二つの影が交錯する度に、着実に流される血の量が増えていく。
薄暗い曇天の元、もはや何度目なのかもわからない撃ち合いが止むと、小柄な影、コーキルネィファは動きを止めた。その真紅の鎧には、返り血が点々とこびりついている。しかし、コーキルネィファ自身の血は、まだ一滴たりとも流されていない。
対峙するソウシは、もはや全身に傷がない場所を探すことが難しい状態だった。至る所に、小さいが深い刺し傷を負い、それらが少量ずつだが血を流し続けている。一ヶ所から流れる血の量は微々たるものでも、これだけ多数の傷があればその総量は相当なものになる。いつ倒れても不思議はない。
それでも、ソウシは両の足でしっかりと大地を踏みしめ、“バルムンク”と名付けた野太刀を青眼に構えて立っていた。未だ目の光は失われておらず、鋭い眼光を目の前のコーキルネィファに浴びせている。
一方的に攻撃しているはずのコーキルネィファだったが、不死身かと錯覚しそうになるソウシの体力の前に、若干の戸惑いと疲労を見せていた。
「……バケモンか、てめぇは。それだけ血ぃ流して、まだ戦えんのかよ……」
「……お喋りは無用だ」
「そうかい!」
コーキルネィファが動く。言葉の端に疲労を滲ませているにもかかわらず、その動きは全く衰えない。
先程までの間の戦いで、ソウシはその動きを全く捕らえることが出来なかった。一方的に傷を受け、振るう太刀は全てかわされ、倒れるのは時間の問題とさえ思えた。川を挟んで一騎打ちを見守るヴァルファ、ドルファン両軍もそう感じていたのか、ヴァルファからは余裕に満ちた歓声が、ドルファンからは悲鳴に近い声が上がっている。
しかしこの時、遂にソウシがコーキルネィファの動きに追いついた。
「しゃっ!」
「ふっ!」
左手の牽制の一撃を半歩下がって空振りさせ、本命である右手の突きをバルムンクで叩き落とす。そして、そのまま勢いを止めずに、振り下ろした刀を横薙ぎに変化させて、コーキルネィファの足を払う。
「んだとっ!」
コーキルネイファの足が切り落とされるかと見えたその瞬間、彼はその驚異的な反射で後方へと跳んだ。間一髪で、バルムンクはコーキルネィファの脚甲を削ったに止まった。
ほんの小さなかすり傷。それはコーキルネィファの体に全くダメージを与えていない。しかし、その一撃は体ではなく、精神にダメージを与えていた。
「信じられねぇ奴だ……。ここに来て、俺の動きを捉えやがった……」
「あれだけ見れば、如何に速くとも目が慣れる」
目が慣れる暇もなく相手を倒すのが、これまでのコーキルネィファの戦い方だった。それを破ったのはこれまでただ一人。彼らヴァルファの団長、破滅のヴォルフガリオのみ。同格の八騎将達でさえ、互角に戦うのが精一杯だった。
それを、八騎将以外では初めてソウシが破ったのだ。これがコーキルネィファ以外ならば、焦りを覚えるはず。だが、
「……へへへ……。楽しいぜ、お前!」
「何だと?」
「これだけ楽しいのは、団長とやったとき以来だ!」
コーキルネィファが撃ちかかる、ソウシがそれをいなし、切り込む。コーキルネィファを、それを神速の動きでかわす。戦いは、遂に互角の状態に持ち込まれた。ドルファン側が息を吹き返したように歓声を上げる。
「こんなにわくわくする戦いは、久しぶりだぜ! どうだ!? お前は楽しくないのか、“血風”!」
「戦いに享楽を感じる趣味は……無い!」
初めてソウシが先手をとった。しかし、コーキルネィファはそれを軽々とかわし、距離をとる。
「そいつは残念だ……。なら、俺のとっておきを見せてやる」
「……」
「一度見たら、その場で地獄行きだけどな!」
コーキルネイファが構えを変えた。今までと攻め方を変えるつもりなのだろうと、ソウシは足を止めて警戒する。コーキルネイファの動きならば、どこから何が来るかわからない。目が慣れたと言っても、油断すれば容易く裏をかかれてしまう。
「いっくぜぇぇぇ!!」
鮮やかな真紅の鎧が、視界から消えた。
動きに慣れはじめたソウシの目を、コーキルネィファの動きは簡単に振り切った。もはや視覚ではなく、気配を頼りにソウシはコーキルネィファを追う。
