静かな夜だった。
 闇色の闇が等しく世界を包み込み、与えるのはただ静寂のみ。大人しく眠りについた街は、生きているのか死んでいるのかさえもわからない。
 もちろん街が眠りについても、起きている人間は建物の中にならばいる。けれどそんな人々も、獣から息をひそめて隠れているかのように静かな夜。
 その中で。

 ――――こんっ、こん。

 ノックの音が、静寂を切り裂いた。ついでドアの外からかけられる声。
「失礼します、桜」
 呼びかけに反応し、ドアの内側にいる部屋の主が返事をした。
「セイバーさん? どうかしましたか」
 ドアを開けて入ってきたのは、洗いたての金髪を編み上げたばかりの少女。夜目にも目立つ黄金色の髪は、部屋の電灯に照らされてわずかな光を反射した。
「お風呂が空きました。どうぞ入ってください」
「あ、はい、ありがとうございます」
 部屋の中を見て、セイバーはわずかな驚きに目を見張る。
 この部屋の主――間桐桜の手には、大小のガラスビーズで作られたブローチがあった。
 別段高級な品だったわけでも、物珍しい品だったわけでもない。けれど間桐桜が装飾品の類を持っているのはあまり見たことがなかった。彼女の装飾品といえば、いつも肌身離さずつけている一本のリボンぐらいのものだ。これはまあ、セイバーも人のことはあまり言えないのだが。
 もちろん桜とて年頃の少女。装飾品のひとつやふたつ、持っていても不思議ではない。
 けれどもうひとつ引っかかったのは、そのブローチの意匠がいくらか子供向けに見えたこと。
 あまりこの時代の装飾品には詳しくないが、おそらく十歳前後、頑張っても十代前半が関の山だろう。桜が身につけるには幼すぎる。
 二重の意味で不思議に思えて、セイバーは疑問を口にした。
「桜。それは?」
 セイバーの視線の先に気付き、桜はブローチへと視線を落とす。
 開いていた手が軽く握られたのは、ブローチをもっと身近に感じたかったのか、それとも他人の目から隠したかったのか。
 再びセイバーに向けられた顔は――苦笑。
「昔、叔父がくれたものなんです」
「叔父? 桜には叔父がいたのですか」
「ええ。間桐の方ですけど……その前から、ずっとおじさんでした」
「???」
 よく意味がわからない。桜は十一年前に間桐家へ養子に入ったと聞いている。そのときに叔父ができた、というのはわかるのだが、その前からおじさんとはどういう意味か。
 桜は視線をセイバーからはずし、遠くのどこかへと飛ばす。おそらくあの遠い遠い月を見ているのだろう。

「……わたしがまだ遠坂の家にいたときから知っていました。だからおじさんです」
「…………っ」

 突然桜の見せた横顔にセイバーは小さく身体を震わせた。風呂上がりで火照った身体が急速に寒気を訴える。あの白い顔は月明かりのせいとごまかしたかったが、それを信じられるほどセイバーは自身の心を偽れなかった。
 語る内容はさりげないこと。
 なのに口調がそれを裏切る。
 彼女の表情は人形のように生気がない。淡々と、事実を語る横顔は、言葉の裏に何を隠しているのか。
「わたしが間桐にもらわれた頃、突然家に帰ってきて。でも、一年ぐらいで死んでしまった。
 今にして思えばあれは――――、っ」
 最後の一言の前で我に返ったようだ。桜はとつぜん、何かに気づいた様子で口をつぐむ。
 けれどそこから先は言われなくてもわかる。

「……………………」

 桜が間桐の家に行ったのは、十一年前だと聞いている。
 十一年前。それから一年後。つまり桜の叔父が亡くなったのは――――十年前。
 間桐家の人間。十年前。その符合が意味するところはひとつしかない。
「ま、まあそんなわけで、このブローチは叔父の形見の品なんです。さっき掃除してたら偶然出てきたから、懐かしくてつい。
 わたし、あまりおしゃれとかしなかったから、このブローチも全然使えなくって。申し訳ないなって思いながら見てたんです」
 もちろんそれだけではないのだろう。さっきの横顔を見れば一目瞭然だ。
 しかし何を思っていたのか。それをきっと桜は決して明かさない。
 そして言うまでもなく、セイバーにはそこまで踏み込む権利がないのだ。関係ない第三者だからではなく、関係者なればこそ。
 当時のアーチャー……ギルガメッシュのマスターたる遠坂のマスターが言っていたことを思い出す。間桐は、身にあまるサーヴァントを呼び出した、と。
 あの時点で残っていたサーヴァントは限られている。自分を除けばわずかに三人。そのうちアーチャーとライダーのマスターは顔を知っていた。
 つまり、間桐のマスター、桜の叔父が呼び出したサーヴァントは。
「……………………」
「……? セイバーさん、どうしたんですか?」
 今度は反応のないセイバーを気遣って、桜から声をかけてきた。
 桜は知らない。セイバーが十年前の第四次聖杯戦争に参加した当事者であることも。彼女の叔父が呼び出したサーヴァントはセイバーに縁の騎士であったことも。
 だから、彼女の叔父の話が、セイバーの古傷に触れるということも、知らない。

