夕飯はアイリさんには悪いけど、和食でいかせてもらった。
せっかく五年ぶりに切嗣へ料理をふるまえるのだから、やはり一番の得意分野でもてなしたい。どこまで成長したか親父に知ってほしかったという理由もある。
見た目どおりというかなんというか、やっぱりアイリさんは箸を使えなかった。念のために骨の大きなサケの切り身をメインにしておいて本当によかったと思う。でも、ナイフとフォークでサケの背骨を取る姿はとてつもなく違和感があったのは言うまでもない。
「日本茶って不思議な味。甘味がないのね。お砂糖入れてもいい?」
「それはやめておいた方がいいよ、アイリ。日本茶はその渋みとほんのわずかな甘味を楽しむものなんだ」
「ふうん、甘味なんて全然わからないけど……」
これも初めてなのであろう、食後の日本茶を嗜むアイリさんと、丁寧に教える切嗣が微笑ましい。まるでここへ来たばかりのセイバーやイリヤのようだ。
仲良し夫婦を肴にお茶を飲んでいると、お風呂を沸かしに行ってくれていたセイバーが戻ってきた。
「シロウ。お風呂が沸いたようです」
「ああ、ありがとうセイバー。じゃあ入りたい人から先に――」
「じゃあ、みんなで入りましょう」
…………。
………………。
……………………。
楽しげに言ったアイリさんのセリフに、みんなの目が点になる。
みんな。みんな、って……誰?
同じことを思ったのか、おそるおそる問いかけたのは切嗣だった。
「ア、アイリ? その、みんなっていうのは……」
「もちろん、私と貴方とイリヤと、シロウくんとセイバーの5人よ」
「「「「………………………………」」」」
名指しされた全員が黙り込む。この人の提案に思考回路がついていかない。
しかしアイリさんは嬉しそうに、
「みんなでお風呂に入ると楽しいわよ。久しぶりに仲良く入りましょ」
「あの……アイリスフィール? それはいささか問題がありませんか?」
勇気ある二陣をきったのはセイバー。だがアイリさんはそれでも持論を変える気はないらしい。あっけらかんと言い切った。
「別に問題はないと思うけど?」
「しかし、私や貴女は女性であり、シロウと切嗣は立派な男性です。いえもちろん、貴女と切嗣ならば夫婦ですからまったく問題はないでしょうが、私やシロウまで含めるというのは……」
「あら、セイバーって裸を見られても気にしないって、前に言ってなかった? だったら切嗣に見られても困らないでしょう」
「ぐっ……!」
黙り込むセイバー。たしかに以前、俺にそんなことを言っていたが、もしかしてアイリさんにも同じこと言ってたんだろうか。
「それに私もシロウくんに裸を見られたって気にしないわ。切嗣の息子は私の息子も同然。息子に裸を見られて恥ずかしいことなんて、」
「俺が気にする!!」
急いで口を挟んだ。どうもこの人は女性側がオッケーなら男性側も問題なしと勘違いしているのではあるまいか。
そりゃアイリさんは切嗣の奥さんで、だったら俺には母親も同然だ。彼女が言うとおり俺だってそう思ってる。
だがしかし。こんな若くて美人の母親と風呂に入れる男子高校生なんていやしない。
アイリさんは小首をかしげ、
「どうして? シロウくんは私の――」
「母親でも見られたくないものはあるし、見ちゃいけないものもあるだろう!」
「え……!? まさかシロウくんは、私の裸なんて見たくもないって……」
「ああもう、違うってのに……!」
瞳をうるませ始めたアイリさんに頭をかかえる。そうだけどそうじゃない。見たくもない、と言ったらウソになるけど、それでも見るのはいけないことだ。
そもそも数え切れないほど見たセイバーの裸だって、いまだに灯りの下で見ると平静でいられないっていうのに、アイリさんの裸なんて視界に入れたりしたら毛細血管が高血圧で破裂する。
セイバーも額をおさえながら彼女を説得してくれた。
「アイリスフィール。シロウも年頃の男性なのです。男性とて女性に裸を見られて恥ずかしいという感情はある。それを理解してあげてください。
それに年頃の男性がむやみやたらと女性の裸を見るのも感心できない。家族とはいえ風紀が乱れます」
きりっと委員長気質全開で断言するセイバー。よし、彼女だけは最後まで俺の味方になってくれそうだ。
しかし伏兵は思わぬところに潜んでいた。
「そうよね、シロウってばわたしが一緒にお風呂に入ろうって言っても入ってくれないもんね。セイバーも全力で止めてくるし。
ずるいわ、セイバーはシロウと一緒に入ってるくせに」
「「!!?」」
ぽつりと呟かれたイリヤの一言。雷に撃たれたような素早さで反応する夫婦。
切嗣とアイリさんの瞳に、ギラリとしたものを見た、気が、した。
俺もセイバーも息を呑む。好奇心を満たす獲物を見つけた猫の目を、幸か不幸か俺たちはよく知っていた。
親父は俺に近づき、ぽん、ぽん、と肩をたたくと、
「そうか。士郎も誰かと風呂に入れるようになったんだなあ。昔大河ちゃんと風呂に入って以来、もう絶対誰かと一緒に入らないーって泣いてたのに」
「なっっ……!!?」
よ、蘇る昔年のトラウマーーーー!!?
