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少女の理由



 どんな時の兄も好きだったが、こうやって優しく自分の髪を撫でてくれている時の兄が一番好きだった。
 面会時間のぎりぎりまでそうしてから、平塚真流は長めの口付けを妹の彩子と交わし、病室を出て行く。

 真流が出て行くと、病室の中にはもう彩子一人きりになってしまう。気難しい性格の彩子は医師でさえあまり自分の体に触れさせようとしなかったし、なにしろここは個室である。テレビもラジオないこの部屋には、音さえ彼女の孤独を侵害する事はなかった。
 気だるい体を引きずって、ゆっくりと病室を後にする。受付の看護婦に無理やりな笑顔で会釈して、いつもの場所に電話をかけた。すぐに止められてしまうと泣いていたので、報酬がわり電話代は彩子が払っていた。気兼ねはない。
「じゃあ、いつものようにお願いします」
 
 

 兄を、正確には義兄を特別な存在に思えてきたのはいつの頃からだっただろう。
 昔の真流を、彩子は割れたガラスの破片のような、と表現する。手を伸ばした者全てを傷つけながら、自分は酷く脆くて、すぐに壊れてしまう。
 彼が中学へ上がる頃にはもう、手のつけられない状態になっていた。街へ繰り出しては、相手も自分も傷つけるような喧嘩を繰り返す日々。彼は、誰かと組むという事をしなかった。世界の全てが彼の敵だったのだ。
 両親でさえ放置していた真流を、彩子はどうしても放っておけなかった。義務感、だったのだろうか。兄を助けられるのは、自分だけだと思った。
 それは、思春期の少女のただの思い上がりだったのかもしれない。しかし、例えそうだとしても、彩子は何かせずにはいられなかった。

「誰かを傷つける力があるなら、私を兄さんの物にしてください」

 はじめての時は、強姦も同然だった。
 
 

 病室に帰り、夕食を済ませてから、彩子は静かに夜が更けるのを待つ。
 日付がかわる頃、彩子は身につけていた衣服を脱ぎ始めた。一糸纏わぬ姿となって、丁寧に衣服をたたむその指には、玉の汗が浮かんでいる。顔は苦しみに歪んでいた。
 兄と交わった日は、いつもこうだった。真流の中にある暴力性が、そのまま自分に流れ込んでくるような感覚。苦しみに胸を掻きむしりながら、彩子は思う。

 これが兄が安らかにいられる代償ならば、安い。

 彩子の背中から、一対の翼が現れる。右は白い羽毛を纏った鳥の羽、左は黒い皮膜に覆われた蝙蝠の羽。
 肩口から、黒い塊がはいずり出てくる。それは、無数の牙を見せて、笑った。目も耳も鼻もない、顎。
 歓喜の咆哮をあげようとするそれを、両腕で必死に抑える。その両腕の爪は一つ一つが細身の剣のように鋭く伸び、しみ一つなかった腕には所々に爬虫類を思わせる鱗がうきたつ。
 わき腹からは、節足動物の脚が生え、本人の意思とは関係なく暴れていた。その周囲には深緑色の外骨格が出現している。
 腰から生えた尾は、いや、それは尾ではなかった。何故なら、その先端には蛇の頭があったから。
 骨格が、音を立てながら変質していくのがわかる。右足は、いつのまにか四足歩行動物のそれに変わっていた。
 意識が薄らいで行く。片方が複眼になった彩子の目には、周囲がおそろしく奇妙に歪んで見えた。
 その景色に、窓が見えた。
 ちぐはぐな脚で、よたよたとその窓へ向けて歩いていく。

 そうだ、前と同じように、獲物がいる、外へ、出よう。大丈夫、窓は、開いて、いる。

 前? 何故、窓は、開いて、いる?

 窓に手をかけた彩子の体が、突然部屋に押し戻された。バランスを失って倒れる彩子。歪んだ世界の中に、一人の男が立っていた。
「兄さ……ん……」
 声とは裏腹に、彩子の中の何かがその男を敵と判断して襲い掛かっていく。自分の首めがけて飛来する顎を、男は左手だけで押さえつけた。
「我が右手に、断罪の剣」
 呪文のような男の言葉。その右手に、巨大な剣が姿をあらわす。何のためらいもなく、男はその剣で顎を根元から切り取った。
 声にならない悲鳴をあげ、虚空に消える顎。それには目もくれず、男は変わり果てた姿の彩子を剣を捨てた右手でベットに押し倒す。その右手に蛇が巻きつき牙をたてたが、男は表情ひとつかえず左手でその蛇を引きちぎった。
 短く、鋭い声をあげる。
「安奈」
「わかってるのよう」
 遅れて窓から入って来た女が、今だにもがいている彩子の首筋に唇をよせ、歯を立てた。吸血鬼のようなその行為で、安奈と呼ばれた女は血ではなく別の『力』を吸い取る。
 それと共に彩子の抵抗は収まり、いつしかその姿も元の少女のものに戻っていた。
 羽織っていた黒いコートを彩子にかけ、男はくるりと後ろを向いた。
「……ありがとう、ございます。七神さん」
「正当な報酬は貰っている」
 男――七神アルトは、短くそう答えただけだった。彩子が先ほど電話をかけた相手、巫女崎安奈はせっせと彩子の着替えを手伝っている。
 まったく、幸運だったのだ。異形の姿で街中を徘徊している時にこの2人に出会わなければ、彩子は化け物として殺されていただろう。
「彩子ちゃんは体が弱いんだから、無理しちゃだめなのよう」
「兄さんの為ですから、少々の無理なんて平気です」
 自分よりもずっと年上のはずだが、舌ったらずな喋り方をする安奈を、彩子はたまに妹のように感じる事がある。兄以外にはあまり見せる事のない笑顔で、安奈を心配を否定した。
「いつまで、続けるつもりだ」
「終わるまでです」
 何が、とは言わなかった。それはこの発作の事かもしれないし、2人の関係の事かもしれない。ひょっとしたら、一番最初に終わるのは彩子の命かもしれない。
「あの男の為に、か」
「自分の為です。私、以前の兄さんも好きですけど、今の兄さんの方がもっと好きですから」
 兄にも見せたこののない、いたずらっ子の表情で、彩子が笑う。
 短く「そうか」とだけ応えて、アルトは入ってきた時と同じように窓から出て行った。続いて安奈も窓をこえていく。窓枠につまずいて落ちそうになる辺りが彼女らしかった。
 くすりと笑って、彩子はベットに横になる。
 兄との幸せな日々を夢見て、幸せになれなかったら神だろうが運命だろうが一言文句を言ってやる、そんな物騒な事を考えながら。
 彩子は安らかな寝息を立て始めた。


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