聖なる迷い子たち・10


 「……そう。ガウリイはそんなことを……」

 はふぅ、とリナは大きく息を吐いた。彼女の次の表情を探って、目の前のアメリアとアーチェスが心配そうな顔をしているのが、彼女にはわかる。
 笑い顔を作って、リナはゆっくり口を開いた。

 「やだな、2人とも。そんな顔して、どうしたのよ」
 「……大丈夫?」
 「なに言ってんの。あたしのどこがいつもと違うって言うの?」

 いまだ声にも心配をにじませるアメリアに、リナは呆れた調子で答えた。だが、長いつきあいのアメリアは、そう簡単にごまかされてはくれない。

 「全部。目も声も雰囲気も」
 「……言ってくれるじゃない……」

 遠慮会釈のない言葉にリナのこめかみがひきつる。しかし事実なのだから反論しようもなく、リナはもう一度息をついて、身体の力を抜いた。

 「そうね……。落ち込んでるとか、悲しいとかいうのとは違うわよ。あえて言うなら――」
 「言うなら?」
 「………………」

 的確な表現がすぐには見つからず、リナはだまりこんだ。

 ガウリイの真意が聞きたい。そう思い、彼女たちに頼んで教会へ行ってもらったのはたしかに自分だ。どんな答えが返ってきても、冷静に受け止めるつもりだった。
 とはいえ、ガウリイが言ったという、『聖女が降臨してくれたことが嬉しい』との言葉を伝えられた瞬間は、落胆した。町の一部の人たちと同じく、これまで通りに接してくれないのだろうと思うと、悲しかった。

 しかし。ほんのかすかにだが、小さく、本当に小さく、嬉しいという感情があったような気もする。
 リナは、それがどこから起因する感情なのか、漠然とわかっていた。

 「『トクベツ』――なのかな……」
 「え? なにか言った?」
 「ううん、なんでもない」

 リナのもらした呟きをアメリアが聞きとがめる。リナは何も言わなかったことにした。

 「あえて言うなら、フクザツな気分、かな」
 「フクザツ? そりゃまたずいぶん……わかりにくい表現ね」
 「だって、そうとしか言いようがないんだもん。いろんな気持ちが混ざりすぎてるし」

 真実だった。嬉しいという感情があるにはあるが、それはほんの小さなもの。大部分の気持ちは、やはり悲しいし寂しいのだ。
 時間をかけて考えたが、しっくりくる表現は、やはり見つからなかった。

 「……それで?
  これからどうするか、アテはあるのか?」

 ずっと沈黙を保っていたアーチェスが口を開く。逆に、リナは口をつぐんだ。
 このままではいけない。このままでは、リナはいつまでも『聖女』として崇められ続けるだろう。

 彼女は、今回の騒ぎが必ず収まると、楽天的に考えてはいなかった。
 たしかにいつか、皆はリナが『聖女』であることも忘れ、普通に扱ってくれるようになるかもしれない。なにせ彼女に、皆の期待するような奇跡――たとえば病人をたちどころに治すとか、災害から町を救うとか――は、起こせないのだから。

 しかし同時に、リナが生きている限り『聖女』扱い、というのも、十分考えられる可能性であった。
 滅多なことでは奇跡など起こしてくれないホンモノの神が、何百年もの長い間信じられているのだから、この仮説を否定する要素はなにもない。

 今の状況から脱却する、具体的な方法はまったく思いつかなかった。今日まで1ヶ月、ほぼ毎日考え続けてきたにもかかわらず、だ。

 「ぜんぜん、まったく。どうするのがいいかなんて、カケラなりとも思いつかない」

 肩をすくめてお手上げポーズをとるリナ。どうにも今日は、二人に押されっぱなしである。
 とはいえ、虚勢をどんなに張ったところで、事実が変わるわけではないのだからどうしようもないのだが。
 疲れたためいきをもらすリナに、再びアーチェスが言った。

 「あのな、俺にちょっとした考えがあるんだが……」
 「え――…………?」










 日に日に朝が冷え込んでくる。

 昼は秋の余韻を残しているが、日の出日の入りの前後、そしてもちろん夜の間も、すでに空気は冬のものに移り変わっていた。
 吐く息にも白いものが濃く混じり、昼間と同じ衣服で外に出ると、肌寒さに身体を震わせる。

 こんな朝早くに起きているのは、牛乳配達と新聞配達ぐらいだろう。その彼らの姿にしろ、毎朝1回ずつしか見かけないのだから、彼らが通り過ぎてしまった後の道に人通りはまったくなかった。

 普段ならば、ガウリイとて本来起きている時間ではない。まだ自分の体温であたたまった布団にくるまり、明け方の夢をさまよっている時間だ。
 けれどここしばらく、ガウリイは日の出と共に起きては、裏庭に出る習慣が身についていた。

 (――93……94……)

 数を数えながら、木刀を振り下ろす。
 教会に泥棒が入ったときのため、撃退用として用意していた木刀だったが、こんな使い方をするとは思ってもみなかった。
 なんだかいくつか飛ばしたような、戻ったような気もして、おそらく正確な数ではないのだろうが、べつにかまわなかった。決まった回数を振ることが目的ではないからだ。

