じゅーじゅーとフライパンにひいた油と卵のたてる音、そして香ばしい匂い。
 シュンシュンと炊飯器から聞こえる音は、そろそろごはんの炊ける証拠。
 あと15分ほどで朝ご飯の時間。じきにみんなも起きてくるはずだ。そう思っていた矢先、背後から人の足音が耳に届く。

「シロウ。おはようございます」

 ――――ん?
 よく聞き慣れた、凛とした鈴を鳴らすような声。それがいつもよりほんの少しだけ低い気がする。
「どうしたセイバー、カゼでも引いた――」
 言いながら、振り返った俺の目は――



「………………だれ?」



 見たことのない、大人の女性の姿をとらえていた。








「おはようございます、シロウ。私のことがわかりませんか」
「…………………………………………」
 誓って初めて見る顔だ。なのにその人は、よく知ってるやつを連想させる。
 年の頃なら20代前半。スラリと伸びた背は女性にしては高く、俺とほとんど同じぐらい。大きくふくらんだ胸はライダーほどとは言わないが、桜以上の豊かさを誇っている。背中の半ばまでかかるまっすぐな金糸の髪。長い手足はとてもバランス良く美しいスタイルを彩っていた。
 しかしまったく変わらぬ聖緑の瞳の輝き。白磁を砕いてすりこんだような白い肌。人形と見紛うほど美しく、ずいぶん大人っぽいとはいえ一目で誰もが心を奪われそうな顔の造作はまぎれもなく……

「…………セイバー?」
「はい」
「ほんとに?」
「ほんとです」
「…………………………………………」

 今この場で、俺に何を言えというのか。昨日の晩までむしろ俺より年下だと思っていた――ああいや、セイバーの実年齢が年上だってのは知ってるんだけど、それでも外見は俺より年下の女の子だった彼女が、たった一晩でこの急成長。
 成長、というか一晩で十年ぐらい年をとるのは立派に変身の類と言えまいか。
 呆気にとられている俺とは違い、セイバーはもうちょっと自分の身に起きた事態をしっかり受け止めているらしい。マヌケな顔をさらす俺に苦笑を返す。いつも以上に大人びた顔でそんなことされると、なんだかセイバーが中身もすごく大人になったと思えてくるから不思議だ。

「どうやら成人の姿になってしまったようですね。視点の位置も違って、おかしな気分です」
 そりゃそうだろう。これだけ背も伸びてしまえば目の高さも変わる。手足の長さが違えば歩幅や物を掴むときの感覚も変わる。他人の体に入っているようなものなのかもしれない。
 ……しかし、とりあえず。

「セイバー……。まずは別の服着よう」
「……お見苦しい姿をさらして申し訳ありません……」

 本人もわかってはいたのか、恥ずかしげに縮こまる。
 いつも着ているセイバーのブラウスとスカート。
 スカートは伸びた足の影響でずいぶん短く見えるし、ブラウスも袖が少し短くなっている。
 何より大きくなった胸が内側から生地を押し上げ、今にもボタンが弾け飛びそうだった。





「それでセイバーがこんな美人になったのに、結局味気ないシャツとジーンズ着せてるわけ?」
「しょうがないだろ。うちで今のセイバーが着られそうな服なんて、ライダーの服しかないんだから」

 呆れた口調で言う遠坂に、口をとがらせて返事をする。
 俺の隣でこくこくと頷きながら朝食をたいらげるセイバーは、ライダーと同じ黒のシャツと黒のジーパン。金髪に黒い服っていうのはよく映えるんだが、デザインに面白みがないので寂しいと言えば寂しい。
 この服を着せるまでだって本当は大変だったのだ。セイバーはライダーの服を借りる、というのに抵抗があったらしくかなりの難色を示していた。他に着るものはないのだからと説得してしぶしぶ了承してくれたが、できるだけ普段ライダーが着ているものとは別物を探して、けどみんな同じようなものばっかりでずいぶん悩んでたみたいだった。

