聖なる迷い子たち・9


 黄色く色づいた葉が1枚、ほんのひとときだけ窓に貼り付き、すぐまた風に吹かれて飛んでゆく。
 少し前までは当たり前のように見られたこんな光景も、季節の移ろいと共にかなり減ってきた。
 もう木々の葉の中で、落ちるものたちはほとんど落ちきっており、すでに固い枝がどこからでも万人に見える姿となっている。

 礼拝堂の掃除をしていたガウリイは、最近日増しに冷たくなってくるバケツの水で雑巾をあらい、大きく息をついた。ガランと人のいない礼拝堂を、ゆっくり見回す。

 『あの日』から、ここもずいぶん静かになってしまった。
 『あの日』とは、もちろん一月ほど前、リナを『聖女』として町の人々に認めさせた日である。

 教会では偶像崇拝を禁じているはずなのだが、やはり実際に神――より正確には、天からの使いということになっている――が身近にいると、教会よりそちらでお祈りする者が増えるのだ。
 きっと、今でもリナの家は、かなりにぎやかなことになっているだろう。

 「……だから、寄付金とかも減るかと思ってたんだけどなあ」

 ガウリイは誰もいない礼拝堂で一人ごちる。
 お祈りに来る人の減った教会。だからお布施が減るのは当然の話で、当初はもしかするとこの教会もお役ごめんかと、かなり危惧したものだった。
 しかし、今。逆にむしろ、お布施は増えている傾向にあった。

 なんでも、信心深い人が『聖女の降臨』に感動して、これまで以上にお布施をしようとするかららしい。当然最初はリナ本人に渡そうとしたようだが、リナ自身がつっぱねたそうだ。
 自分に、奇跡なんて期待してもらっちゃ困る、と。

 その話を聞いたとき、ガウリイは小さく微笑んだ。リナが昔から金にうるさく、非常にがめついのは知っていたが、だからといって全くいわれのない金までもらうほど、金に汚くも醜くもないこともまた知っている。

 ――――………………。

 「……オレって、重傷だよなあ……」

 いつのまにかまた、リナのことを考えている自分に気づいて、ガウリイは大きく大きくためいきをついた。
 『あの日』から今日まで。静かになった理由は、礼拝者の数だけではない。
 再び物思いに沈みそうになったとき、礼拝堂の扉が遠慮がちにたたかれる。

 「あ……。誰だ?」
 「わたしです、ガウリイさん」
 「なんだ、アメリアじゃないか。……どうかしたのか? なんだか元気ないぞ」

 きぃ、と小さく音をたてて扉を開けたのは、つややかな黒髪に青い瞳をたたえた、小柄な少女。
 この教会の常連のひとり、アメリアだった。
 だが、いつもならリナに負けず劣らず――いや、むしろリナよりも元気いっぱい、まるで子犬みたいに元気だけで作られたような少女が、今日はどことなく消沈している。

 「どうした、カゼか? それとも食い過ぎか? ……って、リナじゃないもんなあ。それじゃ……」
 「あ、いえ。……あの、ガウリイさん。そのリナのことで、お話があるんです。お時間、いただけませんか?」
 「? ……わかった。ちょうど今、掃除が終わったところだからな。ちょっと待ってろ、今お茶ぐらい用意してやるから」
 「あ、結構ですよ。おかまいなく」

 アメリアは言ったが、ガウリイはそれこそ構わず、お茶の用意をしに台所へ立った。
 余り物で悪いが、買い置きのクッキーを皿に移し、寒くなってきた最近はもっぱらホットで活躍中の、香茶を二人分カップにそそぐ。

 ……本当は、彼女のお気に入りのお茶なのだけれど。
 しかし、他の人が飲んではいけないという決まり事などないし、何より……そろそろ、香茶が悪くなってしまうぐらい、この茶葉は長いことこの棚の中にしまわれていた。

 ――前は、そんなの気にしたこと、なかったんだがな。

 自分の思考に思わず苦笑して、ガウリイは考えを中断した。手早く準備をととのえ、アメリアが待っている礼拝堂へ向かう。

 「おーい、アメリ、ア……」

 声をかけながら、中を覗き込んで。
 ガウリイは絶句した。

 「……上がらせてもらってるぜ」

 アメリアの隣に、さっきはいなかった青年が一人、座っている。
 彼女と同じ、黒髪に青い瞳。しかし親戚かと勘ぐるほどには似ていない顔。
 くせのある髪と深い海の瞳を見て、ガウリイは――

 「お前さん……だれだっけ?」

 がだがっだん!!

