昼間でも薄暗い廊下は、いつ来てもどこかしらに不安を感じさせた。
幾多の戦場を駆け抜け、その中を生き抜いてきた彼にとっても、それは変わらずに感じさせられた。
――いや…だからこそなのか……。
考えをもてあそんでいた彼は、ふと思い至った。
ここは、戦場とは全く違った理論によって動かされる世界。
どれほどの修羅場をくぐり抜けて来ていようと、自分はこの世界の素人に違いない。
田舎豪族出身の自分では、到底太刀打ちできないものがここにはある。
そして、自分がこれから行こうとしているところは、その世界でももっとも恐れられている人物の所だ。不安を感じない方がむしろおかしいのかもしれない。
王都内でもっとも広大な屋敷のもっとも長い廊下を歩きながら、彼は今自分が感じている不安に押しつぶされないように考えに没頭していた。
やがて長い廊下の終わりに近づく。
そこにある重々しい扉の両脇には、護衛兵が立っていた。
護衛兵の一人が彼の姿を認め、扉の内側に知らせる。
その間も、彼は廊下の終わりに向けて歩き続ける。
しばらくして扉が内側から開けられた。
扉が開ききるのを待って、彼は護衛兵に軽く会釈をしてから、扉の内側に入った。
扉の中は控え室だった。廊下と違って明るく光が灯されている。そして部屋の奥には扉があった。
彼の緊張は否応なしに増した。
顔の皮が突っ張り、右頬の古傷が引きつるような痛みを覚える。
この屋敷の主に関わるもので、この部屋に呼び出される意味を知らぬ者はいなかった。
例え直接的な理由でなくとも、命を失う覚悟が必要だった。
事実、過去にこの部屋に呼ばれたものは主によってこの世から抹消されるか、もしくは家を左右する問題に関わることとなっている。
そのどちらにしても、相応の覚悟が必要なことにかわりはない。
背中を伝う冷たい汗が、顔面に出るのを何とか防ぎながら、彼は控え室で待った。
実際にはごくわずかの時間だったのだろうが、精神的な理由のために無限にも感じられる時間を経た後、彼は続く部屋への入室を許される。
奥の扉まで歩き、扉をたたいて扉の内側に告げた。
「御館様。ベナンダンディー、参りましてございます」
「はいれ」
いささか嗄れてはいるが、よく通る声が内側から聞こえた。
「失礼いたします」
彼――ピクシス宗家御家御息女守役グスタフ=ベナンダンディーは、扉を開いた。
約300年前の大トルキア帝国崩壊によってできたドルファン王国は、帝室ヘレニガム家の末弟であった“建国王”帝弟ベルギリス大公の帝都脱出によってその歴史に幕を上げた。
脱出の際、海路で自分の領地――パーシル大公領地に向かう途中、航路を失した乗船がイルカに導かれたことによって危機を脱したことをうけて、ベルギリスはイルカを家紋としたドルファン家をうち立てたのが、王旗(国旗)の謂われとなっている。
帝国崩壊による混乱は、異民族の跳梁や諸侯乱立による戦乱によって20年にも及んだが、その間にトルキア地方テラ川以南域の諸侯をまとめ上げたベルギリス=ドルファン(すでにドルファン家を名乗っていた)は、特にテラ川中流域の要衝であるダナンを押さえるダナン伯と姻戚関係を結ぶことによりベルシス家を味方に引き入れ、優良な馬産出地であるトルキア地方南部を押さえることに成功した。
陸戦最強の打撃機動兵力である騎兵隊を多く抱えることが可能となったドルファン王国軍は、“陸戦の雄”とまで謳われることとなる王室騎士団を中心として混乱期を乗り越え、現在に至るドルファン王国を形作ることに大きな役割をはたした。
そして、混乱期を通してベルギリスを支えた4人の貴族と彼らの生家――ウエール公爵のピクシス家、ダナン公爵のベルシス家、ベルトニア公爵のエリータス家、コーレル公爵のカイニス家は、混乱期収束後、王室会議の円卓において国政に絶大な影響力を持つこととなる。
これら四大公爵家と王室による政治主導の状態は、ドルファン王国中期までその強力な指導力も相まって、王国に繁栄をもたらした。
