とある休日の一日、冬の寒さもすっかり過去のものとなったうららかな春の日差しの下、ライズ・ハイマーは、いつもの散策ルートの途中で足を止めた。そこは、ドルファンの軍属が訓練に使用する訓練場を見下ろす場所であった。この位置からは、草に覆われたなだらかな斜面の向こうに、訓練場が一望できる。
人気のないこの場所は、余り知られていないことだが、天気の良い日はひなたぼっこをするには絶好の場所なのである。風通しがよく、日差しが午後いっぱい降り注ぎ、知る者は少ない。穴場を知っている者の姿が、ちらほらと見える程度なのである。
その穴場の一角に足を踏み入れると、ライズは腰を下ろして、春物の上着のポケットから本を取りだした。タイトルから察するに、比較的メジャーな詩人の詩集である。自然と季節の美しさを主題にした作品の多いその詩人は、広い層に人気を得ている。
「……」
ゆっくりとページを繰るライズのその姿は、「散歩の途中、日差しに誘われて一休みついでに読書に興じる女学生」という表現がしっくりくる。ただの女学生にしては、身のこなしに隙がない等という点に気付く者は極少数だろう。
「…………」
しかし、よくよく彼女の様子を観察すると、その視線は手元の詩集よりも、目前の訓練場の方向により多く向けられていることに気付くかもしれない。訓練場を眺めては、時々詩集に目を落とす、そんな様子だ。
「………………」
「ふっ!」
彼女の視線が向かう先では、一人の青年が訓練なのか、あまり見ない形の抜き身の剣で素振りを繰り返していた。その装いは、ドルファン正規軍のものとは少し違う――見る者が見れば傭兵隊のもだとわかる装いだった。
口元をへの字に引き締め、厳しい顔つきで虚空を睨む青年は、背中の中程まである黒髪を無造作に空色のリボンで束ね、反りのある片刃の長大な――刃渡りだけで1メートル以上の――剣を振り回す。しかし、その剣の大きさに振り回されているという様子は全く無く、剣を手足のごとく扱っている。
大型武器をこのように操るその姿が、如実に青年の実力を表していた。
やがて、青年は、時折虹色に輝くその長剣を背負った鞘に収めると、今度は腰の剣を抜いた。こちらもまた、反りの入った片刃の剣だが、大きさは一般的な剣(ブロード・ソード)と変わらない。今度は、先程のように剣を振り回すことはせず、重さを確かめるように二、三度剣で空を切る。そして、何か納得したように頷くと、彼はまたそれを鞘に収めた。
青年は、ゆっくりと歩いて訓練場の隅に並べられた巻き藁の前に立った。一つ大きく息を吸うと、剣の柄に手をかけ、前傾姿勢になって巻き藁に視線を固定する。
――その一角だけ、空気の質が変わったかのような緊張感が辺りに広がる。青年は、前傾姿勢のままで、足を地面にすりつけるように、じりじりと巻き藁との距離を詰める。ドルファン、いや、欧州の剣技にはない、奇妙な動きだ。
心得のない人間なら、近寄っただけで息苦しくなるような緊張感の中、青年はじりじりと進む。その青年と巻き藁の距離が、ある一線を越えた瞬間。
……一閃。
素人には、それこそ何が起こったのかもわからないだろう。多少の心得があっても、一瞬の反射光しか見えなかったかもしれない。
剣が鞘に収められる鍔鳴りの音が響く。その音で巻き藁がその形を保つことに耐えられなくなったように、中心から二つになって、上半分が地に落ちた。
一流、と言えるレベルに達した剣士ならば、今の彼の技を断片だけでも理解できただろう。青年は、鞘からの抜き打ちで、巻き藁を真っ二つにした、それだけである。但し、その抜き打ちのあまりの速さのために、常人では何が起こったのかすらわからないのだ。欧州の剣技では、ここまでの速さは実現できない。青年が身に付けていた東洋の剣術と、東洋の様式で作られた片刃の剣、刀の特性があってこその技である。
斜面の上から一部始終を眺めていたライズは、緊張を解いて小さく息をついた。……まるで、今の青年の剣技が一つ残らず見えていたかのように。
「……強いわね、やはり」
その呟きは、おそらく誰にも聞こえなかっただろう。代わりに、背後から近づいてくる複数の足音と、聞き覚えのある話し声が、風に乗ってライズの耳に届いた。
「――あら、ライズさん?」
「……こんにちわ」
振り向いてみれば、訓練場の青年――ドルファン王国傭兵隊総隊長ソウシ・サガラ、彼の妹であるサキ・サガラと、その友人であり、ライズの知り合いでもある娘たちが、連れだって土手を降りてくるところだった。サキと、ライズのクラスメートであるソフィアは、何が入っているのかそれぞれバスケットを持ち、レズリーにぴったりくっついているロリィも、カラフルな包装の紙包みを手にしている。
