「何故俺が――」

　サイドミラーに男達の姿が無くなるのを確認すると、純平は飛ばし気味のスピードを、いつも通りの速度まで落とすことにした。何せトラックは年代物のオンボロで、アクセル全開気味に走っていると、いつ天寿を全うするとも限らない程の悲鳴が聞こえるからだ。　それに、純平の心臓が隣にいる女の子まで聞こえるのではないかと言うくらいバクバクと高鳴っていたのだから、この辺が限界だったとも言える。

　一体彼女は何者デスカ？
　あんな『いかにも』と言わんばかりの黒服達に追われるなんて……通常の営みを送る一般人では早々ある事ではない――純平が横に座っている少女の方を見ると、少女は、未だ追っ手の事を気にしているのか、しきりに外を気にしていた。
　純平はそれとなく観察する。

　まず最初に目に付いたのは、ツインテールにしているつやのある黒髪だった。
　トラックが揺れるたびに、サラサラでつやのあるツインテールがゆらゆらと揺れる。その様を見るに、如何に手入れが行き届いているのかが分かる。いかにも髪の毛を大事にしている、そう、女の子女の子していると言うのか、変な話、本当に普通の女の子だった。
　身長は座っているので確かな事は言えないが、１６０ｃｍ程度はあろうか。最近の娘ならば平均的な高さなのかもしれない。　純平の位置からは横顔しか見られなかったが、少し色白の、健康的な白さを持った肌が飛び込んでくる。

　目鼻立ちもすっきりとしていた。どこかの雑誌にグラビアとして載っていてもおかしくない程整っているそれは、これだけ見れば美人と言っても良いのだが、高校生と言う幼さの残るそれは、どちらかと言えばかわいらしい部類に入る。
　そんな少女を観察しての第一印象は、いたずら好きの子猫だった。
　さて――純平は未だドキドキと波打つ心臓を落ち着かせようと、隣の少女に気付かれない様に深呼吸をした。
「あ、なんかいい匂いがする」
　車の芳香剤の様な安物の香りとは違う、さわやかなミント系の香りが純平の鼻先をくすぐった。
　もちろん、その香りの主はこの場所では一人しか居ない。
「ふー、もう大丈夫かな」
　その香りの主は、追ってきた黒服の姿が見えなくなるのを確認すると、ほっと一息吐き出して肩をなで下ろしていた。
　その様子は心底ほっとしていて、追っ手が如何に危険な存在か改めて実感させるには十分な仕草である。

　俺……ほっんとうにやばい事に巻き込まれましたか？

　その少女に取ってはほっと出来た事だったのかも知れないが、純平に取っては頭の痛くなる事のなにものでもない。

「あの……」
「あの……」
　二人の声が絶妙なタイミングで重なる。
「あ、先にどうぞ」
　純平は少女に発言権を譲った。
「あ、すいません、それじゃ……あの、助けていただいて本当にありがとうございました」

　――え？

　助けていただいたって……アレは助けたって言うか、むしろ無理矢理？
「あの連中に捕まったら私、あそこに連れ戻されてました」
　あそこって何処ッスか！？
「あなたがいつも、この時間にあそこを通るのを知っていたから、私、逃げ出すタイミングをずっと待ってたんです」
　って事は、俺、狙われてましたか！！

　……

「あの、どうかしましたか？」
　次第に無口になり、顔色がどんどんと悪くなる純平に、少女は心配そうに顔を覗き込んできた。
　あ、結構可愛いかも――こんな状況におかれても、可愛いモノは可愛いと素直に思える純平は大物かも知れない。純平は少女がやっぱり可愛らしい存在である事を確認した。
　――ブルブル
　いかん、外見のかわいらしさに惑わされては危険な気がする……
　考えろ俺。
　世界一安全と言われる日本において、妙にガタイの良い、こんな時期なのにダークスーツを着込んだ男達に、こんな山奥に監禁されているってシチュエーション。
　そして、それに係わってしまったって言うか強制イベントでフラグが何処で立っていたか分からないままエンディングまっしぐら？！な状況

　さ……最悪です

　純平が脳内会議を完結して勝手に落ち込んでいると、千尋は「あのぉ〜」と心配そうに声を掛けた。
　はっ――と、我に返る純平。
「あ、ゴメン、ちょっと考え事を」
「はぁ」
　か、考えろ俺……
　そもそも、何で俺はこんな事に巻き込まれてるんだ？
　一体彼女は何をやって、どうしてあんな黒服の連中から追われてるんだ？
　つーか、何故俺まであんな黒服に追われなくちゃならない？
「う〜ん」
　考えれば考えるだけ泥沼に沈んで行くのは何故だろう……なんでかな？
「あ、あのさあ」
「はい、なんですか？」
「君は一体、どうしてあの黒……」