右、と思った瞬間には、コーキルネィファは左へと回っていた。これまでより一段も二段も速さが違う、神速を越えた超神速の動きで、コーキルネィファはソウシを幻惑する。
しかし、ソウシはぎりぎりの一線で、超神速の動きを追いかけていた。全身を感覚器に変え、全感覚を総動員して追いかける。見失えば、その場で勝敗が決まってしまう。気がついたときには、首筋に短剣を埋められかねない。
短い、だが当人達には限りなく長い時間が過ぎる。コーキルネィファの動きはますますその速さを増し、ソウシはそれを必死で追う。
「……!」
コーキルネィファが何か叫んだような、そんな気がした。ソウシに向けて、強烈な殺気が襲いかかる。その瞬間、遂にコーキルネィファの姿は、ソウシの視界から消えた。
ほんの一瞬の間に、凄まじいほどに濃密な時間が流れた。極限まで感覚を研ぎ澄まし、ソウシはコーキルネイファを探す。その姿は前後左右どこにもない。
死の予感が頭の片隅をよぎる。
『上!』
刹那、自分ではない誰かの声が聞こえた気がした。上を見上げる暇もなく、勘に従ってソウシはその場を飛び退こうとする。
「惜しいっ!」
しかし、その試みは完全に果たせることなく、頭上から襲いかかってきたコーキルネィファの短剣が、ソウシの左肩に突き刺さった。同時に、痛みとは違う、全身を駆けめぐるような衝撃がソウシを襲う。
「痺れろぉっ!」
「ぐ、がぁっ!」
痙攣する体を強引に動かして、ソウシはコーキルネイファを振り払った。よろめく足を叱咤して、どうにかバルムンクを構えようとする。しかし、左腕が上手く言うことを聞かない。何とか右手だけで重い野太刀を構える。
気がつけば、左肩は焼けたようになっていた。明らかに、これは短剣だけの傷ではない。
「まーた避けやがった……。でも、もう動けねぇだろ? ガレリアのじーさん特製の仕込み短剣だからな。しばらくはまともに動けねぇはず……」
得意顔でコーキルネィファは語りはじめる。
確かに、ソウシの全身には、今まで味わったことのない奇妙なしびれが残っていた。全身の筋肉が痙攣して、上手く動かせない。先程バルムンクを構えられたことが、我ながら奇跡のような気がする。
しかし、その痺れは確実に治まりつつあった。コーキルネィファが無駄口を叩かず、即座に斬りかかってきていたならば、ソウシは為す術もなかっただろう。コーキルネィファは絶好の時を失った。その事実を悟られないように、ソウシはじっと動かずに、コーキルネィファの一挙手一投足を注意深く観察する。逆転の一撃を放つ、その機会を見定めるために。
「……一回で種切れしちまうのが難点だけどな。さぁて、そろそろ殺してやるぜ!」
「……!」
コーキルネィファが、衰えることのない神速の速さで飛び込んでくる。右手を突きだして、ソウシの首筋をひと突きする構えだ。しかし、その速さは先程見せた超神速ほどのものではない。十分に目で追うことが出来る。
「(まだだ……。まだ……)」
コーキルネィファがバルムンクの間合いに入るその瞬間を、ソウシは待っていた。驚異的なまでに高められた集中力が、時間を引き延ばしたように感じさせる。一瞬を切り取ったような、止まりながら動くような視界の中で、コーキルネィファがバルムンクの間合いに入り込む。
「はぁっ!」
「何だとっ!?」
バルムンクが振り下ろされる。油断していたネィファの、右手の短剣が音を立てて飛ぶ。
ソウシの動きはそこで止まらなかった。左手に刀の入らない状態では、刀を返すことは出来ない。だから、思い切ってバルムンクを手放し、右手を腰の打刀に伸ばす。
「まだまだぁっ!」
短剣の一本を飛ばされたコーキルネィファだったが、不意の一撃にも戦意を失うことなく、左手の短剣を突き出す。しかし、剣を扱うその動きは、神速の移動速度ほどには速くはなかった。
刀を持ち上げることの出来ない左手でも、鞘を押さえ、鯉口を切ることは出来る。打刀の柄を握った右手で、刀を一気に鞘走らせ――。
短剣が、破壊音をたてて砕け散る。薄い鎧の腹部が横一文字に切り裂かれ、鎧の下から血が溢れ出す。
「な、何が……?」
「お前の、負けだ」
