日中の太陽はあたたかく、優しい光を投げかけているが、日の落ち始めた今の時間はみるみるうちに空気が変わる。肌を撫でゆく風の冷たさに、近いうちの冬の到来を感じさせる、夕暮れ前。 リナとガウリイは、一路教会に向かって歩いていた。
ランチェッタさんとこの犬に子供が生まれたらしい、とか、キースさんがまたお見合いにシッパイしたそうだ、とか、今年の栗は甘くて大粒のができるだろう、とか。 ――そう、ガウリイが、その飛び抜けていい視力で、騒動の種を発見するまでは。
「ねーガウリイ、さっき言ってたアメリアに頼んだケーキ、明日にでもおすそわけもらいに行っていい?」
彼らの進行方向の先で、なにやら騒ぎが起きている。甲高い声が、かなり離れたガウリイたちのところまで聞こえてきた。
「そこだー!」 道の脇にしつらえられた休憩所。とはいっても、少し余分にあるスペースに、木製のベンチを置いただけのそこで、子供たちが激しく歓声をあげている。かなり熱中しているようだ。
見ると、皆一様に、丸太で作られた仕切から身を乗りだし、下を覗いていた。あの下はたしか、20mはある崖だったはずだ。子供ばかりかと思っていたら、中に一人だけ大人も交じっている。
「ブレイダーさん。どうかしたんですか?」
近所で鍛冶屋を営むブレイダーという男が、ガウリイを認めて答える。鍛冶屋という仕事上、筋肉ががっしりとついており、以前から何度もガウリイと腕相撲勝負をしているが、いまだに勝ったことはないらしい。
「あのバカ息子、なんでも子猫を追いかけまわして、ここから下へ落としてしまったそうなんです」
いつも乱暴なブレイダーの口調にも、不安の色が混じっている。
ガウリイとリナが、他の子供たちと同じように下を覗くと、よりによって一番高い木のてっぺんに10歳ぐらいの少年がいた。地上からだと15mはある高さだ。 しかし、それを『ちょっとしたスリル』程度にしか認識していない子供たちは、主役であるジョージをひたすらはやしたてる。
「おい、ジョージ! いつまでかかってんだよ!?」
焦れたような子供の声が、崖下から響く。この声も、ガウリイには覚えがあった。
「まずいな……あいつ、焦ってやがる」
ふと、隣で声がして、ガウリイは視線を走らせた。見ると、リナもジョージの声のような、わずかな焦燥を表情ににじませている。きっと自分も、同じような顔をしているのだろう。 「いいか、動くなよ……」 少年が、子猫に話しかける。とはいえ相手は猫だ。おとなしく人の言うことなど、聞くはずがない。ましてや、それが今まで自分を追いかけ回していた相手なら、じっとしているわけはなく。 フギーッ!
しっぽをたて、激しく威嚇する子猫。 「なんだよ、かわいくねえな! 人がここまで来てやったってのに!」 憤懣やるかたない、といった顔で、ジョージは無造作に身体ごと手を伸ばし、いきなり子猫をつまみあげた! 「っっ! そんなことしたら――!」 必死の叫びは、誰のものだったろうか。
しかし、その叫びが届くか届かないかのうちに、細い枝は突然重心を移したジョージの重さに耐えきれず、音をたてて根本からへし折れる。
「ジョ、ジョ、ジョージ!!」
蒼白な顔と、涙目で叫ぶ子供たち。 「ジョージ! ジョージ、無事か!?」 ブレイダーの血を吐くような叫びに、ガウリイたちも目を皿のようにして、ジョージの姿を地上に探す。まもなく、リナが大声を出した。
「見て! あそこ!」
リナの指さす先をたどり、思わずガウリイも声をあげる。
どうやら地面にたたきつけられるのはまぬがれたようだが、誰が見ても、単にその未来がほんの少し先延ばしになっただけ、という状況なのは明らかだった。 「……た……たすけ……!」 必死の訴えを耳にして、最初にガウリイが正気に戻る。彼はすぐさま身をひるがえして、リナたちに叫んだ。 「いいか! オレはなんとかあの木に登ってみるから、リナたちはなにかクッションになるものを――」
ガウリイの言葉が、途中でとぎれる。 ――ひらりっ…… ガウリイの目には、軽やかに仕切を飛び越え、崖下に飛び降りたリナがいたように見え――いや、そうとしか見えなかった。
再び、一瞬の硬直がガウリイを襲う。ガウリイのみならず、そこにいた人間は全員が固まった。 「リッ、リナ………………リナアアァァァァァ!!?」 混乱と驚愕をそのまま音にしたような叫び声。それはガウリイの頭の中を、如実にあらわしていた。
当然の話だが、リナは命綱などつけていない。そんなものはここになかった。 「リナッ! リナ! リ………………、――――ッッッ!!!??」
ひたすらリナの名を叫びながら、崖下を覗き込んだガウリイは、もう一度、しかし先ほどよりさらに強く、言葉を飲み込んだ。 「…………っ…………ぁ」 「な……なんだ? ありゃあ……」 同じように呆然とした、ブレイダーの声がする。しかし、それは誰の耳にも入らず、風に流れて消えていった。
リナの身体は、まるで風にのった羽のように、ふわりと空へ浮いている。そしてそのままの高度を保ち、ゆっくりと宙づりになったジョージへ近づいた。
「だいじょうぶ? ジョージ」 リナの問いかけに、おそらく無意識で答えているのだろう。今の彼なら、ジョージだけでなくこの光景を目にしている者なら、どんな問いにもイエスと答えそうだった。
リナはジョージの脇の下から手を入れて身体を抱きかかえると、強く握りしめた手を離すよううながした。頭が真っ白になっているジョージは、逆らわず手の力を抜く。 「……天使だ……」