ななな、なんでそんなどうでもいいことわざわざ覚えてるんデスノゥーーーーー!!??
「皆まで言うな。わかるよ士郎。うん、たしかに恋人の裸を父親に見られるのはイヤだよね、男として」
はっはっは、と爽快に笑う切嗣。ああ、とっても楽しそうだ。なんていうか、イリヤとはかなり質が違えど、こういうところは父娘なんだなあって気がする。
セイバーが、バン! と盛大にテーブルを叩いた。
「切嗣! 今のはそういう話ではありません!!」
「じゃあ士郎。君はセイバーが気にしないなら、僕と彼女が一緒に風呂に入ってもいいのかい?」
「ダメだ、それは困る」
うん、さすがに。
「シロウーーーーーーー!!!!!」
「ままま、待てって、怒るところかここ!?」
がーっと俺にがなりたてるセイバーは怒りか羞恥かで瞳を潤ませ、顔は耳まで真っ赤だ。うう、そりゃ俺だって赤くなってるんだろうけど。
一方のアイリさんも目をきらきらと輝かせながら、
「まあ、そうなのセイバー? もしかしてセイバーもシロウくんの裸を私たちに見られたくないの? だから一緒に入っちゃダメって言ってるの? じゃあこれってヤキモチ? 驚いたわ、セイバーがヤキモチなんて!」
驚きよりも100%嬉しさを前面に押し出している。いや俺も嬉しいんだけどさ、セイバーがヤキモチやいてくれるなんて。
「ちちち、違う! 誤解ですアイリスフィール!」
「え、違うの?」
「ふーん、違うんだ」
セイバーの言い訳を素直に受け取るアイリさんと、どう見ても次の攻撃の材料にしようとしているイリヤ。
はたしてイリヤはにんまりと笑みを浮かべながら、
「じゃあわたしとお母さまとシロウで入っちゃおうかなー。シロウにはちょっと窮屈だけど目隠しでもしてもらって。それならわたしたちの裸は見えないからいいんでしょう?
そのかわり、わたしたちでシロウの身体をあらってあげるわね」
「ぶっ……!?」
待て、なんだその拷問!!?
まあ楽しそう、と歓声をあげるアイリさんに続き、セイバーが興奮のあまり魔力を放出させながら怒鳴る。風圧にも似た圧力で、部屋の小物がいくつか倒れた。
「いいわけないでしょう!! 何を考えているのですか貴女は!!!」
「えー。セイバーってばワガママー。自分は仲良くシロウと一緒に入って洗いっこまでするくせに、わたしたちはシロウが見てなくても一緒に入っちゃいけないの?」
「あ、セイバーやっぱりヤキモチ?」
「あ、アイリスフィールっっ……!!」
どうにもセイバーの進退が極まってきた。狡猾な小悪魔の顔で追いつめるイリヤに、純真な天使の顔でトドメをさすアイリさん。母娘だからか息もピッタリだ。
とはいえさすがに方向がマズい、このままじゃ収拾がつかなくなってしまう。
万が一にでもイリヤの提案どおりにコトが進み、万が一にでもその最中オトコとしての反応が起きてしまった日には、情けないやら恥ずかしいやらで生涯消えぬ傷を心に負うこととなるだろう。セイバーには白い目を向けられて軽蔑されるだろうし、イリヤには永遠に頭の上がらないネタを握らせてしまう。
明らかなバッドエンドは避けるべきだ。戦う相手の選択を間違えるな、絶対勝てない敵とは最初から戦うべきではないという教えは、セイバーが師匠として最初に叩き込んでくれた教えでもある。
「ともかく、その提案は飲めない。俺は一人で入るから」
はっきりきっぱり断言すると、切嗣とイリヤがつまらなさそうに、ちえーと唇を尖らせる。イリヤはともかく、親父、アンタ子供ですか。
アイリさんも明確な拒絶を受けてしょんぼりしている。ちょっとだけ罪悪感がつのった。
「ザンネンだわ。シロウくんがそこまで嫌がるなんて……。でも仕方ないのかしら。男の子だし。
じゃあシロウくん以外の4人で一緒に入りましょ」
――――ああ、結局全然わかってないのだろうか、この人は…………。
結局、風呂は女性陣3人が一緒に入ることとなり。
俺と切嗣はそれぞれ別で入ることになった。
切嗣が風呂に入っている間聞こえてきていた鼻歌は、5年前のものと同じで、なぜだかとても懐かしい。
最後に俺が入り、全員終了。風呂の火を落として居間に戻ってみると、そこにはもう誰もいなかった。
みんなどこ行ったんだろう。さすがに外には出てないと思うんだが。
一人でいるのも手持ちぶさたなので、なんとなく居間を出て、誰かの姿を探し…………
