特務生徒と言うものは確かに超人的な存在であり、炎を吹いたり、拳で全てを叩き割るような強者がごまんといる。
しかし、それは人を超えていると言え、人そのものを超越したわけでもない。簡単に言うと、いくらなんでも人と言う枠から完全に抜け出せはしない、そう言うわけだ。
…一部、アンドロイドの学校があるが、それは除く。
すなわち。
眠らなければ疲労する。
食事をしなければ餓死する。
呼吸を封じられれば窒息死。
エキストラと呼ばれる特異な存在だとしても、その辺り―恒久的な弱点はなんら、人とは変わりないのだ。
だから、たまにはそう言うこともある。
病気を患い、寝込むことも、しばし。
「…おい、国東。聞いたか?」
国際専守防衛学校の普通の昼休み。
寮(と呼ぶにおこがましいプレハブ小屋)の前で飯盒炊飯をしていたエキストラ最強の男、こと国東修二―僕の元に来たのは、おかず持参の親友―中条一馬だった。
「…ですから、生のまま持ってくるのは止めてください」
「どうせすぐ調理するんだから気にするな」
おそらく、森林で捕獲してきたのだろう。獲物は白い毛皮のウサギだった。その耳を荷物のように左手で掴み、右手で解体用だろう、サバイバルナイフを握り締めている。
「焼くか? 煮るか?」
「…たまにはまともな食事をしたいもんですね」
「この学校にいる限り、諦めろ」
「たまに、貴方が一緒にいるから、とも思ってしまうんですけどね」
料理クラブの連中は昼休みも部室―むろん、調理室―に篭り、予算で買った野菜やら肉やらお菓子やらで豪勢な昼ご飯を食べている。
そこまで行かなくてもごく普通の生徒であれば、僕等のように無茶な自炊はしていないはずだ。
質素ながらも、寮での食事はそれなりのものなのに。
「ねぇ、諦めて食費を払ったらどうです?」
それを滞納―その分を自分の小遣いにしてるのだ、この男は―さえしなければ、問題はない。そのはずだ。
それに巻き込まれる僕は、たまったものじゃない。
まぁ、僕もその分、使えるお金が増えているわけだが。
「…うるせェな。美味い飯は作ってやってるだろうが」
「…まぁ、確かに」
昨日の蛙も意外といけた。
一昨日の魚も、悪くは無かった。
最初の頃は抵抗あったものの、今では特になにも感じない。
「…いやぁ、いい友人をもって幸せですね」
「ああ、同感だな」
これに関しての涙はもう捨てた。
いや、枯れ果てたと言うべきか。
どっちにしても、一緒だ。
「…で、何を私が聞いてるんです?」
「…あ、その話だったな」
手早くウサギを解体しながら、首のみをこちらに向ける。
視線が手先に向かっていないのにその動きは衰えはしない。
これも一種の才能なのだと思う。その器用さが味と直結してくれれば、あとは思うことはないのだけど。
「仁科がな」
その言葉は不意打ちだった。
「ぶっ!」
思わず炎を吹き消してしまう所だった。
行き場を無くした呼気が暴れ、むせ返る。
「…大丈夫か?」
「な、なんとか」
けほけほと咳をしながら、一馬に答える。涙が出てきた。
「じゃあ、続けるぞ。仁科が風邪引いて休んだらしい」
「…ちょ、ちょっと待ってください」
仁科煉さんは二人の共通の知人だ。
…まぁ、僕にとってはただの友人ではなく、チームメイトといった間柄なのだけど。
「ど、どうしてそれを? で、何でいきなりっ?!」
「エリートの特権」
フライパンにウサギ肉を放り込みながら、ニヤリと笑う。
「お、いい感じ、いい感じ」
答えたのは前者の質問だけだった。後者は完全に無視している。
「…………」
「そー怖い顔するな。ちょっと魔女校に顔を出す用事があったから行って来て知っただけだ」
「…そっちの用事も気になりますけど…」
魔女校。
マリーア女子高等学校と言うのが正式な名称であり、それが彼女の通っている学校の名前だ。マ女校と略すところから魔女校と呼ぶ者も結構いる。
