その昔、欲しくてやまない物があった。
少し手を伸ばせば触れられたかも知れないのに、でも結局出来なくて……情熱は、いつしか時の長さと共に失われてゆく。
ところが最近、ふとしたきっかけでそれに触れられる事が出来た。
欲しくて欲しくてどうしても手に入れたいと願った時には叶わなかったのに、まさかこれ程の時を経て触れられるとはついぞ思わなかった。
古ぼけた一葉の写真。
俺が欲しかったのは、そこに写る貴女の──笑顔。
─ONE SCENE STORY─
四季シリーズ第一弾『春の人』
彼女を一言で表すならば、そう「春」と言う言葉が当てはまる。
彼女の周りには、常に優しい空気が流れていた。厳しい寒さに身を縮めていた木々も、芽吹き始める春の空気。
俺の初恋は、そんな春を身に纏う人だった。
しかし俺は、そんな彼女に何も行動を起こさなかった。いや、起こせなかった情けない男と言った方が良いかも知れない。
それでも何故だか、心の中は静かだった。
眺めるだけでも良い――心の底から愛した人であるにもかかわらず、俺は本当にそんな風に考えていたのだ。
彼女に触れてみたい――そう思う気持ちとは矛盾した気持ち。けれども、それ以上に触れる事が怖かった。自分のような者が触れてしまったら、彼女の持つ春の空気が乱れてしまうのでは――と、本気で思ったのだ。
これはどう言った感情だったのか。芸術品を愛でる気持ちなのか、ただ単に自分に勇気が無かっただけなのか……今でも分からない。ただ、一つだけ言えるのは、彼女は何処までも、そしていつまでも変わらぬまま進み続けるのだろう――と言う、漠然とした思い。
それは願望に近いモノかもしれなかったが、俺には確信に近いモノがあった。
彼女は惑わない――
きっと彼女は、自分の決めた道を進み続けるのだと思えた。
だからこそ、俺は彼女に触れられなかったのかも知れない。
冬の寒さに凍えているだけの俺には、彼女に触れる資格など、何処を探しても見つかるわけは無かったのだから。
俺はその時、何の気も無しに街の中を歩いていた。
休日、誰に誘われる事も無かった日、目的もなく街の中を歩く――ただただ街の中で、流れゆく人々の姿を追う一日。きっとその流れに乗っていれば自分も街の一部として溶け込める――そんな思いで街の中を歩く一日。
そんな時、ふと――俺の足が止まった。
懐かしい名前を目にした気がする。
そこはギャラリーと呼ばれる場所だった。店内を見渡せる様に大きく取られたガラス張りの窓の中、彼女の名前がそこに――あった。
高科瑞葉個人展――そこに彼女の名前があったのだ。
何時間立ちつくしたのだろうか――俺は一体何時間そのギャラリーの前で立ちつくしていたのだろうか。周りの人間が不思議顔で俺の事を見ているのも知らない。そんなモノ、俺は何も感じない。そんな事、俺は知らなくていい。そんな些細な事、今の俺には関係ない。
俺の足がギャラリーの入り口に向かう――無意識に。
この先に、俺が長年求めた答えがある――ドアに掛けた手が止まる。
彼女の作品を手に取る事が出来るのだろうか――ためらい。
今の自分が、彼女の作品を手にする資格があるのだろうか――小さな恐怖。
それでも俺は――彼女の作品に触れなければならない。
止まっていた時間を取り戻すかのように、その手に力を込める。
彼女を一言で表すならば、春――うららかな陽気に誘われて、寒さという殻を割り、木々に新芽の芽吹きを与える。
――それが彼女――
手にとって見る事も出来ますよ、販売もしています――店員の言葉が頭の中にこだまする。
彼女に触れる事が出来る――やっと、この手にする事が出来る。そんな思いに手が震える……
そっと、そっと両方の手で包み込むように一つの絵皿を取る――白い陶磁器の皿。
中央に桜の花びらを模した小さな小さな絵皿を、俺はまるで宝石でも扱う様に、両の手で包み込む。
自分でも分からなかった――止める事など出来なかった。止める事なんて、思いもしなかった……今ここに、俺の両手の中に、優しい春の暖かみがある。
感情なんて全然コントロール出来なかった。する必要も無かった……俺は今、自分にも、まだ流せる涙が残っている事が嬉しかった。
彼女は真っ直ぐに、惑うことなく、その身に春を纏いながら進んだのだ――それを知って、どうして涙をぬぐうなど必要か。
俺は彼女の作品に、そんな春の芽吹きを感じたのだ――
これで俺も――前に進める――
|