 (……98……99……)

 何度も何度も木刀を振ると、昔の感覚が蘇る。
 ここ数年、ロクに持っていなかったが、やはり身体で覚えたことは忘れようがない。
 荒んでいなければ生きてゆけなかった時代。ただ1本の剣だけが頼り。いつでも身体に血の臭いが染みついていた頃。

 あの頃の、迷いを持たぬ自分に、剣を振るう瞬間だけは帰れるような気がしていた。
 ――いや、正確には、何も望まず、何も持たない自分。だから、執着することも、心を揺さぶられることもない自分、だ。
 木刀に集中して、雑念を追い払う。決して、……を考えないように。

 (……106……107……)

 ブン、と(たぶん)107回目を振った、ちょうどそのとき。
 下の方へ向けていた視界に、人の足が入るのが見えた。
 誰か来たのか、と反射的に顔を上げる。

 「――――!」

 思わず、息をのんだ。

 朝日が逆光となり、まぶしくその人の姿を覆っている。わずかに影となりながらも見える顔。いつもの栗色の髪は、金茶色に染まっている。

 久しぶりに見る、けれどいつも脳裏に思い描いていた彼女の姿。
 一月前とまるで変わらぬ様相で、彼女はそこに立っている。
 ガウリイの口から、彼女の名がもれた。

 「……リナ……」
 「おはよ、ガウリイ」

 にっこり笑ってあいさつをするリナ。首を小さくかたむけた拍子に、長い髪とたんぽぽ色の――今はまっさらな黄金色に染まっているジャンパースカートが、ふわりと揺れる。

 リナの笑顔が輝いているのは、本当に逆光のせいだけだろうか?
 今、ここにあるリナの笑顔。それは、どうしても護りたかった、手放せなかったもの。
 たとえリナに、一生触れることが叶わなくとも…………

 そこまで考えて、彼は、今の自分と彼女の立場を思い出した。
 木刀を地面に置き、そのままひざまづく。

 「聖女さま……こんな朝早くから、どうなされました?」
 「…………リナ、よ」
 「え?」

 「リナ。あたしの名前はリナ=インバース。『聖女さま』、とやらいう、シュミの悪い名前に改名した覚えはないわ」

 「……ですが、」
 「いーい、ガウリイ! ゼッタイに『リナ』って呼ぶのよ! 敬語もダメ。でなきゃ口きいてやんないから!!」

 ぷっくりと頬をふくらませ、リナは横を向いてしまう。それでも一応、ガウリイは善処を試みた。

 「あの……聖女さま。私の立場は神父ですから、そういうわけには……」
 「………………」
 「えっと……だから……」
 「………………」
 「………………」
 「………………」

 リナはそっぽを向いたまま、ガウリイの方を見ようともしない。ガウリイは、大きくためいきをもらした。彼の悩みを表すかのように、白い大きな呼気が風に流れる。

 こうなった時のリナには何を言っても無駄だということを、彼は長いつきあいの中で熟知していた。思いっきりがしがしと、金色の頭を掻き回して、もう一度大きく息をつき、肩を落とす。

 「あー、わかったよ、リナ。少なくとも今は、前と同じしゃべりかたにするから」
 「それでいいのよ。でも、『今は』、じゃなくて、『これからは』、よ」

 今度こそガウリイの方を向いて、にやりと不敵に笑う少女。ガウリイはその中に、『聖女』という言葉のイメージにはありえない、勇ましさを見つけたような気がした。

 彼女ほど、『聖女』という言葉の似合わない女性は、そういないだろう。むしろ、イメージとしては『戦天使』とでもいうべきだ。
 自分や親しい者に仇なす敵と戦い、人々を導く力強い存在。傷ついた人々を優しくつつみ、癒す存在とはまた別のもの。
 とっさのこととはいえ、リナが『聖女』というのは、かなり無理があったかもしれない。

 (いつまで、取り繕えるかな……)

 人々を、ごまかしきれなくなった時。それは、彼がリナを失うとき。
 『聖女』という聖域に少女を閉じ込めきれない時が来たら、彼女は持ち前の力強さでそこから飛び出してゆくだろう。
 『リナ』という名の、一人の『女』として。

 わずかに気持ちが落ち込むのを、彼は自覚した。
 そのわずかな表情の変化に気づき、リナが声をかけてくる。

 「……ガウリイ?」
 「ん? どうした、リナ?」
 「…………。
  ま、いいわ。とりあえず、ごはん食べさせてよ」

 追求をさっさととりやめ、リナはガウリイの思いもかけないことを言って、あっけらかんと笑う。逆にガウリイは、あまりにも唐突な用件に少し驚いた。

 「ごはん……? まさかお前、朝メシたかりにここへ来たのか?」
 「んー、まあそれもあるかな? けど、たとえ他に用があったって、朝の、ひいては1日の活力は朝に食べるごはんから始まるのよっ!」