居合い気味に放たれた一閃は、その一撃でコーキルネィファの戦闘能力の大半を奪い取った。自分が切られたことが信じられない顔で、コーキルネィファは傷口を押さえて立ち尽くす。その両手の下から、また血が溢れ出た。
ソウシ自身、刀を杖にしてやっと立っているような状態だったが――。勝者がどちらなのかは、誰の目にもはっきりと映った。イリハ、ダナンに続いて、ここテラ河でも、ソウシは勝者となったのだ。
「俺が……負けた……?」
コーキルネィファはまだ立っていた。下半身を朱に染め、足下に血溜まりを作りながらも、膝をついてはいない。
「今投降すれば、命だけは助かる」
コーキルネィファより僅かにまし、といった程度に満身創痍のソウシが勧告する。ドルファン側で爆発した歓声と、ヴァルファの側から聞こえてくる悲鳴にも似た叫び声の中でも、それははっきりとコーキルネィファの耳に届いた。
「投降……、投降しろだと……!」
「……そうだ。その年で、命を捨てることはない」
「俺は……」
敗北の衝撃から、力無くうなだれていたコーキルネィファの瞳に力が戻る。
「……俺は!」
誰もが目を疑った。もはや動くこともままならないほどの傷を受けていたコーキルネィファが、先程までと同じ、いやそれ以上の速さでソウシの背後に回ったのである。紙一重で勝ちを拾ったものの、もはや限界まで消耗しているソウシはそれに反応できず、羽交い締めにされてしまう。
「何をする!?」
奇妙に透明な表情で、コーキルネィファは笑った。初めての、年相応の少年の笑みだった。
「へヘッ……。お前、強かったな……。俺じゃ、勝てなかった……。だけどな、俺も八騎将の一人だ。負けっ放し、っていうわけには、いかねぇんだよ……」
信じられない力で、コーキルネィファはソウシを引きずっていく。狭い中州のこと、すぐに端にたどり着く。
彼らの背後では、まだ増水したままのテラ河の流れが、轟々と渦を巻いていた。
「よせっ、心中するつもりか!?」
コーキルネィファの意図を悟ったソウシが、自分を羽交い締めにしている腕を振りほどこうともがく。しかし、瀕死のはずのコーキルネィファの腕は、ぴくりとも動かなかった。
「一緒に、死ねぇぇぇ!」
二人の体が、もつれあったまま水の下に消えた。渦巻く冷たい水の流れは、あっという間に二人を引き剥がし、別々の方向へ押し流す。
「(まず、い……)」
呟く間もなく、ソウシの視界が闇に閉ざされる。
冷たい水は、あっさりと彼の意識を奪った。
「無理心中だと! ふざけやがって!」
その光景を一部始終見ていたアルベルトは、思わぬ結末に吐き捨てるような罵り声を上げた。コーキルネィファ、あのような行動に出ることを読めなかったのは、決して彼の責任ではない。が、そうせずにはいられなかった。
「アルベルトさん! そんなこと言ってる場合じゃありませんよ!」
「ああ、そうだ! カール! 部隊の半分を連れて川下へ走れ! 支流ごとに、あいつが引っかかってないか、目を皿にして探し出せ! 河が蛇行している場所にも気を付けろ。漂流物は、曲線の内側にうち上げられる!」
「はい!」
「俺は、ここから川沿いに下る! それから、ウォーレン! 騎士団の腰抜けどもに言っとけ! 『後はてめぇらで何とかしろ』ってな!」
「わかりました!」
アルベルトはてきぱきと指示を飛ばし、自身も馬を引っ張って捜索に乗り出そうとする。見れば、対岸のヴァルファ側には早くも河に飛び込んでいる者がいる。川に落ちた二人が、どれだけ部下を掌握していたか、よくわかるというものだ。同時に、カール率いる部隊が、川下へと雪崩をうって走り出す。
しかし、馬に鞭を入れようとした矢先、アルベルトの前に立ちはだかった騎影があった。でっぷりと太った、脂ぎったその顔は、いつの間にか前線にまでやって来ていたエンリケだった。
「何の用だ!」
邪魔されたアルベルトは、思わず殺気の籠もった目でエンリケを睨み付けた。ところが、エンリケは全く動じた様子がない。アルベルトの視線に耐えるとは、剛胆なのか、単に鈍感なのか――。おそらく、後者だろう。
「エルランゲン少尉、何をする気かね?」