「仁科が風邪をひいたのが、意外そうだな」
「一馬がひくほど意外じゃないですよ」
「…殺すぞ」
その言葉と僕の両腕が跳ね上がるのは一緒だった。
「暴力反対」
「…それでよし」
再び視線がウサギに戻る。
防衛科の人間と喧嘩する気はさらさらなかった。特に、一馬が本気になればそこら辺の不良を相手していたほうがまだましだ。
エキストラ最強の一角は、実に非戦闘的であり、僕自身、それをなんら恥じる気は無い。むしろ、誇りだ。
「…仁科さんが…」
「て、ことだ。焼けたぞ」
「…………」
獣肉の焦げる、香ばしい匂いが辺りを包む。
だが、その味は良く分からなかった。
風邪。
正式には普通感冒と言う。
呼吸器系の疾患では最も多く、病因は主にアデノウィルス等。寒冷、アレルギーは非感染因子と言うが、そちらの方が原因でおきるものは希少である。
症状はくしゃみ、水性鼻汁、鼻閉等の鼻炎症状、そして咽頭痛、咳、発熱、全身倦怠感などを伴う。
ちなみに、根絶的な治療の方法は無く、これを治す特効薬を発明すればノーベル賞ものだと言うのは有名な話である。
「…くしゅん」
「煉さん。風邪には寝るのが一番の薬。ですから、寝ていないとダメですよ」
「…うん」
頭がボーっとする。
朝、熱が高いな、と思って測ったら39度。
平熱が36度の煉にとって、それは結構な数字だった。
「本日、学校は休まれた方がよろしいのでは?」
「…うん、そーする」
そして、今、ベットの中と言うわけだ。
「もう少ししたら、お粥、持ってきますからね」
「…ありがとう、真琴さん」
「今更いいっこなし、ですよ」
悪戯っぽく微笑み、人差し指で煉の鼻頭を弾く。
そして、パタパタと足音を残し、部屋から出て行った。
「…………」
(たまには、いいかな?)
平日に一日中眠るだけ、と言うのはある意味、贅沢なのかもしれない。
学校が嫌いなわけではないけど、たまには悪くない。
気怠るさも軽い頭痛さえもベットの中では拒否したいものではなく、むしろ、睡眠の快感を引き出すための小道具のような気がしてくる。
お粥が来るまで起きていよう、と思ったが、睡眠の誘惑は激しかった。
(…起こして、くれるよね…)
真琴は律儀な性格だ。こと、食事に関しては“一番美味しい時期”から外すという妥協はしない。
だから、安心できた。
ゆっくりと目を閉じる。
闇が降りてくるのと、どこか遠くで慌ただしい音が聞こえたのは、ほぼ同時で。
だが、煉の意識は誘惑に抵抗出来ず、闇に呑まれていった。
.
.
.
.
.
「…さ〜ん」
「……う〜ん……」
「…なさ〜ん」
「…………」
意識の覚醒は早かった。
少々低めの声音がそれを促す。
うっすらと目を開けると、最初に飛び込んできたのは黒い髪だった。
そして、柔らかい微笑。
夢だと思った。
まだ眠ってるのだと思った。
そんな情景が見えるわけ、無いのだから。
「……にしなさ〜ん? お粥、出来たそうですよ」
「…………」
肩を押さえ、ぐらぐらと揺らされる。
その乱暴な身体の振動が、今が夢の世界ではないことを伝えていた。
つまり。
「な、なんで国東くんがここにいるのっ!」
仁科さんの最初の台詞がそれだった。
僕はいつもの苦笑を浮かべる。彼女のその台詞は十分に予想の範疇であった。
「お見舞い、来ました」
「え? え? な、なんで」
慌てて起き上がろうとするその身体を、やんわりと止め、上体のみ起こさせる。
はらりと掛け布団が零れ落ち、露になるライム色のパジャマ姿。
(へぇ)
感想が頭の中をよぎったが、あえて口に出さないことにした。
「はい。とりあえず、食べましょう」
机に置いておいたお盆から、上月さんに託されたお粥を持ち上げる。添えられていた蓮華で中身を掬い、そして彼女に近づけた。
「…………」
訝しげな視線。
まぁ、慣れっこと言えば慣れっこなそれを受け止め。
