佐久間学園の寮は5階建ての近代的な建物であったが、エレベーターは設
置されていなかった。家具などの大きな物は、屋上に設置されている小型ク
レーンを使って運び入れるようになっていたし、何より、生活に必要な物は
備え付けになっている事が多く、クレーン自体もあまり使っていない状態だ
から必要が無いと言えなくもない。
それに、エレベーターなどは定期点検などで意外と費用が掛かる。いくら
寄付金などが集まりやすい私立の名門とは言え、無尽蔵にお金が使える訳で
はない。
細かい事かも知れないが、それらの理由から設置しなかったのである。
五階建ての寮は、二階までは共同施設などで一緒の建物になっていたが、
三階から上は、ちょうど新宿都庁の様に男女別々の棟に分かれていて、二階
からそれぞれの塔に移動する。
三階は三年生の個室、四階は二年生。そして最上階の五階が一年生の部屋
となっているのだが、エレベーターが無いので意外と上り下りがきつい。
そして、中の階段とは別に、建物の外には非常階段が設置されていた。
頑丈な造りで、震災などに備えて各階の踊り場は十分な広さが確保されて
いる。
その踊り場へは内側から鍵を開けて出るのだが、地震などの場合、非常扉
が変形して開かなくなるケースが多いらしく、その対策として、一番端の部
屋から、頑丈な庇を伝って踊り場に出られる様にもなっていた。
「しかし……」
今回の事件では、それが仇となった。
赤岡自身、寮の設計段階では非常時の事を第一に考え、庇の事や踊り場を
広めに取ることに賛成していたのだが、まさかこんな事に使われるとは思っ
ても見なかった。
もっとも、未だ真相が分かった訳ではないので、非常階段や庇が使われた
とは断定出来ないのだが、菊池の話を聞く限り、それを否定することは出来
なかった。
「しかし……」
赤岡は二度目のため息をついた。
菊池に事件の調査を依頼したものの、赤岡には、どうにも最初から嫌な予
感がつきまとっていた。無論、この様な事件が起きるだけで相当な問題なの
だが、事件の真相は最悪の方向へ向かっているのではないか……赤岡はそう
思えてならないのである。
事件の内容や佐久間学園の地理的状況、その他諸々の条件を加味すれば、
自ずと犯人の範囲が絞られてくるのだが……どうしても内部の人間が関係し
ていると言わざるを得なかった。
そしてそれは、生徒側の人間ではなく、恐らくは教師や職員と言った学
園側である可能性が高いのである。
自分が理事に就任してからというものの、『問題と言える問題』はついぞ
出てこなかったのだが、ここに来て自らの進退を決する程の『事件』が起
きたのは、まさに青天の霹靂と言うほかは無い。
赤岡は革張りの椅子に、深く身を沈めてため息をついた。
すると、不意にドアをノックする音が部屋の中に響いた。
コンコン――
カチャ――
マスターキーを差し込むと、乾いた金属音と共に鍵が開いた。
場所は和田美智子の部屋の隣。今は誰も使用していない空き部屋の前に菊
池は来ていた。
もちろん、あの事件を調べる為である。
女子棟のほぼ中央に位置する和田美智子の部屋に、決して狭くない庇を伝
って行くには、空き部屋である隣の部屋を利用したに違いない。
菊池はあまり勘に頼る事は無かったが、今回に関しては確信に近いモノを
感じていた。
冷静になれ――と、菊池は自らに言い聞かせようとするのだが、マスタ
ーキーを差し込む時に微かに手がこわばるのが分かった。
「冷静に判断しなくては」
菊池は何度と無く自分に言い聞かせようと試みた。がしかし、裏山へと
続く道に宇賀神の姿を見てからと言うモノ、その思考はまるで意味をなさな
かった。
偏見を持って事件を調べれば、正常な判断が出来なくなる――と、心の
中では分かっているものの、宇賀神の、そうあの暗く濁った様な瞳を思い出
すと、菊池はどうしてもある考えに支配されてしまう。
宇賀神勇による犯行なのではないか――と言う一つの結論に。
「ふぅ……たかだか空き部屋を調べるだけではないか」
人は声に出して言葉を発すると幾分落ち着く事が出来ると言うが、菊池は
それを実行していた。
あの事件のあと、多少ではあるが証拠を消す為の時間はあったはずで、犯
人がもしこの部屋を使ったとしても証拠が残っている訳ではない。
ただ……この部屋は随分と使用された事がなかったので、もし人が使用し
たならばその痕跡は分かるハズである。
今回この部屋を調べるのは、単に利用されたかされなかったかの確認だけ
だ――菊池は何とか自分を納得させると、ドアノブへと手を掛けた。
冷静になれ――
もう一度心の中でつぶやくと、菊池は思いきってそのドアを開けた。
瞬間!菊池の脳裏は強烈な印象によって……思考の全てを支配された。
紅い……瞳――
コンコン――
「菊池です。学長いらっしゃいますか?」
どうやら、ノックの主は菊池らしかった。
「入りたまえ」
何か進展でもあったのであろうか?
