NOVEL-ONE SCENE'S STORY-

遠い海(1999/12/20)

 大きな波を求めて、サーフィンのボードを片手に海を見つめるあなたの瞳には、私の姿は映っていませんでしたね……

 海はこんなにも近くにあるのに、それを見つめるあなたとの距離は

 少しだけ

 そう、少しだけ遠く……感じられました。




 彼の名前は朝倉涼さん。
 出会いは、体調を崩して寝込んでしまった親戚のかわりに、海辺にある民宿を手伝った事だった。

 彼は夏休みを利用して、民宿で働きながら暇な時間にサーフィンをやりに来ていた大学生。
 なんでも親戚が、今時の大学生にしては珍しいほど真面目に働く彼をとても気に入って、昨年に続いて雇ったそうです。

 私から見ても彼はすごく真面目だったし、いつも笑顔を忘れないとてもやさしい印象の人でした。

 でも、彼が一番真面目にしていたのは、サーフィンをやっている時。

 普段は、私やたまに遊びに来る友達を相手に大学での色々と楽しい話をしてくれたり、いつもやさしさを感じさせてくれる彼だったけど、ボードを片手に海を見詰めるその瞳には、殺気の様なものさえ感じられました。

 普段はあんなに優しい瞳の彼が、どうして波に対して殺気の様な表情を見せるのか不思議なくらい――そう、真剣に波に取り組むにしては「真剣すぎる」様に思えるほどだったのです。

 しかし、私はその事を聞くのをためらっていました。
 何か、聞いてはいけない事のように思え、聞けなかったと言った方が正しいかもしれません。

 けれども、幸か不幸か、その理由は意外と早く知る事になってしまいました。
 そして私は、その理由を知った事によって、彼にどう接して良いのか……わからなくなってしまったのです。



「もう、いいんじゃないのか?」

 私が今日帰っていったお客さんの部屋を掃除していると、隣の部屋から、涼さんと涼さんを訪ねてきたと言う友人の方との会話が聞こえてきました。
 別に盗み聞きをするつもりではありませんでしたが、民宿の部屋などうす壁一つしかなくて、普通の話し声でも聞こえてしまうのです。自然、耳を傾ける形になってしまいました。

「もう、あいつの事は忘れろ、それがあいつのためだしお前の為でもあると、俺は思う」

 ――あいつ?

「何を言ってるんだよ、あいつの事を忘れられる訳がないだろ……」
 彼はいつもの明るさからは想像もできない程、切ない声で答えていました。

「涼が、いつまでもあいつの事を忘れないでいてくれるのはありがたいと思う。だけど、お前まで海で死んでしまうような事にはなって欲しくないんだ」

 私は、彼の友人という人の言葉を考えました。

 あいつ?
 海で……死ぬ?

「もう、サーフィンなんてやめてくれ。俺は――」
「何を言ってるんだよ……俺は、沙智子の好きだったサーフィンで、沙智子が感じた事のすべてを知っておきたいんだよ」
「だからって――」

 私はその瞬間、すべてを悟ったのです。
 彼が海に投げかける視線の理由、その悲しい理由を。




「やあ、瑞葉ちゃん」
「あ、朝倉さん……」
「ん?どうしたんだい、なんか暗い顔しているけど」
「い、いえ、なんでもないんです」
 と言いながらも、私は彼の事を直視するのが辛かった。
 だけれども、彼が感じている辛さは私の感じている辛さなどには比べるべくもないでしょう。
 彼は、彼の大事な人を海の事故で失っているのだから……

 私は、彼の中に私がいない事や、彼の一番大切にしている人がいて、その人が既にこの世にいない事。そして私が、その人の変わりになれない事が……とても悲しくて、とても辛くて―――

 とても

 とても

 ―――切なくて

「どうしたんだい、瑞葉ちゃん!」
 私はそんな気持ちに耐えられなくて、涙を押さえ切れませんでした。

「私は、私には涼さんの悲しみをなくす事が出来ませんか?」
「……」
 その時彼は、一瞬驚きの表情を見せましたが、悲しいまでに優しい顔で、私の顔を見つめながら答えてくれました。

「そうか……話を聞いていたんだね」

 そう言うと彼は、悲しい記憶をひも解くように、ゆっくりと話をしてくれました。

「そう、あれは一昨年の夏、吹く風に夏の終わりを感じられる頃の出来事だったよ」



「危ない!!」
 俺がそう叫ぶと同時に、ボードに乗っていた彼女がバランスを崩して宙に舞った。

「おい! 今落ちた娘、ボードに頭を打ち付けていたぞ!!」
「本当か? それでボードから落ちた娘は」
「まだ、まだ出てこないぞ」
「ライフガード早く!!」

 俺の彼女である沙智子は、自分が先にトライしていた波に、覚えたてのボディーボードをやっていた若者が横から入って来たのを見て避けようとし、バランスを崩してしまった。そして、サーフィンのボードへとしたたかに頭を打ち付けて、その体を海へと投げ出されていたのである。

