From: michael
To: cornel
Subject: さよならに代えて
Date: Wed, 29 Dec 1999 01:40:33

Cornel 様

ついに,ずれに始まってずれに終わるようです.私が聞きたかったのは,「反撃」ではなくて,「どうぞご心配なく」と外してもらうことだったような気がします.そうであれば,私も安心してあなたから離脱できたと思うのですが...

多分あなたは,私がこれまで書いた(証拠物件として提出されている)テキストの中のどこにも,「あなたの価値観の否定」や「あなたに対する批判」を見つけることはできないでしょう.にも関わらず,あなたが私の文言を「干渉」と(直感的に)感じているとしたら,それは当たっています.

私は明らかにあなたに「干渉する」意図を持って書いてきました.

「よっぽど暇なんだろう」と思われているようですが,私は基本的にムダなことや意味の無いことは絶対にしない主義の人間です.つまり,「時間つぶしのおしゃべり」に費やすような時間の持ち合わせは1秒と言えどもありません.(生き急いでいるって誰かのことばにありましたが...)

私はあなたを「キーマン」であると考えています.私の考える「キーマン」の定義を述べる必要がありますが,大雑把に言えば「社会的な影響力を持っている人間」です.1本の綱の片側に100人の人が付き,反対側には1人しか付かない綱引きをしてその勝負に勝つことのできる人をキーマンと呼びます.完全な「群集社会」(何かのきっかけで走り始めたネズミの集団が全員まっしぐらに海に飛び込んで行くような)でない限り,社会の動向を規定するのは基本的にこれらキーマンの行動如何に関わっています.

私たちはWebという今世紀の最後に現れた巨大なネットワーク上でコミュニケーションしていますが,口コミというそれと同等かないしそれ以上に強力なネットワークも存在します.たとえば,今日本語はこの20年くらいの間に(特に若い人たちの間の口語において)激変しつつありますが,これらの「変化」にはすべて,どこかにその端緒,「始原(origin)」というものがなくてはなりません.つまり,どのような言葉もすべてそれを最初に発した人がいて,それが伝播していった結果です.

彼らはいわば新しいことばの「発明者」です.年齢層は10代から20代前半くらいでしょう.彼/彼女らはもちろんまったくそのことを知りませんが,彼らもまた,「キーマン」であったと考えるべきでしょう.彼らは「言語本体」を変えていってしまうほどの力を持った「天才」たちであったと言っても多分過言ではありません.(集団ではなく,特定の個人であることがポイントです)

(私は,現在若い連中の使っている口語を他国語に翻訳することはほとんど不可能なのではないか,と考えています.ある意味で日本語はそのような複雑なニュアンスを持った言語に変容したと見ることもできますが,反対に完全に崩壊しつつあるとする見方も可能でしょう.)

私が「社会の動向」のようなものに関心を持っている動機はきわめてエゴイスティックなものです.

若い連中の行動様式と自分の持つ規範の間にひどい解離があるとき,私はその連中に「君たちがお互い同士それでやっていけるんだったら,それはそれでかまわないわけだけど...」と言うことがあります.我々は「そういうやり方ではうまくゆかないと思う」から忠告するのであって,我々が死に絶えた後,やってゆくのは「君たち」であるわけだから,そのメンバー同士がこれでいいというのであれば,「干渉の余地」はありません.

しかし,私には子どもがいます.この子ども達の将来について私は責任を負っています.自分の子どものために隣りにいる幼児を殺す母親がいるかもしれませんが,私が自分の子どものためにやらなくてはならないと考えることとは相当隔たりがあると言うしかありません.たとえば,「世界平和」や「公正な社会」は私が私の子どもたちに残さなくてはならない「環境」の一部です.(責任という言葉を使っていますが,動機はおそらく,その母親と同程度にエゴイスティックなものであると思います.)

(ここでは個人の力では解決できないような,つまり共同によってしか対応できないような外的諸条件を「環境」と呼んでいます.資産は子どもに有利な生存条件を与えることになるかも知れませんが,その本人が「個人的」に取得することが一般には可能ですから,「環境」には含まれないと言ってよいでしょう.)

このような文脈の上で,私は「あなたを私の望むような方向に誘導しようとしていた」つまり「干渉していた」と言えるのではないかと思います.あるいは,ないし私がやりかけの仕事をあなたに押し付けようとしていた,と言っていいかもしれません.あなたがそれを察知して,大いに迷惑がっているというのは正しいと思います.ワイングラスを待っているところに,ぞうきんが回ってきて喜ぶ人はいないでしょうから...

あなたは,現在のところ私のホームページの唯一の読者です.私のアクセスカウンタは入り口(http://www.aya.or.jp/~nockun)のところにしか設置していないので,(一旦入るとそこに戻ってくる路もない)あなたのアクセスはまったくログには残っていませんが,あなたが私のテキストを詳細に読んで下さっていることはわかります.(ありがとう!)

人は通常2つの規範を持っています.つまり「自分がやってよいこと,自分に許すこと」と「他人がやってよいこと,他人に許すこと」の2つです.ダブルスタンダードはあなたにもあります.もちろん,私にもあるでしょう.緒方貞子(国連難民高等弁務官)は「国際政治では,ダブルどころか無数の基準がある(日経99.12.26)」と言っています.(紛争介入の基準,相手が弱ければ介入し,そうでなければ傍観する.核保有国が非核保有国の核保有を認めないなど)いずれの場合においても,ダブルスタンダードが存在する場所で議論を続けるというのには難しいものがあります.

パウロは教団の組織が拡大して専任の監督を置くことが必要になったとき,その資格を列挙して,「家を治めることができないものにどうして教会を預けることができるだろう」と言いました.結婚に2回失敗し,小さな家一つ治めることができなかったものが,社会や政治のことについてあれこれ言っても始まらないくらいのことは自分でも承知しています.

今はただ,あなたから私を安心させてもらえる言葉を聞くことができなかったことだけが心残りです.

よい新年を迎えられますよう.

Mch. 1999.12.29