 ――――こんっ、こん。

 部屋の中へ落ちた沈黙を破るノックの音。
 中からの返事も待たず、訪問者が扉を開ける。
「桜ー。ちょっといい?」
「あ、姉さん。どうしたんですか?」
「うん、ちょっと……あれ?」
 入ってきた遠坂凛は、やはり最初にセイバーが気付いたものと同じものを目にし、軽く目を見張った。ついで目元を柔らかくゆるめ、
「懐かしいわね。それって雁夜おじさんがくれたものじゃない?」
「え、なんで姉さんが知ってるんですか?」
「そりゃわたしも同じの貰ったもの。まだちゃんと持ってるわよ」
 さすがにデザインが子供っぽくて使わないけど、と凛は言い添えた。
 二人の会話を横でセイバーは噛み砕く。さっき桜の叔父は、彼女が遠坂の家にいた時から知っていたと言った。なるほど、ならば姉である凛が知っていて当然だろう。おそらくカリヤなる人物は、姉妹に同じものを贈ったのだ。
 たしかに姉妹で別々のものを貰うと、相手の方が良く見えてケンカになったりするものである。セイバーと義兄とは歳が離れていたけど、それでも兄が一人前と認められて手にした剣は輝いて見えて、自分も早くああいう剣が欲しくて――――
「そうね、セイバーならまだ使えるかも。今度おしゃれして新都に行く時でも貸してあげましょうか」
「む……それはどういう意味ですか、凛」
 子供用だということで彼女が使わないブローチを、なぜセイバーに勧めるのか。
 凛お得意の冗談、というか、からかわれているのはわかっていたが、声に棘が混じるのはしかたない。
 セイバーの反応に満足したのか、凛はクスクス笑い、


「冗談よ。
 ――それにしても雁夜おじさん、全然顔出してくれないけど、元気でやってるかしら」


「…………え?」
 凛の言葉に思わずセイバーは凍りついた。
 だって、さっきの桜が言うには。
 横目で桜に視線を飛ばす。彼女は慌てた風もなく、落ち着いて口を開いた。


「ええ。もう間桐の家には戻りたくないって言うので訪ねてはくれませんけど、この間も電話がありました。
 なんでも最近、宝くじで一万円当てたとか」


 さらに驚く。桜の口ぶりでは、今も間桐雁夜が生きて、親交があるとしか思えない。
 さっきの十年前に死んだ、という話はなんだったのか。もしかして嘘だったのか。
「ほんと!? うーん、でも一万円……微妙なセンね。一千万とかなら盛大に羨ましがるんだけど……」
「そうですね。けどわたしは一万円でも羨ましいですよ。じゅうぶん得した気分になれますし」
「まあ当たらないよりはいいけど、もっとこう盛大に欲しいところじゃない?」
 姉妹の会話は続いてゆく。セイバーは呆気にとられて二人を見ていた。
 と、


「――――――」
 悩む凛の隙をついて、桜の目線がセイバーに向けられる。
 表情は動かない。けれど瞳の色は、たしかにさっきの苦笑と同じ色。

 ……それで悟った。真実なのは、さきほどセイバーに語られた方なのだと。
 おそらく凛は知らないのだ。間桐雁夜が十年前の聖杯戦争で死んだことを。
 だから桜のついている優しい嘘を、知らない。


「……………………」

「ところで姉さん。なにか用があったんじゃないんですか?」
「あ、そうだった。悪いけど古語辞典貸してくれる? 家に置いてきちゃって」
 そして偽りは偽りのまま、話題は別のものへと移ってゆく。セイバーは短く辞去のあいさつをして、桜の部屋を出た。