「あ、このままじゃ熱いですよね」
自分の口に近づけ、二、三度、息を吹きかける。
「はい、どーぞ」
「……なんで、ここにいるの?」
「お見舞いですよ」
「だ、だって、今、学校は?」
混乱してるなぁ。
そんなことを思いながら、右手をゆっくり動かす。
「とりあえず、このまま固まってる私が間抜けなので、食べていただけないです?」
「……じ、自分で出来るわよ」
頬をほのかに朱に染め、言い繕われた台詞は、しかし、無視する。
わずかに湯気が立つ蓮華でぷにぷにと唇をつつくと、観念したかのようにわずかに口を開いた。
「はい、あ〜ん」
「…………あ〜ん」
口をあけた中にお粥を流し込む。
「もういいでしょ?」
「いえいえ」
奪われる前にお粥を掬い、そして、ふーふー。
「…あ〜ん」
「……あ〜ん」
そんなやりとりは結局、お粥が全部なくなるまで続いたのだった。
茶碗が空になったと同時に、仁科さんの身体を横たわらせ、胸まで掛け布団をひく。
病人をいつまでも起こしておくほど、僕は非人道的ではない。
「……で、どうしてここにいるの? 学校は?」
「サボりです。おそらく帰ったら腕立てと腹筋とランニングでしょうね」
とりあえず、この前一馬がサボったとき、帰宅後の罰は、腕立て伏せが1000回。腹筋も1000回。ランニングが学校周りを10周だった。あのときほど、アイツのことを哀れに思った日は無かった。
しかし、それと仁科さんを比べるまでもない。
病気の人がいれば看病してあげるのは、立派な国防精神でもあるし。
「だ、だって」
「まぁ、気にしないで下さい」
「…で、どうして私の部屋にいるの?」
「上月さんに上げていただきました」
別にお見舞いの品を渡してもらえるだけでも良かったんだけど。
陽気なお手伝いさんは、一瞬、謎めいた微笑を浮かべただけで、運ぼうとしていたお粥を僕に託しただけだった。
もしも僕が不埒者だったらどうするつもりなんだか。
「…あ、そうそう。とりあえず、これ、プレゼントです」
「……あ、ありがとう」
「国防の購買で売っていた奴ですけど、まぁ、美味しいはずですよ」
僕が取り出したのは、果物籠だった。
お見舞い品はケーキとこちら、どちらにしようか迷ったのだが、病人には栄養だろう、と思って買った品だ。
「……国防って……」
「そう言う学校なんですよ」
リンゴを掴み、上月さんに借りたナイフで皮を剥きながら、机から引っ張り出した椅子に腰掛ける。
「…お体のほう、大丈夫です?」
「心配してくれるんだ」
「…そりゃ、まぁ」
苦笑。
皮を剥いたリンゴをナイフで縦に割り、それをさらに八つに分ける。
そのうちの一つを掴み、差し出した。
「はい、あ〜ん」
「…もういいよ」
口では抵抗しつつも、差し出したリンゴはそのまま受け取る。
しばらく咀嚼後、ごくりと飲み下す音が聞こえた。
「…美味しい」
「でしょ?」
「…でも、もういいよ」
「ビタミンを取ることは重要なんですけどね」
首が振られ、残りのリンゴ達はやんわりと拒否された。
仕方ないのと勿体無いので、その全てを自分で飲み込む。
うん。美味しい。
「…あ、そうだそうだ」
「……?」
仁科さんの額―そこに掛かるタオルに手をかけ、そしてそれを手にとった。
「温くなってますよ」
「…そう言うの、したいんだ」
「見舞い人の特権ですから」
ベットの横の洗面器につけ、軽く泳がせた後、ぎゅっと絞る。
そして、それをもう一度、額に戻した。
「…冷たい」
「まぁ、そりゃ、これだけ氷を入れていれば」
洗面器の中は、ほとんど氷だった。
お陰で一瞬にして手がかじかんでいる。
「…手、冷たくないの?」
「冷たいですよ、ほら」
右手の甲で、ぺたりと頬に触れた。
熱の所為か、それとも僕の手が冷たすぎるか、その個所からじんわりと温かみが伝わってくる。
「…冷たいね。あ、でもね」
「…?」