「……これから、河に転落した隊長の捜索を開始します。監督官殿は、後方で待機していて頂きたい!」
エンリケの尊大な物言いに、アルベルトは礼儀を取り繕う時間も惜しんでぶっきらぼうに答える。彼は、何を言っているのだ、と言わんばかりの表情を浮かべた。
しかし、エンリケはそんなアルベルトの心情を、まるで無視した。
「放っておきたまえ、どうせこの流れでは助からん。それよりも、今こそ渡河の絶好の機会だ、撃って出て、手柄を立てたまえ。エルランゲン『隊長』」
「……」
アルベルトは沈黙した。エンリケの目論見は明らかだった。言うことを聞かないソウシが消えたことを好機と見て、傭兵隊の実権を握りにかかったのだ。中心であったソウシが消えれば、当然部隊の結束は崩れる。そこで、いち早く第二人者であったアルベルトを取り込んで、傭兵隊を手駒に仕立てようというのだ。
傭兵隊の戦闘能力は高く、監督官はその手柄をいくらでも横取りすることが出来る。今まで、それを阻んできたソウシが消えたことは、エンリケにとってまたとない好機に見えたのだろう。
ヴァルファの陣は、コーキルネィファを討ち取られた動揺で乱れに乱れている。ソウシがいなくとも、傭兵隊ならばそこを突いて蹂躙することは十分可能なのだ。自分の得になることには嗅覚の働くエンリケである、この早速の機会を、逃すつもりはないのだろう。
「……お断りします」
努めて平板な声で、アルベルトは答えた。気を抜くと、その場で『行動』に移りそうな自分を必死で押さえていたのだ。
「何だと? 君は、監督官である私の命令を聞かんつもりか?」
「隊長の生死はまだ未確認です。傭兵隊は、その確認をしなければなりません。それに、監督官殿の権限は、作戦指揮にまでは及んでおりません」
「……君は、もう少し頭がいい男だと思っていたのだがな」
エンリケは陳腐なセリフを漏らす。この時点で、アルベルトは自分が酷く冷静になっているのを感じた。そしてその奥では、形容しがたいものが煮えたぎっていることも感じていた。エンリケは、それと知らずに自らの運命を決定していた。
「……ですが、監督官殿の御意見ももっともです。自分は捜索に回りますが、この場の全員は必要ありません。五十人ほど残しますので、監督官殿に指揮をお願いします」
「ふむ、五十人か……。少ないようだが、まあ良しとしよう」
「では……。マンジェロ!」
「へい、アルベルトさん」
アルベルトは、以前の一件以来、子飼いにしていたマンジェロを呼び寄せた。のこのことやって来たところに、小声で耳打ちする。
「……俺の命令だ。監督官殿には、『戦死』していただけ」
「本気ですかい!?」
「二度は言わねぇ。俺の小隊もつける。奴らに、『俺の命令だ』、と伝えれば、黙って協力するはずだ」
「……了解しやした」
「失敗したら、お前、楽には死ねないと思え」
マンジェロを開放すると、アルベルトはぞっとするような笑みを浮かべた。汚れ仕事に慣れたマンジェロが、背筋が震えることを押さえられないような、そんな笑みだった。
エンリケは、アルベルトを本気で怒らせたのだ。アルベルトを利で釣れるような男だと見誤ったのが、その最大の原因だろう。ただの小人ならば、彼はそれを逆に利用することを考える。しかし、エンリケは、アルベルトが大切に思っていたものを踏みにじったのだ。アルベルトは、エンリケを排除することを決意した。
軽佻浮薄、軟派でいい加減な男に見えても、気に入ったものは何をおいても守り抜き、損なおうとする者は容赦なく排除する。アルベルトとは、そういう男だったのだ。
「マンジェロ! 後はしっかりやれよ! 五十人残して、残りは続け! 時間をくっちまった、急げ!」
「ふん……」
慌ただしく、アルベルトはエンリケを置いてその場を離れる。エンリケは、不満そうに鼻を鳴らしてそれを見送った。
そしてアルベルトが視界から消えた頃、ようやくドルファン騎士団が動き出した。報告を受け取った司令部が、重い腰を上げたのだろう。もっとも、今のこの状態を攻撃の好機と理解できないような者は、余程の無能者だろうが。
「では、行くとしようか」
「へえ。おら、俺達も続くぞ!」