 ライダーも大人の姿のセイバーが自分の服を着てるのを、複雑そうな目で見ている。
 一方の俺たちは、美女が二人もシンプルすぎる服に身を包んでいるのを残念だと思いつつ見ていた。
 桜もためいきをついている。

「もったいないですよね。せっかく二人ともきれいなのに、着てるのがこんな女の子らしくない服なんて。
 ねえライダー、やっぱりもうちょっと可愛い服買ってみない?」
「私は今のままで充分です。着られればそれでかまいません」

 ライダーは相も変わらず、頑なに桜からの服選びの誘いを拒否している。
 おそらく興味がないのとは違うのだ。どうでもいいのなら、ライダーはとっくに桜の希望につきあってあげているだろう。なんだかんだで桜には甘い彼女だ、それで桜の気がすむと思えばOKするはず。どうでもいいのではなく、自らのおしゃれを強く否定してるみたいな感じがする。
 たぶんライダーがよく口にする、自分を可愛くないと思っているのが関係してるんだろうけど。本当にもったいない話だと思う。

 一方のセイバーは、といえば。
「……………………」
 自分の姿を見下ろし、胸元に手をあててみたりしている。きりりとした、戦いに赴く前に似た決意に満ちた表情をしているのはなぜだろう。
 やがて彼女は顔を上げ、

「シロウ。お願いがあります」
「お願い?」
「この姿が一時的な仮初めの姿であることは理解しています。しかし、それでも重ねてお願いがあります。今のこの身に合った服を買うことを許してほしい」

 思わぬ申し出に驚いてセイバーを見る。彼女の顔は真剣だ。
 そういえばライダーと違い、セイバーは遠坂が着せ替え人形にしている甲斐あって、最近は少しずつおしゃれに目覚め始めている。藤ねえに選んでもらった服を新都へのデートに着ていったり……こほん。まあいろいろと。
 セイバーがこんな姿になったきっかけも、そもそも女らしくなりたいという一途な願いからのものだった。
 そう考えれば今の彼女が、違う姿なればこそ似合う服を試してみたいというのも理解できる。ちょっと年より下に見られそうな――というか確実に実年齢より年下なセイバーの体型じゃ、可愛い服は似合ってもスレンダーな大人っぽい服は似合わないからだ。ましてセイバー自身は元の子供っぽい身体をコンプレックスにしていたし。

 とはいえ。
 服を買う、ということは、それなりの出費をともなうことでもある。
 これから何度でも着る服ならば俺だってやかましく言わない。しかし彼女自身が自覚しているとおり、おそらくその服は今日いっぱい着られるのがせいぜいだろう。たとえ一着といえど、けっこうな痛手となってくる。

「うーん……」
 頭の中の家計簿をぱらり。女物の洋服はブランドとかでびっくりするほど値段が変わるからな。まあ男物だってそうなんだけど、女物はもっと簡単に高額商品に手が届くところへ置いてあるから油断できない。
 ユ○クロぐらいならともかく、高級ブランド店に行かれるとちょっと……

「いやね、衛宮くんってば。男なのに度胸が足りないわよ」
「足りないのは度胸じゃなくて資金だ、遠坂」
 横から口を挟む遠坂に言い返す。くそっ、どうせ女の子に服の一枚も買ってやれない男はだらしないとか言いたいんだろう。しかし無い袖は振れぬと先人も言っている。

「じゃあ古着屋さんに行ってみたらどう?」
「古着屋? そんなのあったっけ?」
「新都に一軒新しいお店が出来たのをこのあいだ見つけたのよ。安いし、セイバーが元に戻ったらまた売ればいいじゃない。そのまま普通のお店で買うよりずいぶん安く済むはずよ。
 もっとも、セイバーがそういうのに抵抗なければの話だけど」
「私は構いません。子供の頃は義兄や近所の子供たちのお下がりを着るのは当たり前でしたから」
 そうか。だったら覗いてみてからサイフと相談するのもいいかもしれない。