布団の中からもそもそと右手が伸び、僕の右手に触れた。
「手の冷たい人、心が暖かいって知ってた?」
「…そりゃ、どーも」
布団の中でぺろりと舌を出し、へへ、とくすぐったげに笑う仁科さんに対し、僕はそう言うしかなかった。
他に言葉など、見つかるはずも無かった。
「……う〜」
眠ってしまえば楽なのだが、国東くんの前では眠るわけに行かなかった。
男の子を部屋に上げているのが一つの理由。
あと、ゲストが来ているのに、ホストが眠るのは失礼な話だし。
「とりあえず、体温測りましょうか? 体温計、何処にあります?」
椅子から立ち上がる国東くんを横目で追いつつ。
「…そっちの棚の一番上の左から二つ目…」
「あ、はいはい」
「他の棚、開けたら蹴るからね」
「そこまで元気ならもう安心、なんですけどね」
体温計をとりだしながら、いつもの苦笑を浮かべる。
そして、それを振りながら再び、椅子に腰をかける。
「…電子体温計だよ、それ」
「いや、昔っからの癖なんですよ」
どうやら水銀体温計を昔、使っていたらしい。
…そう言えば、彼の昔話は聞いたこと、無かった。中学時代の友人―と紹介された女性―もついこの間、知ったばかりだし。
彼は自分のことをあまり話さない。
と言うよりも、自分の過去を。
「はい、体温、測りますよ〜」
「…自分でするからいい…」
「何を言うんですか。こう言うのは測ってあげるから楽しいんじゃないですか」
そんなことを真顔で言う。
「…前から思ってたけど、国東くんってちょっとエッチだよね」
私の軽口に対する反応は、大したものだった。
「なっ、こ、これはじゅ、純粋に看護行為でっ、べ、別に下心がどーとかっ」
これでは、肯定しているのも同然だ。
いつも冷静を装っている彼が慌てるのを見るのも、それはそれで面白い。
「なんでどもるのよ。…ムッツリ?」
「…献身的なんですよ」
先ほどまで慌てていたのは何処へやら。真顔に戻っての台詞。だけど、怒ってるわけではなさそうだ。
「はい、万歳して下さい」
「…自分でするって言ってるのに……」
と言いつつも、素直に両腕を上げる私。
そんな私の胸のあたりに、国東くんの腕が伸びる。
一瞬だけ、身体が硬くなった。
「身体の力、抜いて下さい。怖がることなんてないんですよ。痛くしませんから」
「その言い方、なんかいや〜」
その抗議は無視され、パジャマのボタンが上から二つ三つ、外される。
「…見ないでよ」
左手で隠しながらの言葉。多分、そのときの目は恨みがましいものになったと思う。
国東くんから返ってきたのは、単なる苦笑だった。
「看護です」
そして、ぺたりと体温計が腋下に押し付けられた。
「はい、挟んでくださいね」
「…………」
腕を下ろし、その冷たい金属部分を挟むと、国東くんの腕が再び胸の辺りに伸びる。 じっと瞳を睨む私に苦笑のような微笑のような、曖昧な笑みのまま。
…彼がしたのは、ボタンを留めることだった。
「…はい。こんな感じで」
「…………」
ボタンとボタンの隙間から、ちょこんと体温計のお尻の部分が覗いている。
それをぴんと指で弾き、再び彼は椅子に戻った。
「はい。あとは一分半ですね」
「……あのね、やっぱり、自分でして良かったんじゃないの?」
「いやいや、いい目の保養でした」
胸に布団をかけながらの台詞。
…治ったら、蹴飛ばしてやる。
本気でそう思った。
「……38度5分。体温計が壊れてなければ、結構な値ですね」
値を見終わった後、もう一度振ろうとして苦笑してそれを止める。
そして、ケースにちゃんと収めた。
「…壊れてたら?」
僕の言い回しが気になったのか、仁科さんから帰ってきたのは、そんな細かい突っ込みだった。
「温度の割に、元気だってことですよ」
頭がボーっとする為、ハイテンションになっている可能性もあるけど。
それほど、仁科さんは元気そうだった。