 威勢のいい音をたて、大きなリアクションでアメリアが椅子からころがり落ちる。

 「ガウリイさんっっ!! 町の人の名前ぐらい覚えてください、神父さんでしょうっっ!?」
 「って、言われてもなあ……。オレ、教会に来ないやつの顔なんて、覚えらんないし」
 「そうだな、俺はめったに教会なんて来ねぇから、こいつが覚えてなくたって無理ないぜ、アメリア」

 黒髪の青年が、ガウリイの意見に賛同する。ガウリイは、驚いた顔で青年を見つめた。
 青年はつまらなさそうに鼻をならすと、ガウリイから視線をはずす。
 そんな二人には気づかずに、アメリアは疲れたように起きあがると、

 「ガウリイさん、彼はうちのおむかいに住んでる、アーチェスさんです」
 「アーチェス……? …………っっ!!」
 「どうしたんですか? そんなに驚いて」

 突然息をのんだガウリイに、アメリアがいぶかしげな顔をする。アーチェスも、予想外に大きいガウリイの反応が意外だったようだ。
 しかし、ガウリイには二人の驚きなど届いていなかった。

 (アーチェス……って、あの……!)

 思い出した。たしかしばらく前、リナや噂好きの主婦たちの話題によく上がっていた、青年の名だ。無口で不愛想、粗野で乱暴な言葉遣いだが、とても心根の優しい青年だ、と。
 ……しかも、さらに記憶をたぐれば、ガウリイは一度だけ彼を見たことがあった。

 そう。リナが以前、自分以外に笑みを向けているのを見たことがあって。恋心を含んだその笑顔を向けられた青年に激しく嫉妬し、その後一週間リナが姿を見せなかったことにずいぶん心を苛まれたものだった。
 相手の男の顔など、すっかり忘れていたが――

 「……なにか、用なのか?」

 声色が変わることは、なんとか避けられた。だが、ぶっきらぼうな言い方になることと、視線を合わせられないことはどうにもならなかった。
 ガウリイの物言いに、アメリアが目を見張る。いつも無表情なアーチェスの瞳にも、疑問の色が浮かんでいた。彼をよく知っているアメリアには、愛想の悪いガウリイなど信じられないものであったし、彼をあまり知らないアーチェスも知らないなりに何かしら感じ取るものがあったようだ。

 「えっと……用、というのは、あの……」
 「――リナのことだ」

 戸惑いから、歯切れの悪くなるアメリアの言葉を、アーチェスが継いだ。
 アーチェスは、眉ひとつ動かさず、ガウリイへ続ける。

 「あいつ、家からまったく、出ようとしなくてな。どうせここにも来てねぇんだろ」

 ぴく、とガウリイの肩がはねた。
 いかにもリナと親しげな言い方にも、ここへ来ていないことが図星であることにも、腹の奥が熱く煮えくり返るような怒りを覚える。
 しかしそれでも無言で、持ってきた香茶を二人の前に置くガウリイに、アメリアが訴えた。

 「リナ……。あのままじゃ、ちょっと可哀想ですよ……。あれじゃ、聖女じゃなくて見せ物です。……どうにかならないんですか?」
 「見せ物、か。ある意味そうだな……」

 アメリアの表現にアーチェスもうなずき、二人そろってため息をもらす。

 彼女らが言っているリナの現況については、ガウリイもわずかばかり知っていた。
 一月前、ガウリイがリナを『聖女』と認定して以来、町の人々は、彼女を『聖女様』と呼ぶようになっていた。
 これが「よっ! 聖女様! 今日はトマトが安いんだよ、買ってっとくれ!」というフランクな、単にこれまで『リナ』と呼ばれていたのが『聖女様』となっただけだったら、それほど大きな問題ではない。

