リナは呆気にとられて、扉から入ってきた人物を見つめていた。
一人はまあいい。短い銀髪に、多少目つきの鋭い男。しかし歌手としてデビューするには十分な整った顔を持っている。正直、こいつが今回のレッスンの相手か、と値踏みしたものだが――
「な、な、な…………」
昨晩、共に食事をした人物が今朝の仕事で目の前にいたら、とりあえずびっくりするのが普通だろう。
「なんっっであんたが、ここにいんのよ〜〜〜〜〜!!!??」 ガウリイは、困ったように横の男を見つめている。先ほどリナが間違えた銀髪の男は、不思議そうにガウリイとリナの顔を見比べていた。 (――昨日は何も言ってなかったのに……)
リナは、自分も何も言わなかったことを棚上げして、内心歯がみする。もっとも、いくら親しくとも、関係ないはずの他人に、自分の仕事のスケジュールなど教える必要はない。 まさか、今回のレッスンの相手とやらは、この男なのだろうか。いや、しかし。だがでも。 「あー、失礼ですが」
コホン、と小さな咳払いとともに話しかけられた言葉で、思考の海に沈みきっていたリナは、我に返った。 「あなたが、リナ=インバース講師ですね?」
――そうよ、こいつがいるじゃない!
「ええ、今回講師役を務めます、リナ=インバースです。ええっと、あなたは……」
リナの一縷の希望は、木っ端微塵に粉砕された。
「…………こいつが?」
呆然としたリナのつぶやきに、今さら気づいたのかワンテンポ遅れた反応をするガウリイ。そんなガウリイを、訝しげに見るゼルガディス。
「おわっ!?」
恐ろしげなその気迫に、ゼルガディスがたじろぐ。
「な……なにか?」 それはつまり。
「出席点ってことね…………」
リナは絶望的なため息をついた。
「――あたし、帰る」
ガウリイが驚いたような声を上げた。それを聞こうともせず、リナは近くにあった自分のバッグを肩にかつぐ。
「ま、待ってくださいリナさん! そんな、いきなり帰るって……!」
イヤそうに、ホントにイヤそうにリナはうつむいた。できれば心の中で、もっと葛藤したかったであろう。しかし、この場合リナに選択の余地はない。だとすれば当然、葛藤の余地もなかった。
「……………………
女性スタッフも、その言葉を聞いてヘナヘナ座り込んでしまった。よほど気が抜けたのだろう。
これからここは戦場になる。その意識を、この男にも持ってもらわなくては。 「……リナ……」
目元をしっとりと潤ませた――いや、実際には泣いてなどいなかったのだが、涙が出ていないのが不思議なぐらい悲しそうな表情だった――捨てられたばかりの金色の大型犬がそこにいた。
「な、な、なによ。その顔は!?」
そう言えば、そんなことを言ったかもしれない。客観的に聞けばひどい言葉のような気もする。でも。
「あのねえ……。いい? このシゴトの内容を聞けば、大抵の講師は逃げ出したくなると思うわよ」
途中から口を挟んだのはゼルガディス。いつのまにか、敬語は消えている。 「そんなわけないでしょ!! こーんなアタマに腐ったプリンみたいなモン詰め込んだオトコに、何をどーやって物覚えさせろってゆーのよ!!?」
今回の依頼内容、『一般人のレベルでいいから歌えるように』というのは、一緒にカラオケに行きたいとか宴会芸をさせたいとか、そういう意味ではない。
お役所仕事で、本当に依頼通り一般人レベルまでしか上げられなくてもシゴトは遂行したことになるだろうが、そんな状態のガウリイを全国へご披露させるのは、教え役としての沽券に関わる。
「音痴は治るわ。しっかり練習すればね。 ぶつくさ言うリナを見て、ゼルガディスは口の端を笑みの形につり上げた。
「だが、それでもやらざるをえんのだろう?」
とたんに、きょとん、とした顔をするリナ。ゼルガディスにしてみれば、この講師は女性でありながら、ガウリイの色香に迷わされていない、まさしく他の何よりも理想的な講師だった。
「たのむ。あいつの音痴を治してやってくれ。たぶんあんたにダメなら、他の誰にも治せない」
いつもの調子でタンカをきったリナだが、ゼルガディスの真剣なまなざしを至近距離で見せられて、かすかに頬が上気している。
「……ガウリイ……」
どこかしら憮然とした表情で言うガウリイに、リナはとまどいながらも頷く。
3人は、日に日に親密になっていった。何気ない日常的な話をしているうちにガウリイがボケて、リナにツッコミを入れられている場面や、リナとゼルガディスが難しい話をしていて、途中でガウリイがリナの服を引っ張り、それにため息をつきながらもリナが噛み砕いて教える、という光景が、毎日皆に目撃されている。
ゼルガディスが心配したように、ガウリイのフェロモンに引き寄せられた女性スタッフもいなかったわけではないが、こんな3人の中に入っていけるような女はいなかった。 ――あるひとつの問題点を除いては。 「どおぉぉぉしてあんたはこんな歌すら歌えないのよスマッシュ!!」
すっぱああぁぁぁん!!
「おっ、おい! どこから生えたんだ、そのスリッパ!?」
たったひとつの問題点。それはもちろん。
正確には、『音痴』なのではない。ピアノの音に合わせて声を出すのはまあまあできたし、リナの歌うドレミファソラシドに合わせての発声練習も、まったく問題はなかった。発声法も、元々役者なのだから、ちゃんと腹の底からの呼吸を心がけている。 「ダメだわ……こんなんじゃ、CDデビューなんて夢のまた夢よ……」
リナは絶望的な表情でつぶやいた。
はっきり言って、お手上げだった。一般的なポップスの曲は、「大きな古時計」の倍くらいメロディが長いのだから。
「ガウリイ、あんた……そんなんで、音楽の授業のテスト、どうやって受けてたのよ……」
リナは不機嫌にそう言った。たしかに、歌は必要のない人には、生きてゆく上で無用の長物だろう。
「だけどあんたは、今、仕事で歌を歌う必要におわれてる。せっかくのCDデビューの機会を、歌えないからって理由で自分からムダにするわけ? そんなの、あたしは許せないわ。
きっと、有無を言わさぬ怖ろしい形相をしていたんだろう。ガウリイが青い顔をしてうなずいた。
「――なんかいい案はないかしらね? ゼルガディス」 いつもの休憩時間。3人でお昼ご飯をつついていた時、ためいきまじりにしたリナの相談を、ゼルガディスは心外そのもの、ちょっぴし迷惑ぎみの口調で返した。
「だって、ガウリイとのつきあい、長いんでしょ? だったらなにか、いい考えがないかと思って」 ゼルガディスの言いたいことに思い至り、リナは諦めの吐息をもらした。
「もう、ガウリイのCDデビューなんて、とっくの昔に果たしてるか……」 知らず重くなってしまった雰囲気に、リナとゼルガディスが暗い影をまとっていると、そこへたった1人、まったく会話に加わっていなかった人物の明るい声がした。
「なあ、リナ。オレが思うに、だな」
少しだけ、リナたちとは別の、しかし同じように暗い影を背負いながらもガウリイが言った案とは。 |