白いドレスのすそが、湖にたらしたミルクのように広がっていた。
薄く柔らかいそれは天使の羽めいて。
鏡台の前の少女…いや、女性は、しきりに髪を整えていた。アップにした髪は、むしろ触ると乱れるということを、たぶん彼女は気づいていない。
そわそわと、椅子から立ち上がり、ドレス姿じゃむやみに歩けないことに気がつき、また座りなおす。
それを、もう何十回も繰り返していた。
スカートを直し、また腰を下ろすと、鏡の中の自分をみつめなおす。
……大丈夫。どこも問題ないわ。
白粉に頬紅、派手すぎずほかとの調和を保っている真っ赤な口紅。
自分のお化粧のテクニックもなかなか優れていると自負していたが、やっぱり本職にはかなわない。
そう、彼女を仕立てたのは、ドルファン国随一の職人たち。ドレスも金糸銀糸に宝石をちりばめた、庶民――という言い方ができるのも今だからこそ――じゃ一生汗水流して働いても手に入れられないような高額のもの。外で待っているスタッフも、礼儀正しく“いかにも”高級である。
……だから、何も問題なんかないの。…あるわけないのよ!
必死に平静を保とうとしても、胸の奥からわいてくる不安は消えない。井戸の底に漂う黒い霧のように、彼女からまとわりついて離れない。
こんなことは、はじめてなのだ。というより、ここのところ、ずっと感情という感情が消えたみたいだったから。
簡素な店に、男が数名の従者を連れて入ってくる。小さなパン屋に似合わない、糊の効いた燕尾服。薔薇の花を優雅に渡し、終始紳士的な態度でのプロポーズ…。
ずっと、ずっと、夢見てたシチュエーション。そう、子供の時から…。
飾り窓の中のウェディングドレスを見上げながら、幸せそうに寄り添う遊歩道のカップルを見ながら、さっさと結婚してしまった友人たちにこころにもない賛辞の言葉を贈りながら…。
胸ときめかせ、『私はぜったい、誰もがうらやむような幸せな結婚式をあげるんだ』と、誓っていた。
だけど。
あの日、彼がパン屋を訪れたあの日、両親もコックも同僚も、みんな歓声をあげた。彼女を祝い(みんな彼女の結婚願望の強さを知っていたし)、次の日から余計なことにサービスセールまで行われてしまった。まるでお祭りだった。
だけど。
その中心にいた彼女は、妙に冷めていた。ほうけたように宙に視線をさまよませ、唇が乾くのを感じていた。心臓は、停止したかと思うくらい、ゆるやかだった。
なぜだろう。今まで、その状況を想像するだけでも、顔は紅潮し、はっきりと胸は高鳴った。
なのに、いざ起こってみると、まったくといっていいほど心は静まった。
驚いて混乱していたからというわけじゃない。
ずっと望んでいたものは、逆に、自分の心に大きなブランクを作った。
彼女は、台の上に肘をついた。
これが、4年前の自分なら、はしゃぎまくり、知り合いという知り合いに自慢して、街を練り歩いては人々の視線を感じ快感にひたっただろう。
しかし、実際の彼女は、しんと静まり、固形化して、祝いにきた人たちにひらひらと相手をし、ずっと自分の部屋にこもっていた。ブランクに引き込まれそうになるのを堪えるのに精一杯だった。
そうなってしまったのは歳をとったからというわけではないのだろう。4年前には持っていなかった感情を、今の自分は持ってしまっている、だから…。
あのとき、プロポ−ズされたあのとき、思い出したのは笑顔だった。ある、一人の男の、笑顔…。
『熊殺し』、『常勝無敗』、『剣術チャンピオン』、『ソードマスター』…。さまざまな彼をたたえる通称を持ち、国で知らないものはいないと言われ、1年半前まで続いていた戦争を終結に導いた東洋からきた傭兵。…なのにパン屋で下働きしたりと、妙な男だった。
最初は、そうだ、遊び…というか、数揃えだった。“いい女は何人もの男をしたがえる”という勝手なイメージが、彼としばしば出かける理由だった。
彼が戦争で勝つたび、知人に自慢する。それだけの仲だった。はずだった…。
だけどいつのまにか、彼が誘いにくるのを待っている自分がいた。バイトに来る度、嬉しいということを顔に出さないよう努めていた。
いつも、彼は笑っていた。にこやかな笑い。おだやかな笑い。
