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瞳の奥の、海の香り

第一話『夏のアロマ』
「あついー」
 あたし、七音恭子は古ぼけた扇風機の前に陣取り、声をへろへろ振るわせながらそうつぶやいた。
 外は記録的な猛暑とやらで、蝉の声にも心なしか元気が無い。
「わかりきった事言ってんじゃねぇよ。余計に暑くなる」
 不機嫌そうにそう言ったのは香純くん。だらだら流れてくる汗をふきつつ、パソコンに何か打ち込んでいる。
「っ!」
 突然、香純くんの手が止まった。焦った様子でマウスを動かしたり、キーボードをガチャガチャ叩いたりしている。
「……止まりやがった」
「あついからねー」
 なけなしの気力も使いはたして床に大の字になった香純くんの横に、私も寝転がる。
「あついからなー」
「あついからねー」
 二人して無意味なことを言いながら昼寝する夏の午後。
 あたしたちは今、二人で暮らしている。

 あの事件から半年ぐらいたって、あたしたち二人は再会した。
 それはドラマチックな展開など一切なく、本当に道端でばったりと言った感じだった。とっさに言葉の出なかったあたしの第一声は
「あ、久しぶり」
 という恋する乙女としては最低のもので、それに対する香純くんの応えは
「よう」
 味も素っ気もなかった。
 それから二人で何度か会うようになって、あたしが香純くんの借りていたアパートに転がり込んだのがその年のクリスマスだった。
 がんばったけれどやっぱり親と折り合いがつかなかったあたしは、その頃には学校もやめていた。
 そして現在にいたる、というわけだ。

「ねー、クーラー買おうよぉ」
「馬鹿、そんな金がどこにある」
「あるじゃないのよぅ」
 呆れはてた、とい感じで、香純くんがあたしの顔を見る。
「ねぇよ。あの金はお前がやりたいこと見つけるのに使うんだろ? 高校出て大学入って、そしたらいくら残るかわかんねぇだろ」
 あたしは今、定時制の高校に通いながらアルバイトの生活だ。香純くんが高校ぐらい出とけとうるさいのだ。
 自分は高校中退して働いてるんだから言えた義理もないと思うけど、本気であたしのことを心配してくれているのがわかるので、ちょっとうれしい。
「そーだよねー、香純くんのお金はあたしたちの結婚資金だもんねぇ」
「ばっ! なにどさくさにまぎれて言ってんだ!?」
 香純くんの顔が真っ赤になった。暑いのにごくろうさま。
 あたしの顔も赤くなってるだろうけど。
「恭子、じっとしてろ」
 不意に、香純くんが真面目な顔になって、あたしの顔を見た。
 名前で呼ばれるようになってしばらくたつけれど、やっぱり照れる。えへへ。
 でも、こんな昼間からだなんて、香純くんたら大胆なんだから。
「んー……」
「目を閉じるな馬鹿」
「えっ!? あ、<イントゥ・アイズ>?」
「何だと思ったんだよ」
「あ、あはははは……」
 笑ってごまかす私の目をじっと見つめる香純くん。
「こいつは……、辻か?」
「希美ちゃん!?」
「ああ、間違いない。少し髪を伸ばしたみたいだ。水着を着てる。美人になったな、出るところは出てぐはぁっ!?」
 あたしのボディブローをくらってのたうちまわる香純くん。口は災いのもとだ。
 ふと、香りがした。
「これ……、潮の香り?」
「汗じゃなくてか?」
「違うわよ! じゃあ、希美ちゃんとは海で会えるのかな?」
「だろうな。じゃあ、行くか」
「え?」
 目をぱちくりさせたあたしに香純くんがにやりと笑った。
「善は急げって言うだろ? 今年はまだ行ってないしな、海」
「うん!」
 そうしてあたしたちは、希美ちゃんのいる海へ行くことにしたのだった。
 
 

第二話『夏のオートマティック』

 ぎらぎらとした太陽が、麦わら帽子の上からでも容赦なくあたしを照らす。
 目の前に広がるのは青の世界。
 誰かの声が陽炎の向こう側から聞こえてくる。
 あたしと香純くんは、海へとたどり着いた。

