―――最終日―――
その日の朝、目覚まし時計が鳴ることは無かった。
遅れる様なら学校は休もう―――冴子は昨晩、そう思ってアラームをセットし
なかったのである。
今日は神が定めた期限の最終日であった。
が、しかし、冴子には分かっていた。自分が期限の内にキスできないこと
―――そしてそれは、生き返れないことだと言うことも……
冴子はそんな状態の中で学校へ行き、いつもと同じように振る舞えるか分か
らなかった。友人の顔を見て、自分が平静を保っていられるか自信が無かった
のだ。
だから目覚ましはセットしなかった。もし翌日、起きるのが遅れたならば、学
校は休むつもりだったからである。
しかし、長年の習慣か……冴子はいつもと変わらぬ時間に目覚めていた。
「取り敢えず……学校へは行くか」
どうしようか―――冴子は起きてからも少し悩んだが、昨日寝る前に時間どお
りに起きられたら学校へ行くと決めていた。普段と変わらぬ行動をとっていた方
が、逆に気分が紛れるかも知れない。
いつものように朝食をとり、いつものように身だしなみを整える―――朝の時間
程に性格に過ぎていくものはない。気が付けば、いつもと同じ家を出る時間になっ
ていた。
冴子は玄関で靴を掃き終えると、これが最後の「行って来ます」になるのだろ
うか―――と言う考えが頭の中によぎる。
「行って来ます」
すると、キッチンで洗い物をしていた母親から返事が返ってきた。
「いってらっしゃい―――あ、冴子、今日お母さん達は出掛けるから、夜は何か
適当にお弁当でも買って食べてね」
「分かったわ」
そうか、もしかしたらお母さんに会うのもこれが最後なのかも知れない―――
冴子は別れの予感と共にドアを開け、学校への一歩を踏み出すのだった。
「おっす冴子」
「おはよう冴子」
冴子が教室に入ると、智美と昌代の二人がいつもと変わらない挨拶を交わして
きた。
「うん、おはよう」
冴子は二人に返事を返すと、会話には入らずに、そのまま自分の席へと腰を降
ろす。教室を見渡すと、いつものように雑多な会話でにぎわっていた。
自分も、いつもと変わらない風景の一人だったのにね―――冴子に、不意に寂
しいと言った感情がこみ上げて来た。
今までならば冴子も雑多な会話を楽しむ内の一人だった。授業が始まる前、昨
日見たドラマの内容や音楽の事、ちょっとした愚痴から放課後は何をしようかな
ど……喧噪の中の一人であることが当たり前だったのだ。
しかし明日には、自分がこの風景の中から欠けてしまう事を知っていた。
きっと、私がいなくなったら智美と昌代は悲しんでくれるだろう……けれど
も、一ヶ月が経ち、半年が経ち、一年が経った頃、いないことが当たり前の風景
になり、ついには思い出してくれる事も希になるのだ……それが日常の中で暮ら
すと言う事なのだから。
仕方が無いとは思いつつも、冴子は急激に寂しさがこみ上げて来るのをどうす
ることも出来なかった。
自分が日常の中から抜け落ちてしまう事、そしてついには、友人達の記憶の中
からも抜け落ちてしまうこと―――冴子の中で、その事が処理しきれなくなって
行く。
もちろん、キスをすれば助かるのだが、冴子には、それを実行する気が無くな
っていた。
何事も前向きに考えて行動的な冴子だったが、昨日、安田優樹という後輩と会
って自分の取ってきた行動を振り返る事が出来た。
自分は本当の心を偽っている卑怯者だ―――冴子は痛切に感じていた。
いくら生き返る為とは言え、本当に好きでもない相手を彼氏にしようとした。
そう、いわば相手の事を体よく利用しようとしたのである。
ある意味、バレー部の山本健介と俊文の方が、よっぽど誇らしい存在なのでは
ないだろうか……安田の様に、好きな人を好きと言える方がどんな結果になろう
とも大事なのではないだろうか―――その思いが、冴子の中で渦巻いているので