 母屋へ向かう廊下を歩く。夜の冷気は少しずつ身体の熱を奪い、湯上がりの身体は湯冷めのほうへ行ってしまったのか、少し寒いくらいだった。
 さっきの桜の話を思い出す。間桐雁夜。バーサーカーの……ランスロットのマスター。
 ついにマスターの方とは一度も顔を合わせることなく終わったが、かのサーヴァントとは何度もぶつかった。この手で、彼の心臓を潰すまで。

「……ランスロット……」

 あの時は、いっそ殺されてもいいと思った。あんなに恨み、憎み、自身を堕としてまで復讐に駆られるくらいの激情を抱いているのなら。
 怨嗟の声と共に繰り出される攻撃は、吐き出すことのできなかった彼の無念だ。ならばけもせず、止めもせず、全てこの身で受けるのが当然だと思った。生前の彼が自分にぶつけたかったものは、全て自分が引き受けねばならなかった。
 ――――それでも。

「…………」

 ぎゅっ、と手を握る。決して大きくはない少女の手。けれど凛や桜のような柔らかいものとは違い、剣を握る者特有の節のついた手。
 決して負けぬよう常に鍛えてきたこの手は、この身は、ただ一方的になぶられるのを良しとしなかった。
 仕方のないこと。今ならそう割り切ることはできる。それでも胸の痛みだけは、再び白日の下にさらされたきずの存在を訴えた。
 どうすれば、よかったのだろう。
 人の心がわからない王。かつて誰かに囁かれたコトバ。
 その過ちの結果が、あの赤い丘。あれが、彼女の王としての結末。ならばその滅びを受け入れることも王の務めのうちだ。
 とはいえその結果に至ってしまった理由を、いまだ彼女は見つけることができない。
 人としての心を捨て、王として公平無私に生きてきた。結果、人の心がわからないという理由から、彼女の国は滅びたのだ。
 ランスロットとギネヴィアの抱く罪悪感に気付けなかった。
 反乱を起こす者たちの不満の種と、その萌芽ほうがに気付けなかった。
 そして国は崩壊し、自らは命を奪われた。ましてその過ちをなかったことにしようと聖杯を求めた末に、いや、だからこそ、彼女は忠臣の騎士の命をこの手で断つという罰を強いられたのだ。
 いまや彼女は誰かを統率し、何かを治める立場にはない。今のセイバーに求められる立場は、衛宮士郎の剣である。
 ただ、それでも。

「――――――」

 いつか。
 この、『人の心がわからない』という、大きな過ちを犯してしまった自分が。
 かつてのブリテンのように、大切な人を滅ぼしてしまわないという保証は――――



「あ、セイバー」



 ふいに彼女を呼ぶ声で、我に返る。
 ぱたぱたっ、と軽快に足音を響かせて、廊下の向こうからセイバーに駆け寄ってきたのは。
「イリヤスフィール……?」
 夜目にも鮮やかな銀色に輝く髪をなびかせた少女は、紅玉のように透き通る紅い瞳でセイバーをとらえている。
 かわいらしいピンクのパジャマ姿のイリヤスフィールがこっちへ走ってきた。
 イリヤスフィールはセイバーの前で立ち止まり、彼女を見て小首をかしげる。
「どうしたの、セイバー。顔色が悪いわよ。カゼ? お風呂入ってあったまってきたら?」
「……いえ、入浴はもう済ませました。貴女はどうですかイリヤスフィール?」
「わたしもお風呂は入ってきたわ。ほっかほかの身体でシロウのぽっかぽかのお布団に入ったら、きっと気持ちいいわよ」
 言われてみれば彼女の顔はほんのりと紅色に上気し、身体からは淡くせっけんの香りがした。
 あたたかそうな顔で、えへへ、と無邪気に笑う銀色の少女。


 知っている。
 こんなふうに無邪気な顔で笑う、銀髪赤眼の女性を、知っている。
 なぜかとつぜん思い出した。かつて喪ったあの人を。


「…………そうですね。たまにはシロウと二人で眠るのもいいでしょう。
 貴女たちは――兄妹なのですから」
「――――――――」


 それは。


「……どうしたの? セイバーってばなんかヘン」
「え……そうですか?」
「そうよ。いつもはわたしがシロウと一緒に寝るって言うと、はしたないだのシロウが困るだの、セラみたいに口やかましいくせに。
 なんで今日は二つ返事でOKなわけ?」