しかし、権力という麻薬の持つ危うさに、彼らも苦しみ始める。
お互いの利益が衝突しあい、軋轢が生まれ始めたのだった。
遠くヘレニガムの血を受け継ぎ、王家とも深い血縁関係にある“政治”のピクシス家。
大トルキアの時代より武門の誉れ高く、王室に絶対の忠誠を誓う“軍事”のベルシス家。
両家の対立は、ここ30年でより根深く、顕著に表に出始めていた。
特にピクシスは、同じ様な身の上であるエリータスと手を組み、その専横は日増しにその度合いを増しているかのようだった。
「――だったんです。先生。……グスタフ?」
呼びかけられていることに気付き、グスタフは我に返った。
目の前にいる彼の主人に対して頭を下げながら謝罪する。
「申し訳ありませんお嬢様。いささか、ぼーっとしておりました」
「だいじょうぶ?もし体の具合が悪いのだったら――」
「いえいえ、ご心配には及びません。お嬢様。ただ惚けていただけですので……。いや、歳をとると、どうも現を抜かし気味になってしまいます。お恥ずかしい」
「ふふっ。グスタフでもそんなときがあるのね。でも、先生。いつもはこんな事はないんですよ」
楽しそうに笑い、話しかける彼女の前には、東洋人が一人立っていた。
先日、御息女家庭教師として招聘した男で、東洋医学と博物学に興味を持たれたお嬢様に御進講奉るために招かれた――表向きはそうなっていた。
実際彼は相当見識が深く、家庭教師として申し分ない能力を持っているのは確かだった(招聘しておきながらも行われた試験で、それは確かめられた)。
だが、彼が招聘された理由には、このピクシス分家に割り当てられた屋敷ではグスタフ以外誰も知らないものがあった。
目の前にいる東洋人が家庭教師としてこの屋敷に来るようになってから早数カ月が経っていたが、そのことでグスタフは未だわだかまりを捨てきれずにいた。
「ふふっ、そうなんです。あ、でも先生はシリウスに吠えかけられなかったそうですね。グスタフにききました。…不思議なんです。あのこはお兄さま以外の人には決してなつかなかったのに……」
ふと寂しげな表情になる少女。
それに気付いたグスタフは、彼女にさりげなく近づいて言った。
「そうでした。わたくしめも最初は吠えられましたものです。しかしお嬢様、シリウスもまた生き物にございますれば好き嫌いがございましょう。シリウスはたまたまそれを判断する基準が高いのだと、このグスタフめは考えます。ですから――」
「ええ。そうね……。シリウスも好きな人や嫌いな人がいてもおかしくないわよね?」
「はい」
「……ありがとう。グスタフ」
グスタフのさりげない思いやりに気がついた少女は、柔らかい微笑を浮かべて彼に礼を言った。
これまでも、少女が気持ちを沈めるたびにグスタフは少女のそばで、彼女のために色々尽くしてくれていた。
いまもまた、自分に対して優しさを向けてくれている守役に、彼女はまるで本当の祖父に抱くような親しみを感じていたのだった。
しばらくの間、和やかな雰囲気の元に話が交わされていたが、グスタフが水時計を見た。
「おお、そろそろ時間ですな。お嬢様、今日はこれまでにございます」
所定の時間になったのを確認したグスタフは少女に告げる。
それをきいた少女は少し驚いた顔をした後、残念そうな顔をして言った。
「あら、もうそんな時間なのね。先生。ありがとうございました。今日も楽しかったです。来週もお願いしますね」
別れの挨拶をした少女に返礼している家庭教師を見ながら、グスタフは先日に改めて呼び出された主人での屋敷のことを思い出した。
「ふん。蛮族の男にしては、それなりの者ではあるようではあるな?」
実際の年齢より、遙かに若く精力的に聞こえる当主の声が室内に広がる。
「はい、わたくしも驚きましたが、相当な教養の持ち主と見えました。おそらくそれなりの家柄における出自の持ち主であろうことも」
「蛮族に家柄も何もないであろうが。まぁ、よい。そちの言うことは解る」