ある。
そして最終日の今日、キスの相手を捜すのを止めた。それがどんな結果になる
のか分かっていながら冴子は止めざるを得なかった。
自分が本当の気持ちを隠したまま、利用する為だけに相手を探す事が間違って
いると気が付いたからである。
しかし、だからと言って、自分の存在が消えてしまう事を消化した訳では無か
った。いや、むしろそれは、冴子の中でドンドンと大きくなり、どうしようもな
い恐怖感へと変わっている。
それもそうだろう、冴子はごく平凡な17才の女子高生なのである。17才と
言えば、恋も勉強も、いわば人生が始まったばかりの輝きのある年齢だ。死とい
うものと一番無縁な存在なのだ、消化出来るハズがない。
自分が日常の中から消え失せてしまう―――その事実を思うと、冴子はどうし
ようもない恐怖によって押しつぶされそうな感覚に陥っていく。
……そして
ダメ、やっぱり私には耐えきれない!―――冴子は、喧噪の中の教室から、はじ
かれたように逃げ出すのであった。
「お、おい!冴子!!」
冴子の様子がどこかおかしい―――そう思っていた知美と昌代の二人は、突然
教室から外へ掛けだした冴子をみてただごとでは無いと感じた。
とは言えこれから授業も始まる。
詳しい理由が分からない今、二人は、どうして良いか判断が付かなかった。
「どうしよう智美」
「冴子のヤツは自分一人で悩んじまうからな……そっとしておいた方が良いのか
も知れないけど―――」
「そうだ、一応裕太君に連絡しておこうよ」
「うん?ああそうだな。裕太なら何か知っているかも知れない」
二人はとりあえず、滝島裕太へ連絡することを思いついた。
トゥトルルルル……
何度かの呼び出し音の後、相手が電話に出た。
「ハイ、滝島ですけど―――」
実はこの電話、間一髪で繋がったと言っても良い。裕太は電車で30分程の高
校へ通っているのだが、いつもならこの時間には既に校舎の中に入って携帯の電
源を落としているハズであった。
しかし今日に限って裕太は寝坊してしまい、今はまだ駅のホームを出たばかり
で携帯の電源が入っていたのである。
「あ、萩原ですけど……裕太君?」
「おお昌代か、久しぶり。どうしたの?こんな時間に……」
裕太と冴子、そして智美と昌代は中学時代からの友達だったが、最近連絡を取
っていなかった事もあって懐かし思いが先に立った。しかし、今はそんな悠長な
事を考えている場合ではない。
昌代は挨拶もそこそこに、教室での出来事を説明した。
え?冴子が学校から抜け出した?!―――裕太が驚きの声をあげる。
裕太の知る限り、冴子が学校をさぼるなどとは考えられなかったからである
……しかも、教室の中から逃げるように駆け出すなど、何か余程の理由があると
しか思えなかった。
「それ、本当なのか?」と、思わず疑いの声を上げた。
「本当よ。ここ最近、冴子の様子がおかしかったから心配してたんだけど……裕
太君は何か心あたりない?冴子がどうして悩んでいたのか」
昌代は、裕太ならば何か知っているのではないかと思って聞いた。
本当は私、死んでるの……そして、生き返る為にはどうしてもキスが必要なの
よ―――
裕太の頭の中に、あの日の冴子がよみがえってきた。
「いや、まさかな……」
しかし、裕太はそれを素直に信じることは出来なかった。
それもそうだろう、自分が死神の人違いによって命を奪われ、神様と会い、交
渉の末にキスさえ出来れば生き返る事が出来る様になったなど―――信じろと言
う方が間違っている。
けれども―――裕太は、あの時の冴子の表情も思い出していた。
アイツは真剣だった。少なくとも、アイツは嘘を言うようなヤツでも無いし、
夢の中の事を現実と間違える様な夢想家でもない。そんな冴子が、真剣な眼差し
で言っていた……アレは、本当の事だったのだろうか?