「あついー」
 一本105円のアイスキャンデーをかじりながらつぶやいたあたしを、同じく105円のソフトクリームをなめていた香純くんがにらんだ。
「わかりきった事言ってんじゃねーよ。余計に暑くなる」
 どこかで聞いた会話だ。
 ……神元くんはどうしてるかなぁ。希美ちゃんに会えるなら、もれなく会えるだろうけど。
 暑さで勝手にとろけたソフトクリームをあわててなめとる香純くんを横目で見ながら、あたしはひとつため息をついた。
「しっかし、いっぱいいるわねー」
 そう。真夏の海は、当然の事ながら人でいっぱいだった。この中から一人の人間を探し出すなんて、普通なら無理だ。
「まぁ、なんとかなるだろ。会うことには違いないんだから」
 そう言った香純くんも少し不安げだ。
「希美ちゃんも、<オートマティック>であたしたちと会うことがわかってるのかな?」
「……かもな。行くぞ」
 なんだか知らないけど、ちょっとだけ真面目な顔になった香純くんがいきなり歩き出した。
「あ、ちょっとま熱っ!?」
 追いかけようと走り出したあたしの足に、焼けた砂が情け容赦なく襲いかかる。かなり熱い。
「なにしてんだ? お前」
 振り返った香純くんが呆れ顔でこっちを見ている。
「い、いきなり歩き出すからびっくりしたじゃない」
 また砂を蹴り上げないようにそっと歩いて、香純くんに並ぶ。
「どうしたのよ急に?」
「見つけた」
「え?」
 香純くんの指差す先に、一人の女の子がいた。
 パステルイエローの、パレオ付きの水着を着ている。今年流行のやつだ。
 相変わらずスケッチブックを持っている。
 忘れるはずもないその顔。前より少しほっそりしたみたいだけど、見間違えるはずなんかない。
 希美ちゃんがいた。
「のぞ……」
 そこで声がとぎれてしまったのは、希美ちゃんが一人ではなく、男の人と一緒にいたからだ。
 しかもそれが神元くんじゃなかった。
 なかなかかっこいい男の人だ。二十代前半といったところか。
(ちょっ どうしちゃったのよ希美ちゃん!?)
(俺が知るか)
(あの人誰!? 神元くんは!?)
(知るかよ)
 意味もなくその場にしゃがみこんで、ぼそぼそ激しい会話を繰り返すあたしたちは、周囲からとても妙なものに見えただろう。
(うー、声かけずらいわねぇ)
(じゃあどうすんだよ。このまま帰るか?)
(まさか! 香純くん声かけてよ。男でしょ)
(なんで俺が……)
「そこぉーっ!」
 いきなりの声であたしたちは慌てて立ち上がった。それはこんなところでしゃがみこんでいたら怒られもするだろう。
 でも、その声の主はあたしたちの横を駆け抜けていった。
 ショートカットの女の子。手には三本のアイスキャンデー。あたしと同じやつだ。この暑いのに、ものすごいスピードで走って行く。
「くっつかないでってっあっ!?」
 あ、こけた。
「あつぁっ!?」
 そりゃ熱いだろう。
 宙を舞ったアイスキャンデーは希美ちゃんが一本、となりの男の人が二本、器用にキャッチした。
「琴絵ちゃん、もう遅いけど、走ると危ないよ?」
「だって仁にいさんが……いいわよ、もうっ」
 男の人の手をかりて、その女の子が立ち上がった。それを見て、希美ちゃんがくすりと笑う。
「心配しなくても、飛鳥井先生はとらないわよ」
 希美ちゃんの顔をキッとにらむ女の子。
(ど、どうやら彼氏じゃないみたいね)
(らしいいな。で、どうする?)
「それと、そこの君たち」
「はい!?」
 今度こそあたしたちのことだった。男の人がこちらを見ている。
「僕たちを見ていたようだが、何か用かい?」
「恭子!? それに海影くんも……」
 希美ちゃんが声をあげる。
 あたしたちの再会は、あたしと香純くんの再会以上に間の抜けた形になった。

