「これで本当に、良かったの…?」
あなたはそう言うのね。哀れむように、怒ったように。
「良かったのよ」
強がりなんかじゃないわ。本当に、そう思う。
低い汽笛の響きがここまで届く。
ああ、そろそろなのね。
私の心は一瞬、飛ぶ。
潮の香りが届くほどすぐ近くなのに、遠い遠い、あの人のいる港へと。
「本当にいいの?」
いいのよ、私は行かないわ。
「振られてやけっぱちになってるんじゃない?」
違うわ。あの人の心に私がいないことなんて、最初からわかっていたじゃない。痛かったわよ、でもちょっとだけね。子供じゃあるまいし、失恋なんて初めてじゃないもの。だから平気。
「だからって、なにもここまですることないんじゃない?」
あきれたように言うのは、鏡の中の私。真っ白なドレス。アップにした髪に、やわらかなヴェール。ブーケのバラが、むせかえりそうに匂っている。
ほんと、よくやるわよ、私。
よりによって、あのジョアンと結婚するなんて。
ううん、ジョアンのことは、嫌いじゃない。甘ったれのボンボンだけど、私のこと誰より好いてくれてるから。あの子供っぽい恋愛ごっこに引きずられて、ここまで来てしまったのも事実。
もちろん家族のこともある。ジョアンと結婚すればお父さんの借金も払えるし、お母さんにだって、もうお金の心配をさせなくてもいいんだもの。私ももう、つらいバイトばかりするのはイヤ。
それに、女優になる夢も絶たれてしまった。もう歌えない。シアターの爆破事件で傷ついた私ののどは、弱々しい、小さな声をかろうじてつむぎ出すだけ。私の夢は、あの日、舞台に立つ前に終わってしまった。ジョアンも応援してくれてはいたけれど、今はかえって喜んでいるんじゃないかしら。「いつか舞台に立てる日まで」なんて結婚を引き伸ばしていた口実も、なんの意味も持たなくなってしまったもの。
いつかはこうなるって、わかってた。
私の意思なんてまるで無視の、あがらいようのない運命。
私はもう逃げないわ。
こうなったら、受けて立つまでよ。
でも、こんな決心ができたいちばんの理由は、やっぱりあの方よね。
マリエル・エリータス。
好きになるのは難しいひとだけど、今はほんのちょっと、尊敬してる
『ジョアンのことは、愛してくれなくてもいいわ』
そんなこと言える母親なんて、普通いないわ。
『あの子が必要なのは、あなたの愛ではなく、あなたの存在なのだから』
わかってるのね、マリエルは。私がジョアンに抱く気持ちは、今までもこの先も、ただの同情でしかありえないということを。そして私の心は一人の男性に連れ去られたまま、もう永遠に戻らないということを。
「永遠に、なんてオーバーね」
そう思うでしょうね、普通の人は。でも私はわかるの。たぶんもう、あんなきらきらした想いは、誰にも抱けない。あんな純粋な恋はもう二度と、できない。
ベッドの下の小さな箱に、まだしまってあるの。渡せなかった手紙も、誕生日プレゼントも、バレンタインのチョコレートも、全部。少女だった私の気持ち、全部。
なのに、あの人の横で笑う「あの人」を見た瞬間、すべてを諦めてしまった臆病な私。
瞳が、髪が、声が、すべてがきれいな人だった。
かなわない。
そう思った瞬間、私の心は粉々になった。
『諦めないで、ソフィア』
そんな私に、マリエルは言ったわ。
『生きることを諦めないで。人は愛や夢だけでは生きてはいけないし、愛や夢だけが人を幸せにするわけではないわ。ジョアンと一緒になるなら、エリータスの財産と権力は、あなたのものよ。掴み取りなさい、その力で。愛や夢だけではない、あなたの新しい幸せを』
そう言われて、私は決めたの。
愛も夢も粉みじんに砕け散って、それでもしたたかに生きていくって。
絶対に、何が何でも幸せになってやろうって。
「よしなさいよ、そんなのあなたの柄じゃないわ」
いいえ、ただ誰かが連れ出してくれるのを待ってじっと我慢しているだけの、健気で辛抱強いソフィアはどこかへ行ってしまったの。
まだ、何がつかめるのかわからない。でも、可能性は無限だわ。運命は時に残酷だけど、でも生きている限り、どんな未来だって拓けるはず。途中で未来が途絶えても、また別な未来を探すまでよ。くじけるなんて、弱虫の怠慢だわ。
うふふ、私、強くなったわね。
今の私は力にあふれているの。
いいえ、エリータスの富や名誉だけがくれた力じゃないわ。
思い出したの。
あの人の気持ちに愛がなくても、私の心は弾んでいた。
夢がどんなに遠くても、追い掛けている自分が好きだった。
愛も夢もかなわなくても、私、ずっと幸せだったんじゃないかしらって。
そんな想いが、私に力をくれるの。
私は戦うわ。私自身の運命と。そして誰より、幸せになるの。
だから心配しないで。私なら大丈夫。
私は大丈夫だから……
神さま、私は心から祈ります。
あの人と、あの人の横にいる「あのひと」の幸せを――。