いや、やはりアレをそのまま信じろって言うのが無理だ、何か他の理由がある
に違いない―――裕太は頭を振って、その考えを振り払おうとした。
「冴子がどうして悩んでいたのかは分からない。だけど、昌代の方は何か心当た
りがないのか?」
「ううん、私達にも分からないわ。ただ、さっきも言ったように、最近の冴子の
態度がおかしな事が多かったから……」
一週間くらい前からだよな―――
直ぐ隣にいるのか、智美が昌代に言った言葉が携帯越しに聞こえる。
一週間?一週間前と言えばあの日とちょうど重なるな……
「一週間くらい前からって、何かそれらしいことでもあったのか?」
「それらしいって言うか」
ほら、やっぱりアレだよ、死んだように眠ってた、あの日―――昌代の携帯に
耳を近づけて聞いていた智美が、それに答えた。
「死んだように!?」
「わっ、び、ビックリした!」
それは、思わず携帯を落としそうになる程の大きな声だった。
「あ、悪い……でもさ、その死んだようにってどういう事?詳しく話してくれ
よ」
裕太の真剣そのものの声に驚きながら、昌代はあの日の事を思い出した。
「……それで、お昼に一回起こそうとしたんだけど、まるで死んでるみたいに動か
なくて、息すらしてないんじゃないかな?って思えるくらいに熟睡してたの。だ
から起こさなかったんだけど、考えてみるとあの日からおかしかったのかも。結
局放課後には目が覚めたんだけど、その直後、誰もいない方へ向かってしゃべっ
てたり……そうよ、やっぱりあの日からおかしかったんだわ。急に彼氏を作るん
だ!って意気込んだのも、それからだったし……」
あの話しは本当の事だったんだ!―――昌代の話しを聞きいて裕太は漸く確信
する事が出来た。
久しぶりに会ったあの日、夢物語だとばかり思っていた話を、裕太は信じる事
が出来たのである。
そうだ……あの時言っていた最終期限日というのは、確か今日のハズじゃない
のか?
もしあの話しが本当ならば……イヤ、もうここで疑ってしょうがない。だとす
ると冴子は、今日中にキスしなければ死んでしまう!?
―――裕太はその事実に気が付いた。
「そんな……馬鹿な」
冴子が死んでしまうなど考えられなかった。意地っ張りで見栄っ張りで、考
えるより、取り敢えずやることを決めてドンドンと前に進んでいく……そんな元
気の固まりな冴子が、この世から居なくなってしまうなど考えられ無かった。
違うのよ!これは作り話なんかじゃ無くて―――
あの時の、冴子のセリフと必死の表情が浮かんできた。
冴子が一番最初に助けを求めてきたのに、俺は……俺はどうして信じてやれな
かったんだ!!
