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昔語り



 陣内は古い家系である。平安の時代、皇居護衛の役所であるところの衛府に端を発すると言われるこの家には、当然ながら家宝とされるものもいくつか残っている。
 道場の床の間に奉られている一振りの刀もその一つだ。
 造込は切刃造、刃文は中直刃。つまり普通の日本刀とは違い真直ぐな刀身を持つこの刀は、銘を夜狩という。作者は伝わっていない。
 陣内流初代が愛用していたと言われるこの刀は、打たれてから少なくとも800年以上経つというのにその刀身には錆一つ浮いておらず、冬の早朝の湖面を思い起こさせる、美しい銀に輝いていると伝えられている。
 伝えられている、というのは誰もその刀身を見た者が居ないからである。
 鞘から抜けないのだ。
 3代前、陣内鷹明はこの刀を愛用していた。その時も、鷹明以外には抜けなかったらしい。
 理由を聞かれると、鷹明は「彼女は面食いだから」と笑ったと言う。理由までは語られていない。
 
 

 広い広い道場の中、少年は一人ぼっちで声を押し殺して泣いていた。
 陣内流の次期当主、陣内宗鷹である。
 生来体が弱かった少年は、その家柄に対するやっかみもあって、よくいじめられていた。
 父は、いじめられて帰ると「陣内の跡取がそんな惰弱でどうする」と怒った。病弱な母には、甘える事ができなかった。祖父は、時折稽古をつけてくれるだけでそれ以上は口出ししてこなかった。
 一度ならず元気な弟の将鷹に助けてもらった事もあったが、それはやめてくれるよう宗鷹の方から頼んだ。
 将鷹はそれ以来兄がどんな目にあっても助けようとしない。「薄情だ」と言われる事もあったが、兄が言い出した事だからと一切何もしなかった。そういう子供だったのである。
 将鷹が助けにこないとわかると、いじめは一層はげしくなった。だが、いじめられている最中は宗鷹は決して泣かない。それが、少年のプライドだった。
 だから宗鷹は広い広い道場の中、一人ぼっちで声を押し殺して泣いている。
 泥だらけになって、擦り傷だらけになって泣いている。どうにもできない自分に腹がたつ。強くなって、自分をいじめる少年たちを痛めつけてやろうとは思わなかった。元来、荒事は好きではない。だが、それ以外で自分がいじめられなくなる方法が思い浮かばなかった。
 それが、悔しい。
 ぽたぽたと、塵一つない道場の床に涙が落ちる。声をあげれば誰かが来るかもしれない。床の上の小さな水たまりだけが、だから宗鷹が泣いていた唯一の証拠だった。それすら雑巾かなにかで拭いてしまえば何も残らない。

