探偵というのは地味な商売だ。
そう黒田慎平は常々考えている。警察を出し抜いて難事件を解決したり、怪人と死闘を繰り広げたりするのは、あれはフィクションの世界の出来事だ。美人の依頼人などもってのほか。
実際の依頼といえばそのほとんどが浮気調査。他人の夫婦のいざこざの解消ばかりがうまくなっていく自分にふと虚しさを感じる。そんな仕事だ。
だが、現実というものは、往々にして本人の想像とはかけ離れたものになってしまうものだ。
……それが他人にどう見えたとしても。「おや、黒田さん。今日はご出勤ですか?」
ビルの管理人がニコニコ笑いながら問いかけてくる。
「ええ、ちょっと調べものがありまして」
二言三言世間話しをして管理人から解放された慎平は、二重になっている事務所のドアを開けた。
そこでぴたりと動きを止める。
誰もいないはずの部屋の中に人の気配がある。
(まさか、今ごろになって組織の追っ手か?いや、そんなはずは……)
じっとりと手に汗をかきながら、ゆっくりとドアノブを捻る。
そこからの動作は一瞬。一息にドアを開けると部屋に飛び込み、床に転がりながら室内をチェック。鉄板入りのソファの後ろに隠れて、そこにしまってある拳銃を……
「うるさいなぁ」
ぼふっ
想像していたものよりもかなりや柔らかな肌触りの物体が慎平の頭に当たる。
がっくぅ、と脱力する慎平をよそに、向かいのソファで寝ていた少女はゆっくりと起き上がり、寝癖のついた頭をかく。
「あ、おはよ」
「ピジョン……」
少女は大きな欠伸をすると、猫類の動物のような仕草でぎゅうっと伸びをした。
「……マンデリン」
「……俺は召し使いか何かか?」
言いつつヤカンに水を入れ、違法改造された高出力ガスコンロで一気に沸騰させる。
「またサボリか」
「なんかめんどくさくてさぁ。組織の仕事もあんたが抜けてからつまんなくて」
注文通りのコーヒーを受け取りつつ、少しだけ含みのある言葉で慎平の顔色を伺う。
……変化無し。唇をとがらせる。
そんなピジョンに気づかない振りをして、彼女とは別のブレンドのコーヒーを一口すすりながら、慎平は言葉を続けた。
「別に迷惑だ、とは思ってないがな。お前は心臓に悪い」
「ははは。こんどから気をつけるよ」
そう言って彼女が行動を改めたことはないのだが。
二人の付き合いは長い。慎平が組織にいたころから、彼女の外見から判断するよりもずっと長いことこんな会話を繰り返している。組織を抜けた後も慎平の居場所を知っているのは、彼女の他に2人しかいない。
「モ……いや、佐々木は元気でやってるか?」
「殺し屋に元気もクソもないけどね。まぁ、いつも通りだよ。やっぱりこっちには来てないの?」
「まぁ、いろいろとあるからな」
ピジョンが少しだけ真面目な顔になる。いろいろなものを含んだ表情。
「あの娘のこと?」
「いろいろ、さ」
そう言って、慎平は冷めかけたコーヒーを口に含む。
やはりコーヒーは熱いのが一番だ。そんなことを考えていると、事務所のドアをノックする音が聞こえた。
「どうぞ。鍵はかかってない」
ノックの調子で相手は誰だかわかった。そして予想通りの人物がドアを開けて 入ってきた。
ライダースーツを身に纏った、かなりの美人さんだ。身長も慎平とそう変わらず、まるでモデルのよう。
後からついてきた青年、羽原健太郎とともに、依頼人でもないのにここの常連だった。
「よぉ、黒田さん手伝いに来……」
そこまで言って、ピジョンの存在に気づき、表情が少しだけ険しくなる。
「あら、いらっしゃい凪ちゃん」
「その呼び方はやめろ」
いっそう険しくなる表情を見てにやにや笑いながら、ピジョンはつつつ、と慎平に近付く。
「あんたこそ年上には敬語をつかったらぁ?」
まったく、外見だけならピジョンは凪よりも年下に見えるのだが、出会ったころからピジョン外見はほとんど変わっていない。それは、慎平にもいえることで、凪はそんなところに少しだけ疎外感を覚えていた。
だから、必要以上に彼女に対して熱くなってしまうのかも知れない。
「おい、冷静になれよ。そりゃ、お前の方が老けて見えるかも知れないけど」
ごす。
余計なことを言った健太郎は顔面に裏拳を受けて沈む。
「おー、こわ」
にやにや笑いはそのままに、ピジョンはさらに慎平に近付く。
ぴと(触れる音)
ひくっ(顔面の筋肉がひきつる音)
「おい……」(板挟みになった男の、やるせない一言)
さわさわ(無意味に触りまくる音)
ぴくっ(頭の血管が瞬間的に太くなった音)
「おい……」(無意味とわかっていても、とりあえず)
にやぁ(勝ち誇ったような笑み)
ぷち(きれる音)
「てめえっ」
「やーいっ、悔しかったらあんたも慎平になれなれしくしてみろ」
たちまち事務所の中は蜂の巣をつついたような大騒ぎとなった。ピジョンと凪が顔をあわせるといつもこうだった。慎平は頭をかかえながらできる限り物が壊れないように祈るしかない。
「ちょこまかとっ」
「ほほほ、ザクとは違うのよ、ザクとは」
「意味はわかんないけどなんかムカつくっ」
ピジョンと凪の追いかけっこが続く中、黒田探偵事務所に4人目と5人目の来客が来た。
「あー、またやってるんだ」
そう言って、正樹は何事もないように開いているソファに腰掛ける。
「あの、こんにちは」
後からついてきた綺は恐縮しながらその横にちょこんと座った。
二人ともめかしこんでいるところを見ると、デート帰りのようだった。
何もそんな日までここによらなくても、と慎平は思う。そもそも、彼らがここに集まるのかよくわからない。
慎平やピジョンと同じ組織の人間で、そこから抜け出す時に慎平が手を貸した綺はともかくとして、ほかの面子はここを喫茶店かなにかと勘違いしているのではないだろうか。
「やれやれ、ここはいつから高校生のたまり場になったんだ?」
「何ぃ!?」
突然復活する健太郎。そのまま慎平の胸倉をつかむ。
「謎めいた少女に姉御肌、健気な女の子に外付けで眼鏡っ娘までいるこの状態で、あんたはそんなことを言うのか!?俺は、俺はぁーっ!」
「まぁまぁ、健太郎さん」
正樹がなだめに入る。
「綺は俺ンだ」
「正樹君目が本気……」
「ところでさ、健太郎」
いつの間にか追いかけっこをやめた凪が健太郎の右肩をつかむ。
「あんた、誰の胸倉つかんでんの?」
ピジョンが左肩をつかむ。
「ひっ」
あっという間にボコボコにされる健太郎。騒ぎが治まったのは一瞬だった。
その時、ドアが控えめに2回ノックされた。ゆっくりとドアが開き、そこから女性の顔が覗く。
絶世の美女、とはまさに彼女のことをさす言葉だった。愁いを帯びたその表情がより一層彼女の美しさをひきたたせる。
「あの……、こちら探偵事務所だとお伺いしたんですけれど……」
そう言って彼女は室内の惨状を見、パタンとドアを締めてしまった。
こうして今日の最初で最後の依頼者は顔だけ見せて帰ってしまった。おそらくもう二度とこないだろう。
やれやれ、とため息をつく慎平。あの頃は、組織にいた頃は考えもしなかった事だ。
しかも始末の悪いことに、自分は結構今の状況が気に入っているのだった。