熱で朱に染まった顔と少し荒い息遣いを除けば、別にそう思っても不思議は無い。
僕はとりあえず、再び額のタオルを湿らせつつ、そんなことを口にする。
「…少し、下がってるよ」
「そりゃ、良かった」
安静にしていれば確かに風邪はすぐ治る病気だ。
まして、仁科さんの普段の生活は健康そのものだ。しっかりと運動もしている。身体の基礎的な免疫は出来ているのだから、治りは早い。そのはずだ。
だから、心配して損した。
そんな気はしない。
弱った仁科さんを見るのも、たまにはいいもんだ。
「…何かおかしいこと、あるの?」
「あ、いえいえ」
どうも、その考えが顔に出ていたらしい。
少々、緩みっぱなしだ。
コホンと咳払いをし、変わりに微笑みを形成する。
「何か他に欲しいもの、あります?」
「…………」
ま、それにあとは精神的に休息が取れれば、すぐに風邪は治るだろう。
病気とは肉体的なものだけではない。
精神的な病があるなら、それを何とかするのも、看護する側の使命だ。…と言うのは単なる言いわけだろうか。
…言いわけだな、多分。。
「…あのね」
「…はい」
なぜか目をそむける。
訝しげに彼女の視線をむけると、布団の端が少しだけ、盛り上がった。
…ああ。はいはい。
そこに右手を伸ばし、布団から少しだけ出た指に触れる。
それだけだったのに、なぜか耳の先―外耳の辺りがかぁっと熱を帯びるのを感じた。
…僕まで冷静さを欠いてどうする。
心の中で自分に叱咤し、しっかりと指を絡ませた。
「…眠ります?」
「…変なことしない?」
目をそむけたままの彼女の顔は相変わらず、変化無い。
目が上気しているのも、顔が赤いのも、熱のせいだ。指先からつたわる鼓動も、風邪のため、脈拍が荒くなってるだけに違いない。
「して欲しいならしますけど」
苦笑じみた笑みを浮かべ、僕はそう言った。
「…馬鹿…」
やはり、そう簡単に頷かない。
いや、頷かれても困るんだけど。
「聞き飽きました」
軽口を叩き、そして、両手で手を包む。
それと同時に、その細い小さな手がぎゅっと片手を握り締めた。
「…絶対に何もしない?」
「約束は守ります」
「絶対に絶対?」
「絶対です」
疑り深い。
まぁ、確かに分からないでもない。
今、変な気を起こしたとしても、彼女にそれを止めるすべは無いのだから。逆に、信じられていないような気がして、ちょっとだけ寂しい。
と、思いきや。
「…私って、そんなに魅力、ない?」
「へ?」
彼女の唐突な台詞に、思わずこぼれたのは素っ頓狂な、気の抜けた音だった。
「…無いかな?」
「…………」
仁科さんの視線はやはり、先ほどと同様、虚ろに宙をさまよっている。
視線を向けられていなくて助かった。おそらく、今の僕の表情はこれまでで一番間の抜けた表情となっているだろう。
彼女の台詞一つでここまで狼狽するとは思わなかった。
「……それは……」
軽く、吐息。
冷静に。冷静に。冷静に。
彼女の視線がようやくこちらに向けられた、そのときは普段の顔に戻っていた……と思う。
「仁科さんは魅力的な女の子ですよ。なんて言っても、アイドルなんですし」
「…そうじゃない」
僕の言葉に、ぽつりと彼女は反応する。
「貴方にとって、私は魅力的かな?」
「…………」
「ねぇ」
…ねぇ、と言われても。
その言葉に思考が凍結する。
そして、僕の口は。
…思いのほか、普通に言葉を紡いでいた。
「私って、そんなに魅力、ない?」
その言葉が出てしまったのは、熱に浮かされたせいかもしれない。
弱音を吐かないとあのときから決めていた。
彼に告白され、告白したあの時。
だけど、あの後、彼にその記憶が脱落していた、あの時より。
絶対に自分から思い出すまで言ってやるものか。
そう思っていた。
なのに。
「…ないかな?」
思わず出てしまった言葉は、しかし、正直に怖かった。
彼の反応が。
だから、彼に視線を合わせることが出来なかった。