 だが実際には、町の人でも信心深い者がリナの姿を見るたびに道をあけ、買い物などしようものなら「聖女様からお金は取れません」と代価の受け取りを拒否する。
 さらには、老人たちが「祈らせてくだせえ」と足下にすがりつき、やめてくれと断ったりすると泣き出す始末。

 ガウリイも、買い物の光景と老人がすがりつく光景を一度ずつ目にしたが、どちらもリナは非常に困惑していた。かといって、リナを聖女に認定した彼が、「もっと普通に扱え」などと言えるはずもなく。
 どうしていいかわからなくて、逃げるようにその場を立ち去ったのは、今も記憶に新しい。

 「ガウリイさん、単刀直入に聞きます。――リナを、本当に聖女だと思っているんですか?」
 「そうだな。……思ってるよ」

 窓の外を見ながら、ポツリとつぶやく。
 彼の穏やかな口調とは裏腹に、庭では突風が、せっかく集めた落ち葉をかき乱していた。
 ――まるで彼の心情を表したかのように。

 決して目を合わせようとしないガウリイの態度は、相当説得力にかけていたらしい。アメリアが音をたてて椅子から立ち上がった。

 「本当の本当に、ですか!? わたしには、そうは見えません!」
 「おかしなこと言うなあ、アメリアは。どうしてそう思うんだ?」
 「――今、答えたガウリイさんが、とても辛そうに見えるから、です――」

 意表をつかれて、ガウリイはアメリアに視線を向けた。アメリアは懸命になにかを堪えるような顔で、

 「本当に、リナを『聖女』とかいう存在だと思ってるなら、それを迎えることは教会にとって、よろこばしいことのはずですよね? なのにガウリイさん、今、とても辛そうな顔してます。
  今だけじゃありません。ここのところずっと、日曜の礼拝のたびにお姿を見かけてますが、どことなく、上の空な感じです。まるで、心がどこかに行ってしまったみたいに……」

 ガウリイは内心舌をまく。アメリアがときどき、やけに鋭いことは知っていたが。そんなことまで見えていたとは。

 というよりも、自分がそんな顔をしていたことに、一番驚いた。
 その事実が、ガウリイを困惑させる。
 心を揺さぶられたガウリイへ、さらにアーチェスから追い打ちがかかった。

 「正直なところ、俺やアメリアは、リナがナニモンでも、たいした問題じゃない。あいつはどう見ても、人間にしか見えないからな」

 それは、インバース家の家族がリナに言ったのと同じ言葉。

 「だから、あんたの意見が聞きたい。本当にあの夜から、リナを『聖女』とやらとして見ているのか。……あいつも、それを気にしていたぜ」

 誰が、と聞くことはできなかった。聞く必要もなかった。
 ただ――『彼女』が気にしているのなら。きっとこれから彼が言う言葉は、『彼女』にも届く。
 ならば、彼が言える言葉は、ひとつだけだった。

 「…………ああ。思いがけず『聖女様が降臨』してくださって、『協会関係者としては』非常に嬉しく思うよ。
  おかげで、ずいぶんみんなが信心深くなってくれたし。このまま、もっと神の教えが広がると、い――」

 ばんっっ!!!

 ガウリイのセリフは、大きな音で遮られた。
 礼拝堂の机を勢いよくたたいたアメリアが、とても悔しそうな、悲しそうな顔で叫ぶ。

 「ガウリイさんなんか……ガウリイさんなんかっ、知りませんっ!!」

 言い捨てるなり、礼拝堂を走り去った。
 アーチェスも立ち上がり、アメリアを追いかけようとする。だがその前に、ガウリイを軽蔑の眼差しで一瞥して、

 「……今のがあんたの本音か?」
 「…………そうだ、と言ったらどうする」

 「あんたがあくまで、あいつを聖女として扱うなら、俺とは関係ねえ。俺はあいつを、一人の人間の女として、扱わせてもらう。
  あんたには、そのことでどうこう言われる筋合いは、ないってことだな」
 「………………」