　はっ――

　ちょっと待て俺！！
　この質問の答えを聞いたら、なにやら選択肢間違えてバッドエンディングまっしぐらな予感がするのは気のせいなのか……気のせいなんだろうか！！
　そう、どんどん深い方へはまっていって、最後には身動きできない状況にまで追い込まれて、そして俺まであの黒服達に捕まって監禁されるに違いない！！
　純平の想像の翼は、どこまでも空に向かって飛躍していく。
「い、いや、なんでもない、今の質問は無し」
「はぁ……」
「それよりも、一体君はどうしたいの？」
「あ、それなんですが、ご迷惑は重々承知しているんですけど、私をある場所まで連れていって欲しいんです」
「え？」
「お願いです。私をこの住所まで連れていってください」
　純平は少女の差し出す紙を、運転に気をつけながら受け取った。
　見れば、純平のアルバイト先からもそう遠く無い。これならば、会社に帰る手前で多少の回り道をすれば送れない事もない、ないのだが、今から直接行くとなると次の配送先にはずいぶんと遠回りになる。
　遠回りと言うよりも、次の配送先には後十分と言う距離にまで来ているのだから、遅れると言うレベルを通り越してしまう。
　それに純平には別の心配事もあった。
　それは、この隣に座っている少女を送り届けるのはやぶさかではないし、人が困っていて、自分がそれを何とか出来る状況ならば助けるのが当然と思ってもいた。がしかし、この隣に座っている少女を送っていけば、自分もあの黒服に追われる羽目になるのではないか――と、純平は一抹の不安を消せなかったのである。
　純平の頭の中ではどこかの哲学者かの様に『助けるべきか・助けざるべきか』と、苦悩していた。
　はぁ〜この娘をここに置いて行く事なんて出来るわけないし――周囲を森に囲まれた峠道に、黒服の男達から逃げてきた少女を置き去りにして逃げるなどと、最初からそんなことをするつもりもなかったが、かといって自分が黒服から追われる立場にはなりたくないのも事実。
　峠を下ってから少し行けば次の配送先に出る……ん？
　純平はあることを思い出した。
　って、そうだ、この峠を下りきった先に鉄道が走ってるんだっけ。仕事も残っているし、こんな山奥に置き去りにする訳じゃないし、一番近くの駅にでも降ろせば。
「あ、あのさ」
「はい」
　純平の言葉に応える少女の眼差しは、期待にあふれていた。それはまるで、小ガモが親ガモの後を信じ切って付いて行く姿を連想させる程の。
　だ、ダメだ……この娘、絶対に連れていってくれるって信じてる瞳ですよ？
「あ〜」
　え〜いままよ。もうこうなったら、毒を喰らわば皿まで！！
「解ったよ」
「え？」
「だから、君を乗せていってあげる」
　ふだんならば、いくら純平とは言え断っていただろう。
　こんな訳もわからない状況でどこの誰ともしれない少女にいきなり巻き込まれれば、普通の人間ならば誰だろうとこれ以上の関わりを持とうなどとは思わないはずである……あったのではあるが、純平も自分自身で信じられなかったが、その答えは案外簡単にでてきた。
　期待はしていたものの、そんな答えが帰ってくるとは思っていなかった少女は、一瞬、本当の事なのか信じられないと言った顔つきをしたが、純平の言葉を理解出来たのか、次の瞬間には
「あ、ありがとうございます」と言って、うれしそうな顔で抱きついていた。
「って――あぶなっ！！！」
「あわわっ、ご、ごめんなさい」
　ハンドルを取られそうになった純平は、何とかそれを回避する。
「私、近くの駅に降ろされるだろうって思ってたんですけど、お金も持ってないし、本当に助かります」
　少女は自分が抱きついたことなど忘れて、ひまわりの様な笑顔を向けて微笑んだ。
　ふぅ〜、今のは本当に危なかった……けど、柔らかかったな〜
　純平の左腕には、少女の胸の感触が桃色の記憶と共に残っていた。
　女の子に抱きつかれたのって随分久しぶりだ。アレは確か、和美に抱きつかれたのが最後か……でも、和美はまだ１３才で少女って言うよりは、本当にまだ女の子って感じだったし。
　隣の女の子は高校生らしくって、発育の方も……
「あの、大丈夫ですか？」
　口を開けたままにやけている純平を、少女はまたもや心配そうに覗き込む。
「い、いやゴメン、つい妄想――って言うか、考え事を」
　ブルブル――いかんいかん、取り合えずこれからの事を考えねば。
　一応黒服からは逃れられたとは言え、この女の子を追って来るかも知れないし、かと言って次の配送先には遅れられないし……。
　そう、純平の受難がこれで終わったわけではない。終わればどれだけ良いだろうかと考えていたが、先ほどの男達が追ってこないと言う保証はどこにもない。
　しかし……
「あ、あのさ、送って行くのは良いんだけれど、俺、まだ仕事中だからさ、次の配送先が最後で先に寄らせてもらうけど、それでも良い？」
　そうなのだ、いくら１００％危機が去ったわけではないとはいえ、納品先に遅れれば迷惑が掛かる。
　純平としてはそれだけは避けたかった。ならば、先に仕事を終わらせてから行けば良いだけの話だ――と、律儀な性格が顔を出す。
「はい、私は最終的にこの住所までたどり着ければそれで良いです」
「そう？それじゃとにかく、次の配送先に向かうから」
　純平はそう言うと、慣れたコースにアクセルを踏み込んだ――