 贖罪のつもりだったのかもしれない。
 この少女の母親を守りきれなかったことへの。


 けれど、それは口に出していいことではない。イリヤスフィールが全てを知っているとしても――それでも彼女は今、セイバーへ普通に接している。
 少なくとも今この瞬間、彼女の頭に十年前の遺恨はない。それを呼び起こさないよう、セイバーは言葉を選んで告げた。
「……そんな気分になったのです。貴女とシロウは兄妹だ。ならばたまには同衾ぐらいしても、なんらおかしなことはないでしょう」

 もしもアイリスフィールを守りきれていれば、当然得られたはずの家族のぬくもりを、イリヤスフィールに感じてほしかったから。

「ふうん? まあいいけど。そこまで言うなら今夜はシロウのお布団で寝よっかな。
 今夜だけじゃなくて、明日も、あさっても、その次も」
「む……さすがにそれは賛成しかねます」
 それではまるで、士郎とイリヤスフィールが恋人同士みたいではないか。
 わずかな抗議を目線にこめて睨むと、イリヤスフィールはまた楽しそうに笑った。
「きゃー、セイバーってばこわーい。でもとりあえず、今夜のシロウはもらっちゃうねー!」
 そしてまたスリッパの音を高く響かせて、銀色の少女は走り去ってゆく。
 その後ろ姿を見送って、セイバーは軽く息をはいた。
 ――今日はどうかしてしまっている。さっきのを皮切りに、十年前のことばかり思い出す。
 不思議なものだ。十年前に主となった夫婦の娘に、十年後は敵として出会ったのだから。

「………………」

 もしも。知っていたら、どうなっていただろう。
 最初に出会ったときから、イリヤスフィールがアインツベルンのホムンクルスではなく、アイリスフィールの娘だと知っていたならば。
 いや、それでも、セイバーはきっとイリヤスフィールと戦っていただろう。あの時イリヤスフィールは本気で衛宮士郎を殺そうとしていた。たとえ切嗣の縁者と気付いていても、士郎はセイバーのマスターであり、たとえアイリスフィールの娘と気付いたとしても、イリヤスフィールは敵だった。あの時点では彼女自身も戦いに勝って聖杯を手に入れるという使命感に縛られていた。
 ただひとつ。結果が変わったとすれば、バーサーカーが消えた後のイリヤスフィールの処遇だけ。
 バーサーカーを倒した直後、セイバーはとっさにイリヤスフィールに手を出そうとした。良くて令呪の剥奪、本気で抵抗されれば最悪殺すところまでいってしまっただろう。
 もしそんなことになっていたらと思うとぞっとする。あの二人の愛娘の血で聖剣を濡らしたとしたら、今度こそ自分の理想も目指すものも信じられなくなっていたかもしれなかった。

「……シロウ。貴方の英断に感謝します」

 そうしなくて済んだのは、士郎のおかげだ。
 …………本当に。
 不思議なえにし、としか言い様がない。
 今の主が、十年前の主の娘を救ったのだ。彼はセイバーの過ちを、一つのみならず二つも正してくれた。
「……時間は……まだ十一時ですね」
 時計を見てつぶやく。十二時まであと一時間近くある。
 さっきの事からして、今夜の士郎はイリヤスフィールに捕まっていることだろう。おそらくいつもの日課はいくぶん遅くなるはず。ならば今が好機と言えた。
 思い立ったが吉日――というより、今日を逃せば、またずるずると先延ばしにしてしまいそうだったから。
 彼女はこっそりと居間へ向かう。
 彼女にとってはほんの少し前。
 けれど皆にとっては十年前の事を、大切な人へ詫びるために。










 ――――月の綺麗な静かな夜だった。清澄な夜気と月光が全身を包み込む。凍りついたように音のない世界は空気さえも凍り、身じろぎするたびに何かを壊して進んでいる感覚が全身を支配した。
 セイバーは縁側から外に出て、庭を横切り、ある建物の中に入る。
 いつもの彼女が行くならば、それは馴染んだ道場であるが。

 ギイィ……

 建て付けの悪い古い扉は、重々しい音をたてて開いた。わずかに開けた隙間へ身を滑り込ませる。とたんに鼻をつく、歴史と古さを感じさせる独特のニオイ。
 暗く沈んだ土蔵の中は、ガラクタだらけで誰もいなかった。
 士郎がイリヤスフィールに拉致され……もとい同室で寝るのを断りきれなかったのはついさっき確認済み。今ならば彼女を見咎める者はいない。
 一歩、一歩。ゆっくりと、たしかな足取りで歩を進める。
 その先には、うっすらと残る白く描かれた魔法陣。