照れられているのならいい。うろたえられていられていてもいい。
だけど。
最初、初めて出会ったときのように冷めた視線を向けられるのは怖かった。
そして、拒絶されるのが。
ようやく視線を向けることが出来たとき、国東くんはただ、いつもと同じく微笑を形造っていただけだった。
「仁科さんは魅力的な女の子ですよ。だって」
違う。
「…そうじゃない」
私はそんなおざなりな言葉を聞きたいわけじゃない。
私の聞きたいことは。
「貴方にとって私は魅力的かな?」
魅力的なのか。それとも他の誰とも同じなのか。
私は。
わたしは…。
貴方にとって唯一の人間でありたい。
そう願うことは我侭なのだろうか。彼を信じきれていないのだろうか。
でも。
言葉は欲しかった。
確かな証拠が欲しかった。
「……僕は……」
ふっと笑む。
一瞬だけの笑みは、それはとても優しいものに感じた。
「…答えなきゃ、ダメです?」
「…ダメ」
もったいぶった言い方に、私は拒否を示す。
だが、国東くんはそれに答えず、困ったような笑みを浮かべた後、私の鼻先に顔を近づける。
そして。
「……ん」
「…………」
唇が重なる時間はちょっとだけ、長かった。
彼の唇が離れ、そして、彼は。
「…不意打ちは、酷いよ…」
「すみませんね」
苦笑じみた台詞とともに、私の髪を国東くんの指が梳く。
ただ撫でられているだけなのに、それが心地良かった。おそらく、熱のせいで冷たい国東くんの指が気持ちよい、ただそれだけなのに。
「…泣かないでくださいよ」
呟き。
その言葉で初めて、私は自分の頬が濡れているのに気付いた。
「泣いてない」
「…はいはい」
「泣いてないんだってば」
まったく信じてない風の国東くんに対して、私の語尾は思わず荒くなる。
だが、それだけで。
彼はそのまま、微笑んだまま、私にいつもの視線を向けていた。
「……ぅすぅすぅ……」
再び手を握ると、それで安心したのか、ゆっくりと仁科さんは睡眠に落ちていく。
安らかな寝息がたつのに、それからそう時間は必要では無かった。
「…おやすみなさい」
僕はゆっくりと手を外し、そして、それだけを呟いた。
「…煉さん…」
もう一度だけ唇を軽く重ね、部屋を出る。
一度だけ、頭を振った。
もしも、彼女が僕の全てを受け入れてくれるなら。
…いや、答えは分かっている。
おそらく彼女はいつもの調子で頷き、そして、僕の悩みをちっぽけなものと笑って返してくれるだろう。
だが、それでも。
男である以上、格好をつけたいと思うことがある。
まして、自分の好きな人に対して、弱音を吐きたいとは思えなかった。
男尊女卑と言うなら、それは確かにそうだけど。
ったく、何も知らなければ、楽だったのに。
嬉しくもあり、逆に辛くもある。
とりわけ、彼女と気持ちを確かめ合えたのは、何はともあれ嬉しいものだった。
「国東さん。お帰りですか?」
「…ええ。仁科さんによろしく伝えてくださいね」
「はい」
玄関で声を掛けてきた上月さんに頭を一度下げ、そして靴を履く。
再び名前が呼ばれたのは、ドアを抜けたときだった。
「国東さん」
「…はい?」
閉まりかけたドアを左手で支え、振り返る。
そんな僕に対し、上月さんは自分の唇を指差し。
「付いてますよ。口紅」
「え?」
慌てて拭い、気付く。
煉さんは本日、病気で寝込んでいた。すなわち、化粧などしているはずは無かった。
それなのに。
悪戯っぽい笑みを浮かべた上月さんは、そのまま、ドアを閉める。
…はめられた。
一瞬呆然とし、だが、諦める。
まぁ、いいか。
そうとも思い、赤く染まる夕日に視線を向ける。
全てを朱に染めていく様が、すごく綺麗だった。
今日はいい日だった。
本心から、そう思った。
…その翌日。
筋肉痛の身体の節々とともに。
41度の高熱で寝込んだのは、恥ずかしいので内緒の話としておこう。