「たわけが」
 不意に、人の声がした。気配は宗鷹のすぐ後ろから。宗鷹は慌てて床の涙をズボンで拭き取ると、涙をぬぐいながら振り向いた。

 きれいな女の子だった。

 宗鷹の知らない少女だった。年は宗鷹と同じくらいだろうか。少なくとも陣内流の門下生の中にはいなかったと思う。
 古めかしい白いワンピースを着て、手にはその服装に似合わない扇子を持って、そして何故か怒っていた。
「陣内の跡取息子殿が、こんな所で何をしておる」
「べ、別に何も……」
 ばつの悪そうな顔をしながら立ち上がった宗鷹の頭を、少女はもう一度「たわけ」と言って扇子で叩いた。
 結構痛い。
「泣いておったろう、今」
 ぴしゃりとそう言われて、宗鷹は思わず頷いてしまう。
「大方、喧嘩にでも負けたのだろう?」
「喧嘩は好きじゃないから」
 また叩かれそうな雰囲気だったので、宗鷹は一歩後ろに下がった。
 少女が一歩前に進んで、宗鷹の頭を扇子で叩く。
「たわけ。戦に好きも嫌いもあるか。負けたなら負けたとはっきり言え。言い訳なぞするな。情けない」
「……負けました」
「男子が負けたなどと軽々しく言うな」
 まったくもって理不尽な理由で、もう一度頭を叩かれた。
「悔しくはないのか? 克とうとは思わぬのか」
「悔しいけど、喧嘩に勝ってみんなに言う事を聞かせようとするのは、いじめた子と一緒だよ」
「たわけ」
 もう一度叩かれるかと思ったが、そうではなかった。さきほどまで無闇に怒っていた少女の表情が、幾分か和らいでいる。
「陣内の剣技は元来魔を討つ技ぞ。魑魅魍魎共に心を食われぬように、人に勝つ為でなく己に克つ為に心技体を磨くのが陣内の剣術じゃ。わかるか?」
「……あんまり」
 今度こそ叩かれた。しかも、かなり強めに。
 少女の表情は本気で怒っているように宗鷹には見えたが、さて、見る者が見ればなんと愉しそうな顔だと思った事だろう。
「軟弱者め。よかろう。私が鍛えな直してやる」
「でも、僕は……」
 言い終わらぬうちだった。
 少女の体が流れるように前傾姿勢になる。
 来る、と思った瞬間には既に少女の腕は、その手に握られていた扇子は振り抜かれていた。宗鷹の前髪が、幾筋か宙をはらはらと舞う。
「陣内流口伝、八刈。鷹明は朧千刃などと言っておったが。太刀筋はいくつ見えた?」
「み、3つ」
 正確には見えたわけではない。触れてすらいないというのに、体に「斬られた」という感覚が3筋残っていた。背中に冷たい汗がどっと出た。鳥肌がたつ。今振るわれたのが刀だったら、いや、刀でなくてもいい。もう一歩少女が踏み込んでいたら、死んでいた。
「良い感をしている。お前の素養なら、10年も死に物狂いで修練すれば物にできるだろう。さて……」
 少女は外見に似合わぬ、人の悪い笑みを浮かべた。
「私が鍛え直してやる。断るならば、次は当てる」

 脅迫だった。

 それからはもう大変だった。
 昼は大人の門下生に混じって稽古、夜は素性もわからぬ少女の元で特訓である。しかも、少女の特訓は全て実戦さながらの組討であった。
 少女は相手を攻撃する事をためらう宗鷹を容赦なく打ちつけ、攻撃をしかければそれをいとも簡単にさばいて反撃した。実際の所、気が弱いだけで宗鷹の技量は同年代の子供とは比べ物にならない程のものであったのだが、少女の動きはまさに剣豪・剣聖と言われる程のものであった。言葉で教えられるよりもまず、技の威力を体に叩き込まれる。
 宗鷹にとって幸か不幸かその手加減も絶妙で、翌日に傷や痣が残るような事は一度もなく、誰にも気づかれる事はなかった。疲労困憊してはいたが、少女の命令で昼の稽古も常人の倍以上の密度でこなしていたので、誰も怪しむ者はなかった。むしろ褒められるくらいである。
 一度ならず少女の名前を聞いた事もあったが、その都度言葉よりもまず斬撃が飛んできて、人の悪い笑顔で「軟弱者に名乗る名なぞ無い」と言われた。名前も知らない相手とこうして一緒にいるのは落ち着かなかったが、6度目で諦めた。
 あいかわらずいじめは続いていたが、そんな事を気にしている余裕もない程だった。