「……まだ残っていたのですね。いえ、それも当然か」

 士郎に呼ばれたとき、セイバーが出てきたのがこの魔法陣。これが残っていたからこそ彼女はこの時代に呼ばれた。思えば十年前のことがすべて密接に絡み合って、初めて自分はここへ来られたのだろう。
 衛宮切嗣が士郎を助け、魔術を教えたこと。切嗣が士郎に鞘を埋め込んだこと。アイリスフィールとここで魔法陣を描いたこと。
 どれかひとつでも欠けていれば士郎によるセイバーの召喚は起こらなかったことばかり。それを思えば、今彼女がここにいて、衛宮士郎という人物に出逢えたことは、なんという奇蹟だろう。
 魔法陣の前に正座して、改めてかつての残り香を感じてみた。陣の色は覚えているよりずっと薄い。
 もっとも、十年も経っていれば無理もない話だった。むしろこの建物があればこそ十年も残ったのだろう。屋外に描いていたらとうに消えていてもおかしくないのだ。
 セイバーはそっと魔法陣に向けて、居間からくすねてきたセンベイ入りの菓子皿を差し出す。

「こんなものしかなくて申し訳ない。……とはいっても、これすら私が用意したものではありませんが。
 しかしこの菓子は私がいつも食べている、とても好きな食べ物のひとつです。味は保証します」

 亡くなった人に何かを供えるのは、ブリテンもこの国も変わらない風習だ。彼女の母国たるドイツはどうか知らないが、おそらく同じ風習があろうと信じ、お供えをして祈る。

「アイリスフィール…………」

 その名を小さくつぶやいて。魔法陣に指を添える。
 二人で協力して魔法陣を描いたことは、十年を飛び越えて召喚されたセイバーにしてみればそれほど前のことではないはずなのに、まるで夢のように遠かった。
 アイリスフィールには、詫びねばならないことがたくさんある。
 騎士として守るという誓いを果たせず、彼女の願いを叶えられず、まして彼女の娘にあと少しで手をかけるところだった。

「申し訳ない。私は貴女を守りきれなかった。
 それと……貴女の危惧は正しかった。結局私は、最後まで切嗣と理解わかりあえることはありませんでした」

 アイリスフィールが生前、最も気にしていたことのひとつ。
 自分が隣にいないで、切嗣とうまくやっていけるのかということ。
 その不安は現実のものとなった。ただでさえ互いに抱いていた不信感は、とうとう断絶にも似た不和として二人の関係を決定的なものとした。
 事実セイバーは切嗣が聖杯を破壊させた真意を知らぬまま、彼のことを裏切り者として見ていたのだ。あの日、聖杯の真実と、自らの取るべき道を士郎に教えられるまで。
 ……酷い男だと、思っていた。

『聖杯は貴女と切嗣――私の愛する人たちにもらってほしいの』

 それがアイリスフィールの口にした唯一の願い。
 多くの希望を犠牲にした。卑怯な手段で敵マスターを殺し、サーヴァントの誇りを踏みにじった。なにより愛する妻を失った。それだけの悲劇を経てきながら、一番最後で聖杯を、アイリスフィールの願いを否定する切嗣が許せなかった。
「……………………」
 かつてのランサーの気持ちが、あの時だけは骨身に染みた。

『この俺が……たったひとつ懐いた祈りさえ、踏みにじって……貴様らはッ、何一つ恥じることもないのか!?
 赦さん……断じて貴様らを赦さんッ!』

 そう叫んで死んでいったサーヴァント。自分もまたあの戦いで、主に裏切られてただひとつの望みを断たれるという、彼と同じ末路を辿ったのだ。
 憎かった。令呪の存在も裏切った相手の存在も、今までにないほど呪わしかった。
 けれどセイバーの場合、それは過った怨嗟で。
 あの聖杯は破壊するしかない存在であり、彼女に聖杯は必要なかった。
 それを。
 彼の息子である士郎に、教えられたのだ。