「じゃあとりあえず行ってみようか」
「ありがとう、シロウ。感謝します」
 いつもと同じ口調で、けれど少し大人っぽい声で。
 いつもと同じ表情を浮かべ微笑んだセイバーは、やはりいつもよりお姉さんみたいでドキドキしてしまうのだった。






 バスを降り、新都のロータリーに立ったところで、周囲からざわめきとため息が聞こえてくる。
 もちろんみんなが見ているのは俺の隣に立っている、25歳バージョンセイバーだ。
 最近は深山町でセイバーの姿を見慣れた人も多くなってきたが、彼女自身が新都へはめったに出向かないのでこちらの人はあまり知らないのだろう。まして今日のセイバーはアダルトチェンジで大人の魅力を備えた、まさに無敵の騎士王様だ。男からは興奮と俺に対する嫉妬が、女性からは羨望と憧憬が向けられているとはっきりわかる。
 なのに当のセイバーはといえば。

「シロウ。凛が教えてくれた店はこの道を行くようです」

 さっきからずっとこの笑顔。いつもと同じく周囲の視線は気にも止めない。そりゃ元の姿のときだってずいぶん視線にさらされてたけど、これだけ人の目が増えて気にならないんだろうか。
「さあ、早く行きましょう」
 セイバーは楽しげに俺の手を取り、目的地へ引っ張ろうとする。ちょっと大きくなった柔らかい手に心臓が倍くらいの早さで高鳴り始めた。
 ……もしかすると周囲の視線には気づいていないのかもしれない。彼女が俺の手を握るのと同時に小さく辺りがざわめいたのに、ぴくりとも反応しなかった。

 たぶん嬉しくてたまらないのだろう。いつもより無邪気な子供のような笑みが、いつもより大人びた造作の顔に浮かんでいるのはなんとも不思議で、なのに全体的には間違いなくいつものセイバーで。
 いつもとまったく同じでもなく、まったく違うでもない。そんな感覚は妙に心地良く、とても新鮮だった。
 セイバーも同じ感覚を味わっているのだろうか。嬉しそうに俺の腕を取り、そこに自らの腕を絡め、

「――――――っっっっ!!?」

 一瞬で、そんな情緒が吹っ飛んだ。
 恋人同士ならば当然といわんばかりのセイバーの行為。しかしこれまで、彼女がこんな積極的なアプローチに出たことなど一度もない。おそらく気分が昂揚しているがゆえの無意識の行為なのだろう。
 俺としてもセイバーとのスキンシップは嬉しい。嬉しいんだが……そ、その……。彼女に抱き取られた俺の腕に、むっ、胸がっっ……!!
 こればっかりはごまかしようもなく、見た目そのまんま、いつもより大きいセイバーの胸。それはもちろん飾りなんかじゃない。確実にいつもより、弾力性も増した核爆弾としての最終兵器がそこに存在している。マシュマロみたいに柔らかいのに、こっちが押しても確かな手応えで押し返してくる。
 セイバーの胸にさわるのが初めてではないけど、この感触はいつものセイバーにはないもので、つまりは初めての触感で…………

「セ、セ、セセセ、セイバーっっ!!?」
「? どうしましたかシロウ」
 晴れ晴れとした顔で微笑むセイバーは、自分の大胆さに気づいていない。ああもう、なんて言えばいいんだコレ。

「そ、その……あれだ。む、……む……」
「む?」
 下に落とされた俺の視線を追うセイバー。その目が自分の胸元をとらえ、
「……あ……も、申し訳ありません」
 パッ、と自らの行為を恥じ入るように、腕を離す。

 やわらかさと温かさが離れていってしまったのはちょっぴり寂しかったが、あのままだともっと追いつめられることになっていた。どこか悄然しょうぜんとした彼女を安心させるべく声をかける。
「や、はは、いいよ。別に嫌だったわけじゃないし」
 単に恥ずかしかっただけで。
「はい……しかし我ながら慎みがなかった。すみませんでした」