 そうやって少女に鍛えられるようになってから、半年も過ぎた頃である。
 宗鷹をいじめてた少年達は苛立っていた。なにしろ、どんなに殴ろうが蹴ろうがほとんど反応しないのである。以前は泣いたりこそしないものの、痛そうな顔くらいしたものだ。
 よもや、自分たちの攻撃が全て急所をはずされているなどとは想像できない少年達は、単純に攻撃をエスカレートさせる事にした。
 学校からの帰り道の途中にある空き地で宗鷹を呼び止める。手にはどこから持ってきたのかパイプや角材といった物騒な物が握られていた。
「お前ん家、剣道の先生やってんだろ? だったらこれくらいかわせるだろ?」
「最近生意気なんだよ。いつもすまして、カッコつけてるつもりかよ?」
「弱いくせにいばってんじゃねーよ」
 口々に囃し立てる。だが、それすらも宗鷹は無反応だった。怯えるどころか、怒る気配すら見せない。
 逆に、少年達の我慢の限界がきた。
「ンの野郎!」
 一人がパイプで打ちかかると、残りの少年達もそれに習う。手加減は無かった。
 だが、振り下ろされた獲物はことごとく地面を打つ事になる。宗鷹はその場をほとんど動いていなかった。
 少女の攻撃に比べれば、正にそれは宗鷹にとって児戯にも等しかったのである。かわす必要すらなかった。武器の軌道からわずかに体をそらせばいい。
 何度やっても結果は同じだった。少年達の攻撃は空を斬るばかりである。力にまかせた一撃が地を叩き、反動で少年の手から離れた角材があらぬ方向へ飛んでいく。

 がさり

 その気配に気付いたのは宗鷹だけであった。だが、その直後の低い唸り声によって、その場にいた全員がそれに気付く。
 野犬だった。あきらかに敵意をしめしている。その近くに先ほど飛んでいった角材が転がっていた。距離を測るように、少しずつ近づいてくる。
「逃げて」
 恐慌状態に陥りそうになっている少年達の中でただ一人、野犬から視線を外さずに睨み返していた宗鷹が、はじめて口を開いた。
「逃げるんだ。早く!」
 宗鷹の言葉に押されるように、少年達が我先にと武器を捨てて空き地から逃げ出した。
 宗鷹は逃げない。逃げれば野犬は追いかけてくるだろう。そうすれば、子供の足ではすぐに追いつかれてしまう。
 野犬から目を逸らさぬまま、ボタンをちぎって上着を左腕に巻きつけ、少年達が捨てて行ったパイプを手に持つ。危険な状況ではあったが、妙に落ち着いていた。少女の言葉が浮かぶ。それは、体に叩き込まれた陣内流の教えだった。
「隙を無くす事など所詮は無理。ならば己から隙をつくり、それを管理せよ。ならば、隙は隙でなくなる」
 一瞬だけ、野犬から目を離した。好機とばかりに野犬が宗鷹の首めがけて飛び掛ってくる。
 宗鷹の狙い通りだった。
 寸前、上着を巻きつけた左腕で首をかばう。上着を貫いて、牙が皮膚に穴を開けた。痛い事に変わりはなかったが、致命傷ではない。
 右手に持ったパイプの柄の部分で、野犬の鼻っ柱を思い切り打ちのめした。
「ギャンッ!?」
 悲鳴をあげて、野犬が飛び退く。それを宗鷹が追撃した。
「初撃の後にその勢いを殺さずに円の動き取り、腰を落とす。第二撃は回転運動を加えた太刀を相手の股下から放つ。さすれば――」
 居合の構えから放たれた宗鷹の一撃が、怯んだ野犬の横っ面を叩く。そのまま回転した宗鷹の体が野犬の視界から消え、そして今度は真下から野犬の胴を打ち抜いた。
「――陣内流、霞二段」
 武器を腰に戻し、残心する。
 野犬はふらふらとしながら、まだ立ち上がってきた。宗鷹の勝ちは揺らがなかったが、油断はできない。
「慢心は最大の敵である」
 その時に、宗鷹は目の前の野犬以外にも気配がある事に気付いた。野犬の方も、その気配を気にしている様子である。
 宗鷹は野犬から目を離さぬようにじりじりと後退し、空き地の入り口まで下がった。
 そして、野犬が子犬たちの方によたよたと歩いて行くのを確認すると、武器を取り落として、気の抜けた足取りで家路についたのである。