 アーチェスが何を言いたいのか――言葉の内にある、『女として扱う』ということがどういうことか、明確に計りかねるガウリイは、無言で、しかしわずかな敵意を込めて、アーチェスを睨みつけた。
 アーチェスはガウリイから返事がないことを知ると、さっさと踵をかえして行ってしまう。

 二人が出て行き、再び礼拝堂に静寂が戻る。ガウリイは椅子に座り、二人がまったく手をつけなかったクッキーを一口かじった。
 香ばしいかおりと、ほんのり甘い味が口の中に広がるが、心は晴れなかった。
 二人が求めていることは、手にとるようにわかる。しかし。

 「……言うわけには、いかないじゃないか……」

 『聖女』という存在が、本当にいるかどうかはともかく。ガウリイとしては、リナをそんなものに祭り上げる気などさらさらなかった。
 だが――……

 「あのとき……ほかに、どういう手段があったっていうんだよ……」

 救いを求めるように、礼拝堂の十字架を見上げる。
 あのとき、リナを『悪魔』にしないためには、『天使』にしてしまうのが一番だった。

 不思議な力を持つ少女。異質な力を持つ、異質な存在。人の姿をした人ではないもので、天使と悪魔以外の存在を、自分は知らなかった。
 だから、天使――『聖女』と呼んだのだ。リナが、この町を追い出されることのないように。
 辛いだろうが、今しばらくリナには『聖女』として生活してもらわねばならない。少なくとも、人々が彼女のチカラを畏れなくなるまで。

 それゆえ、たとえリナが望まなくても、自分は彼女を『聖女』だと思わなければならなかった。
 すがるように、胸元のロザリオを、強く握りしめる。

 「オレは……間違ってませんよね……?」

 彼を見下ろす十字架は、なにも答えない。
 答えるもののない沈黙は、ガウリイに不安という感情をもたらす。

 リナのためを思って、『聖女』という称号をムリに押しつけた。
 悪魔と呼ばれるよりは、よほどいいはずだから、と。

 だが、しかし。本当は、自分のためだったのではないか?
 悪魔でないのなら、リナはこの町を出なくてすむ。ガウリイからも離れていかない。
 しかも、『聖女』と呼ばれれば、他の男もリナに手出しはできないだろう。
 ――そう、自分ですら手の届かない存在となる。

 かつて夢想した、『いつまでも子供のままのリナ』が、現実になる。
 だれのものにもならない、いつまでも無邪気な子供のように微笑むリナが――

 「……っふっ……っっ…………」

 バカだ。オレは。
 仮に、そういう気持ちがあったとして、だ。結果はどうなった?
 今、リナは隣にいないじゃないか。

 「……………………」

 リナはあの日以来、教会に一度も姿を現していない。
 どうして、と何度心の中で問いかけただろう。あまりにあの華奢な身体を、風になびく栗色の髪を、自信とちゃめっけがたっぷり含まれた笑顔を一目見たいと切望して、おかしくなるかとも思った。

 でも、心のどこかで、安堵している自分がいることも確かだった。教会に彼女が来れば、神父であるガウリイは『聖女』を敬わなければならない。
 『リナ』の頭をなでることも、一緒に笑い合うことも、もうできないのだ。

 ……もしかすると、あんな事件が起こらなくても、近いうちにこういう結末が用意されていたのではないだろうか。
 彼女を手放すことも、抱きしめることもできない、中途半端な弱い自分がいる限り。
 あの事件は、ひとつのきっかけ。最後の最後は、自分が壊した。

 たとえ、結果が同じでも。
 リナが、自分から離れてゆくのは避けられないことでも。
 せめて、目に見えるところにいてほしかったのだ。

 「………………神よ………………」

 彼を見下ろす十字架は、なにも言わない。
 ガウリイの慟哭しか存在しない礼拝堂で、彼はひとり、懺悔をくりかえしていた。




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