聖なる迷い子たち・5


 ガウリイとアーチェスの話をした翌日から、リナはふっつりと教会に来なくなった。
 これまで3日とあけず教会に来てはガウリイにいろいろ話しかけたり、1人静かに本を読んだりしていたリナが、もう7日も来ていない。その事実は、ガウリイの苛立ちをかきたてた。

 毎日のふとした瞬間に思い出す。あの時、アーチェスに向けていたリナの笑顔を。
 いやというほど思い知らされた。リナの笑みは自分だけが独占できるものではない。初めて見た、他人に向けられるリナの笑顔は、頬を軽く上気させ瞳をキラキラと輝かせたそれ。

 多くの人と接する神父という仕事だから、よくわかる。
 あれは恋する乙女の顔。誰でも愛しい人を思う時、自然と出てしまう表情だ。

 まだ二ヶ月。あの男がこの町に来て、まだ二ヶ月。なのにそんなわずかの間で、これだけリナを遠くに感じるなんて。

 「―――リナちゃんも、いい人見つけたんだねえ」
 「…え゛!!?」

 突然耳に入ったとんでもない言葉で、瞬時にガウリイは我に返る。気がつくと、いきなり大声を出したガウリイを複数の女性たちが驚いて見つめていた。

 そうだ、今日は日曜のミサがあって、ヒマな奥さん連中恒例の井戸端会議につきあっている真っ最中だった。
 自分の置かれている状況を思いだしたガウリイは、笑ってその場をとりつくろう。

 「あー……何の話でしたっけ?」

 奥さん連中の中でも一番おしゃべりな1人が、まったく気にせず同じ話をくり返した。

 「だからね、神父様。こないだ、アーチェスくんが引っ越してきたじゃないか」
 「え、ええ」

 今の今まで気にしていた名前を出されて、ちくりとガウリイの胸が傷む。

 「あの子、不愛想だからさあ。いい子なんだけど、似たような年の子はなかなか近寄りにくかったみたいで、まだ友達いないみたいだったんだよ。
  ところが4日ぐらい前、ジェニファさんがアーチェスくんの家から、リナちゃんが出てくるのを見たっていうんだよ。それがもう嬉しそうな顔で、よっぽど会ってるのが楽しかったんだろうってことさ」

 「……そう…ですか……」
 「リナちゃんもそろそろお年頃だし、うまく進めば来年の今頃にゃ結婚の話も出てるかもしれないねえ。神父様はリナちゃんとも仲良いんだから、とびっきりの祝福をしてやんなきゃだよ」
 「………………」

 ガウリイは、どこか心の一部を持っていかれたような気がした。
 リナが結婚したら神父としてちゃんと祝福する。それをこの間リナ本人に告げたのは、まぎれもない、この自分自身だったというのに。

 他人の口から言われると、こんなにも衝撃的なのは一体なぜだろう?

 その後奥さん連中が何を話していたかなど、ろくに覚えていない。適当に相づちをうつのが精一杯だった。

 皆が帰り、1人になってからようやく落ち着いて考える。
 今もぽっかりと心に穴が開いたような、いや、感情をむりやり削ぎ落とされたような、この感覚はなんと言ったろう。

 (喪失感―――だったかな……)

 いつかまだ、全てをといえるほど何も知らなかった遠い昔のこと。こんな気持ちになったことがあったような。

 子供の頃、可愛がっていた犬が狼に殺されてしまった時。死んだのだと知ってからそれが実感できるまで空白だった時間とよく似ている。
 それからまだ神父になりたてのあの頃。極限まで荒んでいた自分に、神を信じることを教えてくれた神父が事故死した時。周りの人が死ぬのは特別なことではなかったし、彼は神の元へ行ったのだと思っても、消しきれなかったあの空虚感。

 今度のは、それらの時よりはるかに大きい。
 しかもリナは文句なく幸せになろうとしているのだ。それがなぜ過去の悲しい状況と重なるのだろう?

 いや、なぜもなにもない。答えなど一週間前からとうに出ている。
 認めたくなくて毎日否定ばかりしていたが、ここまで来るとどうでも認めざるをえない。

 (オレは……リナのこと―――)

 あの小さい少女がこれだけ自分にとって大事な存在になるなんて、5年前は考えもしなかった。
 自分から離れてゆくことが耐えがたいほど、強い独占欲を抱くようになるなんて。
 たった一週間会えないことが、どんなことより苦痛になるくらい。

 「一週間――か……」

 ガウリイはそっと服の上から懐の中の聖書に手をあてる。
 神は6日で世界を作られた。7日目には、新しい世界が始まっていたのだ。
 リナがこの教会へ来なくなってちょうど7日目。その間、リナはあの男と新しい世界を築き、それらは今日ゆるぎないものとして始まったのかもしれない。

 ……もう、今さら気づいても、すべては手遅れになってしまった。
 あの声が、あの笑顔が、今はあまりにも遠すぎる。
 髪にふれた時の柔らかい感触さえ、まだこの手にはっきり残っているというのに。

 「リナぁっ………」

 絞りだすように声を震わせても、その呟きを聞く者は誰もいない。
 いつしか視界がゆがみ、ぱたり、と音をたてて、頬を流れた滴が机に落ちた。
 止めどなく伝う涙は水と思えないほど熱い。

 彼女との思い出を作りすぎた礼拝堂が、1人でいるにはあまりにも広すぎて。
 秋口だというのに急に冷えこんだ夜は、自分の心情と同じように寒すぎて。
 ガウリイはそこで一晩中、今日も来ない人を待ち続けた。