遅れることを嫌ったのか、エンリケも傭兵隊の残り、五十騎あまりに出撃を命じる。そして、自分は傭兵に囲まれた集団の中央に位置して渡河を開始した。剛胆な振りをしているが、その実、非常に臆病なのである。
騎士団の後を追って、傭兵隊は河を渡った。騎士団の先頭は既にヴァルファと接触しており、乱れた敵を蹴散らして渡河を完了させている。
「む、もう少し急ぐのだ。手柄を立てる余地が無くなってしまう」
エンリケが、急ぐように指示を出す。しかし、周りの傭兵達はそれに従おうとせず、無言のままである。
「おい、お前達――」
不機嫌そうに重ねて命令するエンリケの目の前で、マンジェロが、周囲の傭兵達が剣を抜く。まだ剣を抜くには早いはず、と不審に思う。
「!?」
肉が切断される、鈍い音が聞こえた。
殺気を感じることもできないエンリケは、その身に刃を受けて、ようやく自分が殺されようとしていることに気付いた。時既に遅く、悲鳴を上げる暇すらなかったが。
その後、エンリケの軍歴の末尾には、『渡河の最中、流れ矢を受けて落馬。その後行方不明』とだけ記録された。
一筋の光も感じられない暗闇の中、ソウシは漂っていた。いや、全身の感覚を失った状態では、自分の置かれている状況を認識することもできなかった。
それでも、何故かソウシは聴覚以外の感覚で、何者かの“声”を聞いていた。
『……んじゃう! ソウシが死んじゃ……!』
『……いさ……! 誰か、兄さ……助け……』
しかし、もう彼には、それを理解することも出来なかった。認識できたのは、“声”が聞こえる、ということだけである。
『(……大丈夫……。水の中は私の国……。私が、助けてあげる……)』
“声”が増えたような気がした。それでも、それ以上のことは、何もわからなかったのだが。
『(しっかりして……。貴方を待っている人が、いるのだから……)』
何も感じられなかった暗闇に、光が射し込んだように感じられた。つい先程まで失われていた感覚が、僅かではあるが戻ってくる。全身にまとわりつく水の感触、押さえ付けるような暴力的な水の圧力が、徐々に消えていく。
『(私に出来るのは、ここまで……。頑張って、大事な人を、泣かせないように……)』
『……さま! ……』
『しっかり、ソウ……!』
どうにか動かした手に、土を掴む感触が帰ってくる。喉の奥から泥混じりの水が吐き出されると、肺に冷たい空気が入ってくる。
「……」
そこまでで力尽きたソウシは、今度こそ本当に身動き一つ出来ずに昏倒した。いったいどうやったものか、彼はどこともしれない岸辺に上半身を引きずり上げていた。
目を覚ましたとき、ソウシは自分が揺られていることに気付いた。体に染みついた習性で、周囲の状況を把握しようとする。が、全身に全く力が入らず、首を動かして周りを見回すこともできない。
どうにか聞こえてくる音からは、馬車に乗せられているようなのだが。
「……う……」
体が動かないならば、御者を呼んで状況を訪ねてみようとしたのだが、口から漏れたのは言葉にすらならない呻き声だけだった。
「お? 目が覚めたのかい?」
ソウシの声は、馬車のたてる音に紛れてしまいかねない小さなものだったが、御者はそれを聞き分けたらしい。声から察するに、それは女性のようだった。
すぐ馬車が一旦止められ、女性が上からソウシの顔を覗き込んだ。長い見事な銀の髪をバンダナでまとめた、野性的な美貌の若い女性である。
「あんた、河に落ちたんだろ? 岸に打ち上げられてるところに、たまたま俺が通りがかったんだ。俺が見付けたときには死体になりかけてたけど、手当が間に合ったみたいだな」
「……」
まだ頭は朦朧としていたが、ソウシは大まかな状況を理解した。せめて助けてくれた女性に礼を言おうとしたのだが、やはりまだろくに声を出せない。それを察したのか、女性はソウシを手で制した。
「おっと、助かったとは言っても、まだ危ないことには変わりないんだ。仕事のついでに王都の病院まで運んでやるから、大人しく寝てるんだな」
「……感謝、する……。自分は、サガラ……」
「サガラ……? ああ、あんたの名前か。俺はジーン。ご覧の通り、御者をやってる。さ、もう寝な。体力を温存しとかないと、次に目を覚ますのは天国になるぜ」