「は」
「そうか。蛮族が、な……」
いささか不機嫌に呟いた当主は、考え込むように口を閉ざした。視線は部屋の壁の装飾に据えられている。
決して華美ではないが、おそろしく手の込んだ、落ち着いた雰囲気の内装の部屋は、この部屋の主の好みを如実に表していた。
質素とまでは言わないが、貴族の部屋としては飾りの少ない部屋。
王都でもっともおそろしい場所としては、訪れた者にいささかの拍子抜けを感じさせる部屋だった。
実際にこの部屋の主が、世間一般に思われているような贅沢を好む様な人物ではないことをグスタフは解っていたが、それでも世評との差異にとまどいを感じずにはいられない。
「では、家庭教師の件はこのまま――」
いささか伏し目がちにグスタフが尋ねると、当主は視線をグスタフに向けて言った。
「そうだ。このままでよい。常に目の届くところにその男をおいて置け」
「はい」
初めて呼び出されたときに告げられた役目。
今回の戦争に際して募集された傭兵の一人。
さきのイリハ会戦においてもっとも武功優れた男の監視が、グスタフに与えられた使命だった。
グスタフにとっては、監視ぐらいはどうと言うことはなかった。元々彼が生業にしていた仕事にはその手の仕事も多くあったし、それなりの自信もある。
彼が気になるのは別のことだった。
「あの役立たずにも、それぐらいの用い具合があろう」
「……!?」
何気なく言った当主の言葉に、グスタフは身が凍るような思いを抱いた。
「子の産めぬ体などに生まれおって。兄妹共々に役立たずなことだ」
「……」
当主の独り言には応えず、視線は床においた。表情を変えてしまわぬよう、努力して感情を抑える。
当主の漏らした一言。
それはグスタフの懸念をそのままあらわしたものだった。
彼の現在の主人――ピクシス宗家御息女に対して宗家当主が判断している価値。それを如実に物語っていた。
「宗家継嗣をアルダナスにくれてやれば、カイニスも静かになろう。宗家血統を何とか保てられるのだから、ひとまずは良しとするべきか……」
紡がれている当主の独り言に、耳を傾けながらグスタフは絶望感に苛まれていた。
当主の言葉は絶対に実行される。
そして当主の言葉から察せられる、グスタフの愛する可憐な主人の未来は余りにも暗澹としていた。
宗家系譜から廃籍されかねない。
そうなればおそらく分家に組み入れられることになるであろうが、それでは今受けている最高級の医療措置を受けられなくなってしまう。
それが意味するところはただ一つしかない。
重病に苛まれている可憐な主人の死。
それだけはなんとしても回避せねばならなかった。
しかしそれには――。
「エリータスも、あの賢しらい女に振り回されているようでは、所詮ピクシスに敵うものではない。こちらの出す札にうなずくしかあるまいよ」
当主の言葉が続いていた。
ここにきて、グスタフは主人の饒舌さに不自然さを感じた。
“ピクシスの怪老”の二つ名で呼ばれる当主は、おおよそ配下の者にこの様な計画を語ってみせる人物ではない。
微かに顔をあげて当主の顔を見る。
グスタフは己の迂闊さを呪った。
当主はじっと彼を見続けていた。
ふだんと変わらない、あの墓石のような無機質な目。しかしその目に映るものには無気力なものは決してない。
内心舌打ちをしながら、グスタフは言葉を発した。
「御意にございます。御館様。しかしマリエル殿は、当代きっての才媛。甘く見ていては鼠が猫を噛むがごとく、我らも手傷を負いましょう」
それを聞いた当主は、微かに笑ったかのような表情を見せた。そして、その表情をすぐ消して、鼻を鳴らしてグスタフの言ったことに対して自分の考えを述べた。
「ふん。あの女狐めは、所詮多少算術に精通しているだけの俗物よ。目先の利益にとらわれよるから謀にはむかん。しかもあれは実子に狂っておる。いくらでも隙は衝けよう」
「たしかに……。先日正式に正嫡を認められた三男殿の行き過ぎは、マリエル殿の監督不行届な点は否めません。そちらから仕掛ければ――」