「昌代、俺探してくるよ。そして冴子を絶対に救ってやる!!」
裕太はそう言って携帯を切ると、流れに逆らって、今出たばかりの駅の改札を
再び戻るのだった。
―――夕刻―――
あれから裕太は一端家に帰る事にした。もしかしたら、冴子が自分の家に帰っ
ているかも知れないと思ったからだ。
しかし、家族も全員出かけているのか、チャイムを鳴らしてもむなしく鳴り響
くばかりで返事は帰ってこない。
とにかく早く見つけなくては―――裕太は悪い想像を追い払うかのように、冴
子の行きそうな場所を手当たり次第に探す事に切り替えた。
しばらくすると、授業が終わったのか、智美と昌代の二人から電話があり、冴
子を見つけたら直ぐに連絡をくれと言い残して、高校近辺での捜索はそちらに頼
み、自分は、自宅周辺やその昔よく行っていた場所を中心に当たり出した。
母校の小学校から始まり、中学校、桜の花見をした川べりにも行ってみたし、
その他、思いつく限りの思い出のある場所へ走り回った。
今までこれ程走り続けられた事は無かったかも知れない―――裕太は時計を確認
すると、探し始めてから既に何時間も経過していた……が、それでも冴子は見つか
らなかった。
思いつく限りの場所を探し回ったつもりだが、そこに、冴子の姿を見つける事が
出来なかったのである。すれ違ってしまったのかも知れないと、もう一度家に戻っ
てみたがやはり居ない。
そうこうしている内にも、周囲がだんだんと暗くなってくる。
智美達からの電話でも、まだ冴子を見つけられていないという話で、裕太は次
第に焦りの気持ちで一杯になってきた。
「一体……どこに居るんだよ冴子」
裕太は、どうしてあの時もっと真剣に話を聞いてやらなかったのかと悔やんだ。
もしあの時、冴子の言うことを本気で信じてあげたなら、アイツはこんなに苦
しまずに済んだのに―――悔やんでも仕方がないとは分かっていたが、裕太はい
たたまれない気持ちになった。
あの、突拍子もない話を信じろと言う方が無理かも知れなかったが、裕太にし
てみれば、幼馴染みである冴子の必死の訴えをもう少しまじめに聞いてやれば良
かったと思えるのである。
そして裕太は、もう一つの感情に気が付いていた。
意地っ張りで見栄っ張りで、いつも突っ走っている様な冴子だけれど、俺は失
いたく無い。いやそれ以上に、俺はそんな冴子の事が好きなんだ!!
裕太は冴子を失ってしまいそうになってから気が付いた。
いつも側に居たから気が付かなかった。性別の無い時代からつき合っていたか
ら気が付かなかった?
違う!!
自分は知っていたはずだ。冴子の事が好きだと言うことを……
ただ、それを認めるのが怖かった。
もしそれを認め、その気持ちを冴子に伝えたら、自分達の関係が壊れてしまう
のでは無いか―――そんな思いが怖かったのだ。
もし、冴子が俺の事を何とも思っていなかったら……もし、自分の事を受け入
れてくれなかったら……それが怖かった。
だけれども、裕太は気が付いてしまった。
いつも自分で突っ走り、前向きに考えては笑っている冴子の事が、愛おしくて
たまらない事を……そして、それを失いたくないという事も。
裕太の頭の中に、冴子の元気に笑っている姿があった。
そうだよ―――絶対に死なせてなるものか!!
裕太は冴子を捜し回る内に、自分の気持ちに気が付いていたのである。
いや、元々二人は、お互いにその気持ちに気が付いていた。だが、あまりにも
近すぎる存在だったために、改めてそれを確かめるのが怖かったのだ。
それが今回、冴子を失ってしまうかも知れないと言う事になり、その気持ちを
素直に認められた。
そして、それを認めた瞬間、裕太は冴子の事が愛おしくてしょうがなくなった
のである。
「ちくしょう!どこに居るんだよ冴子」
夕闇に包まれてゆく街の中、裕太はもう一度初めの場所から探し始めようと走
り始めるのであった。
そして……
いた―――冴子だ!!