ジーンの言葉に大人しく従ったわけではないが、体力の限界に達したソウシは速やかに眠りに落ちていた。ジーンはソウシに毛布をかけ直すと、馬に鞭を入れて走り出した。
「よーし、もう一息だ。頑張ってくれよ、お前達。ただし、後ろのやつを起こさないように、静かにな」
ジーンの言葉に答えるように、馬車に繋がれた二頭の馬達が、短くいなないた。
「はぁ……」
傭兵隊の一員、カール・リヒターは、つい先日までは浮ついた足取りで辿っていた道を、苦行者のような重い足取りで辿っていた。彼の目的は、この道の先にある。彼の隊長が住んでいた家へ、決して朗報とは言えない――はっきり言って凶報である――報告を持って行くことである。
テラ北河の戦いは、結果として痛み分けに終わった。
ソウシの活躍によって、八騎将の一人、指揮官たるコーキルネィファを失ったヴァルファは、ドルファン第二、第三大隊の攻勢の前に混乱を収拾できず、為す術もなく撤退していった。
しかし、撤退していくヴァルファに追撃をかけた第五大隊は、残る指揮官の一人、八騎将のミーヒルビスの巧妙な逆撃に合い惨敗。大隊がほぼ全滅するという大きな被害を出した。ヴァルファを撤退させたとは言え、撤退の早かったヴァルファ側の被害は大きなものではない。単純に死者・負傷者を比較すれば、ドルファン側の惨敗なのである。
しかも、コーキルネィファを討ち取ったソウシ自身も、コーキルネィファと共に増水した河に没して行方不明。質の面からも量の面からも、ドルファンがこの戦いで被った被害は、これまでを大きく上回るものとなってしまった。
「サキさんに何て言えば良いんだろう……」
傭兵隊の必死の捜索にも関わらず、ソウシを発見することは出来なかった。隊長を失い、監督官を失った傭兵隊は本隊より一足先に首都へ帰還したのだが、その雰囲気は葬列の様に暗く沈んだものだった。
それでも、兵卒はともかく、傭兵隊の幹部達はのんびり落ち込んでいることは出来なかった。今までソウシが行っていたことを、自分たちが行わなければならなかったのである。損害の報告など、首都に帰り着くなり、様々な手続きに彼らは忙殺されていた。
カールもその中の一人だったのだが、彼はその任から外された。単純に見れば休みを与えられたようなものだが、その実、彼は誰よりも面倒な任務を与えられていた。
ソウシのただ一人の肉親であるサキに、行方不明の報を伝えるという任務である。
当然、カールは拒否しようとした。色々と複雑な感情を抱いている相手に、残酷な現実を知らせに行くのである。戦場での行方不明は、戦死と同義語。それを伝えられたときのサキを思うと、到底進んで引き受けられる任務ではなかった。
しかし、そこは最年少者という悲しさ。アルベルトに肩を叩かれ、他の小隊長達の無言の強要に対抗しきれず、カールは引き受けざるを得なかった。
気が進まなくとも、歩いていれば必ず目的地にはたどり着いてしまう。扉の前に立って呼び鈴を押しながらも、カールは往生際悪く、サキが留守であることを祈ってしまった。
『はーい』
扉の奥から、無情にもカールの祈りに反してくぐもった返事が返ってくる。回れ右して逃げ出したい思いを押さえ付けた彼だったが、顔を上げることが出来なかった。
『……どちら様でしょう?』
板一枚へ立てた向こうから、女性の声が問いかけてきた。それは、カールの覚えているサキの声ではなかった。サキではなかったことにどこか安堵しながら、そして不審を覚えながら彼は顔を上げた。この家には通いの家政婦などもいないため、ソウシとサキの二人しかいないはずなのだ。
「傭兵隊の、カール・リヒターです。サキさんにお知らせがあってお伺いしたのですが……」
『傭兵隊の方ですか? 少々お待ち下さい』
扉が内側から開かれる。そこにいたのはサキではなく、栗色の髪をした少女だった。サキよりも少し年長だろうか、カールには、彼女に見覚えがあるような気がした。
「あのう、貴女は……?」
「あ、はい。私、サキちゃんのお友達でソフィア・ロベリンゲと申します」
「サキさんは、お留守でしょうか?」