 眠っていようが起きていようが、夜の次には朝が来る。

 待ち人が来ずとも朝が来れば、町の人々は動きだす。当然ガウリイもまた、そのサイクルに合わせて仕事を始めなければならない。
 町の人相手の神父という仕事は、昼間寝て夜起きるという漫画家のような生活はできないのだ。
 とはいえ、徹夜後に仕事というのはいくら体力に自信のあるガウリイでもきつい。

 頭がぼんやりして仕事が手につかない。聖書の朗読を間違えたり、人の話を聞いていなかったり。幸い(?)普段からボケっぷりがひどいので、町の人は「また物忘れがひどくなった」ぐらいにしか思わなかったようだが。

 夕方ごろにはいつもよりはるかに疲れがたまっていた。夕日の赤がやたらと目につく。
 それは礼拝堂の中まで西日が射し込み、礼拝堂全体が真っ赤に染まっているためだと気づいたのはかなりたってからのことだった。

 仕事が一段落ついて、こんな風に1人いつもの礼拝堂にたたずんでいると、頭がぼうっとして何もかもが夢のように現実味なく感じる。今日のことも、昨日より前のことも、今以前のことは全てだ。
 最後にリナと話したことも、彼女が来なかった日々も、ゆうべの礼拝堂でのことも。

 ただ現実なのは、今もこの胸に残る小さな痛みだけ――



 こんこんっ
 「ガーウリイ♪ いるー?」



 一瞬 ―――
 夢ではないかと思った。
 高くて明るい、耳になじんだ快活な声。この一週間、何度聞きたいと切望したか知れぬ声。

 声の方を見ると、リナが庭から窓越しに手を振っていた。
 小柄な体に栗色の長い髪。浮かべているのは花のような笑顔。
 なにもかも、一週間前と何ひとつ変わってはいない。

 ガウリイの手がリナへと伸びようとする。しかし、それはわずかにピクリと動いただけで止められた。
 固い顔つきのガウリイに気づかぬまま、リナは勝手に窓を開けて入る。

 「やー、先週こっちの方へ来なかったら、うちのねーちゃんが機嫌悪くって。『野菜もらいに行くのはあんたの仕事でしょ』なんて言うのよ。ここの野菜、すっかりあてにしきってるんだから」
 「……何しに来たんだ」
 「え? だから野菜もらいに、よ。
  今日はいつものお礼にリナちゃん特製ケーキ焼いてきたのよ! ありがたくいただきなさいよね」

 「野菜はやる。…だが、ケーキはいらない」
 「な! ちょっと!? ガウリイ、人がせっかく…」
 「先週ずっと通い続けるような、彼氏ができたんじゃないか。手作りケーキなんかオレに食わせちゃマズイだろ」
 「え゛!? …あ、アーチェスのこと!? 違うわ、彼とはそんなんじゃ…!」

 赤くなって弁明するリナに、ガウリイは内臓が煮えくりかえる思いだった。
 この顔が赤くなっている理由として、2人の間にどんな行為があったのだろう。想像するだけで嫉妬の熱が血液のように全身を駆けめぐる。
 だが、頭のどこかはいやに冷静で、先ほどからスラスラと言葉を紡いでいた。

 「よかったじゃないか。お前はじゃじゃ馬だから、貰い手を心配してたんだぞ。オレは直接知らないが、話だけだとなかなかいい奴そうだしな」
 「だから違うって言って……!」
 「ちゃんと仲良くするんだぞ。あんまりガサツにして嫌われないようにな。お前の年なら、そいつと結婚したっておかしくないんだし」
 「………………」

 「そうだ、結婚が決まったらオレにも知らせろよ。約束通り、一番立派な神の祝福をしてや――――」


  ばちぃん!


 ガウリイの言葉を、リナの平手が遮った。
 ゆっくり目線を戻すと、彼女の顔は怒りで紅潮している。

 「前からバカだバカだと思っていたけど、ここまでバカとは思わなかったわ! 人の話を聞こうともしないでっ…!
  ガウリイの大バカ!!! 大っっ嫌い!!!」

 身をひるがえして駆けてゆくリナの目に、振り返りぎわ涙が浮かんでいたように見えたのは、はたしてガウリイの気のせいだったのだろうか。
 リナは一度も振り向かず走り去ってゆく。その姿が見えなくなってから、ガウリイは礼拝堂の十字架へと目を向けた。
 まるで自らの罪を懺悔するかのように。

 思いきりつき放して、傷つけてしまった。だが、これでよかったはずだ。彼女のためにも、自分のためにも。
 外見はいつも通りなのに、自分の知らない男のことを嬉しそうに語るリナなど見たくなかった。思わせぶりな態度で側にいても、心は残酷に離れてゆくのをまざまざと感じたくなかった。
 これ以上リナに触れなければ、胸の痛みもいつか消えてくれるだろう。

 リナにしたところで、いつまでもこんなところに入りびたっていてはいけない。このまま身体だけでも側にいれば、自分の思いはいつか彼女を今以上に傷つけることとなる。
 そう、これでいい。後でもっとひどく傷つけるより、今突き放しておいた方が。
 …それでも。ぶたれた頬が。リナの涙が。

 「……ちょっと……痛かったな……」

 頬が燃えるように熱い。いや、頬だけじゃない。顔も、全身も熱い。
 自覚すると同時に、ガウリイの身体がグラリと大きくかしぐ。
 目に焼きついたリナの泣き顔が刹那浮かび、そのまま彼の意識は闇に飲まれていった。




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