「……すまなかった。切嗣。私は誤解していたのですね」

 切嗣は謝られてどう思うだろう。やはり眉をしかめて顔をそむけるのか。それとも――
 許してもらえるかも、許してくれるとしたらどう反応するかもわからない。たった数回しか会わなかった彼の気持ちは遠すぎる。
 セイバーがここへ来たのもそのためだ。少し前に大河から、切嗣の墓の場所は聞いていた。お墓参りに行ってあげてね、とも言われていた。けれどどうしても、足を向けることはできなかった。
 自分が行っても切嗣は喜ばないだろう、という表向きの理由と。
 行ったところで彼にかける言葉など思い付かない、という後ろ向きな気持ち。
 二つの想いが彼女を、切嗣の墓所から遠ざけていた。
 けれど、ここなら。
「……………………」
 切嗣とは違い、墓も知らないもう一人の主。
 セイバーに親しく接し、良くしてくれたアイリスフィールならば、何か話すべきことも見つかるのではないか。
 そう思って、ここに来た。いや、ここを選んだ。
 もちろんそれが甘えだということは、セイバーとて理解している。結局謝りがたい人を後回しにして、謝りやすい人から先に許しを請うているのだから。
 いつか、切嗣には謝りに行かねばならない。そして礼も言わねばならない。
 彼が意図していなかったとはいえ、彼の行いはセイバーにとって、この世で最も尊い奇蹟を引き起こしてくれたのだ。
 ただ、それはいつかの話。今はまだ、彼の墓にどんな顔をして行ったらいいのかわからない。
 だからせめて一足先に。彼の妻、かつてのもう一人の主に。
 弔いの祈りを捧げ、償いの言葉で詫び、あの後の出来事を報告する。
 ……もう少しあの頃に近づければ、アイリスフィールの幻影も見える気がして。
 セイバーは陣の周囲に置いてあるガラクタへ手をかけた。

「すみませんシロウ。少しだけですから」

 ここは彼の部屋と違い、驚くほど物が多くて散らかっている。とはいえ凛の部屋のように、セイバーには無秩序な置き方をしていると思えても、士郎にはちゃんと法則性があって置かれているのかもしれない。勝手に場所を変えるのはちょっとまずい。
 だが、少しの間動かすくらいなら、また元に戻しておけば問題はないだろう。
 心の中で詫びながら、ガラクタを後でわかるようどけていく。投影したとおぼしきヤカンを隅に置き、よくわからないタヌキの焼き物を棚の上へ。幸いにも他の場所に比べてこのあたりの物は少なく、わずか数分で望むだけの広さを確保することができた。
 月明かりの中、しろい魔法陣がぼんやりと浮かび上がる。
「……………………」
 もう一度正座して、正面からまっすぐ向かい合う。何もない虚空を見つめ、銀色の姫君を思い出す。
 かつて剣をとって守りきろうと誓った代理マスター。本来のマスターがあのとおりだったから、自分の剣は彼女に捧げるも同意だと思っていた。
 アイリスフィールも、深く彼女を信頼してくれていて。姫を守る騎士という役割は、とても誇り高いものだった。
 けれど、セイバーは聖杯戦争のサーヴァントで。彼女を常に守っているだけでは戦闘に勝てない。
 ――その間に彼女は――
 悔恨の想いを胸に刻みつつ、じっと魔法陣を見た。するとその向こうに、さっきまでガラクタの下になって見えなかったのだろう、うっすら黒い染みがあることに気付く。

「…………、っ、これは……」

 床と壁の狭間、ほんのわずかなスペースに。見逃してしまいそうなほど小さな染みがひとつ。
 暗くてその正体はよくわからない。けれどたしかに周囲の床の色より、その部分は影が濃い。
 冷静に考えればいろいろな可能性が浮かんでくる。士郎か大河が何かをこぼした跡。ロウソクなど火の気のあるものを倒して焦がしてしまった跡。ここに置いてあった荷物から何かが染み出た跡。
 けれどとっさに頭へ浮かんだのはひとつだけ。

(血痕――――)

 それは、今まで考えていた十年前のことからの連想。十年前ここで大怪我を負った人の記憶が蘇る。
 常に冷静で感情を露わにせず、機械のごとく無機質な印象を与える女性。

「…………マイヤ」

 ライダー、いや、ライダーの姿を模した敵の手で致命傷を負った彼女の血は、水たまりと見紛うばかりに多かった。それがここまで飛んでいたというのだろうか。
 答えを求めるように、遠い空へと視線を投げる。その先にあるのは綺麗な白い月。

「マイヤ……もしかして貴女も今、この月を見ているのですか?」

 セイバーにとって、今も生きているという希望を抱けるのは彼女だけだ。
 どちらかといえば切嗣寄りの人だった。無抵抗なランサーのマスターたちを殺した行いは忘れられるものではない。
 それでも、彼女は味方だった。セイバーと通ずる、騎士道にも似た任務への責任感を帯びていた。同じ女性アイリスフィールを共に守った戦友だった。
 ――――まして。