 今どき腕を繋ぐカップルなんて珍しくないけど、自分の胸に俺の腕を押し当てる形になっていたことを彼女は恥じている。どっかの誰かは当ててんのよ、なんて返したという話もあるが、セイバーにそんなこと言えるわけない。
 そりゃあのまま続けられたら俺も困ったが、かといってセイバーを怒ってるわけでも、見損なったわけでもないのだ。
 これがあの槍兵あたりだったら、平気な顔で女の子のやりたいようにさせていただろうし。今の俺達に、このスタイルは合わないってだけで。
 だから。

「ほら、行くぞ。お前に合う服、見つけなくちゃな」
 変わらず細くて白い手を握り直し、引っ張って先導する。
 今はこれでいい。性急に変わらなくてもいい。
 これが、今の俺達にはちょうどいい触れ合いだ。
 うなだれていたセイバーが、腕を引かれて困惑ぎみに顔をあげる。だがその顔も、すぐ元の笑顔となった。
「はい。行きましょう、シロウ」
 二人で走るように店へと向かう。
 後ろからついてくるセイバーは、やっぱりいつもより大人だ。それを思うと少しだけ気持ちが急く。
 でも焦る必要はない。中身はいつものセイバーなんだから。
 遠坂に教えられたリサイクルショップは、もうすぐそこだった。







「ありがとうございましたー」
 店員の声を背に、一時間ほど過ごした店を後にする。
 セイバーの足取りは珍しく軽い。やはりその理由はたった今、店で買った洋服のおかげなんだろう。

 シンプルにデザインされたダークグレーのワンピースは、大胆にも大きく胸元を開けていて、そこが一番に目について慌ててそらす、を繰り返してしまう。セイバーも最初はその積極性に圧倒されためらっていたが、店員の熱のこもった勧めにおされて決めたようだった。飾り気がないから素直に今のセイバーの、モデル顔負けに女らしいメリハリのきいたプロポーションがはっきりと出ている。若干深く入ったスカートのスリットから、ちらりと見える白い太腿がこちらを誘惑してきた。
 これはなかなかスタイルに自信のある人じゃないと着こなせない服だろう。一緒に買った大きな銀色の二連ネックレスが、彼女の歩みに合わせて軽く跳びはねている。
 ちなみにここへ来るまでに着ていたライダーの服は、俺の右手にある紙袋の中だ。

 弾むようなステップを踏み、楽しそうな雰囲気をふりまいているセイバーはさっき以上にご機嫌である。なんとか予算内におさまったし、買って良かったなこれは。
 繋いだ手を離さないまま、セイバーがこっちを振り返る。

「どうですか、シロウ。おかしいところはないでしょうか」
「ああ。よく似合ってる」

 このやりとりも四回目。他に言葉が浮かばないから毎回同じことしか言えてないのに、そのたびセイバーは嬉しそうな笑顔を浮かべ、握った手にも力がこもるのだった。
 普段のセイバーはここまではっきりした感情表現はしない。もちろん嬉しいときにはかすかながらも反応を見せるのだが、こうあからさまに浮かれて見せたりはしなかった。それだけ嬉しいということなんだろうけど、逆に普段よりも子供にすら見えるのは不思議だ。顔つきは明らかにいつもより大人なのに。
 ころころと年が変わって見える様には翻弄されるが、しかし嫌な気分ではない。むしろいろんなセイバーが見られるのは楽しかった。

「それにしても――」
 ふと、セイバーの声で思考の世界から呼び戻される。
 彼女はわずかに眉根をよせ、
「先程の店員の勧める商品は、いつも行っている店のものとはずいぶん違いました。やはり今の私は、他人から見ても似合う服装が変わっているのでしょうね」
「セイバー、いつも遠坂たちとブティックに行ってるんだっけ?」
「はい。凛や大河に連れられて洋品店に行く機会は何度かありますが――このような服を勧められたのは初めてです」