「あれ? お前が何でこんなとこに……?」
予期せぬ出会いに意表を突かれたのか、レズリーが首をひねってみせる。
「ここ、私の散歩のコースだからよ。暖かいときには、よく一休みするのだけど」
「ふーん……、そっか」
納得したようなしないような、曖昧な表情でレズリーは頷いた。そして、その二人の傍らで、サキとソフィアがいつの間にか敷物を広げて、数人がくつろげるような場所を確保していた。どうやら彼女たちは、小さなピクニックのつもりでここに来たらしい――とライズは一人納得する。この穴場を知っていることも、サキがいれば不思議ではない。ソウシの妹ならば、この近辺のことを聞かされているのだろう。
陣地の確保が終わったソフィアが、蝶を追いかけていつの間にやら随分と遠くに行っていたロリィを呼び寄せている。
ふと、このこの顔ぶれの中には必ずいるはずのハンナの顔が見えないことに違和感を覚えたライズだったが、気が付けばロリィの視線の先、訓練場のソウシに走り寄る当のハンナの姿が見えた。鍛えた健脚を活かして、彼を呼びに行く役を引き受けたのだろう。つくづく、元気な少女である。
「レズリーさん、お茶にしましょう。ライズさんも、よろしければ、どうぞ」
「今日は、私が焼いてきたスコーンと、ロリィちゃんが持ってきてくれたクッキーがあるの」
「……」
控えめだが品のいい刺繍が施された敷物の上に、手際よくお茶請けの菓子が並べられる。性格的にも、その他の理由からも、他人と談笑するよりも一人でいることを好むライズだったが、サキとソフィアの笑みにどういうわけか断りの言葉を口に出すことが出来ず、溜息を隠して腰を上げる。
ライズが敷物の隅に腰を下ろすと、タイミングを計っていたかのようにサキが紅茶を差し出す。ありがとう、とそれを受け取り、ライズは笑みを浮かべた。不自然にならないように、『意識して作った』つもりだった笑顔とは違う、自然な笑みを、周りの友人達に向けて。
「……おー、面白いことになってんなー」
「うーん、あたしの見たとこ、なかなか微妙な関係、って感じ?」
「あのぉ……。なんで、こんな所でこそこそ覗かなきゃいけないんですか?」
『面白いから』
「はぁ……」
実に息の合った返事をされて、カールは沈黙するしかなかった。その間も、アルベルトとキャロルの視線は、談笑する少女達、そしてその中に一人紛れ込んで違和感を醸し出しているソウシから離れない。
彼らがここにいるのは、幾つかの偶然が積み重なった結果である。訓練施設の近辺にアルベルトとカールがいることはなんの不思議もないが、そこにキャロルがやってきたのはほんの気まぐれであるし、ソウシ達を発見したのはまさに偶然である。
そして、少女達の一人を目敏く見分け、早速自分も加わろうとしたカールを押さえ込み、アルベルトとキャロルは『観察』を開始したのだった。
「カール、混ざりたいのはわかるが、もう少し待て」
「そーそー。もうちょっとで、一段落付きそうなのよ」
「お、ソフィアちゃん、だったかな? いい顔して笑うねぇ」
「およよ、ハンナまで。んー、まだまだ子供だと思ってたけど、ちょっとは色気付いてきたじゃない」
「お? あのショートの娘、知り合いか?」
「あたしのイトコ」
「……お二人とも、この距離からよく細かいところまで観察できますね……」
呆れた顔でカールが呟く。
「弓兵は目が命だからなぁ」
「昔は、昼でも星が見えたんだけどねぇ。今じゃこの位が精一杯なのよ」
「……」
まだしばらく開放されそうにないらしい。カールは、諦めたように溜息を付いた。こうしていてもすることがないので、仕方なく――おそらく、他意はない、多分――二人に並んで、物陰から顔を出した。しかしやはり、彼の目では、表情までは判別しきれなかった。
「んー、ソフィアちゃん、あれでなかなか積極的だねぇ。かいがいしく隣に付いちゃって」
「でも、後ろの三つ編みの娘も面白いわよ? 素っ気ないふりしてるけど、隊長さんが気になって気になってしょうがないって、全身で言ってるじゃない?」
ソウシの隣のソフィアはともかくとして、背後に座っているライズ(三人は名前を知らなかった)のことまで何故そうだとわかるのか、カールにはいくら目を凝らしても判断がつかなかった。
三人の視線の集まるところでは、ソウシの右手にソフィア、左手にサキが座り、その周りを囲むように少女達が腰を下ろしている。キャロルの言うとおり、ライズは彼の斜め後方、サキの後ろになるような位置に座っている。サキの前には彼女と同い年であり、仲のいい友達であるロリィと、ロリィにじゃれつかれているレズリーがいる。ハンナは、ソフィアの隣で、やはり談笑にふけっている。