――いた。
縁側に座っているのは切嗣だった。風呂上がりに甚平を着た姿は、5年前のあの日とよく似ている。
切嗣のさらに後方に、もう一人誰かがいる。ここからではよく見えないが、薄明かりを照り返すキラキラとした金髪は他に疑いようがない。
声をかけようか、と一歩を踏み出そうとした瞬間。
「――――切嗣」
夜の奥からセイバーが言葉を紡ぐ。
その声はいつもの親しみのあるそれとは違う。美しく澄んだ、けれど事務的で固い声。
真剣味と緊張をはらんだ声に、つい足を止めた。
「…………」
切嗣は答えない。ここにはセイバーと切嗣しかいないというのに。
……衛宮切嗣は、聖杯戦争中、自分のサーヴァントであるセイバーとほとんど話をしなかったという。
なぜ切嗣が彼女にそんな態度をとっていたのかはわからない。けれどどうやら今でも親父は、その頃の態度を貫くつもりらしい。
セイバーもそれは覚悟の上なのか。答えを待たずに続ける。
「私は貴方に謝らねばならない。私は――ずっと、貴方が裏切ったものとばかり思っていた。
あの日。令呪で聖杯を破壊した時から、貴方は私とアイリスフィールを裏切ったのだと思っていました」
それはいつか、セイバーが語ってくれたこと。
第四次聖杯戦争の最後で、衛宮切嗣はセイバーに令呪でもって、聖杯の破壊を命じた。
『……告白すれば。
あの時ほど令呪の存在を呪った事も、私を裏切った相手を呪った事もありません』
あと一歩のところで悲願が叶う時、その願いを裏切った衛宮切嗣。
「けれどそれは間違いだった。あの聖杯は、この世にあっていい物ではなかった。
貴方はそれを知っていたから破壊した。ただそれだけのことだったのに。
今回、シロウと共にもう一度この戦争に参加して、聖杯の真実を知るまで――私は貴方を見損なっていました。申し訳ありません」
深々と頭を下げる彼女。
でも、それは彼女だけのせいじゃない。
何も話さなかった切嗣だって悪かったのだ。なんでセイバーと話さなかったのかはわからないが、黙っていて通じることはあまりにも少なすぎる。
「……………………」
切嗣は相変わらず無言のまま。彼女の謝罪をどう受け止めているのかはまったくわからない。
薄闇の向こうでセイバーがためらっている気配がする。少しの間を置いて、彼女は再び口を開いた。
「今さらこんなことを言うのもなんですが……私には聖杯は必要なかった。いえ、むしろ求めてはいけなかったのです。
それを戦いの最中、シロウに教わりました。シロウの強い心が、私の進むべき道を教えてくれた」
「……………………」
「――ありがとう切嗣。こんなことを言うのはおかしいかもしれませんが、貴方がシロウを助け、私の鞘を彼に埋め込んでくれて本当に良かったと思います。
おかげで鞘は幾度となくシロウを救ってくれた。十年前の時だけではない。私が先の戦いでシロウを守りきることができたのも、彼の中の鞘のおかげでした」
鞘、と聞いたところで切嗣は、少しだけ身体を揺らして反応する。
けれど結局何も言わず、黙ってセイバーの話を最後まで聞いていた。
切嗣は何も言わない。セイバーも話し終えたまま、答えをうながさない。
やがて。
「…………失礼します」
辞去の言葉を残し。
セイバーがすっくと立ち上がる。
そうして背中を向けかけて、
「セイバー」
彼女の名を呼ぶ声に、足を止めていた。
切嗣は相変わらずセイバーを見ようとはしない。まるで独り言のように小さく、けれどはっきりとした声で呟く。
「士郎のこと――頼んだよ」
「……………………。
はい。必ず――マスター」
力強く頷く彼女に、ほんの少しだけ、切嗣が微笑ったような気がした。
――――切嗣とセイバーが、どんな主従だったのか、俺は知らない。
けれど今、この瞬間だけは彼らは本当の主従だったように思う。
セイバーは再び背を向ける。そして二度は振り返らず、縁側を立ち去った。
決して後ろを顧みず、その先に向かって駆け抜けた騎士王のように。
「……………………」
なんとなく、出て行きづらい。
でもずっとここにいるのもどうかと思い、数秒の逡巡の後、縁側へ足を踏み出した。
満月の月明かりで縁側は夜の中でもひときわ明るい。板張りを踏む足音で、親父は俺の存在に気づいたようだった。
「あれ、士郎。もしかして今の聞いてたのかい?」
「……ああ」