 そりゃそうだろうなあ。こういう服はスラッとした背の高い人が着ると非常に映えるけど、言っちゃ悪いがいつものセイバーの体型ではあまり似合わない。頑張って背伸びしているミドルティーン、という印象を与えてしまう。
 その点今のセイバーなら、まさに彼女のためにあつらえたように似合っている。本人も憧れていたとおりの服が手に入ってすっかりご満悦。いい雰囲気になってきたし、せっかくだから少し寄り道して帰ろうかというデートのお誘いにも快く応じてもらえた。
 大橋の近くには海浜公園が広がっている。休日ということもあって、人のにぎわいは多い方だった。

「……あれ」

 その中で。
 より人の多い、人だかりを見つけ、つい足が止まる。
 一本の樹の下で、小さな女の子が泣いている。周りには何人か大人たちがいるけど、一人の母親らしき人があやしているだけで、残りは皆上を見上げてばかり。
「どうかしたのでしょうか?」
 セイバーも同じ光景を見て首をかしげている。たしかに、なにかのトラブルがあったと見てしかるべきだろう。
 皆の見上げてる先を、よくよく目をこらしてみると。
「あ、あれか」
 樹の枝に引っかかっている、小さな白いものが見えた。

 形状からしておそらく帽子だろう。風で飛ばされでもしたのか、人の高さの三倍以上もある場所に引っかかっている帽子は、ちょっとやそっと樹をゆすったぐらいでは落ちてきそうになかった。
 あんなに女の子が泣いているところを見ると、きっとお気に入りなのだろう。諦めるという選択肢はなさそうで、かといって簡単に取れる場所でもない。

「行ってみましょう、シロウ」
「ああ」
 小走りで駆け寄る。するとみんなの困惑の理由がさらにわかった。
「ずいぶん細いな、この枝。木登りはちょっと無理そうだ」
「ええ。おそらくはそれで皆、手を出せないでいるのでしょう」
 直接取りに行くという手段も絶たれれば、あとは見ているぐらいしかできない。
 母親が諦めるよう説得しているが、女の子は激しくかぶりを振って抵抗する。よっぽど大事なものなんだな。
 何か方法はないものかと考えていると、セイバーがこっそり耳打ちしてくる。

「シロウ。私でしたらあの高さは、なんとか届きますが……」
「ダメだ。さすがに人目がありすぎる」

 棒高跳びでもないのに、天井より高く跳ぶジャンプ力を一般市民の皆さまにお見せするわけにはいかない。明日からセイバーは超天才アスリートとして冬木市のウワサの的になってしまう。

「ならばあとはひとつです。やはり登って取るしかないでしょう」
 むん、と気合を入れるセイバー。って、ちょっと待て!
「セイバー、いくらなんでもあの枝は細すぎるぞ。もしも折れたらどうする気だ?」
「おそらく大丈夫でしょう。シロウのような男性の重さは支えきれませんが、私の重さならばどうにか耐えられるはずです」
「そりゃセイバーは軽い方だと思うけど、やっぱり危ない。お前を行かせるぐらいなら俺が――」
「いえ。適材適所という言葉もあります。そもそもシロウではまず間違いなく枝が折れる。その方がよほど危険です」

 テコでも意見を翻す気はないらしい。視線でやっぱり俺がやる、と訴えると、いいえ私がやりますと強い意志をこめた瞳が返ってくる。できるならセイバーには少しの危険もあって欲しくないんだが、このまま引き下がるようなヤツじゃない。

「…………。わかった。
 そのかわり、危ないと思ったらすぐ下りてくるんだぞ。帽子が取れなくてもだ。それを約束してくれるならセイバーに任せる」
「はい。どうかお任せください」

 セイバーは荷物の中からライダーのズボンを取り出し、しげみへ入っていく。わずかな時間をおいて出てきた彼女は、スカートの下にそのままズボンをはいていた。
 コーディネートとしては台無しだが、とりあえず木登りをする格好としてはなんとか及第点だろう。

 狙いをつけ、普通の人として不自然ではない程度のスピードでスルスルと樹を登るセイバー。そんな彼女に周りの人も気が付き始めた。
「危ない! お嬢さん、下りろ!」
 制止の声が上がるも、セイバーは止まらない。なにせ彼女はかの伝説の騎士王。身体能力は折り紙付きだ。
 俺もここまでは心配していない。ただ、不安なのはここから先。じきに問題の、枝が細いあたりにさしかかる。一応約束したけど、念のためもう一度釘をさしておくか。