『観察』に夢中な二人組は、場の中心であるソウシと少女達の関係をだしに、下世話な想像ですっかり盛り上がっていた。誰が彼を落とすのか、と。
「うーん……、あのソフィアって娘が本命に見えるけど、あんたの所の隊長さんの好みってどうなの?」
「まぁ、なんてーか……。そっちには淡泊なヤツだから、いまいち絞りきれないんだわ。くたばっちまった前の隊長の奥さんにたまに会ってるみたいだから年上趣味かと思ったら、ロリィちゃんみたいな娘の相手もするし」
ほんの数度の面識しか無いというのに、少女達の名前はしっかり把握しているアルベルトである。ソウシの入院中、見舞いで顔を合わせた際に憶えたのだ。
「年齢は関係ないってヤツ? 守備範囲広いんだ」
「どっちかってーと、まめで真面目で相手から好かれるタイプだけどな、あいつは。自分から手を出すようなら、今頃あの娘達みんな……、いや、本人が後ろから刺されてるか?」
自分から口にした趣味の悪い冗談が気に入ったのか、アルベルトは人の悪い含み笑いを漏らした。カールはその姿に目をひそめたが、かといって諫めるわけでもない。付き合いも二年続くと、諦めが勝るのだろう。
「おおっ!? 動いた!」
と、目を輝かせながら相変わらず『観察』を続けていたキャロルが、状況の変化を告げた。それに応じて、アルベルトも素早く態勢を元に戻す。そのコンビネーションは、まるで打ち合わせでもしていたかのように鮮やかだ。
「(……似たもの同志なんだな……)」
カールは、今度こそ何も言う気になれず、心の中で溜息を付いた。
キャロルの言うように、ソウシ達の場に小さな変化があった。アルベルトが目を離した僅かの間に、どうやったのかライズがサキに代わってソウシの隣りに来ている。
「おい! 何があったんだよ?」
「んとね、隊長さんの妹が、後ろに引っ込んでた三つ編みの娘を前に引っぱり出したの」
端的な回答だったが、詳しい事情までは全くわからない。しかし、ある程度ならば察することは出来る。あくまで、推測の範囲を出ないものだが。
「……もしかしてサキちゃん、ライズちゃんを応援してるのか? だとしたら、また一層面白くなりそうなんだが」
「ソフィアって娘も、全然引く様子がないからねー。大人しい顔してるのに、怯んでないよ、あの娘」
――自分もあの中に混じって、出来ればサキと話の一つでもしたかったのだが、この様子ではどうやら無理らしい――。カールは、心の中だけで涙して、本日何度目かの溜息を押し殺した。
……アルベルト達がこうして盛り上がっていたその時、別方向から同じ光景を見ていた一対の視線があった。
「……まずいわね……。やっぱり、自由に出歩けないってのはハンデよねぇ……」
本人は意識していないだろうが、口元から苦々しさを伴った言葉が漏れ出ている。その当人は、丹念に手入れされた豪奢な金髪を器用にリボンでまとめ、一見そうとはわからないが、一流の仕立屋の手による趣味の良い服装に身を包んだ妙齢の女性であった。顔立ちを見るに、美少女と言うべきか、美女と表現するべきかは、微妙なところだろう。
しかし、そうした彼女のとっている行動はといえば、なんのことはない、アルベルト達と同じ覗きである。ここに来るまでは、それからの予定だの、目的の人物を引っぱり出すためのセリフだの、色々なものが頭にあったのだが、今その頭の中は別の思考で埋め尽くされている。
「どうにかするなら急がないと、手遅れになっちゃうわよね……、よし!」
考えがまとまったのか、彼女は視線も鋭く少女達とソウシを睨み、――身を隠したままだったが――宣言した。
「このプリシラ・ドルファン、目的のために手段を選ぶつもりはないわ! 彼女たち、それにソウシ! 覚悟してなさいよ!」
誰にも聞かれないままに言い放つと、プリシラは身を翻してその場を去っていった。
――まずは、準備が先決よ! 最後に勝てば、出遅れなんて関係ないわ!
うららかな春の一日、ドルファンは、平和の中に春を楽しんでいた。
後書き
読者の皆様、またも大変お待たせしました(平身低頭)
いろいろあって遅れましたが、「ドルファン英雄物語」、三年目の開始でございます。
これからもゆっくりとした進行ぶりになるかと思いますが、どうか広くて温かい心でのんびりお付き合いください。
それではこの辺で。
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