翌朝いつもの交差点に現れた遠坂は、一見普段通りに見えた。
 しかしわずかに目が充血していたあたり、昨夜の苦労がうかがえる。
 一瞬指摘してやろうかと思ったが、やめた。逆ギレされたら怖いし。
「それで、どうなんだ? 調子は」
「作業に問題はないわ。ただ…………」
 そこまで言って、整った眉をわずかに寄せる。
「今作ってる使い魔は、消されたやつよりかなり力を入れるつもりなの。その魔力が簡単には溜まらないのよ」
 つまり車体ができてもエンジンができないようなものらしい。多少力を抜いても動きはするが、それでは例の相手には勝てない、ということだ。
「そんなわけで士郎。貴方今夜、うちに来て手伝いなさい」
「え……ええ!?」
「なに驚いてるのよ。足りないなら余所から持ってくるのは魔術師の基本でしょ? 言っとくけど、桜にも手伝ってもらうつもりでいるんだから」
 あっさりと言い切ってくれる遠坂。
「でもそんなことできるのか?」
「当たり前じゃない。遠坂の魔術師が使うのは『転換』よ。多少質が違ったってなんとかなるわ。アンタの極小の魔力だって、少しは足しになる」
 手伝ってもらう予定の俺に対してひどい言い草だが、よく見ると充血していた目の下に、うっすらクマが浮かんでいる。ここは逆らわない方が得策のようだ。
「わかった。桜には――」
「今日わたしが直接話すわ。今夜のごはんはそっちに行くから」
 用意するより食べに行った方が早い、とまるで外食に行くような口ぶりで言う。まあいいけど。
「……ところで士郎」
「なんだ?」
「気づいてる? コレ」
 突然声を落として囁く遠坂。声量に反比例して声に真剣さが増す。
 俺も合わせて声を落とした。
「今ついてきてる気配のことか?」
「ええ。間違いなくわたしたちを追ってる。――どういうつもりかしら」
 苦虫を噛み潰すような遠坂の口調。未知の相手に対する焦りとまだ打てる手段のない自分に対する苛立ちからか。遠坂の表情は余裕の色が消えている。
 最初にこの視線を感じてからすでに丸一日半。今日で三日目。気配はいまだ変わらず、状況も変わらない。そのうち本当に見られているのが当たり前になってしまいそうだ。
 遠坂は険しい顔を保ったまま、無言で学校への坂道を行く。俺も同じく何も言わずにその後をついていった。
 校門を通り抜け、まっすぐ校舎へ。昇降口から中へ入ろうとして――――
「危ないっっ!!」
 上の方から声がした。
 反射的に頭上を見上げる。
 するとそこには。
「な――――!」
 およそ三階の高さから、何かが落ちてくる。一瞬遅れて、どうやら植木鉢のようだと確認した。
 しかもプラスチックではなく素焼きの植木鉢。これは当たるとかなり痛い。当たり所が悪ければオダブツだ。
 そこまで判断してようやく、避けなければ、と頭より先に身体が判断する。とっさに脚の筋肉へ指令を出す。しかし間に合わないだろうな、と頭の片隅でぼんやり思った。
 脚に力がこもる。横の方へ身体を移動させる。まったく同時に頭に来る衝撃を覚悟する。
 その瞬間の行動と、これまた同時に、『ソレ』は起こった。

 ビュルルォォォォッ!

 一陣の風――いや、風というより突風と呼ぶべきソレは、どのような理屈からか植木鉢に向かい、まるで竜巻のようにぶつかっていった。
「――――え?」
 思わずマヌケな声が漏れる。
 およそ自然の状態ではありえない風がいきなり吹いてきて、ソレが俺の頭を救ったのだ。
 風に押されて、植木鉢の軌道がズレる。植木鉢は地面の何もない場所に落ち、ガチャンとハデな音をたてて割れた。
 普通なら落下地点であった俺の頭は割れておらず、キズひとつない。
「士郎っ!?」
 先に昇降口に入っていた遠坂が、事態を察して駆けつけてくる。他にも登校中だった生徒たちが集まってきた。
「大丈夫?」
「ああ。助かった――いや」
 助けられた、のか?
 理由もわからず、そんな考えが頭に浮かぶ。
「…………?」
 いきなり言葉を切った俺を見て疑問符を浮かべる遠坂。いきなりおかしな考えをして疑問符を浮かべる俺。
 植木鉢から頭を守ってくれた、一陣の風が、不思議なほど心に引っかかった。