そうか、と短く言って、切嗣は話を切る。再び庭を見る横顔が、隣へおいでと招いているように見えて、俺も満月の光の中へ腰かけた。
二人で、ただ月を見上げる。
――――あの夜のように。
「……………………」
だから。
これが、最後なんだとわかってしまった。
それでも今を特別な時間にするのが嫌だった。同時に今は、抗いようもないほど特別な時間だった。
だって今はあの夜の再現だ。衛宮士郎の行く末を決めたあの晩と。
ならばそれが特別でないはずがない。
このままずっと月を眺めていてもいい。けれど月の光にでも酔ったのか、誘われるみたいに朝から気になっていた言葉が口をついて出た。
「なあ、親父。朝言ってた舞弥さんって人、もう…………」
そこから先を言っていいものか。
ここまで口にしておいて何だが、ふいに迷いが生じた。
切嗣が言わないということは、言わない方がいいと判断したからだ。それを聞き出してもいいのだろうか。
しかし俺の言葉の先を、切嗣は察してくれたらしい。
「……うん。舞弥はもういない。あの日、聖杯戦争が終わる前、彼女は僕の腕の中で息を引き取った」
「そっか…………」
やっぱり、という思いが胸の中に湧く。
あのとき、舞弥という人が生きていると言った切嗣は、どこか遠いところを見る目をしていた。そういうときはいつも本心を隠しているのだと、子供の頃からなんとなく知っていた。
「アイリは僕を信じてくれているし、セイバーは僕のウソを見抜けるほど僕のことを知らないからね。騙せると思ったんだが、士郎には見抜かれたか。
悪いけど、このことは二人だけの秘密にしておいてくれるかい?」
「……………………」
たしかに、そうしておいた方がいいのかもしれない。
俺は舞弥という人のことを知らない。けれどその人がアイリさんやセイバーとどういう関係にあったのか、少なくとも彼女たちがその人へ抱いていた感情が好意か嫌悪かぐらいはわかる。
舞弥さんが生きていると聞いたとき、明らかにアイリさんはホッとしていた。セイバーは親父の言葉を信じていいのか迷っていたけれど、結局信じたということは、おそらくセイバーにとっても生きていてほしい人だったからだ。
それを考えれば、たしかに舞弥さんは生きている、としておいた方が二人にとってはいいのかもしれない。たとえこれから先、一生会うことができないとしても。
――――だけど。
「……それはできないよ。親父」
「うん?」
「俺には、できない。それは舞弥さんの死をなかったことにするってことだ」
真相を明かしたところで何一つ得をするものはない。セイバーとアイリさんが悲しむだけで、舞弥さんが戻ってくるわけでもない。このまま二人を騙しておけばいい。たぶんそれが、一番丸くおさまる方法なんだ。
けれど、それは同時に。
舞弥さんのことを知る人間が、彼女の死を悼んでやれないってことでもある。
生きている人間の心は、それで救われるかもしれないけど。あの戦いで犠牲になった人の名前を、ただ増やすだけのことかもしれないけど。
それでも、あの戦いを終わらせるために命をかけた人がいる。切嗣のために生涯を終えた人がいる。
そんな人がいたことを。そうやって死んでいった人のことを、死ななかったことにするなんてしてはいけない。
「――嘘も方便、という言葉もあるよ、士郎。死んでいった人間より生きている人間を重視するのは、何も悪いことじゃない」
「ああ。俺はアイリさんのことはよく知らない。だから親父が言わない方がいいと思ったんなら、たぶんそうなんだろう。
でもセイバーなら」
人の死を悼む優しさと、それを乗り越える強さを持っている、彼女なら。
一人でも、その人が死んだという事実を守ってやれるのではないだろうか。
舞弥さんを知らない俺には、その人の死を悼む権利がない。セイバーの傍にいて、彼女を信じてやることしかできない。
だけどあのとき、失われたものを無視できない俺を、尊いと言ってくれた彼女なら。
きっとわかってくれると信じている。
「――――――――」
ふう、と切嗣は軽く息をひとつ吐き。
「わかった。そこまで言うなら、セイバーは士郎にまかせよう。
もし機会があったら話してやればいい」
俺がワガママを通すことを、許してくれた。
こくんとひとつ頷く。それを見た切嗣は嬉しそうな笑みを浮かべた。
「士郎も本当に、大きくなったなあ……」