　――あ、私の名前は『汐見千尋』って言います。
　次の配送先に付くまでの十分間、何を話して良いのか考えあぐねていた心配をよそに、純平は少女の方から話を振られた。
「私、汐見千尋って言います。さんずいに夕焼けの夕と、見るって書いてしおみ。それに千円の千に、尋ねるって書いてちひろです」
　聞きもしないのに、少女は漢字の説明までしてくれる。
「あ、俺は武田純平。武田信玄の武田に、純粋の純に平でじゅんぺい」
　つられて説明してしまう。
　あんまり話とかして、もし彼女が捕まった時に俺まで追っ手が来るのでは――と、一瞬頭をよぎったのだが、まあ、自己紹介程度ならば問題は無いだろうと説明したのだ。
　相手の名前も知らないと言うのもおかしな感じがするので、そのまま彼女の話を聞く事にする……しかし
　あれ――純平は一瞬汐見という単語に聞き覚えがあった気がした。
「どうしたんですか？」
「あ、いや、汐見って名前、どこかで聞いた事がある様な気が」
「あまりある名前じゃ無いですけど、それ程少ない名字でも無いですからね」
「それもそうだよね」
　って、でも、どこか身近なところで聞いた気がするんだけど……
「私、高校三年の１７才で、今年度受験なんです」
「へー、そうなんだ」
　で、どうしてあんな強面のお兄さん達に――とは聞けない純平。
「純平さんは社会人なんですか？」
「え、ああ、俺は一応大学生。夏休みを利用してアルバイトをしてるんだ」
　で、君に捕まっちゃったんだけど――と、一人心の中でツッコミを入れる。
「へ〜大学生なんですか。どちらに通ってるんですか？」
「ああ、港陽大学の文系に」
「港陽……大？」
「ん？どうしたの？」
「あ、いえ、ちょっと聞いた事がある様な気がして」
「まあ、それ程有名じゃ無いけど、無名って訳じゃ無いから」
「そう……ですよね」
　と返事をしたものの、千尋は腑に落ちない顔をしていた。
「受験情報誌で目にしたのかも知れないね」
「そうですね。うん」
　少女は笑顔で純平の言葉にうなずいた。それは本当に可愛らしいものだった。
「でも、受験って大変ですよね……私、文系って事までは決めているんですけど、この時期にまだ行きたい大学が決まってないんです。夏休みの間、ずーっと勉強漬けでもう参っちゃいます」
「ははは、そうだね、この時期が一番大変かも知れないね。俺も去年の今頃は勉強漬けであんまり遊んだ記憶もないし」
「そうなんです。でも、少しは息抜きもしないと、本当に疲れちゃいますよ」
　プンプン――という擬音が聞こえてきそうな感じで頬をふくらませる千尋をみると、やはり純平は猫を連想させられた。
　一体、こんな普通の女子高生がどうしてあんな黒服達に？――と、不思議に思えてくる程の笑顔だった。
　純平の目には千尋は本当に、ごくごく普通の女子高生にしか見えない。
「それで、君は一体どうしてあの男達に……」
　って、また俺は何を聞こうとしてるんだは！！
　こんな自らバッドエンド直行みたいな選択しなくても――で、でも、聞いてみたいのも事実。こんな普通の女の子が、あんな黒服に追われるなんてただ事じゃない。何か理由があるのなら……
「そ、それは」
「あんな黒服を着た男達に追われるなんて、ちょっと普通じゃ無いから」
「いえ、それは」
　千尋は嫌がると言うよりも、何か恥ずかしがっている様な表情で言いよどんだ。
「そ、それは、やっぱり言わないといけませんか？」
「い、いや、君が話をしたくないんだったら、無理にとは言わないけど」
　ま、まあ、彼女が話をしたくないって言うのなら別にこれ以上深く聞くわけにもいくまい――純平は強烈に興味を惹かれはしたが、嫌がる事を無理に聞き出す程無粋な神経もしていない。それに、聞いたところで力になれるとも限らない。
　しばし気まずい沈黙が流れたが、それは次の配送先に付いた事で救われた。


「お〜う、純平。今日は少し遅かったじゃねーか」
　配送先に着くと、いつもの荷受けのおじさんがトラックを見つけて外に出てきてくれた……のは良いのだが。
「おおぅ！隣に乗っけてるのは純平の彼女か！！」
　と、案の定の反応を見せてくれるおじさんに、純平は頭が痛い。
「いや、おじさん、これには深い訳が……」
　一瞬、本当の事を説明しようと思った純平だが、あんな事をどうやって信じてくれと言えるのか――と、言葉に詰まる。
　さて、どうやって説明したモノか。
　と、そんな純平の心配をよそに、隣にちょこんと座っていた少女、千尋（ちひろ）が口を開いた。
「私、純平の妹で千尋って言います。今日は兄の仕事ぶりをチェックする為に一緒に乗ってきました」と言って千尋は、にこりと笑う。
　そんな千尋の笑顔に少しばかり小悪魔的な魅力を感じつつも、まあ、これが一番誤解の無い回答なんだけど――と、純平は少々複雑な心境だった。
「そうかい、純平の妹さんか。べっぴんさんだ」
　このおじさん、葛飾かどっかの生まれで江戸っ子らしいのだが、気っ風の良いしゃべりと同様、なんの疑問もなくすんなり受け入れていた。
　まあ、良いんだけどね……それにしても妹ですか？「はははは……」と、純平は笑うしかない。
「ありがとうございます。おじさん」
「おう、俺は嘘はつけねえからな。純平に、こんなべっぴんさんの妹がいたなんててーしたモンだ」
　って、何がてーしたモンなんだか解らないけど、すんなり信じてくれたからよしとするか――純平は消化不良な気持ちが残りはしたが、かと言って、これまでの出来事を説明する気にもなれないので放っておくことにした。
「だけど、純平は普段から真面目だから、千尋ちゃんが心配するこたーねーよ」
「そうなんですか？」
「おう、なあ純平」
　バン――っと、このおじさん、ちなみに名前は一度聞いた気がするけど、いつもおじさんとしか言わないから忘れた……は、何かと背中をたたく癖がある。
　しかも、それが力強いっていうかなんていうの、はっきり言って痛い。
「ははは……それじゃ荷物降ろしちゃいますから」
　純平は取り合えずこの話題を続けてぼろを出したくなかったので、とっとと仕事を終わらせて逃げることにした。