「セイバー! 無理するなよ!」
「大丈夫です! 必ず帽子を持って帰ってみせます!」
「そうじゃないだろ!?」

 不安感が噴水のごとく噴き出した。マズい、セイバーのやつ、すっかり約束を忘れてる。
 もはや帽子しか見えていないのだろう。幹から枝へ慎重に、けれどかなり大胆に体重を移動させる。
 同時に、ぶるん、と激しく枝がしなる。周囲から悲鳴が上がった。

「セイバー! ダメだ、戻れ!!」
「ま、待ってください、あと少し……」
 手を伸ばすも、帽子は彼女の手が届く範囲の、ほんのわずか外にある。あと少し、もう少しとセイバーは枝の先へと身体ごと移動していき――――



 バギッッ!



「――っ!」
 一瞬セイバーの顔が驚愕に引きつって見えた。
 ついに彼女の体重を支えきれなくなった枝が断末魔を上げてまっぷたつに折れる。当然セイバーの身体は地面へ向けて墜落した。その途中でも受け身を取ろうと、体勢を直せたのはさすがセイバーと言うべきか。
 そして。



 がずっ!



「ぐっっ……!」
「シ、シロウ!?」
 焦ったセイバーの声を聞きながら、自分の身体をクッションにして彼女の衝撃を和らげる。
 腕で受け止めると落下速度で加重した重量に耐え切れず、セイバーを落とす恐れがあったから、しっかり腰を入れて身体全体で受け止めた。内臓に響いてちょっと苦しいが、幸いセイバーにも俺にも大きなケガはなさそうだ。

「何を考えているのですか! またそんな無茶をして……!」
「……ムチャはセイバーの方だろ。危ないマネしない、って約束したのに……っけほ」
 肺にたまった空気がうまく抜けずに小さく咳き込むと、セイバーは慌てて俺の上から下りた。心配そうな翠玉の瞳に強がって笑みを返す。
「大丈夫ですか? シロウ」
「ああ、心配するほどひどくない。ちゃんと骨を強化しといたから」
「ならば骨折の心配はありませんね。……と、しかしそれでは内臓の衝撃まではなくせないではないですか」
 仕方ない。魔術はそこまで万能じゃないんだから。

 セイバーは俺が身体を起こすのに手を貸してくれる。駆け寄った人々の中に、帽子の持ち主の女の子を見つけると、優しく微笑みながら帽子を返してあげた。とたん、少女の涙の残る顔が、セイバーの優しさをわけてもらったような笑顔となる。
 礼を言う親御さんや俺たちを心配する周りの声を受けながら、そそくさとその場を立ち去った。つい魔術を使ってしまった手前、もしも病院に行こうなどと引っ張っていかれると厄介なことになりそうで、あまり長居したくなかったのだ。

 なんとか人の輪を抜けると、セイバーは苦渋の表情を浮かべながら呟いた。
「……申し訳ありませんでした。見込みが甘く、木から落ちただけでも大失態だというのに、シロウに怪我をさせてしまうなんて――」
「仕方ない。今さらだけど、身体が大きくなってる分重くなってるんだって気づけなかった俺も悪かった」
「…………」

 彼女は悔しそうに唇をかんでいる。
 最初にどちらかが気づけば良かったのだろう。身長が10cm以上ものびたセイバーは、単純計算で7、8キロぐらい重くなっているはずだ。
 重くなれば枝だって折れやすくなる。至極当然の結果だった。
 実を言えば、そのせいで想像してたよりセイバーを受け止めたときの衝撃が強く、まだ胸に苦しさが残っていたりするのだが……そんなことを言ってもセイバーはますます落ち込むだけだし、できるだけ平気に見せるよう努めた。

