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コトノハジマリ



 それは、少女がマリーア女子高等学校に入学するひと月ほど前のお話。

 資質を見出され、マ女高に入学する事が決まった辻岡弘実は、それ以来ちょくちょくこの界隈に足を運んでいた。
 買い物の帰り、友達と遊んだ後、ただ何となく…… なにしろ、正義の為に特務高校への入学を希望した少女である。これからの自分を高めていくであろう学び舎を見ると、自然と力が湧いてきた。
 もっとも、勇気がわいてくるというには、少々そのパステルカラーの校舎はファンシーすぎたが。
 今日も、親に頼まれた買い物のついでについ足がマ女高の方を向いていた。往年の戦隊ヒーローものの主題歌を口ずさみつつ、足取りも軽やかに歩きなれた道を行く。

 と、マ女高の隣にある高校の横を通り過ぎようとした時であった。

「だからテメーはそーいう事すんなって言ってんだっ!」
「へぶぁっ!?」

 叫び声と共に弘実の目前を何かが横切った。スクラップになった単車であるとは認識できなかった。
 壊滅的な音をたてていよいよ廃車になった単車を見、続いて飛んできた方向を見ようとした弘実の視界が暗くなる。
「ほゆ?」
 何か、いや誰かが飛んできた。
 少女の意識は、そこで一度途切れる。



「……ほゆ?」
 ゆらゆらと揺れながら、弘実は目を覚ます。そこは、誰かの背中だった。
「はっはっはっ 気が付いたようだぐぅっ!?」
 やけに大きい声。目の前の頭が振り返る。きりりとした眉におおきな口。無闇に明るい笑顔。
 最後にカエルをつぶしたような声を発したのは、隣を歩いていた少年が「ウルサイ」と言って弘実をおぶっていた青年の鳩尾に肘を入れたからだった。この少年は、弘実が持っていた買い物袋を持っている。
「えーと? わたし、どうしたんですの?」
「聞くな」
 にべも無かった。仕方がないので一生懸命自分で思い出そうとする。
「確か……何かが飛んできて、それで……」
「すまんなっ 飛んできたのは私だ!」
 本当にすまないと思っているのか疑問に思えるほどの快活さで弘実を背負っている青年が謝った。
「な、なんで飛んできたんですの?」
「聞くな」
 少年はそっけない。それを補うかのように青年が口を開く。
「いや、ちょっと変しぶふぅっ」
 そして顔面に少年の裏拳がめり込んだ。絶妙なドツキ漫才のようにも、単なるいじめのようにも見える。
「あ、あのっ わたし降りますの……いたっ!?」
 目が醒めたのにいつまでもおんぶしてもらっているのもどうかと思ったので、降ろしてもらおうと足をばたつかせたら、右足にけっこうな痛みが走った。
「無理はしないほうがいいぞ! ぶつかった時に足をひねってしまったみたいだからな!」
「……余計な事を。で、めんどくさい事に親切なオレ達がテメーの買い物に付き合っているってワケだ」
 本当にめんどくさそうに少年が言った。断りもなくがさごそと買い物袋を漁って、メモを取り出している。
「でも、その、ちょっと恥ずかしいですの……」
 父と兄以外の男性とはあまり体をよせあった経験がないので、見知らぬ男の人におんぶされているというこの状況にかなり動揺していた。
 少し顔を赤くして周りを見ると、道行く人々がちらちらとこちらを見ているのがわかる。好意的に仲のいい兄妹に見てくれる人の割合ははたしてどの程度だろうか。ますます顔が赤くなる。
 その周囲の視線に気付いた少年が、「なるほど」と頷いて口を開いた。
「気にするな」



「よっ 坊主。今日は物かっぱらっていかんのか」
「ウルサイ」
「あら? 今日はおとなしいのね」
「ダマレ」
 どうやら、少年はこの辺りでは有名人らしかった。どう有名なのかは、考えるとちょっと恐い方向にいきそうなので深く考えない事にする。
 それはともかく、少年のおかげで買い物は滞りなく終わった。その間ずっと青年におんぶしていた弘実は、ただただ恥ずかしいばかりである。
「あ、あのっ もう大丈夫ですの」
「はっはっはっ 無理はいけないぞ! 困った時にはちゃんと助けてもらわないとな!」
 誰の所為で困った事になっているのかまでは考えていないようだった。
 善意でやってくれているのだろうが、この人たちはこのまま家まで送ってくれるつもりだろうか? ひょっとしなくても、それはとても恥ずかしい。
「ちゃんと家まで送ってあげよう!」
 とても楽しそうに笑いながら、青年は言った。予感的中である。
「そ、そこまでご迷惑をおかけするわけにはいきませんのっ そこでタクシーをひろっていきますの」
 あわてて道路を指差す。それなりに交通量のあるところなので、案外簡単に捕まりそうだった。

 指差して、道路の方から赤いボールが転がってくるのが見えた。その向こうの、幼稚園児くらいの男の子も見えた。

 ふっ と、一瞬だけ無重力を感じた。青年の背中から落ちたのである。
 いつのまにか後ろに回っていた少年に受け止められつつ、弘実はその光景から目を背けられなかった。

 ガードレールを踏み台にして、青年が無心にボールを追いかける男の子に向けて一気に跳躍する。

 その子供のお母さんであろう、女の人の悲鳴が聞こえた。

 車の急ブレーキの、耳に触る甲高い音。

 間に合わないと思った。そして、実際に間に合わなかった。

 青年が男の子を抱えた瞬間、軽自動車が青年を大きく跳ね上げる。大きな体が、木の葉のように宙を舞った。数メートル先に、背中から落下する青年。

「あっ……あぁっ!!」
 ショックの余り、まともに声が出せない。
「あ、あの人が、あ、あの」
 がたがたと震えながら、自分をかかえている少年と、道路に倒れている青年を意味もなく交互に見る。
「あの野郎、またか」
 弘実と対象的に、少年はいたって冷静だった。「また盗み食いしたのか」程度の口調である。
 何と言っていいかわからずに、口をぱくぱくさせる弘実。

「はっはっはっ 怪我はないか? 少年!」

 唐突だった。
 何事もなかったかのように青年がむくりと体を起こす。今更ながらに泣き出した子供の頭をなでてやっている。
 少年が、足もとに転がっていたボールを青年の方に向かって蹴った。それを器用に片手で受け止めると、子供に返してやる。
「こういう所で遊ぶのは、車と衝突しても平気になってからだぞ!」
 無茶な説教をしてから、目をはらして礼を言う母親と顔面蒼白のドライバーに笑顔で手をふりつつ、青年は帰ってきた。
「だっ 大丈夫ですのっ!?」
「はっはっはっ あまり大丈夫じゃないな!」
 全然平気そうな声であったが、確かに服は裂け、そこら中から血を流している。
「い、痛くなかったですの!?」
「うむ、死ぬかと思うほど痛かったぞ!」
 にこやかに笑う。それが当然の事であるかのように。
「気にすんな、毎度の事だからって、何お前泣いてんだ?」
 少年が、いぶかしげに弘実の顔を覗き込む。
 少女は、顔をぐしゃぐしゃにして泣いていた。何故涙が出るのかは自分でもわからなかった。ただただ、目の前の青年の事を、すごいと思った。

 とても、眩しかった。



 弘実が青年の名前を知ったのは、ついでに少年だと思っていたのが実は女の子だったのだと知るのはまた別の話。
 ともかくこれが、事の始まりである。

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