　ピストン輸送の仕事は割と直ぐに終わる。
　作業的にはそれ程難しい事ではない。荷物の詰まったコンビと呼ばれる鉄の篭をフォークリフトで降ろし、空のコンビを積み込んで荷台で固定するだけだからだ。
　純平は慣れたもので、ものの数分もかからずに終わらせていた――もちろん、おじさんから早く解放されたいという思いからである事は言うまでもない。

「どうでい嬢ちゃん。純平は真面目だろう？」
「はい、これなら私も安心できます」
　……って、見事に妹役ですか？
　純平の複雑な心境がさらに複雑なものになったが、「じゃ、おじさん、俺本社に戻りますから」と、何とか折り合いを付けて早々に退散する事にした。
「おーう、気をつけてな」
「お疲れさまでした」
「おう、嬢ちゃんも気をつけてな」
「はい」
　千尋はすばらしく可愛らしい笑顔でおじさんに手を振る。
　うーむ、どうしたらこんな娘があんな黒服に追われているのか……純平の頭の中に今更ながらに疑問が持ち上がる。
　それはまあとにかく、取り合えず出発するか――純平は彼女の目的地へ向かって走り出した。

「あの、どこか公衆電話のある場所で一端止まってもらえませんか？」
「それだったら、俺の携帯使って良いよ」
　営業所を出てから少したった時だった。
　どうやら目的地にいる誰かに電話を掛けたいらしい。
　とは言え、両脇を山に囲まれた国道では止まれる場所も、ましてや公衆電話なんて物は当然のごとく存在しない。と言うわけで、必然的に純平は自分の携帯電話を貸す事になった。
　山の中ならいざ知らず、国道に出れば携帯の電波も来ているのでつながるのだ。

「すいません、それじゃお借りします」
　千尋はそう言って、純平の差し出す携帯電話を手に取った。
　今さら気が付いたのだが、純平は、千尋が今時の高校生にしては話し方が丁寧だと思った。　多少？強引な部分もあるけれども、礼儀正しいとでも言うのか、話の端々に良いところのお嬢様という雰囲気が感じられるのである。
　まあ、いかつい黒服のお兄さんに追われてる――って言うおまけ付きではあるのだけど。

　――トルルルル

　純平の隣から微かに呼び出しのベルが聞こえてくる。そして何度目かの呼び出し音の後に相手が出たらしい「もしもしお姉ちゃん？」と言う千尋の言葉から、どうやら千尋が掛けたのは自分の姉と言う事も判った。
「千尋？」
「うん、お姉ちゃん、あのね……」

「ちょっとあんた！何面白そうな事やってんのよ！！」

　つぅ――
　余程相手の声が大きかったのか、千尋は携帯を耳から遠ざけていた。　純平にも聞こえてくるくらいだから、相当のものに違い無い。
　だけど面白そうな事って――こっちは全然面白く無いと言うのに……と、純平は一人心の中でゴチた。
「ちょっとお姉ちゃん、面白いってなんなのよ。私、あそこに監禁されてたのよ」
　そうそう、千尋ちゃんが憤るのも無理はない。巻き添えを食らっている純平にしても、そうそう『面白い』ではすまされない。

「それよりもお姉ちゃん、私今からそっちに行くから」
「それは良いけど、あんた一体どうやってココまで来るつもりよ。あんた山の中から歩いてくるって言うの？」
　それは車です――ええ、俺、捕まりましたから。
　携帯の声はとぎれとぎれでしか聞き取れないが、多少漏れてくる声からその内容が伺えるので、純平は一人、心の中でツッコミを入れていた。
「それは……親切な人が車で送ってくれるって」
「ちょっとあんた、親切な人って、前の事覚えてないの？」
「それはそうなんだけど……でも、あんな監禁状態なんて私考えられない」
「まあ解らないでも無いけど、とにかく、今隣に乗ってる人の住んでる所とか聞いて教えなさい。早く手を打たないと、その人、危ないわよ」
　――はい？
　純平の耳に『危ない』と言う単語だけが聞こえてきた。
　またしても危機デスカ？
　何やら純平は、またもや深みにはまっていくのを感じた。

「お姉ちゃん、ちょっと考えすぎなんじゃない？」
「そんな事言ってあんた、あいつの執念深さ知らない訳じゃないでしょ？実際、イの一番に私の所に電話が来たんだから。その時だってブツブツ『ただじゃおかない』とか『叩ききってやる』とか言ってたのよ？　今手を打っておかないと、また厄介な事になるわ。ま、私はどうだって良いんだけど……とにかく、一般人を巻き込む事だけは何とかしないとね。その人の住所を聞いて教えなさい。後はこっちでやっておくから」
「う、うん……解った」
　どうやら折り合いが付いたらしい、千尋は少々困った顔で純平に向き直った。
「あの、純平さん、どうやら危ないらしいんですけど……」
「はは……はははっ」
　純平は笑うしかなかった。