「……考えもしませんでした。なるほど、ライダーが言っていたとおり、身体が大きいことも良いことばかりではないのですね」
 まだ難しい顔を崩さないセイバー。どうやらたった一日で、高身長の喜びと悲しみを知ったようだ。そういえばライダー、よく高い背を嘆いていたっけ。出口に頭をぶつけたりとか。
 とはいえ。
 女の子の帽子を救出するという目的は果たし、セイバーにもケガはなかった。だったらいつまでも彼女がこんな顔をしてるのは良くない。まだデートは続くんだし。

「じゃあ、次のとこへ行こうか、セイバー」
 さっきみたいにもう一度、手を差し伸べて仕切り直す。
 彼女はおずおずと手を伸ばし、それでもしっかり握りしめてくれた。
 たしかに大きくなっていいことばかりではないだろう。それでも、せっかく手に入れたチャンスなんだ。
 今日一日、めいっぱい大人のセイバーと楽しみたいと思った。





     ☆★☆★☆★☆





「――――ふぅ」

 肺の奥にたまった熱い呼気を一気に吐き出す。障子の向こうからは明かりが入って来ず、紙一枚隔てた外の世界の暗さをうかがわせた。
 あったかい布団の上、さっきまできつく抱きしめていた、布団よりなおあたたかいセイバーの素肌の拘束をゆるめる。ぐったりとして、汗で金髪が額にはりついているのを直す力もない姿を見ると、さすがに無茶しすぎたかと罪悪感がわいてきた。

 実年齢に近い年まで成長した今日一日を、セイバーは十二分に楽しんでいた。ならば、俺も少しは、そのおこぼれに預かりたかったというか。その、やっぱりこう、ちょっと普段と違うスタイルのセイバーが、気になってしょうがなかったというか。
 彼女は俺の腕の中で懸命に息を整えながら、恨みがましげな視線を送ってくる。

「……っ、は…………シロウ、ひどいではないですか。
 貴方が人の言うことを、聞かないのはいつものことですが、今日は、普段よりなお酷い」
「あー……悪かった」
「知りませんっ」

 ぷい、とそっぽをむかれてしまった。困った、これはかなり怒っている。
 やっぱり泣いて許しを請うていたセイバーを見て、逆にますます暴走してしまったのがマズかったんだろう。いつもと違う彼女につい興奮して歯止めがきかなくなってしまった。
 無茶した自覚はあったので、おそるおそる聞いてみる。

「……ごめん。その。身体、辛かったのか?」
「――――――――そのようなことは、ありませんが……」

 声から怒気が消え、拗ねた口調へと変わる。どうやら許してもらえそうだ。
 白い裸体を抱き寄せると、くらりと脳髄をゆさぶる甘い香りがする。もう一度湧き起こりそうになる衝動を隠して、今日の最後に聞こうと思っていたことを口にした。

「それで、どうだった? 今日一日、大人になった気分は」
「ええ。やはり色々と新鮮でした。視点や手足の長さが変わるだけでも驚きだというのに、周囲の反応まで変わるのはまったく予想の外でしたから。
 ――そうでした。シロウも先程の様子からすると、こちらの身体の方がお好きなようですし」
「ぐっ……」
 た、たしかにいつもより激しかったけどっ。
 それはあくまで俺も新鮮だったからで、別に、どっちがいいとか比べる気はだな――――

 答えに窮していると、セイバーは小さく微笑んで、
「冗談です。先程私をいじめたお返しですよ」
 なんて、心臓に悪いことを言ってくれた。
「……セイバー、趣味が悪いぞ」
 負け惜しみにそんなことを言うと、セイバーはさらにクスクスと楽しげに笑う。どうやら悔し紛れだと気づかれている模様。

「そんなに拗ねないでください、シロウ」
 挙げ句の果てに、そんなことを言いながら、そっと唇を重ねてくる。ついばむような口づけが妙に大人びていて、俺もここらへんで彼女みたいに許さなきゃいけないのに、もっと複雑な気分になってしまう。
 なかなか眉間のしわがとれない俺を見て、セイバーも笑いを止める。