『……追って、くださ、ぃ……ライダーが……マダム、を……』

 苦しい息の下からつむがれた、小さな小さな言葉にこめられた切なる願い。
 そんな彼女に、なんと誓ったのだったか。
 今ここで、苦しむ貴女を置いていく非情を許してほしいと。そのかわり必ず貴女の願いを叶えると。
 気持ちをこめて、セイバーはアイリスフィールの救助を約束した。
 けれどここでもその誓いを果たすことはできなかった。もう二度とアイリスフィールの姿を目にすることは叶わず、聖杯の顕現をもってしてセイバーはアイリスフィールの死を悟ったのだ。
 ならばせめて、舞弥には生きていて欲しい。セイバーが彼女を見捨ててまで追ったアイリスフィールの奪還がなせなかったのならば。そうでなければあの戦いで残ったものは何もなくなってしまう。
 舞弥が敵に負わされた傷は酷いものだった。おそらく生きている可能性より、死んでいる可能性のほうが高いだろう。
 切嗣やアイリスフィールと違い、今、舞弥のことを知っているのはおそらくセイバーただ一人。ゆえに彼女の消息をつかむことすらできやしない。

「…………だからこそ…………」

 あの人に生きていてほしいと願うのは、弱さだろうか。
 月は何も言わず、セイバーに光を照らし続ける。温度を感じない、綺麗だけれどどこか冷たい月だった。
 舞弥もこの月を見ていればいい。そしていつか、彼女への誓いを守れなかったことを詫びれればいい。
 そのとき、彼女はなんと言うだろう。あの淡々とした口調で、終わったことですと告げるのか。はたまたあの無表情をかなぐり捨てて、セイバーを責め立てるのか。
 たとえ酷い言葉でなじられたとしても、それでも舞弥には生きていてほしかった。そうすれば彼女へ誓いを果たせなかった償いをすることもできる。許してくれないかもしれないが、償いをする機会だけは与えられる。
 切嗣やアイリスフィールのように死んでしまった者は、セイバーを赦してもくれず、責めてもくれない。未来永劫、その過ちの償いを彼らにすることはできないのだ。

「……………………そうか」

 そこまで考えて。
 セイバーは唐突に思い至った。

「ランスロット……貴方も同じような気持ちだったのでしょうか」

 王に責められることなく、けれどそれが辛かったと二度目の死の間際に言い残した忠義の騎士。
 ランスロットは心から信頼できる相手であり、ギネヴィアには偽りの夫として申し訳なく思っていた。だから彼らの恋を責めなかった。しかし彼らは、それが辛かったと告白した。
 王の立場からすれば彼らの過ちを赦すことはできない。かといって責められない過ちは償うこともできない。王が責めることを放棄した瞬間、彼らは今のセイバーのように、永遠に彼女へ償う機会を失ったのだ。
 たとえ死しても罪は死せず。彼らの罪悪感は、色褪せず彼らを責め続ける。彼らの中に、良心のある限り。

「――――しかし……」

 では本当に、どうすればよかったのだろう。
 あの時のランスロットとギネヴィアの恋を、本当に彼女は怒っていなかった。上辺だけの怒りで、彼らを騙すことはできただろうか。騙せなくとも彼らはそれを受け入れてくれただろうか。むしろ余計に罪悪感を煽るだけになってしまいはしなかっただろうか。

「……人の心は、本当に……」





「あれ? セイバー」





 いきなり背後から思いもしなかった誰かの声。
「っっ!!?」
 瞬間身を固め、ついで振り返った。
 そこにいたのは。
「……シロウ!? どうして……イリヤスフィールと眠っていたのでは」
「え、なんで知ってるんだ?
 イリヤが先に寝たから、ちょっと鍛錬しようって起きてきたんだ。セイバーこそここで――」
 と、言葉を切って、士郎はセイバーを上から下まで丹念に眺める。
「……お月見か?」
「なっ! し、失敬な。どこをどう見てお月見などという言葉が出てくるのです!」
「どこって……月眺めながら隣にセンベイ置いてるところ」
「む」
 たしかに言われてみれば、客観的に月見をしているように見えなくもない。
「誤解です。この菓子はお供え物で――」
「だから、月にお供えしてるんだろ?」
 弁解失敗。さらに誤解を深めることになってしまった。
 まあそれも構わない。考えてみれば士郎に詳しく十年前の話をするつもりがないのなら、このまま誤解させておいた方が都合はいい。へたにアイリスフィールや魔法陣のことを持ち出して彼に追及される方が、ごまかすのは大変だ。
 …………ただ。