菊池は実に優秀な男だ。この学園で事務の全般を任せているのだが、やる
事全てにそつがない。確かに、事務処理能力に秀でた者はどこにでもいる。
ただ、菊池はそれだけの男ではなかった。若いのに、感心するほど細かい
部分へと気が回る男なのだ。
例えば、生徒達の中には各界の有力者を親に持つ者がいるのだが、慶弔事
があればそつなく挨拶状などの手配を行うし、私自身が出席しなければなら
ない程ならば、式場への経路まで調べてくる。
今回の事にしてもそうだった。
和田美智子の入院先や家族への連絡など、その対応の全てに気が利いてい
て、任せていて安心感がある。
少々事務の領域を越えてはいるが、今では秘書の様な位置づけで考えてい
る程だった。
――カチリッ
ドアが微かな金属音を立てて開くと、そこには『いつもの』菊池の顔があ
った。
「学長、二日後の出張先への交通手段と、必要な書類を用意しました」
「二日後の……」
「学長お忘れですか? 月島泰三氏の米寿を祝うとおっしゃっていた件です。
出発は明日の夕刻となります」
そうだ……菊池の言う通り、この学園の創立者の一人であり多額の寄付金
を寄せているのが月島で、この寮を建設する際にも彼の寄付金なしでは考え
られなかった程、この学園では重要な存在だった。その月島が近々米寿を迎
えるのだが、学園の代表としてどのような事があろうとも出席しなくてはな
らなかった。
どうやら、自分でも気が付かない内に相当和田美智子の事件に気を取られ
ていたらしい。もう少し、他の事にも気を配らなければ足下をすくわれかね
ないな……しっかりしなければ。
それにしても、菊池は事件の調査をしていると言うのに、当の本人が忘れ
かけていた事を良く覚えているモノだ。
書類を集めたり、交通手段を調べるだけでも時間が掛かるだろう。有能と
言う言葉は、彼の為にあるのかも知れない。
「失礼……あんな事があった後で少々気が取られていたらしい。君に言われ
るまで失念していたよ」
赤岡は自らの間違いを誤魔化そうとはしなかった。
普段から自らに言い聞かせている事だが、「公明にして正大であれ」と言
う言葉を大切にしている。
名門と呼ばれる学園の理事兼学園長と言う立場になれば、きれい事ばかり
ではその立場を維持できるモノではないのだが、赤岡はそれを実行し続けな
がら現在の地位を築いてきた。
学園長と理事の地位を保つには、以外と敵は多い。その中で、他人に弱み
や隙を見せる事は地位を追われる事を意味する。
そんな世界の中で、赤岡のこれまでの行いは、他者につけ込まれるだけの
後ろ暗い事は無かった。
「公明にして正大であれ」
この事が、今の赤岡に取っては身を助ける一番の武器となっていたのであ
る。そして、この正直な言葉が、小さな波紋を呼ぶ事になろうとは、彼自身
考えてもみなかった。
「あんな……事?」
菊池は、全くその言葉の意味が分からないと言う様な顔をしたのである。
「そうだ、事の重大さは君も充分承知しているハズだが?」
一体どうしたと言うのだろう――菊池が和田美智子君の事件に付いて、
全く認識していないと言った表情を浮かべたのだ。
現に、その辺の認識が一番ある菊池だからこそ事件の調査を任せたのだ
が……その菊池が、真っ先に思い浮かべるであろう事を一瞬の事とは言え、
忘れるなどとはとうてい思えなかった。
赤岡は、注意深く菊池の表情を窺った。
「ああ、和田美智子君の事故の件ですね……」
――事故?
確かに当面の間、対外上の事を考えると、事件ではなく『事故』として扱
かった方がいいだろう。
しかし今、菊池が取った態度にはどこか不自然さが感じ取れた。
「ああ、和田君の『件』だよ」
しかし赤岡は、その疑問や『事件と事故』に拘る素振りは全く見せなかっ
た。学園長として、また理事として、ライバルとの戦いを勝ち抜いてきた赤
岡のポーカーフェイスは相当のモノだ。
先ほどの受け答えの際も、まず菊池にさとられる様な失態はおかしていな
いはずである。
…………
どうして私は、菊池に対してこの様に警戒をするのだろうか――赤岡は
奇妙な感覚に陥りかけていた。
本来菊池は、赤岡に取って信頼の置ける有能な部下である。
和田美智子の件に関しても、その能力と信頼における人柄と思えばこそ、
調査を菊池に一任したのだ。
それがまるで――私は彼を疑っているかの様ではないか。
赤岡は、菊池の異変に気がついたことを、彼自身に気がつかせてはいけな
いと言う、何かしらの予感めいたものを感じていたのである。
ばかばかしい――赤岡はそれを、要らぬ気苦労とうち捨てようとした…
…が
とにかく少し様子を見た方が良い。赤岡はその予感めいた感情を、完全に
捨て去る事はできなかった。
「それで、何かしらの進展はあったのかね」
赤岡は、渡された資料に目を通しながら、菊池の言動を注意深く窺うこと
にした。
「和田美智子君の事故は」
「うむ」
「彼女の受験に対するノイローゼが原因です」
――!!
