BOY MEETS GIRL


  ザアアァァ……

 激しい雨の音と水の匂いだけが、いやに浮かびあがって感じられる。

 「……………」

 鉛色の重い空を、オレは生気のない目で見上げた。
 もうすぐ死ぬんだろう。血を流す傷口はなんとか自力でふさいだが、体中の力が抜けていくのを抑えることはできなかった。

 固くて冷たいコンクリートの感触。オレが座りこんでいる目の前の通りを、多くの人間が歩き去ってゆく。全身血まみれのオレがいても、彼らは叫び声ひとつあげることはない。
 人間達には、見えていないのだ。オレの姿も、この黒い羽根も。

 ある時期からずっと伸ばしていた爪の先を伝い、一滴の血がしたたり落ちた。…もう、オレの末路は決まっている。

 ……死んだらどうなるんだろうな……
 オレは漠然とそう思った。

 人間は、死ぬと天使が迎えに来て天の国へ行く。ならば悪魔のオレは、いったいどこへ行くんだ…?

 その疑問は、もうすぐ解ける。
 オレの意識が、どこかへ遠のき始めた頃だった。

  バササッ

 (…なんだ?)

 鳥か? いや違う。
 こんな雨の中を鳥がとぶはずないし、それに鳥とは微妙に違った、この聞き覚えのある羽音は……。

 オレが意識を引き戻して目を開けると、そこにはもう、思った通りの姿があった。
 軒下に突然現れた―――天使。

 天使らしく愛くるしい童顔に、長く美しい髪。背中には、天使の象徴である白い羽。まさに「純粋」や「清楚」といった言葉を、そのまま形にしたような。
 白い、古代ギリシャを思わせる服は、天使の正装だ。薄く輝いているその服が、そいつの白い肌とよく似合っている。スラリとのびた細い手足は、性の匂いを感じさせない。

 そいつはオレを見て小首をかしげ、口を開いた。

 「あっれーー!? こいつ、アクマ!? なんであたしの管轄リストに入ってるわけぇ!?」

 …ちょっと、いや、かなり風変わりな天使のようだ。

 確かに天使にも、いろんな性格のやつがいる。だが、一歩人間の世界に足を踏み入れたら、しつけられた通りにふるまうのが普通だ。
 いわく、お上品に。物静かに。知的に。
 それを考えると、この天使はかなり変わっていると言える。

 栗毛色した天使は、オレに向かってニコッと笑った。天使ではなく、人間の娘のように。

 「まーいいわ。あたし、死んだ魂案内部門のリナよ。よろしく。さっそくだけど『ガウリイ』、迎えに来たからちゃっちゃとついて来てね」

 こんな時だが、オレは傷の痛みも忘れて、小さく笑ってしまった。

 「…それはまた、ずいぶんとストレートなネーミングだな」

 確か、そういうことを担当する天使は、天の門なんとかって仰々しい名前がついてたはずだ。
 とかく体裁をつけたがる天界にあって、このリナのような存在は、本当に珍しい。

 「でも、わかりやすいでしょ」
 リナは茶目っけたっぷりに笑って、

 「ねえ…。あなた、アクマなのよね?」
 「ああ…そうだ」

 どうしても気になるらしく聞いてきたリナに、オレは簡潔な答えを返す。リナはそれでも不思議そうに首をかたむけた。

 「…だけど、なんで金の髪と青の瞳なの?」

 一般に、天使で髪と目のどっちも黒という組み合わせがいないと思われているのと同じく、悪魔にも金と青の組み合わせがいないと思われているのを、オレは思い出す。
 そう、一般の天使は、真実を知らない。

 「それは俗説だよ。……もっとも、オレは堕天使だからな…」
 「堕天使!? 堕天使って、『魔界に堕ちた天使』の堕天使!?」
 「…他にないと思うぞ」
 「おっかしいなあ、堕天使って天界を永久追放でしょ? 他のアクマより迎えなんて来なさそーなのに…」

 リナは、オレも昔使ってた天界の規則やら教えやらの書いてあるマニュアル本と、自分のメモ帳らしきものを見比べてうなっている。そのメモ帳に、「リナちゃん用(はぁと)」と可愛い丸文字で書いてあるのだが、オレは見なかったことにした。
 やがてリナは、マニュアルとメモ帳をしまい、ひとつ大きくうなると、

 「〜〜〜〜っ、まあ、もしこれが何かのミスであっても、それはスケジュール係の責任よね! こんな雨の中わざわざ足を運んだあたしに非はないわ!
 とゆーことで。『天の父は、全ての罪をお許しになります。さあ、参りましょう…』」

