ピリリリッ、ピリリリ……
頭の上から聞き慣れた電子音が響き、ガウリイは身を起こした。わずかなカーテンの隙間から、朝の光が射しこんでいる。今日も天気が良さそうだ。
一人暮らしの彼には、慣れきった行為。さして大きな刺激はないが、朝起きて、仕事して、たまの休みに遊び、夜になったら眠る。こんな『当たり前の生活』が、幸せなのだとガウリイは思っていた。 『おまえは若さがないんだよ。そんなのジジババの境地だぜ?』 会社でトップに昇りつめたいとか、商売で一山当ててやるとか大望を抱く彼らにとって、ガウリイの『幸せ』はそんなもんだった。いや、世間一般の見解に照らしあわせても、同じことを言う人間が大半を占めるだろう。 それでも、ガウリイにはこの生活が一番だった。こんな穏やかな日が続けばいいと、ずっと思っていたのである。
何だありゃ、と思いつつガウリイがその男を見送っていると、男はゴミ捨て場の角でもう一人別の男に気づき、そのまま話し合いを始めた。
「………の辺……とよ……か………」 遠くて会話の内容はよく聞き取れなかったが、筋肉男と話しているのは神経質そうなメガネ男である。TシャツにGパンの筋肉男とは対照的に、これでもかというほど形の整ったスーツ姿だ。不釣り合いなことこの上ない。 (ヘンな奴ら…) 男達は怒っているようにも見えたが、メガネ男がガウリイに気づくと筋肉男を連れ、路地の陰へと姿を消していった。 「…変なの」
今度ははっきりと言葉に出して呟くと、ガウリイは気をとりなおしゴミ箱に近づいた。このマンションのゴミ置き場には、彼の腰ほどもあるゴミ箱があり、住人はここにゴミを捨てるのだ。臭いが漏れにくいし、動物にも荒らされないのである。 「で…でかいゴミだなー…」
なんと、すでに誰かのゴミが入っている。しかも普通のゴミ袋の数個分はあろうかというデカさだ。 「え゛っ!?」 とっさにその声が悲鳴にならなかったのはたいしたものである。というより、あまりのその現象に、叫ぶ余裕すらなかった、というのが正解かもしれないが。 「―――声を出さないで」
突然動きだしたゴミ袋――いや、ゴミと見間違えるほどボロボロの服を着た、それは子供だった。その子は、ガウリイに先のとがった何かをつきつけてくる。 「あんたはこのまま立ち去って、何も言わずに全てを忘れるの。わかった!?」 と言われても、相手はせいぜいこのゴミ箱から背が出るか、というような子供である。こんな子供に小声ですごまれても、本来ならば全然怖くない。だが、反射的にガウリイを頷かせてしまったもの、それはこの子の『目』だった。 野生動物のような、鋭い視線。一瞬だが、殺されるかもしれないと本気で感じた、瞳。 「わ、わかった。約束する」 何度も首を縦に振るガウリイを見て、その子の表情からわずかに緊張が消えた。するとそれが合図であったかのように、小さな体は真横へ倒れる。 「おいっ!?」 子供を小さく揺さぶりながら声をかけたが、反応はない。完全に気を失ってしまったようだ。 「マジかよ……」 物騒な瞳を閉じた子供を見ながら。ガウリイは小さくぼやいた。
そう思いながらガウリイは、ベッドの上に横たわる夢の国の住人に視線を移した。年齢は10歳くらいだろうか?柔らかく長い栗色の髪。今は封じられている同色の瞳。華奢な手足は、まだ男女の区別がつかないが、声と口調から少女であることが予想できる。
しかし、一番気になったのは、少女の肌の色だった。透けるような、と表現してもまだ足りない、普通の人間よりも明らかに、白い肌。顔立ちは間違いなく、この国の人間のものなのに。
たぶん後者だろうな、とガウリイは思う。白い肌にかなり赤みがかかっている北の人とは違い、この子の肌は青白い。 どうしようかとガウリイが悩んでいると。 「…ん…」 わずかに声が洩れ、少女が目を開けた。ざっと2秒ほどぼんやりしていたが、突然ガバッと跳ね起きる。 「!?」 目を閉じる前と覚ました後の変化に、かなり驚いたようだ。だが、頭痛を感じたのか、頭を抱えこむ。
「っつつ………」