「シロウ?」
「なんか、もやもやするんだよな……。セイバーに置いてかれたみたいで」

 今日一日、ときおり感じていたヤキモチじみた感情が、つい口をついて出た。
 彼女の実年齢が本当はこの外見通りで、俺よりずっと年上だということを、頭ではきちんと理解している。とはいえ普段の彼女の外見はむしろ年下だし、可愛いもの好きという趣味や負けず嫌いの性質のこともあって、つい意識では年下に見てしまうのだ。
 だっていうのにこの大人バージョンのセイバーは、いつもと同じ仕草や表情でもやたらお姉さんっぽい。
 おかげでなんだか俺一人だけ置いてきぼりをくらった気分になる。すごく年上の女の人に、弟として可愛がられてるみたいだった。
 現に今も、こうしてつまらない意地をはってまたセイバーに笑われてしまっている。

「今のシロウもまだ成長するとはいえ、もう子供ではありませんよ? 心配はいりません」
「本当は成長が終わるまでにもっと背が欲しいんだよな。今の姿のセイバーと並んで、カッコがつくぐらい」

 ずっと子供の頃から、平均より低い背は軽いコンプレックスだった。見映えの面と、デカい方が踏ん張りがきくという実用の面と両方から、もっと身長が欲しいと常々思う。それこそセイバーがたまに、もう少し背が欲しいと言ってるみたいに。
 ……ん? だとすると俺も身長が伸びると、今日のセイバーと同じようにライダーの気持ちがわかったりするのか?
 セイバーは俺の腕にそっと指をはわせ、

「シロウはきっと、今よりもっと大きくたくましくなります。身体的にも、精神的にも。今の心配が杞憂だったと笑えるくらい成長できるでしょう。私が保証します」

 ――――――――。
 大人っぽい満面の笑みに、時間が止まる。
 いつもはどちらかといえば可愛いセイバーが、今はものすごく美人だ。そのくせ同時に笑顔はいつもと同じぐらい愛らしい。
 なんていうか、惚れ直すっていうのはこういう感じなんだろうか。やたら血の巡りがよくなって、特に顔のあたりがすごく熱い。
 初めて見る彼女の表情に、すっかり心を奪われていると。

「……、あ、シロウ……? その、もしかしてこっちはすでに大きく……いえそのあの」
 セイバーが突然顔を真っ赤にしながら、下の方に視線を…………下?
「――――――って、うあああぁぁぁ!!?」

 な、な、な、なんで下半身がこんなに元気になってんだ!?
 慌ててセイバーから離れる。事前ならともかく、事後にこんなの見られるのはちょっと恥ずかしい。人間、素直ならなんでもいいってもんじゃないのだ。
 と。

「……その、シロウ。まだ昂ぶりがおさまらないのでしたら……遠慮しないでください。私なら、まだ大丈夫です、から」
「え、だって。セイバー疲れただろ」
 さっきさんざん泣かせてしまった後だ。いくらなんでもこれ以上は彼女だって歓迎しないだろう。
 虚勢と自分でわかってはいたが、セイバーに更なる無理をさせてまで欲望を解放させるのはしのびない。
 だっていうのに、彼女は。

「さ、さっきほどの無理をしなければ――――構いません。むしろ私も……。シロウ……、ですから……」

 なんて、恥ずかしそうな声で、こっちの脳みそを激しくシェイクしてくれた。






 我ながらなんだろうこのオチ……。あんま気にしないのが幸せへの近道。下ネタは自嘲、もとい自重。
 うちはサザエさんワールドなので、セイバーも士郎も成長しないのが少し寂しいところ。なのでたまには大人なセイバー。
 聖剣を抜かずに育っていたら、25歳のセイバーが「問おう(略)」とか目の前に現れるわけです。すげー、大人ですよ。藤ねえも追い出せませんよ。でも下宿させてくれって言われてすごく敵愾心抱かれそうですよいろんな人に。
 たまには大人のミリキで士郎をフラフラにしてほしいとか思ってみたり。ライダーのお株を奪うぐらいの。




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