――

「うん、うん、その住所であってるって。うん、アパートで一人暮らしだって」
「そ、じゃあ後はこっちでやっておくから、あんたは捕まらない様にココに来るのよ？」
「うん、解った。それじゃまた後で」
　純平が教えた住所を伝え終えると、千尋は電話を切った。
　どうして住所を？と、聞きたい気持ちもあったが、運命は自分の知らないところで回り始めているらしい。
「あの……純平さん？」と、千尋が心配そうな顔で問いかけた程、純平の心の中の平和が著しく壊滅状況に陥りだした。
「ははは……」
「ごめんなさい。私のわがままにつきあって貰ったばかりじゃなくて、その、純平さんに迷惑が……」
　謝る千尋の表情は本当に申し訳なさそうで、このままでは泣いてしまうのではないかとさえ思る程だった。
「いいよ」
「え？」
「いいよ、千尋ちゃん」
「でも」
　そう、もういいや――純平は、千尋の泣きそうな顔を見て何かが吹っ切れた気がした。
「一度でもね、君を助けるって決めたんだ。だからさ、もう、何が起きても驚かないし、迷惑だとも思わない事に決めたよ」
　そうだな……男が一度、無理矢理にとは言え助けるって言ったんだ、もう、何があっても驚かないし、千尋ちゃんみたいな女の子に、悲しそうな顔はさせちゃいけないんだ。
　純平は覚悟を決めた。
「行こう、君のお姉さんのところに」
「は、はい！」
　なんだ、簡単じゃないか――気持ちを吹っ切ってみれば何ともない。とにかく、もう自分は走り出してるんだ。これ以上うだうだ考えるよりも、先に進めば良いだけじゃないか。
　純平は『はい！』と、元気良く答える千尋の笑顔で、これから起きるであろう出来事も、全てを受け入れるだけの踏ん切りが付いた。


　嘘です……前言撤回です。

　何でかな、何でだろうかな……妙に目頭が熱くなるのはどうしてなのかなぁ。
　純平は、自分の住んでいたアパートの『残骸』を眺めながら、深い後悔の念に駆られる事になった。千尋の姉がいると言う場所に向かう途中、純平は一度、自分のアパートに寄ろうと思ったのが間違えだったのである。
　確かにさ、確かに俺が住んでいたアパートは築四十年を過ぎようと言う木造二階建てのオンボロではあったさ……あったけれども、ドアはあんな風にまっぷたつに折れ曲がる事なんて無かったよなぁ……少なくとも、台所の水道から勢いよく水が噴き出して止まらないなんて事は無かったよ。
　それに――部屋の中に車なんて飾ってなかった……ハズだよなぁ……。

　純平は、見るも無惨な姿に変わり果てた自分のアパートを、遠巻きに眺めるしか無かった。
「あのぉ〜」
　今度ばかりは、千尋にも言葉が見つからない。
「だ、大丈夫……以外と俺、打たれ強いんだ……ははっ」
　余程純平の顔が引きつっていたらしい、千尋は『ひっ――』と、短めの悲鳴をあげて、掛けようとした言葉も引っ込んでしまった。
「行こう……か」
「はい……」
　純平は顔を引きつらせつつも、千尋が差し出した住所に向けて、重いアクセルを踏み込む事になった。


「確か、この辺だと思ったけど……」
　純平は、渡された紙に書かれていた住所を探して、車をゆっくりと走らせていた。
　アパートの惨劇を目撃してからそう時間は立っていない。と言うのも、住所の場所が純平の住んでいるアパートから、ほど近い場所であったからだ。
　それにこの辺は、純平の通う大学まで乗り継ぎ無しでいける路線が走っている事から、大学の知り合いや友達も多く住んでいたので、多少の土地勘があった。何度か周辺にも来た事もある。
　初めての場所で土地勘も無ければ、これ程早くは到着出来なかっただろう。その点だけは幸運と言わざるを得ない。まあ、近いが故にアパートの惨劇を目撃することにはなったのだが。
「あの……ごめんなさい」
　隣で小さくなっている千尋は、未だショックの抜けきらない純平を気にしているのか、小さな声と共に謝罪を繰り返している。
　それとは別に「絶対、絶対に許せないんだから――」と、憤りを見せているのは、純平には判らなかった。
　純平としては言葉が見つからない。
　それもそうだろう、昨日まで平穏無事に過ごしていた自分の生活の場が、見事なまでに崩壊していたのだ。ショックを受けない訳がない。
　とは言え、この状況に少しだけ慣れてきたと言うのも事実である。
　予感とでも言うのか、このトラブルメーカーたる汐見千尋がトラックの前に飛び出してきてからと言うもの、ドンドンと深みにはまって行く予感はあったのだ。
　だったら――もう後悔する事はやめよう。そうだよ、一度でも千尋ちゃんに協力するって言ったんだ。だったら最後まで面倒を見なくては――と、純平は自分の気持ちに踏ん切りを付ける。
　例えこの先、今までの状況を上回る事が起きても、責任を持って送り届けよう。千尋ちゃんを、彼女のお姉さんが住むと言う住所まで送って行こう――と。
「千尋ちゃん、大丈夫だよそんなに気にしなくても」
「でも、アレはやりすぎです。やって良い事と悪い事くらい、今時小学生だってわかります」
　あはは、小学生じゃないからやるんだと思うけどね――と、純平は心の中でつっこみを入れた。
　純平が気を遣って言っていると思ったのか、千尋は未だ申し訳なさそうに何度も謝っている。
「言ったろ、一度助けるって決めたら迷惑とは思わないって」
「で、でも……」
「それにさ、ほら、たぶんこの角を曲がったくらいだから」
　純平は電柱に貼り付けられている住所のプレートと、メモ書きの住所を照らし合わせた。