 そう言って柔らかく微笑み手を差し出したリナの笑顔は。天使というより、女神のようで。
 こんな顔もできるんだ。
 オレはしばらく、その微笑に見惚れていた。

 そのうち、一瞬だけリナの顔が歪んだかと思うと。

 「だああぁーーーっっ、ウンとかスンとか言いなさいよ!! こんなはずかしいセリフ無反応でいられたら、あたしのほーがリアクションに困るでしょーが!!」

 …突然、女神はガラが悪くなった。
 オレは思わずふきだしてしまう。

 「リナー、おっもしれえなぁ、お前さんって!」
 「ちょっとー! 人がマジメにやってんのに笑わないでよ! ったく…」

 リナは真っ赤な顔のままオレの隣に座りこみ、オレの顔をのぞきこんだ。リナの目が近くなる。
 一瞬わずかに心臓がはねるが、その目から視線をはずすことはできなかった。リナの方も、まじまじとオレの目を見つめている。

 「でも、ホントにキレイな青ねえ……。まるで空の色みたい。天界にも、めったにない瞳だわ。ね、ガウリイは空の上で、何してたの?」
 「…オレ、前はガウリイ=ガブリエフって呼ばれてたんだ」

 無邪気に質問するリナへ、オレは少々婉曲的に答えてみた。天の国の者なら、これでわかる。

 「って、あのガブリエルさま直属!? そんなすっごい天使がどうして………っっ」

 ハッとリナは口をおさえる。さすがにここから先は、立ち入るべきじゃないと思ったようだ。オレはわずかな苦笑を浮かべ、

 「まあ……いろいろあったのさ。どうしても、天の国にはいられなくてね」
 「そっか………」

 それ以上、聞いてこない。

 傷は相変わらず痛み、息が浅く早くなっている。長くしゃべるのはしんどかったが、最期の時をこの不思議な天使との会話で迎えるのも、悪くないと思った。
 代わりの話題を口にする。

 「結局この大ケガも、その”元ガブリエル直属”ってのが原因さ。他の悪魔ってのは堕天使に、『よそ者』みたいなイメージを抱いてるからな…。同じ悪魔の中でもはぐれ者なんだよ、堕天使は。
 それで、ちょっかいかけてきた奴を機嫌にまかせて再起不能にしたら、そいつの親戚がなかなかどエライ奴でな…。かなりの数の悪魔をけしかけられて、オレはこのザマだ」

 悪魔には天使と違い、ごく一部に血族というものが存在する。
 もっともその情はほとんどあってなきがごとしなんだが、格式とやらはしっかり根づいている。親族を傷つける者は自分の誇りを傷つける者という反応をするやつも、エラいさんの中にはいたりするんだ。
 ちょうど、オレを傷めつけてくれた奴のように。

 「…それじゃ、もしあたしが来なかったら、どーするつもりだったの?」
 そっとオレの様子を窺いながら聞いてくるリナ。

 「さてなぁ。どーせこの羽根じゃ、もう魔界に帰れないし。帰れたとしても、いつまた襲われるかわからんし……」

 オレの背中の羽根は、もはや攻撃された影響でボロボロになっていた。途中からちぎれ、あちこち穴もあいている。これではもう二度と飛べないだろう。

 「まあ人間界で、うろうろすんのが関の山だったろうな。…お前さんが迎えに来てくれて、ちょうどよかった」
 「あたし、連れてかないわよ」
 「へ?」

 予想外のリナのセリフに、オレは思わず素っ頓狂な声を出す。
 リナはオレのことを、キッと睨みつけた。

 「あのねえっ! 生きものは、死んじゃったら終わりなのよ!? 天の国なんて言っても、結局何も変わらない、夢の中みたいなもんなんだからっ! あそこはっっ!
 生きものは、生きてくために生まれたんだから、ちゃんと生きてから死になさい! 死にたかった、なんて根性なし気に入らないわ!! そんなのあたしは連れてってやんないかんねっ!!」

 天使としてあまりといえばあまりなセリフに、オレはぽかんとリナを見つめる。
 普通、天使は魂を連れてゆくのが『仕事』だ。「連れてかない」と言われても、それじゃ魂だって天の国だって困る。
 …だけど…その言い様は、とても身にしみた。