 その日の稽古は休ませて貰った。そして、特訓も無かった。

「よくやった」
 少女は今まで見た事もないような笑顔だった。
「どうやら克ったようだな」
「犬にだけどね」
「たわけ」
 扇子で頭を叩かれる。
 あまり、痛くなかった。
「瞳を見ればわかる。お前はお前に克ったのだ。まだまだ空も飛べぬ雛だが、鷹とて雛の頃はある」
 道場に奉ってあった夜狩を無造作に掴むと、少女はそれを宗鷹に投げてよこした。
「抜け、宗鷹。お前にはその資格がある」
 生まれてからずっと抜けないと聞かされ続けてきた夜狩。だが、不思議と今は抜けるような気がする。
「呼吸を夜狩と合わせろ。意識するな。夜狩を抜く事はお前にとって箸を持つのとたいして変わらぬ」
 深呼吸してから、ゆっくりと鞘を抜いていく。
 音も無く、湖水のような深い銀がその姿を百数十年ぶりに姿を見せた。呼吸をするのさえ無粋と思える静かな輝きが、道場の薄明かりを反射する。
「抜けた……」
「当然だ。私が認めたのだから」
 満面の笑みを浮かべた少女は、その腕を宗鷹の首にまわした。
「我が名は鷹羽。陣内を、何よりお前を守護する者なり。たとえお前が悪鬼魍魎に成り下がろうとも、私はお前の傍らでお前を守り続けよう。なんなら筆おろしの面倒を見てやってもよい」
 自分の事を今までそんなに認めてくれる者は誰もいなかったから、少女の年に似合わぬ艶っぽい表情に少しばかりどぎまぎしながらも、宗鷹は少し泣きそうになりながら、言葉の意味もわからないのに何度も頷いたのだった。
 
 

「嘘くせー」
 将鷹の開口一番はそんなセリフだった。
 個人的な稽古の後に、宗鷹に面白半分で初恋の話を聞いたら、このありさまである。
「まぁ、信じる信じないは勝手だけどね」
 おかしそうに宗鷹は笑って、彼の自称弟子あるところの甲斐俊介のもってきてくれた緑茶を口に含む。
「あの頃に僕がいじめられなくなったのは事実だよ」
「でも、あれっすよね。鷹羽って陣内流の初代の名前ですよね」
「え? そうなの?」
「……お前、とことん馬鹿だな」
 素で驚いている将鷹を、心底呆れて俊介が見た。
「初代の名前なんて、知っててもどーにもならんだろ。……しっかし、この刀がねぇ」
 将鷹が夜狩を手に取った。宗鷹も普段から夜狩を携帯している訳ではない。任務の時以外はこうして道場に奉ってある。
 鞘から抜こうとするが、やはり将鷹には抜けなかった。わかりきっていた事なのでたいして残念な素振りも見せず、夜狩を元の位置に戻す。
「で、何か? その鷹羽とやらは今でも時々出てくるのか?」
「ははは、どうだろうね?」
 いたずらっぽく宗鷹が笑う。

 ……言えなかった。主にあわせてちゃっかり成長しながら、宗鷹の意思にかかわらずひょっこり姿を現す事を。
 あまつさえ、最近は「女の扱いがなっていない」などと、余計な事に口をはさむようになった事を。
 その上……いや、やめておこう。

「しかしアレだな」
 将鷹が話題を変えたので、宗鷹は内心胸をなでおろした。
「兄貴が今まで彼女の一人もできなかったのって、その鷹羽とやらの嫉妬からくる呪いとかなんじゃねーの?」
「まさか」
 将鷹らしい発想に、宗鷹も俊介も声をあげて笑った。当の将鷹も笑っている。

 カタカタと、夜狩が鳴った。
 なぜか笑っているように聞こえた。

 3人とも、笑顔が固まっていた。

 視界の端で人の悪い笑みを浮かべているあの少女は、はたして幻なのだろうか――


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