　一丁目３番地。

　とうとう純平は、その住所の場所まで辿り着いていたのである。
　思えば、峠道で千尋に捕まってからと言うもの、通常に暮らしていては体験出来ない事を（本人の意思とは別にして）体験出来た。
　純平の生涯の中で、サングラスを掛け、夏だというのにダークスーツを着たいかついお兄さんに追われるなんて事は、これが最初で最後に違いない――って言うか、最後にして欲しい。
　まあ、隣にいる可愛らしい少女と共に、黒服のお兄さんに追われたり、自分のアパートが知らぬ間に崩壊していたり……と、今となっては過去の話。
　それもこの少女をお姉さんの所まで連れてゆけば、それも終わりである。
　短い間だったが、今では名残惜しさすら感じられる程だ。
　純平は最後の曲がり角を、安全確認をしっかりとしながら曲がった。

「あ、多分あの建物です」

　角を曲がると、千尋が前方右手に見える大きな建物を指さした。
　その建物は、周囲とは一線を画すかの様に大きな建物で、角を曲がった所から数えると三軒目にあたるのだが、手前の二軒が二階建てと言うにもかかわらず、その姿が見える。
　三階建て？
　と、純平が思った通り、その建物は三階建てだった。しかも
　――でかい！
　そう、周囲の家とは規模が違っていた。
　二軒目の家を通り過ぎてから、その建物の正門らしき場所まで３０メートルはあっただろうか？低いながらも高級そうな柵が続き、大きく取られた門までは結構な距離があった。
　まるでこの一角の全てがこの家の敷地なのではないか？と思える程に広い土地に、どっしりと構えたそれは、三階建ての大きな洋館だった。
「あの千尋ちゃん、本当にここで合ってるの？」
「はい、ここに私の姉がいるはずです」
「あの……ここって一体？」
「あ、ここ、私が小さいときに住んでいたんです。家族で」
　住んでいた――って、千尋ちゃんって一体？！
「うわぁ、懐かしいなあ。５才位までしか住んでなかったんですけど、思い出が残ってます」
　千尋は懐かしさからか、目を細めて微笑んだ。
『純平さん、その門から車ごと入れると思いますから』と千尋が言う通り、純平が楽々と敷地の中にトラックを入れる。すると、中にもう一台のトラックが止まっていて、何やら引っ越しの最中らしい人影がチラホラと見てとれた。
　その中に、すらりとした体型にローライズのジーパン。それからＴシャツと言うラフな格好にも限らず、それがまた格好良く見える一人の女性が、何やら作業員に指示を出している姿が見てとれた。
「お姉ちゃん……何やってるんだろう」
　女性は従業員に色々と指示を出している関係で、こちらからは後ろ姿しか見えなかったが、どうやら千尋のお姉さんらしい。
「純平さん、あれが私の姉です」
「あ、ああそうなんだ……」
　純平は気のない返事で車を止めた。引っ越しに邪魔にならないように、それでも玄関にほど近い位置に車を入れる。
　なんだか嫌な予感がするのは気のせいでしょうか――と、純平はその引っ越しの作業を眺めながら想った。
　何やら運び込まれる荷物に見覚えがあるのである。
「純平さん、ちょっと待ってて下さい。姉からもお礼を……それから、アパートの事とかも相談してきますんで」
「あ、うん……って言うか俺も一緒に行くよ」
　純平は何やら落ち着かない心のまま、千尋の後に続く。
　心は未だ、ザワザワとさざ波が立っている。
　なんでかな、何でだろう。引っ越しの荷物もそうだけど、千尋ちゃんのお姉さんの後ろ姿にも見覚えが……そんな純平の不安をよそに、千尋は漸く安全な場所までたどり着けたからから、従業員へと指示を出している姉の方へと足取りも軽い。
　反対に、それについて行く純平は、近づけば近づく程に嫌な予感が膨らむ。

「お姉ちゃん」
「あら、結構早かったのね千尋」
　純平はその声にも聞き覚えがあった。
「いや……まさか」

「と、それにご苦労様、純平君」
「え！？」と、千尋が驚くよりも早く、純平が驚嘆の声を挙げた。

「ゆ、由宇先輩！！」

「そ、港陽大学三回生にして武田純平君の先輩、汐見由宇なのであります」
　そう言うと、その女性はいたずらを楽しむ少女の様な表情で振り返った。
「し、汐見って！！」
「あぁっ！！港陽大学って……お姉ちゃんの通ってる大学……だ」

　もしこの場で、効果音があったとしたら『ジャジャーン』だの『パンパカパーン』と言ったファンファーレが鳴り響いた事だろう。
　実際は、純平と千尋の驚嘆の声だけであったのだが。
「純平君、あなたもよくよく運が無いわねぇ。こ〜んな千尋なんかに捕まっちゃって。でも、かなり楽しかったでしょ、今までの事」
「ど、ど、ど、どうして先輩が！！」
「お姉ちゃん！！」
「って、二人共なにをそんなに驚いてるのよ」
「お、驚かない方がおかしいですよ」
「どうして知ってて教えてくれないのよ！」
　と、由宇を除いた二人は未だ事情が飲み込めない。この場を楽しんでいるのは、手品の種を知っていた由宇一人だけである。
「何もそんなに驚く事じゃないでしょ。私だって純平君の事に気が付いたのって、ついさっきなんだから。それに簡単な事よ、たんに、千尋が無理矢理事件に巻き込んだのが私の知ってる純平君で、純平君を巻き込んだのが、妹の千尋ってだけなんだから」
　ね、簡単でしょ――と、由宇は何をそんなに驚くのかと言った顔であった。まあ多少『こうなる事』を予期していたふうでもあったが。