「……それは、確証のもてる事実なのかね?」
「はい、まず間違いは無いかと思われます」
「ふ〜むっ……だがしかし、彼女の成績ならば受験を気にする程では無いと
思えるがね。確か和田君の成績は、学年でもかなり上位に位置すると記憶し
ているが」
それに、金銭的に困る様な事もあるまい。彼女の実家と言えば、資産家と
して財界でもかなりの家だ。
となれば、考えられる事は学力の方だが、それについても、常に学年上位
の成績をとり続けている彼女にその心配は低いと思われる。
それに、彼女はまだ一年生である。受験に対するプレッシャーが一番少
ない時代だ。
それがどうしてノイローゼとなって、そして、あの様な騒ぎを起こしたの
か……菊池の説明を聞かねばなるまい。
「菊池君の調査では、和田君の件は受験によるノイローゼと言う事だが、そ
れはどういう事なのかね。何か確証足り得るモノがあるのだろう?」
「はい、私が今回調査を開始したところ、クラスの中で何名かの生徒から彼
女が今から受験に対する不安を持っていたとの証言がありました」
「国府田雅美君からは、その様な話しは聞けなかったはずだが?」
「和田美智子君としては、一番の親友であればこそ、その関係の中で受験の
話を持ち出したくなかったのでしょう。彼女との間だけでも、受験とは無縁
の世界を保っていたかったのかと思われます」
赤岡の問いかけに、菊池からは淀みない回答が帰ってきた。
…………
「しかし、ノイローゼと言うことだが、あの夜、和田君の起こした騒ぎは、
相当のモノだったと聞く。それこそ、薬物でも使用していたのではないかと
言う程の。その事に関しても何か分かった事が?」
「実は、彼女の部屋のトイレからこの様なモノが」
そう言うと菊池は、小さいビニール袋に入った深緑がくすんだ様な色の
紙粘土の様な固まりを取り出した」
「これは?」
「多分、大麻の一種だと思われます」
…………
赤岡は覚悟していたとは言え、その事実に驚きを隠せなかった。
そう――どうして菊池はこれ程重要な出来事を、一瞬なりとも忘れてい
た様な顔をしたのか?
出張の件も、重要な話であることには代わりない。代わりがないのだが、
これ程の事実を知りながら、どうしてあの時一瞬の間が出来たのか。
そして、その一瞬の後、まるで『スイッチ』が切り替わったかのように、
『用意されていた答え』をしゃべり出したのか……
それに矛盾と言えば、大麻と言えば麻薬の中でもダウン系と呼ばれ、幻
覚などを見る事があっても、大騒ぎするモノとは別物だと聞く。
…………
「菊池君、今までの事をレポートとしてまとめられるね」
「はい、ある程度はすでに作成してあります」
「私は明日の夕刻から出発し、明後日の米寿の会に出席して、ここに戻るの
はさらにその翌日、時間はスケジュール通りだと昼前になるのか……その三
日間で報告書として提出してもらいたい」
「承知いたしました」
「それから――」
「はい、他言無用と言う事で」
「うむ、そのへんの処理は、君に任せておけば心配は要らないだろう。薬物
と和田君の保護者への報告は、私の方から行うのでそれまでは報告を控える
ように」
「はい、心得ております。それでは、学長がお帰りになる三日後の正午まで
に、報告書の方は作成しておきます。私はこれで失礼させていただきます」
「ああ、頼むよ。私は君を信頼している」
「ありがとうございます。それでは失礼させていただきます」
菊池が静かに部屋を去って行った。
ふぅ〜
赤岡は、肺の中の空気を、全て吐き出すかのように深いため息をつくと、
しばらく目を瞑り、なにやら思案したのちに一本の電話を掛けはじめた。
呼び出し音が数回響いた後、プツッ――と言う小さな音と共に相手がで
る。
「しばらくぶりです、赤岡ですが……上社の万笙(ばんしょう)先生にお伝
え願いたい。二日後の夜、どうしてもお会いしていただきたいと。ええ、え
え、連絡は、私の携帯電話の方へ直接。ええ、なにぶん、重要な出来事が起
きた……と、お伝えしていただきたい」
赤岡は、何時にない程の真剣な顔つきで電話を切ると、もう一度深いた
め息をつくのだった。
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