なんだか体がふわふわする。
もうろうとした意識の中で、ガウリイが最初に感じたのはそんな感覚だった。
続いて、嗅覚に訴えられる。どこか懐かしくていい匂いが彼の鼻腔をくすぐった。
確かにどこかでかいだ覚えのある香り。
それが何か思い出そうとして、ガウリイは重いまぶたをうっすらと開けた。
目に入ったのは、同じく見覚えのある色。そしてだんだん形が見えてくる。栗色をした糸のようなもの。
そうだ、思い出した。これはリナの髪。匂いもリナの髪の匂いだ。
じゃあ、この全身がふわふわとした感じはなんだろう。
次第にはっきり辺りが見えてくる。ここは廊下だ、教会の。どうやらガウリイの部屋に向かっているらしい。
目線を下に向けると、リナの後ろ頭が見える。自分で動いていないのに進んでいるということは、リナが運んでくれているのだろう。
しかし、それにしては振動がない。おまけに彼女の小さな身体で大男の自分を運べるとも思えないが…?
ただでさえニブい頭がしっかり働きだす前に、彼らはガウリイの部屋へと着いてしまった。リナがひと1人背負っているとは思えないほど器用に扉を開ける。
「まったくもう…。あんまり手間、かけさせるんじゃないわよ」
ガウリイが起きているということに、気づいているのだろうか? いや、そんなはずはない。たぶん独り言なのだろう。
彼がそのまま黙っていると、リナはやはり軽々とガウリイをベッドまで運んで降ろした。
夜の部屋は闇に吸い込まれそうなほど暗い。今夜は新月だから月明かりすら入らない。
そんな黒い世界の中、ふっとオレンジ色の光を伴いリナの顔が浮かびあがった。
オレンジ色の光。そんな光源、この部屋の中にあっただろうか?
まだ頭ははっきりとしなかったが、それでも聞いてみたいことがあって声を出す。
「リナ…?」
つむがれた声は、なぜか思ったよりかすれていた。
やはりガウリイが目覚めているのを知らなかったらしい。リナが大げさなくらいビクッと震える。
「な、なによっ! いつから起きてたの!?」
「お前さん……どうしてここに……?」
「あー…そのことね」
リナは安心したような、呆れたような顔をして、
「ガウリイの様子がちょっとおかしかったから、気になって戻ってみたのよ。
そしたら、礼拝堂の床に倒れてるんだもん。びっくりしたわ」
「……倒れ……?」
「慌てるほどじゃないけど、けっこう熱があるからね。治るまで何日かはおとなしくしてるのよ」
そう言ってリナがおでこにあてた手は、ひやりと冷たくて心地よかった。
考えてみれば昨晩の礼拝堂はかなり寒かった。そこで夜明かししてたのだから、風邪をひいても不思議ではない。
熱にうかされた頭でぼんやり考えていると、また冷たい感触がおでこにふれた。いつの間に用意したのか、リナが水で濡らしたタオルをあててくれたのだ。
「もう日も暮れたんだから、少しは寝たら? 一晩眠れば身体もすっきりしてると思うわよ」
「ああ……そうだな……」
言われるままに意識を手放そうとしたガウリイだが、それをリナの次の一言が遮った。
「まだ7時半だから、たっぷり眠りなさい。今夜は一晩中、あたしがつきそっててあげるから」
「なっ…!」
言葉に驚いて、思わず全速力で身体を起こす。
突然の勢いで起き出したガウリイに、リナはきょとんとした顔をした。
「それはだめだ! ちゃんと帰るんだ!」
「平気よ、子供じゃないんだから。ガウリイの看病で教会に泊まりこむ、って連絡も入れるし」
「それにしたって…!」
いくら病人の看病という名目があったとしても、男が1人だけ住んでる教会に、女が1人だけで泊まったとしたら。
噂の流れ方によっては、リナに取り返しのつかないキズがつくかもしれない。
しかしリナは、どことなく据わった目でガウリイをにらみ、
「あのね。自分の健康管理もできない人間が、『子供は外泊禁止』なんて大人ぶるんじゃないわよ。病人はよけいなこと考えてないで、じっと寝てればいーの」
そして身を起こしかけたガウリイの肩を押し、もう一度寝かしつける。熱で力の入らない彼の身体は、素直に倒れこんだ。
「だってお前……」
「ほら、もうしゃべってないで」
ガウリイはまだ心配だったが、リナはオレンジ色の光の中でやさしく微笑み、そっと髪をなでてくれる。
さっきのようにひんやりしていたわけではないけれど、その手がとても気持ちよくて。
説得する時間も気力もないまま、ガウリイは深い眠りについていった。
カーテンの隙間からもれこぼれる光で、目がさめた。
うっすら目を開けると、朝特有の白い光が部屋に入りこんでいる。
普段と変わりばえのしない朝の風景に、一瞬いつも通りの目覚めの感覚でいた。
だが、ベッド脇にいつもはない茶色の毛布があるのを目に止めると、すぐにゆうべのことが鮮烈な記憶となってよみがえる。
リナは昨晩、家に帰ったのだろうか。
「リナ……」
声に出してつぶやいてみるが返事はない。