ブティックで服をねだったときも、喫茶店で恋愛論をえんえんとしたときも、美術館で来るべき将来を語ったときも。ちょっと苦笑混じりに、でも最後まで話を聞いてくれた。
そして、五月祭。彼と出会って3年目のその祭りで、彼女は恒例のイベント、花嫁コンテストで優勝した。結婚を夢見る彼女にとって、それは天にも昇るほどの興奮だった。
そのまま連れの彼のもとに走っていき、ドレスを見せ優勝を伝えると、まるで自分のことのように喜んでくれた。
「やったね」
そのときの、笑顔。子供のような、笑顔。いつも笑っていた彼の、特別な笑顔。
あのとき感じた想い。受けた印象。早鐘のように鳴り響く鼓動。
なのに、今は……。
「スーぅ?」
静まった部屋に突然素っ頓狂な呼び声が届いた。
扉をどかんといきおいよく開けたのは、青い髪をポニーテールにした明るい友人であった。
「どう、どう、調子は?もう、外すごいねー。お偉いさんばっかだよ。ワタシ、職場で自慢しちゃうよー」
20代半ばになり、そろそろ落ち着くだろうという周りの期待をよそに、彼女はまだ破天荒なままである。式にあわせておとなしめの服を着ているが、テンションはまったく変わっていない。
「料理とかすごいんだよー。ワタシさっきさ、コッソリつまみ食いしたけど、やっぱ高級だねー。メイドやっててたまにパーティーの料理も食べてたけど、こっちのが上かもしんない」
そこまで言い終え、異変に気づいた。いつもなら、自分に合わせ、激しく騒ぐ彼女が、こちらを見ようともしない。貞淑な気持ちになっているとしても、何も言い返さないのはあまりに不自然だ。
「…スー?」
どころか、彼女は肩を震わせている。怒っているのではない。声を抑え、嗚咽交じりに泣いていた。
「うっ、ううぅ…」
「……スー」
どうしてだろう。何故、溢れるのは歓喜でなく、こんなにせつない涙なのか。
ずっと、願ってきた。真っ白なドレスにヴェール、指に輝く大粒のダイヤの指輪、大きな教会。ブーケは、ほかの女性と取り合うまでもなく、自分の手の中にある。
ずっと、思い描いてきた。素敵で自分だけを見てくれる夫。広い庭のある大きな館。使用人たちを何人もはべらせ、毎日豪華な服を着て贅沢なものを食べて、月に一度は舞踏会に行って。
ずっと待ち望んできた夢が叶うというのに、何を絶望することがあるのだろう。
拭っても拭っても、涙は零れ落ちた。止まらなかった。
ずっとひっかっていたしこりのようなブランクが、堰を切って広がり始めた。バラバラになりそうだった。さみしさは胸の奥の奥まで潜り込み、崩壊してしまいそうだった。
押し出されるように、涙はあふれた。したたる滴が、ドレスに小さなしみを作った。
「はうっ、くぅ、うううう……うあぁぁぁぁ…」
「…スー」
キャロルが、そっと彼女を抱きしめた。いつになく静かに、優しく。
会場の喧騒もここには届かない。静かに静かに彼女は泣き続けた。
「スー様」
誰かの呼び声が聞こえた。
「そろそろです。こちらでお待ちください」
ウェディングスタッフだ。夫が呼んだ業者の一人。今日から私の夫になる男が呼んだのだ。
一呼吸して、彼女はこたえた。
「わかったわ」
富豪の妻として、恥ずかしくないよう、凛とした声で。
そうよ。これで、私も一流階級への仲間入り。私を行き遅れだのなんだのと馬鹿にした知り合い達に見せつけてやるのだ。
もうすぐ夫がくるわ。そして、まるでおとぎばなしのような結婚式が始まるの。どこまでも優雅な式が始まる。そうだ。あんな、暗く野暮ったい東洋人にこんな豪華な結婚式など挙げられないでしょう。
今突然現れて、『一緒に逃げよう』なんて言ってもついてかないわ。先に裏切ったのはそっちじゃない。私が悪いんじゃないの。私は何も悪くない。何も。悪くない。
ステンドグラス越しに日の光を浴びて。誓いの言葉、指輪交換、ケーキ入刀。歓声の中、とびきりの笑顔で二人で歩いていく。
小さいころから憧れていたシチュエーション。そして、薔薇色の日々がはじまる…。
スーは、唇を噛み締めた。
……幸せに、なってやるわ。
新たな誓いめいた夢が、彼女の胸を支配した。
そして、彼女は、光の中へと歩いていった…。