裕太は小さな公園のブランコに座っている冴子を見つけた。
既に夜の八時を回り、空には星が輝きだした時だった。冴子は肩を落とし、ジ
ッと身動きもせずに足下を見つめ続けながらブランコに座っていたのである……
それはまるで、近寄ることすらためらわれる程の、魂が抜けてしまったかのよう
な痛々しい姿だった。
「探したよ……冴子」
声を掛けたら消えて無くなってしまうのではないか?と言う思いに駆られなが
らも、裕太は冴子に声を掛けていた。
冴子を苦しみの中から救うためにも、そして、自らの気持ちを伝える為にも声を
掛けなくてはならなかった。
「冴子……」
裕太はもう一度声を掛けた。冴子は声の主が裕太だと気が付いていたが、それ
でも顔を上げようとしなかった。
それどころか、全く動く気配が無かったので、既に冴子が死んでしまったので
は?と思える程に心配になった程である。
……が、しばらくの沈黙の後、顔は下げたままだったが冴子から返事が返って
きた。
「どうしたのよ、裕太」
いつもの元気な姿はなく、声も弱々しい
裕太はそんな冴子の姿を見ると、苦しみや悲しみの大きさがひしと伝わって来
る様で心が痛かった。
俺が冴子を救ってやらなくては―――裕太は気圧されそうになる心を奮い立た
せる。
「冴子、ごめん。冴子が話してくれたこと、信じてやれなくて悪かった」
「……」
「俺に助けを求めてきてくれたのに、冴子がどんなに苦しんでいるのかも気がつ
かなくって……俺は冴子の事を救ってやれなかった」
「違う……」
―――え?
「違うの。裕太は何も悪くない」
「いや、もっと真面目に聞いてたら、冴子はここまで苦しまなくても良かったハ
ズだ」
「違うわ!あんな話し、逆の立場だったら私だって信じていなかった。裕太は悪
くなんか無い」
悪いのは―――素直になれなかった自分の方なのよ……
冴子は顔を上げて、ボロボロとこぼれる涙を拭こうともせずに裕太の瞳を見つ
めながら言った。
「私が素直になれなかったのがいけないのよ」
そうなのだ、私があの時、自分の本当の気持ちを打ち明けていれば良かったの
だ。素直になれず、意地を張って他の男を利用しようとしたのがいけなかったの
だ……苦しんだのは決して裕太のせいなどではなく、自分自身が悪かったのだ。
冴子は涙が止まらなかった。
「冴子」
裕太は、初めて見る冴子の泣き顔に心が締め付けられる様に痛かった。そし
て同時に、冴子を救ってやりたい―――と、心の底から思うのである。
「冴子……俺は」
裕太は自分の中にある本当の気持ちを打ち明けようと、冴子の肩に手を掛けよ
うとした―――その時、冴子はそれを恐れるかのように身を翻した。
「ダメ!私は……私は裕太に助けてもらえるような人間じゃないの」
そう言うと冴子は、はじかれたように公園から逃げ出した。
「おい!冴子!!」
俺はお前を失いたくないんだ―――裕太は心の中でそう叫びながら、冴子の後
を追った。
「待ってくれ冴子!!」
裕太は冴子の背中に大声で呼びかけたが、冴子は走るのを止めようとしなかっ
たので差が縮まらない。そればかりか、今までずっと走り回っていたぶん、足に
力が入らずにドンドンと差を付けられてしまう。
裕太は力の限りに追いかけたが、ついに、大きな交差点で車の流れに阻まれて
しまった。
チクショウ!!
