「静寂が耳に痛い」
俺はふと……そう感じていた。
夜中の2時
昼間の喧噪が嘘の様に静まり、暗い部屋の中では全ての音が消えて無くなったかの様に感じられる時間。
俺はとうとう眠れずに、ベッドからフローリングの床へと身を投げ出した。床の冷たさが、火照った体に気持が良かった。
そんな、少し冷たい床に、そっと耳を付けてみる。
そこから聞こえてくるのは、妙にハッキリとした自らの心音と、呼吸の音だけだった。
「こんな事があるなんて――」
俺はある事を思い出すと、自らの鼓動が乱れるのを感じた。
「全てが眠りについたみたい」
私はふと、静寂の夜にそんな事を考えていた。
もちろん、全く物音がしない訳では無いけれど、今の私にはそんな風に感じられるほど、ある一つの事に気が取られていた。
「……」
私は読もうと思って手に取っていた小説に、栞を挟まないままベッドの脇にあるテーブルへと置いた。いつも、眠れない時には推理小説などを読むことにしているのだけれども、今日ばかりは内容が手に付かないままページが進まなかった。
理由は分かっている。
「物語でもあるまいし」
私は声に出してみたけれど、その事を否定することは出来なかった。
俺の住む街は、都心のベッドタウンとして開発され、ここ10年で人口が10倍以上に増えたという大きな街だった。
街は人口が増えていくに従って、ちょうど中心に位置する駅を囲むように開発されて行き、軒並み色々な店などが建ち並ぶ様になった。
もちろん、駅を利用する人も10年前とは比べものにならないくらいに増え、朝のラッシュ時は大変な状況になる。
その日の俺は、そんなラッシュの混雑を嫌い、いつもより30分も早い電車に乗るべく駅のホームへ立っていた。
朝の30分は、俺にとってはもの凄く貴重であって、普段なら、早起きすることなど思いもよらない時間だったのだが……
それでも俺は―――あの日、あの時、駅のホームに立っていたのだ……
私と家族が、都心への通勤や通学が便利と言うこの街へ引っ越してきたのは、ちょうど一年くらい前の事だった。
元々都内のマンションに暮らしていたのだけれど、妹が大きくり、私自身も一人の部屋が欲しいと言う理由から、家賃の安いこちらの街へと移り住む事になった。
その為に、多少朝が早くなってしまったけれど、私自身は朝早くの新鮮な空気と言うものが好きで、早起きはさほど苦にならなかった。
その証拠に、学校へは十分余裕のある電車に乗って、遅刻とは無縁の生活をしている。
そしてあの日も、いつもと同じ気持ちの良い朝の空気を吸い込みながら、いつもと同じ時間の電車に乗るために、駅へと向かっていった。
別に理由があった訳ではなかった。
俺が通う高校は、都心とは反対側の電車で15分ほどの3つ先の駅で降りる。いつもなら、遅刻ぎりぎりの電車に飛び乗り、いつもの同じメンバーと顔を合わせ、いつもの様に馬鹿な話を繰り返しながら通うはずだった。
だからその日、30分も早いその電車を待つことは、冗談ではなく、自分自身でも良く分からなかった。
そう、強いて理由を付けるなら、変わり映えのない日常から抜けだし、ちょっとした非日常の中に『何か』特別な変化を求めたのかも知れない。
その『何か』も、分からないままに――
朝の電車と言うのは、同じ時間に同じ場所で、同じ顔ぶれが出逢う。
それは、いつもと変わらない出来事が、当然の様に過ぎていく場所なんだと私は思った。
案の定、駅に向かう途中には見慣れた顔の人が多かった。
私の家からは、6分も歩くと駅の階段が見えてくる。
そして……私はいつもと同じように、その階段を登り始める。
俺はいつもと違う顔ぶれに、少々興味を覚えていた。
それもそうだろう、普通、朝の電車では毎日のように同じ顔ぶれが揃うのに、今日に限っては、全く見たこともない人間ばかりなのだから物珍しい感覚なのは当然だった。
むろん、俺自身の方が珍しい存在であり、相手に不思議がられてはいるのだが。
と、その時、電車の到着をアナウンスする声が、上下同時に告げられた。
そうか―――登りと下りが一緒に入ってくるのか。
物珍しい風景を眺めながら、俺はアナウンスを聞いていた。
私が乗る電車は、上下の列車が同時にホームに止まるうちの一つだった。
私は自動改札を通ると、乗り換えに便利な後列の車両へと乗り込む為に、いつもと同じ階段を下り始めた。
案の定、ホームには一度も話をしたことの無い見知った人の顔が多く、いつもと同じ動作が繰り返されている。
大きなビジネスバッグを片手に、新聞を4つに折って読んでいる40代の男性。
ハンドバッグの中から小さな鏡をとりだし、前髪の流れ具合を確かめている20代のOL。
もう少し経つと、駅の階段を駆け下りる様に走ってくる制服姿の男の子。
日常の風景は、今日も変わらずに過ぎ去ろうとしている。
そしていつもの様に、電車の到着を告げるアナウンスが、上下同時にホームに流れてきた。
その列車は、アナウンスから少しして、いつもと同じように上下ともほぼ同時にホームへと滑り込んできた。
その時俺は
その時私は
非日常の中で
日常の中で
彼女に
彼に
出逢った。
そう、交差する電車と電車の為に途切れ途切れに見える向こう側に、日常と非日常のなかの『特別』に出逢ったのだ。
俺はその時、一瞬で恋に落ちた。
そう、ちょっとした日常から抜け出したあの日、俺は『特別』なものに出逢い、それを手に触れてみたい、いや、それを手に入れたくてしょうがない気持ちでいっぱいになった。
彼女の事を知りたい。彼女と話したい。彼女の名前は?彼女の年は?彼女はどこの学校に行っているのか?彼女は何に興味があるのか?彼女はどんな風に笑うのか?彼女は――
俺は彼女への思いによって、眠れぬ夜を過ごす事になる。
私はその時、一瞬で恋に落ちた。
いつもと変わらない日常のなかで、私は『特別』なものに出逢い、それを手に触れて見たいと思った。いや、そんな生やさしい気持ちではなくて、もっと激しく手に入れたいと思うようになっていた。
彼の事を知りたい。彼と話したい。彼の名前は?彼の年齢は?どこの学校へ通っているの?彼が興味のあるものは?彼はどんな風に笑うのだろう?彼は――
私は彼への思いを静める事が出来ず、眠れぬ夜を過ごす。
俺は時計を見ると、急いで家を出た。
昨日と同じ時間。
今日だけは絶対に遅刻する事が許されなかった。
なぜなら俺は、昨日と同じ電車をあの場所で待たなくてはならなかったから。
そう、『特別』なものの為に
私は時計を見ると、いつものように家を出た。
いつもと同じ時間。
だけれども、今日だけは絶対に遅刻する事は許されなかった。
なぜなら私は、いつもと同じ電車をいつもと同じ場所で待たなくてはならなかったから。
そう、『特別』なものの為に
駅ではその時間、いつもの様に上下の電車が同時にホームに入ってくる。
いつもと同じ日常や、ちょっとした非日常に向かう人々を乗せ、静かにホームを後にする。
ひとときの静寂が訪れる。
しかしその日、その時間のいつものホームには―――見つめ合う一組の男女が残っていた。
そう、特別な……人の為に
|