しみじみと語るその顔は。
喜びと、懐かしさと、ほんの少しの寂しさがまじっているように見える。
いつか、この顔を見た。それは切嗣との最後の想い出。
この縁側で、見送った人。そのときの顔が再びここにある。
「覚えてるかい士郎。前もここに座って二人で話したことを」
静かに首肯した。あれからもう五年。けれど今でも、鮮明に覚えている。
「じゃあもう一度、君に話そう。子供の頃、僕は正義の味方に憧れてた」
「……………………」
五年前の、あの話。
あのときまだ俺は本当に子供で、誰もとりこぼさずにみんなを救う、ということの意味をよくわかっていなかった。
「ヒーローは期間限定で、オトナになると名乗るのが難しくなるんだ」
それはオトナになるにつれ背が伸びて、視野が広がってしまうからだろう。
自分と切嗣と藤ねえと、お気に入りの土蔵。それだけ守れればよかった子供の頃。
それがいつしか友人を含むようになり、学校のみんなも対象になり、目にうつる人全部が幸せでいてほしいと願うようになった。
守るべきものが増えれば、そのぶん難しくなるのは当たり前だ。自分の視野が広がるのに実力が追いつかない。
あれから五年。今ならわかる。あのとき、切嗣が言ったことの意味が。
切嗣は言葉を切って、静かに俺を見ている。
五年前と同じ言葉。それに対し、五年の時を経た俺が、なんと答えるのか。
そして当然、俺の台詞なんて決まっていた。
真っ直ぐに切嗣を見つめ返す。後ろめたい気持ちはない。だってこれは俺の本心だ。だから今、切嗣の身体が淡く発光してだんだんと薄くなってゆくのも、目をそらさず真っ直ぐに見つめた。
目の前の人が消えてゆくのを予感して心が揺れる。だったら最後に、これだけは伝えなくては。
「まかせろ。爺さんの夢は――――」
切嗣が目指した正義の味方。
切嗣がなれなかった正義の味方。
誰をも救い、皆を幸せにする。一人の例外もなく。
そんな、奇跡のような存在がいるはずはない。五年前とは違い、多少の現実を知った今ならよくわかる。
…………それでも。
誰かを切り捨てねば救えなかった切嗣が目指した、誰も犠牲にしない正義の味方を。
「ああ――――安心した」
最後まで聞かぬまま、五年前と同じ笑顔を親父は浮かべる。
子供のように邪気がなく、老人のように柔らかな笑顔。
それをもう一度、俺の心に焼き付けて。
父だった人は、夜の空気に溶けていった。
〜interlude〜
――――カラリ。
障子を開けると、そこには外からの月明かりを反射する、夜目にも眩しい銀髪。
小さい銀糸の束と、大きい銀糸の束。小さい方はいつも見ている少女のもの。大きい方は今日久しぶりに見た母親のもの。
アイリスフィールは優しい母の顔で、自分の膝の上で眠る我が子を見つめていた。
「……アイリスフィール」
そっと声をかけると、彼女は来訪者の存在に気づき顔をあげる。
「あら、セイバー」
「イリヤスフィールはもう眠ったのですか?」
「ええ。さっきまでもっと起きてるって言ってたんだけど。でもいつもはお昼寝をするはずなのに今日はしなかったんだもの。この時間まで起きてただけでもがんばったと思うわ」
セイバーは何とも言えない表情で黙り込む。
イリヤスフィールは睡眠時間が普通の人のそれよりも長い。彼女の身体に負担をかけないためにということだが、その様は眠るというよりむしろ機能停止に近いらしい。その小さな身体の中で何が起きているのかよくわからないが、なぜか悲しい気持ちになる。
アイリスフィールは飽くことなく娘の髪を撫で続ける。それは優しく眠りを促しているはずなのに、どこか名残惜しく触れていると感じさせた。
一瞬だけ、セイバーの胸の内を、この風景を壊したくないという思いがよぎる。
しかし時間がない。母娘の時間を邪魔するのはしのびないが、おそらくもう時間がないのだ。
だからその前に、ちゃんと彼女と話をしておきたかった。
「――――アイリスフィール。私の話を聞いてくれますか」
「まあ、改まっちゃって、どうしたの」
寝た子を起こさぬよう、足音をたてずアイリスフィールの隣へ座する。こうしてみると、彼女はイリヤスフィールとよく似ていて、同時にずいぶん違っていた。
美しい雪色の絹糸の髪。宝石と見紛う紅玉の瞳。子供のように無邪気でありながら、大人びた雰囲気を併せ持つ女性。