「冴子―――!!」
裕太は、行き交う車と車の間で、冴子の姿が消えて行くのをどうすることもな
く見送るしかなかった。
「どうすれば……どうすれば良いんだよ」
冴子を見失いどうして良いか途方に暮れたその時、裕太は急に背後から声を掛
けられた。
「葛木君は……」
「え?」
振り返ると、そこには冴子の学校と同じ制服の少女が立っていた。
「葛木君は今日の9時、自分の家の屋根に登るハズだよ……」
その少女は、裕太が聞きたいことを見透かすかのように言った。
「ど、どうしてその事を!?」
裕太は突然現れた少女の言葉に驚きが大きかった。
どうして自分が冴子を探している事を知っているのか?どうして冴子が屋根の
上に登るのか、理由が分からなかった。
そんな裕太の疑問に気が付いたのか、その少女は訳を話し始めた。
「偶然……冴子君についていた死神氏から話を聞いてね、ほら、これがその死神
なんだけど」
その少女とは―――御影石 斎(みかげいし いつき)だった。
斎はまたもや竹田の首根っこを捕まえて、裕太の方へとつきだして見せた。
「い、いや……俺には見えないんだ……けど、でもその話は本当なのか?冴子が
夜の9時に屋根の上に登るって」
「間違い無いよ。この死神氏に聞いたところ、夜の9時に、屋根の上に迎えに行
くと言っている」
斎はそう言うと、もう一度竹田をつきだして見せたのだが、やはり裕太には
その姿が見えない。
しかし、裕太に取ってそんな事はどうでも良かった。目の前に現れた少女が嘘
を付く必要もないし、死神の事を知っていると言うことは、彼女にはそのたぐい
のモノが見えると言うことで、それだけで十分信頼できる。
それに、冴子が走っていった方角も考えてみれば自宅の方向だった。見失って
しまった今、どんな些細な事でもそれを信じるしか無い―――裕太はそう思うと、
居ても立っても居られなかった。
「ありがとう!」
裕太はそれだけ言うと、自宅へ向かって走り出したのである。
……
「あの〜それでは私も、そろそろ行かなくてはいけないので……その〜離しても
らえませんか?」
竹田は冴子の事が心配で公園の近くをうろうろしていたのだが、その時、また
もや斎に捕まっていた。そして、今夜の事を洗いざらい説明させられたあげく、
相変わらず首根っこを掴まれて居たのである。
「ふむ……君が働くところを一度見てみたかったけど、仕方がない。冴子君の命
には替えられないからね」
「ははは……」
竹田は斎がどこまで本気で言っているのか判断に困ったが、手を離してくれた
ので取り敢えず一安心。
「あの〜それでは私、あの二人を追わなくてはいけないので〜」
それでは失礼します―――竹田は急いでその場を後にするのだった。
謎の少女の言葉を信じて走ってきた裕太は、冴子の家の前までくると、呼吸も
整わないままにチャイムを押した。
ピンポン―――
ピンポン―――
二度繰り返してみたが返事がない。
今日は何回か家に来てみたし電話もしていたが、誰も出なかったところを見る
と、他の家族は出掛けている様子だった。
裕太は冴子の両親が、たまに外で外食をして夜が遅くなるのを知っている。
これでは冴子が帰ってきたのかどうかも分からない。
しかし『夜の九時に屋根の上に迎えが来る』と言う、あの少女の言葉を信じる
なら、九時にあと十分というこの時間に帰ってきていない訳がない。
裕太が念のためと思って玄関ドアに手を掛けると、鍵が掛かっていなかった
のかスッと開く―――とそこに、冴子の靴を見つけた。
帰ってきてる―――
最悪、自分の家からでも冴子の家の屋根に登れるのだが、そんな時間も惜しい。
裕太はそれを発見した時、ホッと、息を吐いて胸をなで下ろしたが、ここで安心し
ては居られない、あと十分で冴子に迎えが来てしまうのだ。それまでに何とか冴子
とキスをしなくては―――と思うと、
「冴子!居るんだろ、入るぞ!!」
少々強引だと思ったが、この際そんな事は言ってられない。勝手に家に上がり込
むと、まずは二階にある冴子の部屋へと向かった。
「冴子入るぞ!」
裕太は一応声を掛けてからドアを開けた……が、しかし、二階の部屋には居な
かった。すると、既に屋根の上に居るのかも知れない。
裕太は屋根の上に出るために、さらに階段を登った。