 拳をかためて叫ぶリナ。
 相変わらずな彼女の様子に、ガウリイからも笑みがこぼれる。

 「わかったよ。といっても、昨日の残りもんしかないけどな」
 「なによ、テキトーな食生活してるわね。不健康じゃないの」
 「そんなこと言うけどな、一人暮らしの男にしたら、ちゃんとした生活してる方だと思うぞ」
 「そうねー、話に聞く世の中の男の一人暮らしって、食事ひとつとっても外食ばっかり、っていう不健康ここに極まれり! って感じの生活らしーもんねー。
  はっ!? もしかして、ガウリイの部屋にも、サルマタケの生えた洗濯してない下着があったらどーしよう!?」
 「……んなもんないって……」

 他愛ない会話。それは一月前と変わらない、幸せな時間。

 「それじゃ、台所に来いよ。今、準備するから」
 「ん、わかった。さあ、朝ゴハンめざしてレッツゴー!」

 機嫌よく教会の中に入ってゆくリナの後を追って、ガウリイも歩き出す。
 彼女の背中を見ていると、いろいろな想いが去来する。
 ぬくもり。痛み。喜び。後悔。幸福感。寂寥感。
 しかし今この時だけは、ひとまずすべての想いを押さえ込んで、彼女の後をついていった。







 耳は少々固いが、白いところはフワフワのパン。
 男の料理としてはやけに丁寧に手を込めた、昨日の残り物であるホワイトシチュー。中の具は、しっかり煮込まれおいしく柔らかくなった、豚肉じゃがいもニンジンたまねぎブロッコリー。
 近所の牧場から分けてもらっている新鮮な牛乳に、その牛乳を使って作った自家製ヨーグルト。

 決して贅沢ではないが、いい素材とちゃんとした腕で作られた料理は、リナの欲求を満たすのに十分だったようだ。ガウリイがテーブルに並べる段階から、リナはもう目をきらきらさせている。

 「をををおおおぉぉぉっっ!! なによなによ、ゴーセイな朝ゴハンぢゃないっっっ!!」
 「だから、そんなたいしたものじゃないって。メニューだって、それほど珍しいもんじゃないだろ」
 「おにょれガウリイ、そーやって『たいしたものじゃない』なんて言い切るあたりが、みんなの寄付で食べてるクセにナマイキなのよっ! ていっ、そのヨーグルトよこしなさいっ!」
 「あああぁぁぁぁ!! お前なぁ、毎朝1つしか用意してないヨーグルトをっ!」
 「うっさいわね、ケチくさい男は嫌われるわよ!」

 いつもの静謐な朝の教会からは、想像もつかないほどの喧噪が、その日の朝は特別に響きわたる。
 早朝マラソンや犬の散歩に出歩いている近所の住民が、なにごとかと足を止めるが、教会の中にいる2人は気づかない。

 ガウリイの用意した朝食は、普段の倍以上のスピードで、2人のお腹に消えていった。食事開始から時間がたてばたつほど、相手のお腹に食料が消えてゆくのだから、自分の分を確保するにはこちらもお腹の中に隠すしかないのである。

 「あー、おいしかったわー。ガウリイ、ごちそうさまー」
 「そうだな。久々にずいぶん食ったなあ……」

 ガウリイは、朝食の残骸とも言える食器だけが残ったテーブルを見やる。そういえば、ここしばらくこんなに気持ちよく食事をしたことはなかった。
 毎日が味気なくて、生彩を欠いていた。『あの』夜から。

 彼は幸せそうにおなかをさすっているリナを見る。腹だけでなく、久々に胸も満たされる。
 願わくば、いつまでもリナが隣にいてほしい。

 だから。

 彼は、彼女を限界までごまかさなければならない。町の人も、彼女自身も、自らの気持ちさえも。
 誰の手も出させない。決して笑顔が曇らないように。決してぬくもりが離れないように。
 リナを――偽りの『聖女』とするために。ガウリイは、舌に偽りの言葉を乗せた。

 「しかしなぁ、リナ。お前さんは『聖女』なんだから。もう少し、それらしくおしとやかにしないとだな――」

 嘘吐き。
 そんなこと、思ってもいないくせに。
 リナが、いつもと変わらず自分と接してくれたことが、涙をにじませそうになるほど嬉しいくせに。
 自分と彼女のスタンスがいつまでも変わらないと信じられて、気が狂いそうなほど幸せなくせに。

 心のどこかから声がする。この声をなんという名前で呼ぶのか、ガウリイにはわからなかった。
 だが、この囁きに耳を貸してはいけない。
 貸してしまえば、リナは…………
 ……『聖女』でなければいけないのだ、彼女は。彼女が、自分のそばにいてくれるためには。

 「――いいか、もっと自覚を持つんだぞ」
 「……………………」
 「……リナ? どうしたんだ?」

 いつのまにかうつむいて黙りこんでしまったリナに気づき、ガウリイは声をかける。やがて、リナは何かに挑むような目つきで、ゆっくりと顔を上げた。

 「ガウリイ……。違うわ」
 「? 違うって……なにが?」
 「あたしは…………



  『聖女』なんかじゃない」




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