「あ、あ、あ」と、こちらは声にもならない純平
「ま、巻き込んだって人聞きの悪い事言わないでよ！」と、こちらは憤激の声をあげる千尋。
　純平はこの時ほど、自分が関わってしまった事の重大さに気が付いたことは無かった……まさかあの、『汐見由宇』に関わってしまったとは思わなかったからだ。

　純平はサークルに入り立ての頃を思い出していた。
　汐見由宇には生半可な気持ちで近寄るな――これは同じサークルの先輩達から教えられた、後悔からとも懺悔とも言える忠告だった。
　汐見由宇は黙っていれば至極真っ当な、いや、黙っていなくともかなりの美人である。
　本人はその事をこれっぽっちも自覚していないらしかったが、大学の中でも、その美貌はかなりな有名人であった……が、その美人は、別の意味でも有名人なのである。
　とにかく、やる事がめちゃくちゃで、振り回される男どもの疲弊度はいかばかりの物か、純平もその身をもって体験済みなのである。
　なにせ純平は、その汐見由宇と同じサークルに所属していたのだから。

　「あれ？」

　純平は隣で着々と進む引っ越しの荷物に目がいった。先ほども引っかかってはいたのだが、なにやら運び込まれる荷物に見覚えがある。
　そうそれも、つい今朝方まで『自分が使っていた』様な……
　…………
　………
　……
　…
「あの、由宇先輩？」
「んー？なに、純平君」
「その、今日の引っ越しって由宇先輩の引っ越しですか？」
「違うわよ」
「ですよね……それにしても、少々見覚えがある荷物ばっかりなんですけど」
「あー当然よね、だってそれ、純平君の荷物だもの」
「ですよね……」
「うん？」

　汐見由宇には、生半可な気持ちで近寄るな――

　今、純平の頭の中では、サークルの先輩達の悲痛な後悔の言葉が、レコードの針が何度も繰り返し同じフレーズを刻むかのように繰り返し鳴り響いていた。

　あーこれは夢なんだ……そうだ、夢に違いない。
　そうだ、自分はまだバイト先にも行ってないし、ましてやいつもの峠道なんて走ってないし、途中、黒服に追われる千尋ちゃんに捕まってもいないし、自分の家が謎の崩壊なんてしてないし、よもや、由宇先輩の家にも来てないし、ましてや、由宇先輩の家に自分の家財道具なんて運び込まれてもいない……
　純平が勝手に脳内で希望的観測現実逃避を完結すると「なぁ〜んだ、簡単じゃないですか」と、悪い夢なら早めに醒めた方が無難だと判断した。

「じゃ、僕はこれで帰りますから」
　夢であって欲しいと言う願望が、純平を現実逃避の道を選ばせた。
「帰るって、純平君のアパート、住めるスペース残ってるの？」
　え？何を言ってるんデスか？
「だってこれ、夢オチですよね」
　純平の額に一筋、冷や汗がたれる。
「あら、これでも夢って言えるのかしら？」
　と言うと、由宇は純平の顔にしなやかな指先を触れ、耳元に息を吹きかけてきた。
「純平君は、これからここに、す・む・の」
　その艶めかしいまでの吐息が夢幻の訳がない事ぐらい、混乱している純平にも判らないはずはなかった。いや、やっぱり夢なのかも……って、ここに住む？
「な、何ですと！！」と、純平が叫ぶのと「ななな、何やってるのよおねーちゃん！」と、それを見ていた千尋が顔を真っ赤に染めながら抗議の声を上げるのは同時だった。

「やーねー千尋、あなたまで何をそんなに大きな声を上げてるのよ。だって純平君のアパート、崩壊してるんでしょ？」
「だからって、何でここで一緒に住むのよ。おねーちゃんだったら、他に同じようなアパート探せるでしょ！私も、今からそれを相談しようと思ってたんだから」
「だ、か、ら、そのアパートがここ。もう、荷物も運び込んじゃったしね〜」

　ふふっ、こーんな面白い状況を私が見逃すわけが無いでしょ？――と言わんばかりの姉に、千尋は思いだした。
　し、しまった！！おねーちゃんがこんな状況を放っておくわけがなかった――と。
「ま、純平君がどうしても嫌って言うならしょうがないけど、引っ越し代金とか、アパートの手配とかは知らないわよぉ〜。その時は千尋、あんたが何とかしなさいよね。ま、敷金礼金その他引っ越し代金込みで１５万円じゃ利かないと思うけど」
　じゅ、じゅうごまんえん――今の純平に、そんな余分なお金など文あるわけがない。　もちろん高校三年生の千尋にしても同じである。
「わ、私にそんなお金があるわけ無いじゃない。おねーちゃん、お金があるんだったら何とかしてくれたって」
「あ〜ら、私がこんな面白……こほん、私はこれでも大サービスしてるのよ。ここに住むんだったら敷金ゼロ、礼金ゼロの家賃月２万円で朝食付き。それに美人の管理人さんも付いてるんだから」
　家賃２万円の朝食付き――貧乏な純平にはとても魅力的な話しである……美人な管理人と言うのが最大の障害ではあるが。
「で、どうなの純平君？純平君が本当に嫌だって言うんなら仕方がないけど、でも、そうそうこんな所に月２万円の家賃じゃ住めないわよぉ〜、しかも朝食付きなんて」
　た、確かに、どう見ても三階建ての高級住宅で大学に近く、どうしてか朝食付きなんて言うオプションまで付いてこの価格は破格なんて物ではない……美人の管理人はともかく。
　しかしここ、普通の住宅なんじゃ――純平はその疑問を素直に言葉にだした。
「由宇先輩、でもここ、普通の住宅でアパートじゃ無いんじゃ？」
「あら、それは大丈夫よ純平君。先日ここを改造してアパートにしたから」
　ま、個室に鍵を付けただけだけどと、由宇は心の中でニヤリと笑う。
「千尋もここに住むつもりで来たんでしょ？」
　そう言えば大事な事を忘れていた。
　そうだ先輩、千尋ちゃんが――と、純平がこの様な状況に陥った最初の出来事を思い出した時、なにやら猛スピードで敷地内に突っ込んでくる黒塗りのベンツが現れた。