 今日は土曜日だったおかげで、授業は午前中のみ。部活動をやる連中は午後も学校に残るのだろうが、俺は早々家に帰ることにした。
 昼食はどうしようか? 実は何も作りたくない、というのが本音だ。藤ねえと桜は弓道部、遠坂は家で食べるのだろう。
 今日の昼食は俺が一人で作り、一人で食べる。その本人にまったく食欲がないのなら、気力もなくなろうというもので。
 学園の名物となりつつある坂を下る。うちの学園へ通う生徒の大部分はこの坂を下り、それからいつもの交差点で各々の帰路をたどる。
 そんなわけでまだあちこちに、学園の制服姿の人影が見てとれた。
 俺も彼らの一団に混じりながら足にまかせて道を歩く。身体というのは不思議なもので、頭で考え事をしていても、ある程度慣れた行動を勝手にとってくれるらしい。
 歩くことは身体にまかせていたため、頭の中はここ数日のことでいっぱいだった。
 ――2日前から俺達を見張る視線。けれど不快ではないその気配。俺を助けた謎の風。
 なぜか事あるごとに思い出される、少女の姿。
 俺はどうかしてしまったのだろうか。すべての符号があいつに結びついてしまう。
 そんなことあるわけないのは、自分が一番よくわかっているというのに。
 あいつは自分の時間へ帰った。もう手を伸ばしても届かない。
 あいつの未来には、あとは破滅しかないと知っていながら、それでも彼女の人生で最も大切なものを守れると信じていたから、手を離した。
 だから。あいつは――――セイバーは。
 彼女の誓ったこと、王としての誇りを胸に、眠りについたはずなのだ。
 そこに後悔はない。ない、はずだ。
 たとえセイバーを思い出すたびに、愛しさと共に沸き上がる切なさを抑えられなくとも。
 それは後悔や未練とは違う名前のつくべきものなのだろうから。
 セイバーは納得して逝ったはずだ。それはちゃんとわかっている。
 だから。
 セイバーが、今ここにいてくれたらどんなにいいかと、そんな夢想をすることは――――

 …………どどどどど…………

 エンジンの音が聞こえる。うるさい。
 たとえ俺にその気がないとしても、こうして彼女のことを思ってしまうのは、未練ではないのだろうか?
 いや、それはたぶん許されない。あの時、セイバーの手を離したのは俺自身の意思。
 ならばどんなに辛くても、あの時の選択を後悔してはいけない。
 信じたものを胸に走り続けること。それがセイバーがあの戦いで見つけた答え。

 パパパパパパパパーーーーーー!!!

 今度はクラクションの音。
 うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。
 今はセイバーのことを考えていたいんだ。邪魔しないでくれ。
 だから。俺は。

「きゃあああああっ!」

 女生徒の悲鳴があがる。
 絹を裂くような声で我に返り、はっと顔を上げると――

    眼ノ前ニとらっくガ迫ッテイタ
    「え――――――?」

 ギャキュルルルルィィッッッ!!!

 ドン、と体に衝撃が走る。
 ハデな音とゴムの焦げるにおいがあがり。
 自分の視界がグルグル回って、地面を転がるのがわかった。
 やがてブレーキが効き、トラックが止まる。
 俺はそれを、血に濡れた瞳で見上げ――
「…………あれ?」
 ――ることにはならなかった。
 道路に焦げ痕をつけた車は離れた場所にあり。その近くには何も転がっていない。
 驚いた。まるでテレポートでもしたかのようだ。
 けれどその次の瞬間、耳朶をうつ声にはもっと驚いた。
 驚いた、というより、それこそ何が起こったのかわからなかった。


「シロウ! 貴方は何を考えているのですか!?」


 二ヶ月の間では、忘れることなどできなかった、声。
 混乱した頭で、おそるおそる顔を上げると、聖緑の瞳が怒りをたたえて俺を見ている。
 今は憤怒の表情だが、それでもなお、造作の整った顔がそこにある。
 初めて会ったときの月光のような金色の髪。今日の青空のような澄み切った青い服。
 これだけ揃ってしまえば、もう、彼女が誰であるかを疑うことはない。
 彼女の名を呼ぶ俺の声は、みっともないほど震えていた。
「…………セイ、バー…………」
「なんですか。生半可な言い訳は聞く耳持ちませんよ。あんな大きな車に飛び込んでゆくなんて、貴方の無防備さにもほどがある。
 私がここにいなかったら、一体どうするつもりだったのです?」
 いや、そもそも。
 なんで、おまえがここにいるか、が知りたいのだが。
「――――――ええっと…………」
「どうしました。言いたいことがあるならはっきり言って――――っ!」
 その時、言葉の途中で。
 突然、俺の体を支えていたセイバーの腕から、力が抜けた。
 へたり、と地面にひざをつき、腹をおさえている。
 思いがけぬ再会に加え、セイバーの苦しげな表情が、俺からすべての思考回路を奪ってゆく。頭ん中が真っ白になった。
「セイバー!? どうしたんだ!?」
「くっ…………」
「おいセイバーしっかりしろ! セイバー!」
「シ……シロウ……」
   ――――ぎゅるるるる
 ……なんだか聞き慣れた音が耳に届いた。
「――へ?」
 セイバーは顔を赤くして俯いている。
 これはもしかして…………
「…………まさか、腹へってるのか?」
 白い顔をさらに赤くしながら。
 彼女は、コクンとうなずいた。