「……………………」
「ん? どうした?」

 長閑のどかで、なんの気負いもない士郎の顔を見つめる。
 十年前のことはこの家の誰より、彼にとって一番大きな事件だった。
 両親を失い、家を失い、人としての大切なものを失った少年。彼を助けた魔術師の養子となり、その養親の後を追って正義の味方を目指す衛宮士郎。
 だから彼にとって、十年前のことは原点でありきずなのだ。
 いたずらにアイリスフィールのことを話して、あの時のことを思い出させるつもりはない。
 ただ――――

「いえ。シロウに義母がいたらどうだったのかと、考えていただけです」
「へっ?」

 あの聖杯戦争で妻を失い、希望をかけた聖杯が幻だったと知り、何もかも喪くした衛宮切嗣と。あの火事でそれまでの自分を何もかも喪くした衛宮士郎。
 何もない男と何もない少年は、一対一で父子の関係を作り上げていった。
 けれどもし。セイバーがアイリスフィールを守りきれていたら。そしてあの火事の後も彼女が生き延びていたら。
 アイリスフィールは切嗣と共にこの家で暮らし、衛宮士郎には父だけでなく、母がいたのではないかと。
 そんな、遠い可能性を、ほんのわずかに夢想した。
 士郎は指先で頬をかく。思案の色に歪んだ表情は、セイバーの言葉を理解していない証でもあった。
 それでいい。必要があればその時に話せば良いのだ。今は、彼は何も知らなくていい。
 でも少しだけ残念でもあった。できればアイリスフィールに、士郎のことを知ってほしかった。
 彼女の墓をセイバーは知らない。だからここで、士郎のことを、
「…………え?」
 思わずもれる驚きの声。
 まるでセイバーの心を読んだかのように。
 士郎は彼女の隣――魔法陣の前へ座り込んだ。
「俺も便乗しようかと思って。今夜は月がきれいだからさ」
「…………。
 ええ、本当に――月がきれいです」



 墓とも呼べぬ墓に、訪問者は二人。
 たとえもう一人にそのつもりがなくとも、セイバーは満足だった。
(アイリスフィール……見ていますか?
 貴女の娘には兄ができました。とても仲のいい兄妹です。貴女は喜んでくれたでしょうか)
 彼女の息子になっていたかもしれない少年のことを、胸の中で紹介する。
 視線の先には魔法陣。仰臥していた人の姿は十年前よりすでになく、ただ静かな闇があるばかり。
 それでもセイバーには見えた。
 闇の中に、士郎を見て嬉しそうに微笑むアイリスフィールの姿が。



「――――――」
 幻であることは承知の上だ。
 けれどこの笑顔が見られたなら、一方的に失うだけの過ちではなかったと信じられる。
 あの日やり直しを願ったことも。信頼していた騎士を手にかけたことも。聖杯の悲劇を止められなかったことも。すべてが今へ通じている。
 罪は重く、荷担した者を等しく責め苛む。彼女の胸は今のように、これから先もあの頃のことを思い返すたび痛み続ける。それがあの戦いに加わった者への罰。きっとかつての主――切嗣も味わったであろう、払った犠牲達への罪悪感。
 それでも。
 この罪の意識に、あの過ちに、わずかなりとも意味があるのならば。
「……………………」
 月ではなく土蔵の中ばかり見ているセイバーに、士郎は気付いているのだろうか。彼は何も言わず月を見上げている。
 十年前と変わらぬ、土蔵の静謐な空気。やっと再会できた女性の笑顔を噛み締めて、セイバーは魔法陣を見つめ続けていた。






 Zero完結記念作品。十年前は誰にとっても、その、いろいろと痛いです。幸せになったのウェイバーとマッケンジー夫妻くらいか。
 書いてみるにあたり改めて見返してみると、セイバーはアイリと聖杯の関係も舞弥の最期も知らないのかーとちょっと悲しい。とはいえ十年前の話をそれぞれが共有しなさそうなので、○○は知ってて××は知らないという情報のなんと多いことよ。
 プロットのできないうちにつらつら書いた時の悪例。何言いたかったのかもう己でもわかんない(汗)きっと十年前のことを回想するセイバーが書きたかったんだよと強引に〆。




面白かったら心付けにぽちっと


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