しかしイリヤスフィールになくて、絶対的にアイリスフィールが持っているもの。
それは妻として、母としての、家族に注ぐ愛情と誇り。
「…………」
先程の、優しく娘の髪を梳きながらその寝顔を見つめる眼差しは、遠い日の義母を思い出させた。
それをイリヤスフィールから奪ってしまったのは――――
「……申し訳ない。アイリスフィール」
「はい?」
「私は、貴女への誓いを守れなかった。サーヴァントとして、貴女を守ると誓ったのに」
深く頭を下げる。後悔で胸がちりちりと痛んだ。思い出すのはあの日、暴漢の腕の中でぐったりとした主君の姿。
あのときアイリスフィールから離れたのは、彼女の意志ではなく切嗣の作戦だった。もちろん彼女が浚われた後は全力を尽くしたつもりだった。
しかし当時のバーサーカーたちの策略に騙され、彼女を見つけることもできぬまま敵に殺されてしまったのは事実だ。わざとではなかった、頑張ったなどとは、なんの言い訳にもなりはしない。
「もしも私が貴女を守りきれていたら、アイリスフィールは――貴女がたはきっと今日のように、一家四人で仲良くずっと――――」
「そんなことはないわ、セイバー」
アイリスフィールは、娘に向ける優しい眼差しのまま、
「貴女は私を守ってくれた。それでいいのよ。セイバーは精一杯頑張ってくれたのだもの」
「しかしっ……!」
「むしろ私の方こそ謝らなきゃ。ごめんなさい、セイバー。ずっと気に病んでてくれたのね。
たとえ貴女が私を守りきってくれたとしても、それはただの夢でしかなかったのよ」
「…………え?」
予想外のアイリスフィールの言葉。わけがわからず疑問符を浮かべるセイバーに、アイリスフィールは苦笑を返す。
「セイバーは知ってる? イリヤと聖杯の関係を」
「え……ええ。それはまあ……」
あの第五次聖杯戦争で聖杯として使われた少女。後に凛から聞いた話だと、イリヤスフィールはその心臓を聖杯として作られた、…………まさか。
「まさか……」
「私はイリヤとは少し違うけどね。元々私というホムンクルスとその人格は、聖杯を守るために作られた外殻。
第四次聖杯戦争で聖杯が顕現すると同時に、私の命も消える。それが生まれる前からの運命だったのよ」
「……………………」
セイバーの血の気が一気に引いた。そんなことは夢にも思わなかったのだ。
しかし思い起こせば。たしかにあのとき、聖杯戦争が進むにつれてアイリスフィールの体調は悪くなっていった。あれはつい先日、同じようにイリヤスフィールにも見られた症状ではなかったか。
『イリヤスフィールはね、聖杯戦争が進めば進むほど壊れていくように作られているのよ』
いつか凛が言ったことの意味。今でもその仕組みはよくわからない。ただ、これがあの時のイリヤスフィールと、そしてあの時のアイリスフィールを指しているのだということは理解できた。
「し、しかし! イリヤスフィールは今も生きている。ならば貴女も……!」
「ダメよ、それは違う」
セイバーがとっさに見出した希望を、それでもアイリスフィールは否定する。それは有り得ない夢なのだと。
「私とイリヤはホムンクルスとしての格が違うの。私の娘とはいえ、人間とホムンクルスの融合体であるこの子は、私とは段違いの能力を持っている。だから一度は聖杯として起動しておきながら、今も生きていることができるの。
それにね。さっきも言ったけど、私とイリヤでは聖杯としての機能も違う。イリヤは心臓が聖杯そのものだけど、私は内臓に聖杯を隠し持つだけの殻だもの。
イリヤの心臓は聖杯が現れてもこの子の心臓のまま。でも私は、聖杯が顕現したら外殻というジャマな物。そのまま体内に聖杯を隠し持っておくことはできない」
「そんな…………」
初めから生きて帰れない戦いであったことを知りながら、それでもこの人は。
「アイリスフィール……貴女は……」
あんなふうに、笑って。外の世界に出られたことが嬉しくて。
切嗣に聖杯を渡したいと願いながら、死んでいったというのか。
「そんな顔をしないで、セイバー」
なのに。
この人は、今も笑っている。とても幸福そうに。
「たしかに世間一般の基準からすれば不幸でしょうけど、私は充分に幸せだったわよ」
「…………」
「人とホムンクルスの融合体を産む母体になり、9年後には聖杯が顕現するまで器を守り、自身は死ぬ。それだけが私の人生だと思っていた。もちろんそれは変えられなかったわ。
