――――ひたん…… ただ、それだけの、小さな音。 それだけの音を聞くため、彼女はこうして道場に正座していた。 真冬の真夜中。しかも外はまだ雪が残っている。つまり一年で一番寒い時だ。おまけにこの道場は日中も暖房器具を使わないため、家の中で最も冷える場所でもある。 それでもセイバーは構わなかった。故国と比べれば、この街の冬は暖かすぎるぐらいである。こんなものは寒さのうちには入らない。 ――――ひたん…… また、音がする。小さな、小さな音。 静まり返った道場の中で、ただ、この音だけがする。 昼間は聞こえないこの音は、彼女にとって馴染みの深い音だった。懐かしさのあまりつい聞き入ってしまう。 とは言ったもののあまり夜更かしをするのも体に良くはない。 そろそろ寝なければ、と思い、しかしついついもう少しと迷っているうちに。 ――――ガラララッ。 別の音がした。 今までの音とは比べ物にならないほど大きく、しかしここ最近で聞き慣れた音を聞けば、何が起きたのかすぐ理解できた。道場の扉が誰かに開けられたのだ。 ついで、驚いた声がする。 「セイバー!? なにやってんだ、こんな時間にこんなとこで」 「――――シロウ」 音に集中するため閉じていた目を開き、彼女は闖入者の名を呼んだ。 衛宮士郎には戸惑いの表情が浮かんでいる。それはそうだろう、真夜中に道場で瞑想もないものだ。 だが彼女の行っていた行為はなかばそれに近い。 「寒いんじゃないのか? おまけになんで明かりもつけないで―――」 「音を聞いていましたから。明かりも暖房も必要ありません」 「おと?」 問い返す士郎。セイバーは窓からのぞく庇を見た。 彼女の視線の先ではまたひとつ、雪解けの水が屋根から落ち、水滴が通り過ぎる。 ――――ひたん…… それが地面に落ちて、小さな音がした。 耳を澄ましていなければわからないほど小さな音が。 月光が雪に反射し、世界が白々しく輝く中。この道場だけは明かりがしっかり差し込まず、彼らがいる一角には暗い影が落ちている。 その影の中で士郎の顔が困惑に歪むのを、彼女は見て取った。 「それよりシロウこそどうしてこんな時間に?」 今は丑三つ時。衛宮邸の主は通常ならば寝ている時間だ。いや、彼だけではない。この家で明日の朝食を食べようと思うのなら、朝食の準備をしない者でも六時半には起きなければならない。 本来なら皆寝静まっている時間なのだ。彼も、もちろん彼女も。 「ちょっと用を足しに行ってたら、道場から人の気配がしたから……。セイバーこそどうしたんだよ、まさかずっと起きてたのか?」 「いえ、さすがに。私も偶然目が覚めてしまって、この音に気が付いたから起きていただけです」 「だったらもう寝た方がいいんじゃないか。ここ、すごく寒いぞ」 「はい。でもあともう少しだけ。もう少し聞いたら戻りますから」 正座の形を崩そうとしない彼女に業を煮やしたのか、士郎はわざわざ靴を脱ぎ、道場に上がってくる。 窓から入る外の明かりに照らされた顔は、やはり困惑したままだった。 ひた ひた ひた ひた 彼の歩く足音で、外からの音が今は聞こえない。 「けどなんだって今の水音なんだよ。あれ、なんか楽しいか?」 「そうですね。この街で育ったシロウにはわからないかもしれません。 けれど私にはとても嬉しい音なのです」 「………………」 もう一度、窓の外を見る。白い雪には月光が反射し、キラキラと輝いている。 ――――ひたん…… 言葉を切った一瞬の静寂をつくように、また音がした。 「これは雪解けの音。この街では冬の間も雪のない事が多いようですが、ブリテンでは冬の間はずっと雪が積もっていたものです。春になり、気温が暖かくなるまで、雪が解けた水音など聞けなかった。 我が故国にとって、この音は春を告げる音でした」 「………………」 遠い昔を思い出す。――――いや、実際にはそれほど遠くなどはない。けれどここに来て、あまりに色々なことが起こりすぎた。 今でも目を閉じればすぐそこに思い出せる、寒い故国の風景は、ずいぶん遠くなってしまったようにも感じる。きっとここでの想い出があまりにも鮮やかすぎるから。 「不思議ですね……。このような音は昼間の方が聞こえるはずなのに、ここでは夜になるまで気付きませんでした」 「……昼の方が聞こえるのか? こんな小さな音が?」 「? ええ、もちろんです。昼の方が気温は高いのですから、雪の解ける音はしやすいでしょう」 言葉を選ぶように、ためらうように。喉に言葉がつかえているかのごとき歯切れの悪さで士郎は疑問を挟む。 むしろセイバーの方がそれに疑問を覚えながら、彼女の記憶の中の光景を口にした。 「かつてカメロットの城にいた時は、いつでもどこでもこの音が聞こえていました。執務室でも、廊下でも、もちろん寝室でも。だから私はこの音が好きなのです。 少しずつ春になり、民が元気を取り戻す音――――――」 話の途中で。セイバーは唐突に言葉を切る。 いや、切らされた、という表現の方が正しい。 突然士郎に強く抱き寄せられて、驚きから一瞬言葉が出なくなったのだから。 「な、シロウ?」 どういうことかと行為の理由を問う意味も含め、彼女は彼の名前を呼ぶ。しかし士郎は答えない。 彼の腕の力は、いつも優しく彼女を抱いてくれるほどよい強さではない。締め付けられて少し痛いくらいだ。 「シロ……っ、どう、したのです? ちょ、いたい、です」 「馬っ鹿野郎…………!」 「ば…………っ!?」 思わず聞き返す言葉すら絶句する。まさかいきなり彼からこんな言葉が飛び出そうとは。 「ば、馬鹿とは失礼ではありませんか! 私のどこが馬鹿だというのです!」
「だってそうだろう。こんな小さな音、昼間は聞こえなくて当然じゃないか。 「――――――――――――――――」
悔しそうな声。悲しそうな口調。彼は間違いなく、セイバー自身が知らなかった孤独に怒りを感じている。
スゥー…… ハァー…… スゥー…… しかし先程までの雪解けの音ではない。 彼の胸に抱き締められているためだ。耳の下方からは心臓の音。上方からは呼吸の音。 士郎が傍にいる音。共にいてくれる音。 「…………そうですね。私はこの音も好きでした。雪解けの音が聞けないのは少し寂しいですが、この音があれば良しとしましょう」 「え? 自分で言ってて何だけど、もう別の音あったのか? どんな音?」 「秘密です。この音は私だけの音ですから」 「む…………」 今度は正真正銘拗ねた声を出し、士郎も黙り込む。 静かになった道場。しかしやはり、雪解けの音は聞こえてこない。
スゥー…… ハァー…… スゥー…… 引き止める理性はあまりにも弱く、セイバーの意識はスッと遠退いていった。 「…………セイバー?」 士郎の声が聞こえる。いつの間にか彼の体温であたたまった体を自覚する。 こんなところで眠ってしまってすみませんシロウ、と心の中で謝って彼女は意識を手放した。
お題その43、「雪解けの夜」。 |