　キキキッ――

「あら、今回は現れるのが早かったわね」
　って、何で由宇先輩はそんなに落ち着いていられるんですか！
　黒塗りフルスモークのベンツが登場するやいなや、純平の目の前は真っ暗になる。千尋など、ベンツを見るなり純平の後ろに隠れていた。

　この状況……姉さん事件です――僕に姉さんはいませんが。
　純平の頭の中がいい感じに混乱の度合いを深めてる所で、ベンツの後部ドアが勢いよく開き、中から一人の男が飛び出して乱暴にそのドアを閉じた。
　あ、やっぱりベンツってドアが閉まるときも静かなんだ――と、純平が別の所に感心したとき、背中で千尋が自分のシャツを握りしめるのが伝わってきた。
　ここに来て、状況は最悪な展開を見せる。
　山奥の峠道で、いくら成り行き……と言うか無理矢理でも千尋を助け、自分のアパートが崩壊し、サークルの先輩である汐見由の家に住むか住まないか迫られても、それはそれ、何とでもなると思っていたが、目の前に黒塗りフルスモークのベンツ。
　そして……運転席と助手席からダークスーツの屈強な男が二人、後部座席に座っていた男に続いてでてこられては、純平で無くとも最悪な展開である事は理解できた。
　いくら平凡な大学生とはいえ、これが最悪な状況だと判らないはずはない。

　でも……

　純平は、千尋を庇うように身構えた。
「え？」
　その行動に千尋も気が付いた。
　目の前の、自分が巻き込んでしまった被害者であるはずの男が、自分を庇おうとしてくれている事くらい、千尋で無くとも周りの人間にもその行動は見て取れた。
　あらん？純平君って案外男の子なんだ……ふふっ、面白くなりそう――と、一人だけにやけている人間もいたのだが。

　純平は、背後の千尋を守るように身構えると共に、一番最初に出てきた男を睨み付けた。周りに人目があるからか、それとも指示があるまで動くなと命令されているからか、ダークスーツを身にまとった屈強そうな男達は、一歩下がったところで待機していた。
　どうやら手荒な行動は、最終手段となるようだ。
　純平は多少の猶予があるとわかり、男を観察する余裕が出てきた。
　一番最初に車から出てきた男は、身長が低かった。ともすれば、純平の後ろにいる千尋よりも低かったかもしれない。
　髪の毛の方はどうやら心配はないものの、見事なまでに膨らんだお腹は太鼓腹。着ているスーツはたぶん上等な布を使っていると思われるのだが、どう見ても無理にしつらえた感がぬぐえなく思えるほど、お世辞ほどにも似合っているとは言えない。
　まだ後ろに控えている男達の方が、ダークスーツがよく似合っている。
　しかし、そんな容姿に似合わず、純平の睨みに睨み返してくる眼光には一方の力があった。たとえ後ろに控えているダークスーツの男達がいなくとも変わらなかっただろう、修羅場を潜ってきた者の持つ独特の凄みが感じられた。
　体格の差ではない何かを男は持っている――と、純平にも判る程の。
　まさか真っ当な商売では無いのでは？と一瞬頭をよぎった純平だったが、しかし、自分を頼ってくれている千尋を守るだけの覚悟は出来ていた。

　自分の大切に思う人ならば、命を掛けて助けるのが男ってもんよ――純平は母親から常々言われてきた言葉を思い出していた。
　今がその時かは判らなかったが、純平には一歩も引く気はない。

　純平は男を睨み付ける瞳に力を加えた――が、目の前の男は蚊ほどにも気にする様子も見せず、一歩一歩と近づいてくる。
「くっ」俺程度の睨みなんか無視かよ――と純平は焦ったが、こちらから手を出して話しをこじらせても良いものか判断が付かない。あと五メートルと言う距離まで男が近づいたとき、純平の背後に回っていた千尋が、顔だけを出して言葉を発した。

「何しに来たのよ！お父さん」

……はい？

「ち、千尋ぉー何故だ？何故なんだー！お父さんは、お父さんはお前の為を思って」
「それが迷惑って言ってるのよ！いくら受験を控えているからって、山奥の別荘で一日中家庭教師と一緒に勉強なんて、やってられるわけ無いじゃない」

……あの、この二人は何を言ってるんデスか？

　純平は、まるでこの二人の会話が意味不明で理解不能で、とにかく、どこかの異星人どうしが違う言語で双方意味不明のまま言い合いをしているかのように思えた。
　先ほどまでの睨みがどこ吹く風、唖然としていた純平に向かって「その男か？その男にそそのかされたのか？」と、千尋の父親が指を指しながら言うと「純平さんは関係ない」と、千尋が言い返す。
　この場で一人、面白そうにしているのは、良い暇つぶしの漫才が始まった位にしか思っていない由宇のみで、心なしか、ダークスーツを着込んだ男達にもやる気のなさが漂っていた。

　つまりこれは……つまりこれは！！純平は漸く状況を理解した。

　そう、単なる親子喧嘩と言うやつである。