ガウリイがそう声をかけると、少女は大きく目を見開いてガウリイを見た。そうやってしばし放心していたが、やがてまたあの、野生動物の光を瞳に甦らせる。
「ここはどこ? まさかあんたがあたしを連れてきたの!? あんた何者!? もしかして……」 少女の言葉を遮って、ガウリイは笑いながら言った。少女は少し黙ると、今度はひとつひとつ、区切るようにはっきりとたずねる。
「じゃあ、ひとつめ。 ここはどこなの?」
「あなたが連れてきたの? あたし、立ち去れって『命令』したのに、どうして『連れてくることができた』の?」
少女は口ごもり、何か逡巡しているようであった。はて、自分は何かおかしな事を言っただろうか。 「じゃあ、もうひとつ。あなたは誰?」
ガウリイはその時、ふと気づいた。 ガウリイもしっかりと、見つめ返して答える。 「オレはガウリイ。ガウリイ=ガブリエフってんだ。この家に、まあとりあえず一人で住んでる。あ、仕事もちゃんと持ってるぞ。今日はちょっと休みになったけどな」 少女が求めているのはこんな言葉ではないと知りつつ、ガウリイにはとりとめのない話をすることしかできなかった。この子は、自分が彼女の恐れている『何か』ではないかと案じている。だが、それが何なのかわからない以上、他にかける言葉が見つからない。
だんだん話すことがなくなってきたガウリイを、少女は見た。それだけで、心の中まで見透かされそうな視線が、ガウリイに注がれる。 少女が視線を外した。
「―――わかった。もういいわ」 ガウリイの心の中の疑問に答えるかのごとく、少女は思いっきりのびをした。
「あーーぁ、これからどうしよっかなぁ」 どういうことだよ?と聞こうとしたガウリイを遮り。
思わず後ろを向き、声を殺して笑うガウリイ。少女はさも心外だという顔で、 さすがに誰でもできる予想だが、少女は不思議だったらしい。また少し不信感を出してたずねてくる。
「……なんでわかったの? まさか、心が読めるわけ?」
今度はガウリイが呆れる番だった。まさか、今時幼稚園の子でも知っている言葉を知らないとは。 「違うわよ! あたしはこれでも、もう18よ!!」 ぶっ。
「っはははは、そうか、18か! いやあ、大人大人」
子供っぽい大人や童顔の大人は世にたくさんいるものだが、彼女が持っているのはそういうタイプの幼さではなかった。明らかに「子供」なのだ。
「たとえそう見えたって…」 少女が言いたいことを言いだす前に、ガウリイは用意した牛乳とパンを差し出した。
「食えよ。ハラ減ってたんだろ」
少女はしばし出されたものを見、チラと一瞬ガウリイに目を向けてから、また視線を落とす。それの意味がわかったガウリイは、皿の上のパンをひとつ手にとった。 そして一気にかぶりつく。クロワッサン1個を3口で食べきってしまうと、目線で少女に食べるよう促した。 無言で伝える。毒なんか入っていない、と。
「…これじゃ足りない」 少女はクロワッサンに、はぷ、とかみついて、
「もっと欲しい。もうないの?」 なんだか嬉しくて、ガウリイの顔は微笑んでいた。
「ふー、ごちそうさま」
半ば呆れ、半ば感心しながらガウリイは言う。手には自分のと少女の二人分の紅茶を持っていた。
「で? お前さん、名前は?」 少女は答えない。予想していた反応だが、これだけはどうしても聞いておきたかった。
「本名がイヤなら、どう呼べばいいのかだけでも教えてくれ。でないと困るからな」
「…教えてくれないと、『おい』とか『名無し』とか『ゴンベさん』とか呼ぶぞ」 「…リナよ。リナって呼んでちょーだい」
「リナ、か。いい名前じゃないか。」
「ねえ、ガウリイ。…あたし、もうちょっとここにいたいなゥ」
もう少し、この風変わりな、何だかわけありの少女につき合ってみよう。そう思ったことは、今の生活が壊されるのを嫌っていたガウリイにとって、まさに驚くべき心境の変化であった。 |
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