でもね。私には切嗣とイリヤがいてくれたの。本来なら形だけの妻、形だけの母でもよかった私を、切嗣もイリヤも妻として、母として愛してくれた。私も彼らを夫として、娘として愛することができた。
運命は変えられなくても、その中で大切な人たちと愛し合うことができたなら、それってとっても幸せなことでしょう」
後悔のない顔で。晴れやかな眩しい笑顔で。アイリスフィールは己の幸せを語る。
――――自らの人生は誇れるものであったと。
「……………………」
それに何を言えただろう。
彼女はセイバーの方を見て、
「今なら、貴女にもわかるんじゃない? セイバー」
「…………アイリスフィール」
そう。今ならばセイバーにもわかる。
自ら選び取った運命には誇りを持っている。それが不幸だったと思ったことなど一度もない。けれど士郎に言わせると、女子が性別を偽ってまで王を務めていたことは不幸にも見えるらしい。他人には不幸な人生と思えても、それは決して本人にとってもそうではない。
まして人と愛し合う歓びを知った今ならばなおさらだ。
士郎を愛している。士郎に愛されている。王位にあった頃には許されなかった感情を持っている今ならば、アイリスフィールの言葉の意味もわかる。それがどんなに幸福なことなのか。
セイバーの身近には愛のために破滅した者もいた。王妃を愛したランスロット。伯父の妻を愛したトリスタン。彼らもまた、他人から見れば不幸な恋をした者たちだ。
けれど人を愛した感情までが、不幸だったはずがない。
だって愛する人に愛されているという事実は、こんなにも胸があたたかい。
――――たとえ。
あの聖杯戦争の終わりのように、彼との別れはこの身が裂けるほど痛くとも。
この瞬間の感情だけはたしかに幸せと呼べるものだ。
「――そうですね。わかります。きっと貴女は幸せだった」
「でしょう? それに謝るとするのなら私たちの方だわ」
え、とセイバーの顔が驚きの形になる。アイリスフィールはわずかに表情を曇らせ、
「聞いたわ。この戦争で得られる聖杯は、とても貴女や切嗣の願いを叶えられるものではないって。
ごめんなさい。そのつもりはなかったのだけど、結果的に貴女を騙すことになってしまったのね」
頭を下げるかつての主君の姿にセイバーは慌てる。そんなのは彼女のせいではない。
「そんな、謝らないでくださいアイリスフィール! それは貴女も知らなかったこと、騙したなんて――」
「私に謝れると、困る?」
「当たり前です! 貴女には何の落ち度もない、騙されたなどと私は思っていません!」
「ありがと。だったらセイバーも謝らないで。貴女は懸命に私を守ろうとしてくれた。なのに謝られたら、私も切嗣も困ってしまうわ」
「アイリスフィール……」
間違った聖杯に招かれたことは始めから怒ってなどいない。それはアイリスフィールのせいではなく、彼女は真実切嗣とセイバーが聖杯で望みを叶えられると信じていたからだ。
けれど彼女を守りきれなかった落ち度と、彼女が聖杯の真実を知らなかった落ち度を、同じに語っていいのだろうか。
むむ、と眉根をよせて考え込むセイバーを見て、アイリスフィールはおかしそうに笑う。
「相変わらず真面目なのね、セイバーってば。どうしても気になる?」
「無論です。貴女への誓いを果たせなかった自分を、何より私自身が許せない」
「それじゃあお願い。私の代わりに、イリヤを守ってあげて」
意外な申し出にセイバーは目を見張る。母親は愛おしげに娘の髪を梳いていた。
「この子は私と切嗣の大切な宝物なの。できることならもう二度と、争いになんて加わってほしくない。
だからお願いセイバー。シロウと一緒に、この子も守ってあげてほしいの。貴女が守ってくれるなら、私も切嗣も安心だわ」
「………………」
微笑を浮かべ、母親は娘の加護を剣の英霊に申し出た。
それはセイバーを縛る言葉でもあり、セイバーへの赦しの言葉でもある。
果たせなかった責任がある。それはもう二度と果たすことはできない。ならば代わりの責任を果たせばいい、と。
セイバーも微笑を浮かべる。力強く、彼女を安心させられる笑みを。騎士としての、新たな誓いを乗せて。
「任せてください。アイリスフィール。
私はシロウの剣です。だから他の人の剣にはなれません。