子供たちのうちだれかが、小さくつぶやいた。 ――すとんっ
やがて、リナの身体はまったく危なげなく、地上に降り立った。続いてジョージも、リナに降ろされて地面に足をつく。 ワアアアァァァァァ!!!! あたりを、ものすごい歓声が支配する。
「すっげーー! リナねーちゃん、すげーや!!」
子供たちは、生まれて初めて見る『人が空を飛んだ』という光景に、すっかり舞い上がっている。ひたすらに、すごい、信じられないを連発して、瞳は興奮できらきらと輝いていた。 「なっ、なっ、なななななな…………」
ブレイダーは、ジョージが落ちた時よりも青い――青を通り越して、紙よりも白い顔になっている。血の気はないのに、顔中びっしょりと冷や汗をかいていた。 「なんなんだ?!! 今のは!!!」
ブレイダーの、絞り出すような叫びが響いたとたん。
はじかれたように上を見上げたリナと、ガウリイの視線が合う。その瞳に、ガウリイはまた驚かされた。 あふれんばかりの恐怖。そして直後、深く純粋な哀しみが混じる。 一連のことを受け止めきれず、ガウリイがただ食い入るようにリナを見つめていると、突然リナは踵を返して走り出した。 「……リナ!」
慌てて声をかける。制止して、なにを言いたいのかまでは考えていなかった。
いつからかは覚えていないが、リナには不思議なチカラがあった。光を生み出すチカラと、身体を空中に浮かせるチカラ。といっても大層なものではなく、光はランプぐらいの明るさであったし、身体も自分一人を支えるのがやっとで、なにか重いものを持っているとだんだん落ちてしまうのだけど。 両親と姉には、他人に言わないよう教えられたチカラ。幼いながらも彼女にとって、両親と姉の言うことは絶対で。逆らおうなんて夢にも思わなかった。
けれど。そう、あれはたしか、12歳ぐらいのころだったろうか。 どうしても、彼女を慰めてあげたくて――チカラを使った。 サリアの家にある大きな木に、内緒のチカラを使って、オレンジ色の明かりをつけた。いくつも、いくつも。手の届かない場所には、やはり内緒のチカラで身体を浮かせて。大きなクリスマスツリーが突然現れて、サリアは首を傾げながらも、とても喜んだ。 ――ありがとう、リナちゃん。すっごくキレイ。 嬉しそうなサリアの顔に、リナも嬉しくなる。
しかし、リナのしたことが、大人たちにバレた。夢中で作業をしていたリナは、周囲の目に気づかないまま、内緒のチカラを使っていたのだ。
大人がそういう目で見れば、子供も同じことをする。リナの味方は、誰一人いなくなった。 ――こっち来ないで! 悪魔だなんて、あたしをだましてたんでしょ! 石を投げられたこともあったし、大声で罵られたこともあったが、何より痛かったのは。 他の人々と同じような目で、リナを異端視する、サリアの瞳だった――
……がばっ ――コンコン 「リナ? 寝てるの?」 再び扉をノックされ、リナはそちらを振り向いた。慌ててその声に答える。
「あ、ううん。起きてるよ、ねーちゃん」
本当のところ、少しとまどった。もしかすると姉には、夕方のことを――他人にチカラのことを知られたと、バレてしまうかもしれない。いや、自分が家に帰ってからうたたねしているだけの時間があったのなら、すでにバレているだろう。姉は恐ろしいほどの地獄耳だ。
リナはしぶしぶ、扉を開けた。
「まったく……なにをいじけてるのよ。みっともないわね」
いったい、自分はどれだけ寝ていたのか。
これだけ時間がたっていれば、姉でなくともこの町の住人ほとんどが、あの話を聞いただろう。
「ごめん……。ごめん、ねーちゃん……」
これから先のことは、だいたい予想がついている。 「………………」
俯いて黙りこむリナ。その耳に、大きな大きなためいきが聞こえた。
「あのね、リナ。わたしは言ったでしょ? だいたいのことはわかってるって。
「そのせいで、わたしたちが町を出ることになったとしても。それは、リナのせいじゃないわ」 リナは、今度ははっきりと姉を見た。姉の顔は薄く微笑んでいる。
「悪いのは、ジョージくんの命の恩人であるリナを、悪魔なんて呼ぶ町の人よ。そんな町にいるのは、気分が悪いからわたしたちは町を出るの。わかった?」
姉の言葉を受け取り、リナもかすかに微笑んで、小さくうなずいた。
「……話は終わったか?」
突如として割り込んできた声に、リナは驚いて戸口を見る。
「とーちゃん……かーちゃん……」
にやりと口の端をつりあげる父の顔が、にこにこしている母の笑みが、いつもと同じ仕草なのにいつもよりずっと優しく思える。 思えば5年前に住み慣れた町を追われた時も、家族はまったくリナを責めなかった。あの頃はまだ幼かったし、町中の人が向ける敵意に満ちた眼差しの痛みを耐えるのに必死だったから、気づけなかったけど。 父も母も姉も、いつだってリナの味方だったのだ。 涙の出そうな目を二、三度、強く袖でこすり、リナは力強く顔を上げた。もう迷いも後悔もなかった。
「……とーちゃん、かーちゃん、ねーちゃん……。…………ありがとう」 普段は忘れがちな家族の愛情を一身に受けて、リナは心から微笑んだ。
大丈夫。明日、この町で何があっても、大丈夫だと信じられる。
リナの脳裏に、この町の人々の顔がよぎった。
嫌悪の目を向けられても、裏切ったと泣かれても、自分はきっと彼らを好きだろうから。 リナがそう思った、その時。 ざわざわざわっ……
突然、大勢の人の声がして、反射的に四人は窓の外へ目を向けた。 |