買い物にでも出かけているのか、とカールは尋ねた。しかし、返ってきたのは彼の想像の外の答えだった。
「いえ。サキちゃん、ずっと病院にいるものですから……。私は頼まれて、着替えを取りに……」
「サキさん、ご病気か何かなんですか!?」
勢い込んでカールは尋ねる。尊敬していたソウシを失って消沈していた彼だったが、サキまでどうにかなってしまうのかと考えて、別の意味で感情が高ぶったのである。
カールの勢いに目を白黒させたソフィアだったが、気を取り直すと彼の先走りを訂正した。
「そうじゃなくて……。ソウシさんが入院してから、ずっと付き添っているんです。ソウシさん、もう峠を越したそうですけど、目を覚ますまでは側にいる、って……」
「ええ!? ちょっと待ってください! 隊長が!?」
「はい。ソウシさん、怪我をして、傭兵隊の皆さんより先に病院にかつぎ込まれたんでしょう?」
あまりに衝撃的なソフィアの言葉に、カールは立ちすくんでしまった。言葉の意味が頭に染み渡るにつれて、いままで沈んでいた気分が一気に高揚してくる。
そんな彼を、ソフィアは不思議そうに眺めていた。同じ傭兵隊の一員が、そんなことを知らなかったのかと言いたげな表情である。
「あの! それで、隊長はどこに!?」
「え……。お城の側の、中央病院ですけど……」
「ありがとうございました!」
辺りに響きわたるような大声でそう言うと、カールは身を翻して振り向きもせずに走り去った。その表情は、晴れ渡った空のように喜びに輝いている。
「アルベルトさんに、みんなに教えなきゃ!」
暴走する馬車もかくやという勢いで、カールはシーエアー地区の方向へと走り去っていった。その行く先では、アルベルト達が落ち込んだ顔を並べているはずである。
無くなったと思っていた、今までの傭兵隊が帰ってくる。そう思うと、彼の足は一層回転を早くするのだった。
「……何だったのかしら?」
走り去るカールを見送ったソフィアは、首を傾げて呟いた。カールの奇行にも見える振る舞いに、呆気にとられてしまった彼女だった。だが、やがて手に携えた着替えのことを思い出すと、サキに預けられた鍵でしっかり戸締まりをして、病院のあるドルファン地区へと向かった。
病院では、サキをはじめてとして、ライズ、レズリー、ハンナ、ロリィが枕元についているはずである。そう言えば、もうそろそろ目を覚ますはず、と看護婦も言っていた。その時に側にいたいな、等と考えながら、ソフィアもその場を立ち去って行った。
後書き
終〜了ッ! よく頑張った、コーキルネィファ!(笑)
ともかく、これで血風渦巻く二年目はほぼ終了です。次回からようやく女の子達メインに……なるはずです。
……しかし、ここに来て一気に新キャラが二人も出してしまいましたが、さばききれるんだろうか?(苦笑)
ともかく、次回第二部「血風編」最終回をどうぞお楽しみに。
それでは今回のキャラ紹介。
スパン・コーキルネィファ 18歳 男 B型
キャラ紹介にも二回に渡って登場してしまいました(笑) ちなみに、年齢は提供された情報を元にした作者の創作です。ヴァルファがドルファンとの戦争を開始した時点で16歳、この話の時点で18歳、という設定です。
*提供された情報は、「Dolphan Station」の管理者でもあるTWIさんからのものです。TWIさん、いつも色々と有り難うございます。
ジーン・ペトロモーラ 22歳 女 A型
気っ風のいい御者の姐さん、ジーンの登場です。かなりの確率でスポットキャラ扱いになりそうですが……(苦笑)
それから、この話を執筆している最中に、ジーン役の新山志保さんの訃報に接しました。まだお若い方だというのに、非常に残念です。改めて、深くご冥福をお祈りします。
謎の声(笑)
えー、今のところは謎のままです(苦笑) ゲームと違ってえらく登場が早いのは、上手いこと登場させる方法を思いつかなかったからだったりします。
本格的な登場は、やっぱりかなり後ですが……。
それではこの辺で。
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