸に浮かんだ疑問が口をついて出る。
「セイバーのお母さんってどんな人だったんだ?」
「とても優しい人でした。笑顔があたたかく、家事も上手で。
 ……ただ、怒ると非常に怖い。義母様が大切にしていた野菜畑を荒らしてしまった時は子供ながらに死を覚悟しました」
 ―――セイバーは当然のように、生んだ母親ではなく育ててくれた母親――義母について語る。
 いや、当然といえば当然だ。おそらく彼女には実母に関する思い出がほとんどない。
 セイバーは生まれてすぐ、マーリンの手によって父の配下の騎士に預けられた。まして彼女の生まれからして、実母がセイバーを自分の子として認めていたかも怪しい。
 だから彼女にとって、母親といえば物心ついた時からずっと側にいてくれた、義母なのだろう。
 けれどその人はよっぽど良い人だったんだと、今初めて話を聞いた俺にもわかる。
 だってセイバーの顔がこんなにも穏やかなんだから。
「シロウの母君はどのような人柄だったのですか?」
「あー…………うん」
 当然のように至る帰結。しかし俺はそれに答える術を持っていなかった。なぜなら。
「…………ごめん、俺、母親のことは覚えてない」
「――――え――――?」
「十年前より前のことって、もう覚えてないんだ」
 助かった当初はたしかに覚えていた。あの焼け痕に行き、家のあった場所で、母親の幻影を見つめていたんだから。
 でも切嗣がいて、藤ねえがいて、新しい生活に慣れるたびにだんだん彼らの顔を忘れ、声を忘れ、思い出を忘れた。
 今では俺が十年前より以前のことで覚えていることは何もない。我ながら薄情で実の両親には悪いなって思ってるけど。
「………………申し訳ありませんでした、シロウ。配慮が足りず貴方に失礼なことを…………」
「いいって。別に気にしてないから」
 せっかく母親の思い出と対面して嬉しそうだったセイバーは、一転してシュンと萎れてしまった。
 気にしてない、というのは本当だ。どれだけ大切なものであれ、完全になくなってしまったものの大切さはわからない。大切なものをなくして辛いのは、それが大切なものであったと知っているからこそ、喪失感に苛まれるためだ。
 それより今、セイバーの顔が沈んでいる方が嫌だった。
「俺には切嗣オヤジがいてくれたから、母親の思い出がなくったって平気だよ。それに今はたくさん家族がいるしな」
 なんたって片手の指じゃ足りないぐらいの大所帯だ。
 すると少し落ち込んでいたセイバーが突然顔を上げる。
「シロウ」
「なんだ」
「私がシロウの母親となります。さあ、思うぞんぶん母の胸に甘えてください」
「なっ、なにいぃぃぃぃ!?」
 セイバーは、さあさあと、戦闘準備オッケーとでもいう感じで構えている。……甘えろというより組み手をするからかかってこい、と言われてるような気がするな。
「い、いいって。もう母親に甘えるような年じゃないんだし……」
「そんなことはありません。貴方は母君との思い出がないというのですから、年など関係ないではありませんか」
 強引に説き伏せようとするセイバー。しかし俺もうなずくわけにはいかない。
 なんたってここはいくら家に近いとはいえ天下の往来で。
 それに今さら保護者代わりを増やしてしまえば、今度こそ藤ねえが拗ねて暴徒と化すだろう。聖杯戦争の時の騒ぎを繰り返したくはない。
 何より、セイバーは俺の母親役なんかじゃなく、…………なわけで。
 とにかくなんとしてもこの話はここで断ち切らねばっっ。
「ほ、ほらセイバー。どうせならこんな大きな子供じゃなくて、もっと小さい子の方がやりがいあるんじゃないか?」
「私は誰でもいいから母親がしたいのではなく、シロウの母親になりたいと言っているのです!
 ――――それに、そんな小さな子など知り合いにはいません。知人で一番年が若いのはおそらくトリスタン達でしょう」
 あのサッカー少年たちか。たしかに小学校の中学年くらいにはなってるんだろうな。
 彼らにとって外見年齢が十代半ばのセイバーはせいぜい「お姉さん」だ。とても「お母さん」と呼んでくれはしないだろう。
 しかしこの流れをそのまま持っていけば、話は逸れてくれそうだ。
 ここで押し切ろうと、苦し紛れになんとか言葉をひねり出す。
「―――あ、そうだ。
 だったらその楽しみは、セイバーの子供が生まれるまでとっておく、っていうのはどうだ?」
「私の…………子…………」
 これまで全く考えていない可能性だったからか。
 セイバーは鳩が豆鉄砲をくらったみたいに呆然とその言葉を受け止め、だんだん頭の中で意味を噛みしめるにつれ、頬を紅潮させていった。
「や、その、それは……! しかし、私は、あの。……………………」
 わたわたと慌てふためくセイバーを、面白いなんて不謹慎な事を思いながら見ていると。
 彼女はスウ、と大きくひとつ深呼吸して、落ち着きを取り戻してから、

「――――――――そうですね。
 シロウの子の母になるのなら、楽しみとしてとっておけそうです」

 そんな、トンデモナイことを言った。

「うえあぁぁぁあああぁ!!?」
 今度は俺の口から面白いくらい慌てふためいた声が飛び出す。さっきのセイバー以上に焦り、思わず弁解した。
「やっ、それは……! べ、別に、俺の子ってわけじゃなくてだな、」
「…………違うのですか?」
「―――え………?」

 ――――セイバーの顔が憂いを帯びる。
 それはさっき、俺に母親の話をふってしまった時とは比べものにならないくらい落ち込んだ顔で。

「シロウは……私との間に子を成す事など考えられぬと……?」
「あ、いや!! そうじゃない!!」
 今否定した言葉と同じぐらいの勢いで再度否定しなおす。
「だから、その…………。セイバーには、俺以外の男を選ぶ権利だってあるわけで、だな。
 ……………………俺は、セイバー以外の女の子との間に、自分の子供を作りたいなんて考えたことは、ない」
 まるでプロポーズみたいなセリフになってしまい、ものすごく恥ずかしい。顔から火が出そうという表現があるけど、今はほんとに火が出てるんじゃないだろうか。その顔はそっぽを向いたまま彼女の方に向けられない。
 自分ではどうにもできないほど火照った熱をもてあましながら、おそるおそるセイバーをチラリと見る。するとセイバーの顔も、いつの間にやら真っ赤に染まっていた。
「――――――それを言うのなら私もです。
 私が子を成すのであれば、シロウの子でないと………… その、困る …………」
 消え入りそうな声で呟くセイバー。
 それにどんな答えを返せたろう。
「………………………………」
 ただ、ひたすら嬉しくて。
 何も言えず、セイバーの手を握り、ゆっくりと家に向かって歩き出した。




 頭の上を群れなして飛ぶ赤とんぼ。
 いつしか夕焼けこやけで、日は暮れて。
 でも夕陽が隠してくれている間に、顔の熱が下がることはないのだろう。
 冷たい夕暮れの空気が火照った顔にはありがたかった。






 お題その27、「赤トンボ」。……赤とんぼ……? ……反省してるからどこにとんぼがとか言うな。
 そういやうちのセイバーの設定上、年とったり子供産んだりできるんでしょーかね。全然考えてないや。でもそんなこと関係ないのよバカップル。
 誰かーー! プロポーズっぽいんじゃなくてプロポーズだってツッコんであげてーーー!!




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