捨てられた子犬みたいな娘それが霧間凪の、少女に対する第一印象だった。
夜明け前。朝露に濡れた肌を僅かに上気させ、少女は立っていた。その少女の瞳のせいかもしれない。
ドアの向こうで薬でラリった正樹を支えながら、じっとこちらを見つめる瞳。
頼りたくて、それでも裏切られる事に脅える瞳。
重たくて、悲しい瞳だった。
「霧間凪さん、ですよね?」
静かな声だった。
凪が見たかぎり、彼女は相当疲労しているようであったが、そんなことは微塵も感じさせない。
凪がうなずくと、織機綺と名乗った少女は少しだけ表情を崩す。
「末真先輩から聞いてここに来ました。まさ……谷口君をお願いします」
正樹を大事そうに凪に渡すと、綺はぺこりと頭をさげて、ドアから離れていった。
「ちょっと待てよ」
凪が綺を呼び止めたのは、その背中があまりに現実感が無かったからだろうか。
今にもふっと消えてしまいそうな……
「あんた、帰る場所があるのか?」
一瞬の間。
「はい」
嘘だ。
ひょっとしたらあの娘はこのまま死んでしまうかもしれない。
凪は正樹を放り出し、去っていく綺の腕を掴んだ。
正樹をベットに寝かせた後、凪は綺をシャワールームに、濡れた服を洗濯機に放り込んだ。
出てきた綺に替えの下着と凪がパジャマに使っている男物のワイシャツを渡す。
野郎が見たら理性が消し飛びかねない姿だったが、幸い最もその危険の高い男はベットで寝息をたてている。
「で、あんたは何者なんだ?」
「言えません。言ったらあなたにも危険が」
どんっ
綺の目の前に、少々乱暴にインスタントの紅茶の入ったマグカップが置かれる。
「ふざけんな」
「言えません」
綺も頑なだった。
「まさ……谷口君は私にかかわって、とても危険な目にあいました。あなたはとても強いそうですけど、それでも駄目です。死にますよ?」
その言葉は冗談や脅しで出されたのでは無かった。それはわかる。だが、凪の方も引き下がるつもりはない。
「正樹の名前、言い直すのやめたら?」
「……あっ」
「あのさ、あんたが正樹の事が大事なように、俺も正樹の事が心配なんだ。あれでも一応家族だからな。それに、あいつが最近危ないことに首を突っ込んでたのは知ってる。ブギーポップのコスプレしてな。それと関係あるんだろ?」
綺は無言だった。
その無言が何よりの肯定だった。
「衣川琴絵って知ってるか?」
その名前に綺ががばっと顔を上げた。
「殺されそうになってたんだぜ」
「あ、あなたが助けてくれたんですか?」
「そうさ、衣川琴絵の方をな」
凪はにやり、と人の悪い笑みを浮かべた。そして、厳しい表情に戻る。
「わかるか?あいつは人を殺そうとしたんだ。多分あんたの為にな。そんな奴を放っておいて、何も言わずにどこかに消えるつもりか?それが本当にあいつのためだと思っているのか?あんたの想いはそんなに薄っぺらなものなのか?」
綺は最後まで聞いていられなかった。自分の決意がぐらぐらと揺れているのがわかった。
駄目だ。
駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ……
頼ってはいけない。
頼ろうとして、裏切られるのは構わない。自分が傷つくだけだから。
でも、頼った人が自分の為に傷つくのは恐かった。正樹の時のような思いをするのはもう嫌だった。
「やっぱり、駄目です。言えません」
時計の針の音が、妙に大きく聞こえた。
「……わかったよ」
根負けしたのは凪の方だった。
「そこまで言うなら聞かない。だがな、条件がある」
「条件、ですか?」
困惑の表情。
「ああ。あんたが事件の事を話すまで、あんたの身柄を預からせてもらう」
「え?」
「帰る所、ないんだろ?」
少しのためらいの後、綺はこくりとうなずいた。
「あんたを放り出したら俺が正樹に殺されるからな。それに、俺はこう見えても金持ちだから」
「で、でも……!」
「あのさ」
そっと、凪は綺を抱きしめる。
それ以上、綺は何も言えなかった。
こんなにやさしく抱かれたのは初めてだった。
「あんたがこれまでどんな風に生きてきたかなんて、そんな事は聞かないけどさ、頼れる奴がいる時は頼ってみろよ。人はそんなに強くないんだ。あんたも正樹もね」
「うっ、ううっ……」
小さな子供をあやすように、凪は綺が泣き止むまで、ずっと彼女のことを抱いていたのだった。
「霧間さん、あの……」
「ん?凪でいいよ。それで何?」
「朝食作ったんですけど」
せめてものおかえしに、そう小さく呟く綺を見て、凪はなんだかお嫁さんを貰ったような気分になって苦笑した。
「へぇ、正樹はまだ眠っているし、先に二人で食べようか」
キッチンに向かおうとして、その5m程前で足を止める。
「どうかしたんですか?」
「いや……、ガス漏れ?」
違う。これはガスの匂いじゃない。気のせいということにしてキッチンに入り、納得する。
テーブルの上に置いてあった物は、
それは料理に対する形容詞ではなかったが、
なんというか、
禍々しかった。
「さめないうちにどうぞ」
あー湯気が出ている。マンガみたいに色付きのやつが。効果音は『ぷーん』だろうか。『もわー』でも可。
先に席に付いた綺が「?」という顔で見ているので、しかたなしに着席する。
近くで見るとさらにすごい。
どうして自分はこれを料理と判別できたのだろうか。
テーブルの上に置いてあったから?
俺の発想って貧困だなぁ。
「うわっ!?」
綺が食べてる。びっくりした。やっぱり食べ物だったのか。
恐る恐るスプーンでその物体をすくい、口にもっていく。
…………………………………………………………ぱく…………………………………………………………
何と表現すればいいのか。
真っ先に浮かんだのが『毒』だったが、それでは綺に悪い。
次に『うんこ』だの『げろ』だの、下品な単語がいくつか。
あー、えーと。
あぁっ、『混沌』。これでいこう。
この物体の中から何か産まれそうだし。
凪は自分の腹を食い破ってぬらぬらした化け物が飛び出してくるのをイメージして、洒落にならないので想像を中止した。
「あのさ、綺。将来の事とか考えてる?」
「いえ……」
悲しそうな顔をする綺。それでも手は止まっていない。
ひょっとしておいしいの?
「だったらさ、手に職をつけてみない?料理学校なんかどうかな?今、この料理見て思ったんだけど」
正直な感想だ。
相手がどうとるかは知らないけど。
「でも、そんな」
「言ったろ。俺は金持ちだって」
また目が潤み出した綺は、何度も何度も「ありがとうございます」を繰り返した。
料理も食べた。
……綺は料理が『できない』のではなく、『作り方を知らない』だけだったのは、凪の人生の中でもベスト10にはいる幸運だった。