「手安かろうよ。まぁ、あれについては使い道が色々とあるわ。血筋だけで言えば、なかなか望めぬからな」
「御意」
グスタフは、再び礼を捧げた。
ひとまず目の前に座る老人が、彼を生かしておくことに決めたようであることを確信して安堵する。
もう一人の主人。グスタフにとって今や心からの忠誠を捧げる、か弱き少女を守るためには、宗家当主に自分の価値を認めさせ続ける必要があった。
当主に利用価値がないと判断されてしまったら、自分は殺されるであろうし、主人である少女がどのように扱われるかわからない。それを想像してしまえば、深い絶望感を抱かざるを得なかった。
だからこそ、彼はなんとしても今回の当主の密命を果たしてみせる覚悟でいた。
「東洋人のこと、しかとお任せください。このベナンダンディ一、命に変えましても必ず彼の者を王家より引き離して見せまする」
決意を込めた言葉。それに心を動かされたわけでもないであろうが、その年齢を感じさせない老人――ピクシス宗家当主、ウエール公アナベル=ピクシスは、幾分優しげな声音でグスタフに頷いて言った。
「うむ、期待しておるぞ。そなたの帰る場所はもはやこのピクシス以外にないということ、今一度心に留め、励むがよい」
「はっ」
扉を開けて男を外へ通す。
廊下をゆく男について、玄関まで案内しながら考えていたことが、ふと声にしてしまいたい欲求が強まった。
いつも通り、送りの馬車に彼をいざない、礼をしたあと、無礼であることは解っていたが彼の顔をまじまじと見つめてしまう。
男の方もグスタフの様子に気付いて馬車に乗り込まず、グスタフの言葉を待った。
意を決したグスタフは、口を開く。
「トザワ殿。お頼みしたいことがあります」
「なんでしょうか?ベナンダンディ殿」
主人に進講しているときと同じ、穏やかな口調で返す男に軽く頭を下げて、グスタフは続けた。
「トザワ殿がこられると、お嬢様は実に楽しそうになさいます。まこと、お礼申し上げまする」
姿勢を戻し、続く言葉を待つ男に彼はさらに続けて本題に入った。
「礼節を持って、お嬢様に接せられるトザワ殿を見込んで、あえて無理を言わせていただきまする。どうか、お嬢様の味方となってくださいませぬか?」
「味方…とは?」
「いえ。深い意味はございませぬ。ただ、今ドルファンは非常の時、いつなんどき何があるかわかり申さぬ。義理のない貴方様にこの様なことを申し上げるのは、筋違いでございましょうが、なにとぞお嬢様に危急の時があれば、ご助力を願いたいのです」
真摯に語るグスタフに、男は少し顔を曇らせると、しっかりとグスタフを見返していった。
「この度の戦役に関して言えば、私の及ぶ限りのことはドルファンにするつもりです。戦の勝敗はそのときなってみなければ判らぬものですが、少なくとも王都まで戦場になることはないでしょう」
男の言葉に、グスタフは少し落胆したように見えた。
それをみた、男は少し微笑むと言葉を続けた。
「ただ、この度の件も何かの縁なのでしょう。それほど力になれるとも思いませんが、もしなにか私にできることでありましたら、できる限りセーラ殿の力になりましょう」
男の気遣いを察したグスタフは、今度は深々と頭を下げて言った。
「ありがとうございます。トザワ殿……」
怪老の謀。
自分の主人である少女をそれから守るためにならば、謀の標的も利用してみせる能力。
果たして自分に、そこまでの力があるのかどうか。
政治の恐怖に苛まれる老執事にとって、悩むことさえ許されぬ戦いはすでに始まっていたのだった……。
<あとがき>
ずいぶんと時間があいてしまいましたが、7話の2をお届けいたしました。
とりあえず、この7話では全体の中心にピクシス家をおいてみました。
2年後、政治的暴挙に出るピクシス家が本当にもくろんでいるのはなんであるのか?
じぶんなりの考えを文字にしてみました。
次は7の3「誕生祭」、王女を中心にした話です。