夢…夢を見た。
起きてみて、どんな夢だったか、はっきりと思い出せなかった。幾度と繰り返し見てきた夢のはずなのに朧げながらにしか脳裏に閃かない。大切な何かを失って悲嘆に暮れる夢───そんな夢だった気がした。失ってはいけない何かを、何度も喪失する夢。締め付けられるような胸の痛みだけが余韻を残していた。
誰かがいなくなる夢───?そうだったのかもしれない。なら、尚更恐ろしいだろう。カイ自身夢判断に関しては殆ど無知だが、それが予知夢ではないことを願っていた。
───でも、願いは叶わないものなんだ。いつだってそうだった───
夜気の凍える夜空には、月が蒼白いその姿を悠然と漂わせていた。
瞬く星は所狭しと暗闇を埋め尽くし、水面がそれに応えて朧げに光る。そんな幻想的な輝きを一身に受ける彼女は静かに呟く。
「でも…出来ることなら、貴方と同じ時を過ごしたかった…」
「…アン?」
「馬鹿な話ですよね…人と同じく生きられないなんて…」
月の淡い光が髪の上を滑った。
「…なのに…人を愛してしまうなんて…」
髪の毛に纏わりつく風が、言葉を余韻も残さず運び去っていく。アンはその疎ましい風を断ち切るように振り返った。
「…どうして神様は、人としての生を与えてくれなかったんですかね?」
ワケが判らなかった。
人と同じく生きられない?人としての生?じゃあ、今俺の前にいる君は何だというんだ。全く馬鹿げている。下手な冗談だ、と笑い飛ばそうとしたが…不思議と表情が強張って、言葉が出ない。この胸の痛みはどこかで知っている。そう、あれは…。
と、彼女の自嘲気味の笑みがくしゃりと歪む。そう気付いた時には、カイの胸にアンは顔を埋めていた。呆然とする彼を腕の中で、悲哀に満ちた声が洩れる。
「…わたし…貴方と同じ時を過ごしたい!人として生きてみたい!」
その頬は涙で濡れていた。カイの服をぎゅっと掴む。
「わたし…わたし…このまま終るなんて嫌…。このまま消えるなんて…嫌…」
失うことの悲しみ。
残された寂しさ。
生きることの空しさ。
死ねない辛さ。
様々な感情がカイの頭の中に雪崩れ込んでくる。
それが自分のものなのか、アンのものなのか───胸が押し潰されそうになるほどの苦痛と不安は既に判別がつかない。
しかし、ただ一つの予感だけが確かにあった。
(何故…)
(なぜ…)
(何故…君は…)
ナゼ君ハ、俺ノ前カラ…
「わたし…貴方と―――」
アンの唇が言葉を紡ぎ出そうとする。
その刹那、光が爆発した。
同時に、全く同時にカイはアンの身体を抱き締め、何かを叫んだ。
それは摂理めいた運命への嘆きだったのかもしれない。大切なものが希薄になっていくことへの憤りだったのかもしれない。
とにかく、叫んでいた。喉が張り裂けたとしても一向に構いはしなかっただろう。それでこの不安が取り除かれるというのなら、喜んで引き裂くことが出来たに違いない。死線を何度も潜り抜けてきたこの身体など惜しくなかった。死と常に隣り合わせの自分を、今更この光が殺したところで恐怖も殆ど感じない。
しかし華奢なこの少女を失ってしまうのは――─それだけは耐えられない気がした。
幾度となく夢に見た顛末は何だったのか。
猛烈な喪失感と戦う中、胸の中でアンが何かを呟いたのを聞いた気がした…。
───ここが本当の始まりだったのかもしれない───
それから数瞬――─実際はほんの一秒にも満たない時間が過ぎた。
眩いばかりの閃光が薄れていく。一度失った静寂が戻ってくる。漆黒の闇が再び降り始め、それに負けじと潮騒が旋律を奏で始めた。
(そんなものはいらない…)
しかし、その代償は余りに大きい。
(そんなものはいらないから…!)
腕の中に残る温もりがゆっくりと冷えていく。抱き留めていたはずだった少女の身体の感触が消えていく─――それが身を引き裂かれるほどの苦痛だった。
「俺は…アンのことが好きだ…誰よりも」
瞼を強く閉じたままカイは言った。それは掠れて殆ど言葉にすらなっていなかった。答えて欲しかった。しかしそれすら叶わない。
瞳を開け、そこで彼は自分の腕が抱える悲劇を瞳に映した。夢から醒めて幻想が姿を散らしたかのように、その腕の中には、辺りに漂う磯の匂いだけが残っている。彼が愛した人は、もういない。
潮騒が鼓膜を打つ。足許に波が絡み付く。風は止み、マリンスノーが静かに舞っている。
壊れたカラクリ人形のようにぎこちない動作で、虚空を掴んでいた自分の二の腕を抱き寄せた。その腕に思い切り爪を立てて掻き毟る。
頬の上を、涙が滑っていった。
どうしてなんだ…。
カイは心の中で絶叫していた。
恥ずかしがり屋ですぐ頬を赤らめたアン。誰もいない海辺で静かに歌を歌っていたアン。そして…カイのことを愛していると言ってくれたアン。
─――何故、そんな彼女がカイの前から消えなければならない?
悲恋の運命が二人を切り離したとでも?虚ろなる神々が、嫉妬したとでも?それとも…
ぎしり、と音を立てて、食い縛った歯が軋む。
…それとも、"異なる存在"と愛し合うことが、裁かれるほど罪だというのか…?
そんな些細なことが、押し付けられたような運命通りにアンが消えてしまう理由になるというのか?そんなことが…あるというのか!
これからやりたい事だってあったはずだ。幸せな未来を夢見ていたはずだ。それなのに絶対的なものに押し潰されてしまうなんて─――残酷すぎるじゃないか…。
胸が張り裂けそうな悲しみと怒りをを呻き声に変えて、カイは膝を折った。
声に出して泣き叫びたかった。けれど、それすら出来ない。血が滲むほど唇を噛み、喉を震わせるだけの声無き慟哭を響かせる。
カイは拳を握り締め、足許の砂浜に叩き付けた。二度、三度とそれを繰り返す。鈍い痛みが、絶望の色に染まった心に響く。
一際大きく拳を振り上げて――─砂の大地に、力なく打ち落とす。
鳴咽が洩れた。
『─――カイさん…わ、わたし、一生の宝物にします…
今夜のこと…忘れません…ずっと…─――』
『─――掌の中で溶けてしまう雪…、まるでわたしの…――』
彼の腕の中に、海と同じ色の髪をした少女がいた。澄んだ歌声の少女がいた。
全てが幻だったかのようにその姿は掻き消え、歌声も聞こえなくなってしまったけれど、カイは決して忘れることはないだろう。絶望を背負いながらも彼を愛してくれた少女のことを。
幾百の、幾千の、幾億の偶然を経て二人は出会った。確かに偶然だった。それでも、今思えば必然だったような…。
―――休むことなく繰り返される小波の中に、小さな光が煌く。
波間に漂うイミテーションの宝石――─それは人を愛し、人と同じ時を過ごすことを夢見た少女の小さな孤独だった。