しかし命ある限り、騎士としてイリヤスフィールを守る。約束します」
アイリスフィールと切嗣の娘であり、士郎の妹であり、セイバーの家族であるこの少女を。
今度こそ、きっと守り抜くと――――
「…………っ!」
目を見張る。アイリスフィールの体が淡く燐光を発していると、そのとき初めて気がついた。
「アイ……!」
「ありがとう。セイバー」
聖母のような微笑を浮かべたまま。
安堵の色を含んだ声を残し、その人は燐光となって空へ上がっていった。
〜interlude out〜
――――カラリ。
開けた障子の向こう側では、眠っているイリヤの傍にセイバーがいた。
なんだか少しだけ表情が険しく見えて、ドキリとする。いや、違うな。険しいというよりいつか夢で見た、そして初めての日俺を射抜いた、決意の眼差しだ。
「セイバー」
イリヤを起こさないよう声をかける。小さな声でも彼女はちゃんと気づいてくれた。
「切嗣は……還りましたか?」
「ああ。だとするとアイリさんも……?」
「ええ。先程還りました」
セイバーはそっとイリヤの髪を撫でる。彼女に似た人の面影を惜しむように。
わずかな間そらされた聖緑の瞳が、月明かりだけの部屋の中で再び俺に向けられた。
「シロウ。切嗣と何か約束をしましたか?」
「え? わかるのか?」
「はい。どことなく普段より凛々しい顔をしています」
向けられたセイバーの微笑に気恥ずかしくなる。そんなにわかりやすい顔をしてただろうか。
「親父と約束したよ。絶対に正義の味方になるって」
「………………」
「切嗣から受け継いだ、大切な夢なんだ。だから」
たとえ叶えられない夢だったとしても。
そこへ向けて走り続けることを止めはしないと。
「……では、私はシロウを守る剣となりましょう」
セイバーが厳かに言葉を紡ぐ。
「貴方の理想の前に立ち塞がる障害を除き、貴方を守る盾となる。何人たりともシロウを傷つけさせはしない。
シロウが理想に向けて邁進できるよう、私は、貴方を守ります」
「セイバー……?」
どうも様子がおかしい。
いつも彼女は俺のことを守ると口にしてくれてはいるが、それとは少し違う。今といいさっきといい、セイバーのまとう空気はぴんと張り詰め、どこか固く閉ざされていた。
強く凛々しく頑なな彼女の姿は、会ったばかりの頃、いつかの戦いの日々を思い出させる。
「もしかしてセイバーも、なんか約束したんじゃないのか?」
「な、なぜそれを!?」
「いや、まあなんとなく……。それで?」
セイバーはすこしだけためらい、
「……アイリスフィールと約束したのです。彼女を守れなかった代わりに、必ずイリヤスフィールを守りきる、と」
言って、わずかに目を伏せる。
それが、いつかの。
聖杯を求める理由を聞いたときの、誰かに懺悔する瞳に重なった。
だから。
「セイバー。俺もイリヤを守るよ。当たり前だろ」
自分にとって考えるまでもない、当然のことを口にした。
「シロウ……」
「俺にもセイバーにも、イリヤは大事な家族だろ。だったらセイバーが俺を守ってくれるように、俺もセイバーとイリヤを守る」
もちろん二人だけじゃない。遠坂も桜もライダーも藤ねえも、みんな大切な家族だ。
だから守る。それは至極当然のことで、迷いなど抱くはずもない。
「……それじゃ、ダメかな?」
「――――いいえ。そうですね。たしかにそのとおりです。
私も、シロウやイリヤスフィールが大切だから守りたい。当たり前のことでした」
セイバーの身体から、余計な力が抜けてゆく。彼女を包む空気が柔らかくなっていく。
俺に向かって微笑みかけてくれたセイバーは、いつもの穏やかな彼女に戻っていた。
二人で眠り続けるイリヤを見つめる。イリヤは幸せそうな顔で眠っている。
その口が小さく揺れたかと思うと、
「…………かあさま……リツグ…………」
セイバーと二人、顔を見合わせて微笑んだ。どうやら彼女の中では、まだ両親との別れはもう少し先らしい。
「――おやすみなさい、イリヤスフィール。良い夢を」
そう言ってセイバーはそっと彼女の布団をかけなおし、ゆっくりと髪を梳く。
少女の優しい夢を守護する騎士は、母のように穏やかな微笑みを浮かべていた。
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