 リナはオレに見られているのに気づき、顔を赤くして、ぷいっと横を向いてしまった。
 オレはこみあげる笑いを必死におさえ、

 「…っぷっ…。お前さん、それじゃ、成績悪いだろっ…?」

 リナは音がしそうな勢いで向き直り、

 「わーるかったわね! 7日前にこの仕事配属になって、今までの10戦中、8勝2敗よ! 文句あるっ!?」

 ぷりぷり怒りながらオレを怒鳴りつけた。
 オレの方はというと、ついにたえきれなくなって笑いだしてしまう。

 「ははははは、そーだよなぁ。こんな『いー人』やってちゃあなぁ」

 普通、天使が魂を連れていきそこねることは、100人に1人あるかないかだ。手ぶらで帰ってもその人はいつかやっぱり死ぬわけで、二度手間になるから、天の国ではそれを『失敗』と呼んでいた。
 それが10人に2人は、確かに多すぎる。

 本当に不思議な天使だ。こいつを見てると、こっちまで元気が出て、心があったかくなってくる。きっとその2人も、同じことを感じたのだろう。
 オレはなんとか笑いをおさえると、リナに向かって優しく言った。心は、もう決まっていた。

 「じゃあ、オレはその3人目になってもいいか?」
 「…っ、あたしが言いだしたんだから、かまわないけど……。あ〜あ、また怒られそう」

 天へ帰ってから起こることを想像したのか、リナがうんざりとした顔をする。オレはその間に、残った力をふりしぼってリナへ手をのばしていた。

 「…あれ? でもあんた、このまま助かるよーなケガじゃ……」

 言葉途中のままに、リナの頭をぐいっと引き寄せる。

 「〜〜〜〜〜〜?!?」

 リナは何か言いたそうにしていたが、もちろん言葉は出てこない。
 なにせその口は、オレの唇でふさがれていたのだから。

 バタバタ暴れるリナを抱きしめ、たっぷり10秒ほど、リナがおとなしくなるまでその甘く柔らかい唇を味わい、やがてそれを離す。
 オレの身体に力が戻り、代わりにリナの身体から力が抜けていた。

 「…っバカッ…。あたしの生気、吸いとったわねぇ……」
 「ごちそーさん。メチャクチャうまかったぜ、リナの生気♪
 生きる気にさせてくれたんだから、ちゃんと生きる力まで面倒みてくれないとなっ♪」

 すごくうれしそうな顔のオレと、とても悔しそうな顔のリナ。

 「バカーーッ! ヘンタイ! このアクマーー!!」
 「真っ赤な顔で言っても、説得力ないぞ」
 「う゛〜〜〜〜、もう帰る!!」

 いまだ抱きしめていたオレの腕をふりほどき、リナはその白い羽で空に浮かびあがる。まだオレが吸いとった分の生気が不足して、ちょっとよたっていたが。
 そのままわき目もふらずに飛んでいこうとするリナの後ろ姿に、オレは声をかけていた。

 「リナ!」
 「…なによ?」
 「また…会えるか?」

 振り向いたリナは、わずかに苦笑していた。

 「そんな偶然、めったにないと思うわ。…たぶんね」
 「じゃあ、会いに来てくれないか?」
 「へ!?」

 今度はリナが素っ頓狂な声をあげる番だった。オレはとっときの笑顔をみせて言う。どうしても、このまま永遠にリナと会えなくなるのは嫌だったから。

 「オレはまた、リナに会いたい。
 たぶんこの辺りでうろうろしてると思うから、たまに会いに来てくれ」
 「なに言ってんの! あたし、そんなヒマないわよ」
 「…なら、また死のうとするぞ」
 「なっ!? ちょっと、なんでそーなるのよ!?」

 突然の衝撃的なセリフを聞き慌てだすリナに、ウインクをひとつ。

 「だって、死ぬ前にはお前さんが来てくれるんだろ? それじゃ寝ざめが悪いってゆーんなら、たまにでいいから。会いに来てくれよ」
 「それは……でも……」
 「リナ」

 オレはその名を呼び、まっすぐリナの目を見る。リナは少し考えこんでいたようだが、そのうち大きく息を吐きだした。

 「はぁ……。わかったわよ。ヒマがあったらね」
 「約束だぞ。天使がウソついたら針三本だからな!」
 「それを言うなら針千本でしょーがっ!
 ガウリイこそ、あたしが来た時にいなかったら、針10万本だからねっ!」

 最後まで憎まれ口をたたきながら、今度こそリナは飛びたってゆく。
 その姿が見えなくなる前に、オレは大声で叫んだ。

 「リナー! 今度のキスは生気吸いとらなくても、足腰たたなくしてやるからなー!」
 「こんの大バカーーー!! えっちーーー!! 誰がさせるかあーーー!!!」

 リナの澄んだ声が、いつの間にか雨のあがった青空に、響きわたっていった。




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