毛布をさわってみるとすでに冷たくなっていて、誰かがかなり前に使い終えたことが感じられた。
「やっぱり帰ったのか……」
帰れと言ったのは確かに自分だ。なのに、いざリナがいない部屋を目の当たりにすると、なぜかこんなに寂しくなってくる。
リナの髪をなでるように、同じ色の毛布をなでてみると、胸の苦しさは締めつけられるように強くなった。
…なんだかバカみたいだ。昨日で、リナへの想いは断ち切ったはずだったのに。
彼女の残り香のような物にだけ素直になって。あげくますます辛くなって。
自分がこんなジメジメした人間だとは、今まで知らなかった。
いつの間にか、手放せないくらい好きになっていたのだろうか。
男として1人の女性を愛するという、神に仕える身にあるまじき罪を、知らず犯してしまうほど。
せめて気づくのがもう少し早ければ、何かしらいい方法があったのかもしれない。とっとと離れるにしろ、この腕に抱きしめるにしろ。
「遅すぎたんだな、オレ」
自嘲をこめてポツリと呟くと、ガウリイは起きあがって手にとった毛布をたたみ始めた。
わずか数十秒のその作業が終わらないうちに。
「ちょっと! ガウリイ!? 病人のくせに何やってんのよ!!」
聞き慣れた、威勢のいい声がガウリイの耳に響きわたる。
病み上がりに音の高い怒鳴り声はかなりこたえる…じゃなくって。
「リ、ナ? なんでここに…」
「なんで、じゃないでしょ。あーもう、ゆうべのこと忘れたの? あなたが熱出して倒れたから、あたしが看病してあげてたの。わかった?」
「いや、もう帰ったんだとばっかり……」
「んなわけないでしょ。ほら、さっさとベッド入りなさいよ」
リナはガウリイの手から毛布を取りあげ、器用にパタパタとたたんでゆく。
あっさりきっぱり言いきられて、ガウリイは拍子抜けしてしまった。
かなり悲愴な覚悟で何がなんでも離れなければと思っていたのに、そんな彼の思惑を平気で乗り越えてリナは近づいてくる。
まるでガウリイの考えを笑い飛ばすかのように。もしかして、本当に笑い飛ばしているのだろうか?
そうであって欲しいと願う心が自分の中に根付いていることを、ガウリイは自覚していた。
本当のことを聞ける勇気はまだないけれど、いつか笑って言ってほしい。
『彼が側にいてもかまわない』のだと。
それは、もしかするとリナから女としての幸せを奪うことになるかもしれないけれど。
神よ、もう少しだけ、彼女を引きとめる罪をお許しいただけませんか?
「ほらガウリイ、今おかゆ持ってきてあげるから。大人しく寝てなきゃあたしが食べちゃうからね」
「ああ、頼むよ。オレもう腹ペコだ」
もう少しこの時間が続けばいい。
ガウリイは静かに祈っていた。
彼の熱は幸いその日のうちに下がり、翌日いっぱいで体力も回復していた。
リナは笑いながらこう言ったものだ。
「ガウリイってば、カゼひいてた時の方が顔がしまって見えてたかもねー。怖いくらいの表情で、わけわかんないこと言い出すんだもん。びっくりしちゃった」
「あのなぁ……」
あれは熱のせいではなく本気で言ったのだが、今そう思われているならそれに越したことはない。
口には出さなかったが、リナはガウリイを心配していたらしく、それからの数日間は毎日教会へ通ってきた。
遊びに来るようなそぶりで現れて、さりげなく手伝ってくれる彼女の心遣いがとても嬉しい。
今日もリナは、ガウリイの買い物についてきてくれた。もっとも、体調も治っているので荷物持ちはガウリイの役目だ。
「そろそろガウリイのカゼも完全に治ったみたいね。さすが日頃、農作業できたえてるだけのことはあるわー。よっ! 体力神父!」
「まったく、人がせっかくここ数日の看病に感謝してるってのに…。んなこと言うなら、昨日アメリアに出かけるついでで頼んだ、『ラ・プルゾワ』のイチゴケーキは、体力つけるためにオレ1人で食っちまうぞ」
「あ〜〜、まあ、細かいことを気にしてると大きい男にはなれないわよ、うん」
「もう十分大きい男になってるじゃないか?」
「ガウリイの場合は身体だけでしょっ!」
談笑しながら並んで歩く通り道も、すでに秋の色が濃い。歩くたびに足下からは落ち葉がカサコソと音をたて、遠くに見える太陽は早々沈みかけている。
冷たくなってきた風が一度強く吹き、リナがブルッと身をふるわせた。
それに気づいたガウリイは、自然な動作で彼女の風上に立ち、風よけとなる。
何も知らないものが見たら、ガウリイの職業と2人の関係を知らない者が見たら、それは紛れもなく恋人同士の光景だった。
例え偽りであってもいい。そのように見えているだけで。
今ここにある情景が、ガウリイのわずかな心の慰めとなっていた。
こうやってなんのしがらみもなく、ただずっとリナと歩いていられたら。
(ずっと幸せでいられそうな気がするな――)
だが運命は、神を裏切りつつあるガウリイを許さなかった。
こんな刹那の幸せさえ、無情にも奪い去っていったのである。