「冴子……」
屋根の上に出ると、そこに冴子は座っていた。
顔を伏せているのは泣いているからだろうか―――裕太は冴子の方へと近づい
て見たが、やはり小刻みに肩が震えていた。
「冴子、頼むからこっちを向いてくれよ」
「ダメよ……お願い、私を一人にしておいてよ」
冴子は顔を伏せたまま、弱々しく言った。
「何を言ってるんだよ冴子。お前はこのまま、このままあの世へ逝っても良いっ
て言うのかよ」
「私には助かる資格なんて無いの。裕太に助けてもらう資格なんて無いのよ」
「なんだよそれ、そんな勝手なこと言うなよ……冴子に資格がないなんて誰が
決めたんだよ……そんな資格なんて関係ない」
裕太はそこで一呼吸入れた。
「俺は冴子の事が―――冴子の事が好きなんだ!」
夜も更け、完全に周囲は闇の中に包まれている中、近所の事などお構いなしに
二人の男女は屋根の上で大声を張り上げて言い合った。
「やめて……お願いやめて」
冴子はそう言って耳をふさいだが、裕太は躊躇しなかった。強引にその手をど
けると冴子の顔を自分の方へ向けた。
「冴子があれからどんな風に過ごしたのかは知らない。だけど、そんな事は関係
ないんだよ。俺はこれからだって冴子の笑顔を見ていたいんだ!」
「…………」
「冴子が意地っ張りだって事や、見栄っ張りな事だって知ってるさ。だけど、
俺はそんなお前のことが好きなんだ!!」
「裕太」
「だから俺は、今から冴子にキスをする。例え冴子に嫌われても、俺は冴子を……
愛してる」
「ゆ、裕太ぁ……」
裕太の真剣な眼差しに、冴子の心の鎖が解き放たれて―――そして、二つの影
がゆっくりと一つに重なっていった……
………
……
…
「やれやれ、冷や冷やものでしたよ神様」
二人が熱い口づけを交わしている時、少し離れた場所に二人の男の姿があった。
死神の竹田泰三と、東京地区を預かる神様である。
「な〜に、大丈夫です。あの二人ならきっとこうなると思っていましたからね……
ボクは心配なんかしてなかったですよ」
「って、そりゃそうですよ。何せ神様は人の未来が『見える』んですから。初め
からこの場面を知っていたんでしょ?」
「確かにボクは、人の未来を見通す事が出来ますよ。だけど……今回に限っては
冴子君の未来は見ていませんからね」
竹田の質問に、神はとぼけ顔だった。
「ええ!!ちょ、ちょっと待って下さいよ。じゃ、冴子さんがキスできなかった
らどうしたんですか!? あの、本当にあの世へご招待するつもりだったんですか
?」
「大丈夫。何せ神が信じたことだよ、当たらない訳がない」
「は?……はぁ〜」
竹田はいたずら好きの神に、やれやれと言った表情でため息を付くしかなかっ
た。
「それにしても、いつまでキスしてるんでしょうねあの二人は……」
「まあまあ、良いじゃないですか、放っておきなさい。微笑ましいではありませ
んか」
恋愛も司る神は、二人の姿を眺めながら楽しそうに笑った。と思ったら、不意
に何かを思いだしたかのような表情になる。
「あ〜それはそうと竹田君」
「はい〜なんでしょう?神様」
「君の証人としての仕事が終わったのは良いとして、何か一つ、忘れている事は
ありませんか?」
そんな神の質問に、竹田は全くと言って良い程思いつく事が無かった。
「えっと……何かありましたっけ?」
「忘れたんですか? 107才の、本物の桂木冴子さんをお連れする事を」
―――あっ!
その瞬間、全ての事を思い出した。
元々あの世へ連れて行くハズの、107才の方の桂木冴子の事を忘れていたの
である。
そんな竹田は「忘れてました!」と言うや否や、急いでその場を後にするので
あった。
「今度は間違えないでくださいよ」
神はそんな竹田の背中に声を掛けると、やれやれ―――と、先程の竹田のよう
にため息を付いた。
「さて、そろそろ私も戻りますか」
そうそう神が留守にする訳にもいきませんからね……神はそう思いながらも、
もう一度冴子達の方へ視線を向けた。
「うらやましいものです」
神は未だキスし続ける冴子達をうらやましそうな顔で見つめると、満天の星々が
輝く夜空へと帰っていくのだった。
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