 砂浜が俄にあわただしくなり、ライフガードの数名がボートを担ぎながら海へと向かっていたが、俺はそんなライフセイバー達よりも早く海へと飛込むと、沙智子を助ける為に必死に泳いでいた。

 波の力と言うものを、あの時程に思い知らされた事はなかった。

 一度は浮いて来た沙智子の体が見えたものの、なかなかそこまでたどり着く事が出来ずに、もどかしい思いが先走るばかりだったのを覚えている。

「あと、あと少し、あと少しで……」

 しかし、俺があと少しで沙智子の体に触れると言うところで、沙智子の体は深い暗闇の中へと沈んで行った―――俺は、沈みゆく沙智子を助けようと、必死で潜って体をつかもうとしたけど、海の力はそれを許してくれなかった。



「その後、俺は力尽きて意識を失い、沙智子と共に暗闇の中へと沈みかけた。だけど、俺は後から来たライフガードに助けられ、近くの病院へと担ぎ込まれたんだ。結局、その時に沙智子も引き上げられたらしいけど、首の骨が折れていて即死の状態だったらしい……」

 彼はそこまで言うと、目をつぶって天を仰ぎながらこう続けました。

「沙智子の死に顔は、本当に良い表情をしていたよ……顔にはうっすらと笑みさえ感じられるかの様な顔だった」
「それで、涼さんは沙智子さんの好きだったサーフィンを始めたんですか」
「そう、俺は最初、海を憎んだよ。沙智子を奪ったこの大きな自然を。だけど……沙智子が好きだったのも、この大きな自然を感じられる海だと気が付いたんだ。そして、俺もこの体に大きな自然の力を刻み付けておこうと思い直したんだ」

 辛い思い出を昔話に出来ない涼さんの顔には、沙智子さんへの一途なまでの思いが感じられ、私にはどうする事も出来ないのではないかと思えました。

 ―――でも
「でも、涼さんまで海で死んでしまう様な事は、沙智子さんも望んでいないはずです」
 私は私の思った事を、素直に話すしかないと……思った。

「ありがとう」

 ……

 その時の涼さんの顔には、どこか、私を大きく包み込んでくれる海の様に、私を安心させてくれる、そんな顔をしていました―――けれど
「まだ、沙智子の事を忘れられないのは事実だけれど、俺は沙智子の愛したこの海では絶対に死ぬ気はないよ。沙智子の愛したこの海だから……」
 私は、そんな風に思っている涼さんの存在が、少しだけ遠く感じられました。

 海は、こんなにも近くにあるのに、それを見つめるあなたとの距離が……もの凄く遠く―――本当に遠く感じられる。

 だけれども―――

「私は涼さんの事が好きでした―――
そしてこれからも、この想いは続くと思います」



-後書き-

 海の記憶と言うと、高校生の時に仲間と行った伊豆下田の海を思い出す。
 と言うより、あまり海へ行かない私には、この想い出しか無いと言った方が正しいのかも知れない。
 当時、お金のない私達4人の高校生は、もちろん高級旅館などに泊まれる訳もなく、安いパック旅行の民宿に2泊と言うツアーに参加した。行きも帰りも新宿から出ている大型のツアーバスに乗り、隣の話し声が筒抜けの安っぽい民宿に泊まると言うものだ。
 もちろん、食事は朝と昼のみで、期待するべくも無い……と、割り切った旅行であった。
 しかし意外にも、食事に関してだけは期待以上のものがあった。

 そう、お刺身が美味しかったのである。

 それというのも、当時の私はお刺身と言うものが苦手で、食べられなかった訳では無いが、どうせ同じ動物性タンパク質ならば、お肉の方で摂取したいと考える人間だったのである。だから、初日の夕食がお刺身と魚の煮物だけと言うお膳を見て、3日後には干からびた自分がいるのでは無いかと本気で考えていたのだった。
 しかし、日中海で遊びまくり、また若さ故の空腹は贅沢を許さなかった。
 そんな訳で、苦手なお刺身に仕方なく箸を入れたのだが……これが実に美味かった。普段家で食べているお刺身などとは比べるべきも無い程の、美味しいものだったのである。
 さすが網元の魚―――とは後に思ったことであるが、4人組の部屋のおひつの中からは、お米は瞬く間に消えて無くなっていました。

 夏の海の代名詞と言えば、一夏の恋のはず。
 しかしこの時の私達は、色気よりも食い気が勝っていた、何とも味気ない夏の想い出だ。

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