「へぇ、同棲してるんだ」
「うん、結婚式には呼ぶから」
「そんな予定はねぇ」
 三人で海の家にいる。
 目の前には粉っぽいカレーと具の少ないラーメン、やっぱり具の少ない焼きそば。
 定番だ。
 男の人は希美ちゃんの絵の先生だそうだ。今はいとこの女の子と出かけている。
 女の子、嬉しそうだったなぁ。
「私の方がおまけなのよ。先生が予定がないならって誘ってくれて。琴絵は怒ってたけど」
 そう言って笑う希美ちゃん。なんだか、前よりもよく笑うようになったみたいだ。
「私も早く彼氏作らないとね」
「え、神元くんは?」
 あたしのその問いに、希美ちゃんはちょっとだけ悲しそうな顔をした。
「功志は……功志には、振られちゃった」
「えっ!?」
 信じられない。神元くんと希美ちゃんはずっと付き合っていたんだと思っていた。
 そんな簡単に振ったり振られたりなんかしないと思ってたのに。
「あの後、まぁ色々あってね。私も絵の勉強本格的にはじめたかったし、功志ももっと明るい子が好みなんだって」
「でも、そんな。希美ちゃん美人だし、その、だって……」
 あたしはもう、なんと言っていいのかわからなくなってしまった。
 自分のことでもないのに少し涙ぐんでしまう。
「なんで恭子が泣くのよ? もう終わったことなんだから」
 希美ちゃんは笑顔に戻っている。
 そんな簡単に終われちゃうものなんだろうか?
「そっか。じゃ、今日はこの辺にしとくか。再会したばっかで何言っていいのかわかんないしな」
 今まで黙っていた香純くんが急にそんなことを言った。
「そんな、あたしまだ」
「そうね、電話番号教えとくわ。後で連絡して。落ち着いたらまた会いましょう」
 希美ちゃんもそう言って、スケッチブックの端にサラサラと書きこんで、香純くんにわたした。
「あの、ちょっ」
「じゃあね」
「ああ、またな」
 自分の分のお勘定を払って、希美ちゃんはさっさと出ていってしまった。
 香純くんは何も言わない。
 あたしはなんだか、一人ぼっちになったような気がした。

「希美ちゃん、なんだったのかな?」
「さぁな」
 ホテルの部屋に帰ってからも、香純くんはなんだか無口だった。
 部屋を出て行こうとしたときも気づかなかったくらいだ。
「? どこ行くの?」
「ナンパ」
「なっ!?  あたしというものがありながら!」
「冗談だ。すぐ帰ってくる」
 半ば無理やり騒いだあたしを適当にあしらって、部屋を出て行く香純くん。
 なんだか、嫌な予感がした。
 なまじ<アロマ>なんて能力があるから、そんな予感が気になってしょうがない。
 いけないことだと思う。でも。
 ロビーを出て行こうとする香純くんはすぐに見つかった。まっすぐ海をめざしていく。
 夕焼けの海は人もまばらで、あたしには香純くんだけがやけにはっきり見えた。
 誰かを探すように歩いていく。
 しばらくして、その人は見つかった。
 一人で海をスケッチしていた希美ちゃん。
 香純くんに気が付いた希美ちゃんが振りかえる。
 聞こえない会話。

 そして。

 二人の影が一つに重なった。

 オレンジ色の太陽に照らされたその影は映画みたいに綺麗で。

 あたしはその場を逃げ出した。
 
 

第三話『夏のイントゥアイズ』

「恭子ー、開けろー」
 ドアにもたれかかって座っていたあたしは、鼻をすすりながら無言で香純くんの声を聞いていた。
 時々扉を叩く音は小さい。廊下にいるから、きっと人目を気にしているんだろう。
 だから声もそんなに大きくなかったけど、かなり怒っているみたいだ。香純くんのそんな声を聞きたくなくて、あたしは耳をふさいだ。
「二人で借りた部屋をおまえが占拠すんな。財布だってそこに置きっぱなしなんだぞ。俺にどうしろってんだ」
 それでも聞こえてきた香純くんの「二人で」という言葉にカチンとなって、あたしは思わず叫んでしまった。
「の、希美ちゃんのとこでも行けばいいじゃない!」
「あ?」
 しばらくの間、波の音だけが聞こえていた。その後、香純くんが大きなため息をついた。
「つまりお前は、さっき俺の後をつけて来たわけだな? それで俺が辻に抱きつかれたところを見た、と」
 あたしは何も答えられない。
「それで、その後のことは見てないわけだ」
「だって、だってそんなの、見てらんないよ……」
 止まりかけてた涙が、また溢れてきた。
 ごそごそと、向こうで音がした。香純くんもあたしと同じように座ったみたいだった。ドアをはさんで、あたしたちは背中合わせになっていた。
 でも。
 このドアは厚すぎて、香純くんの体温を感じられない。
「俺を信じろ、じゃだめか」
「信じたいよ。信じたいけど、わかんないよ……」
 ぐちゃぐちゃだった。自分が悲しいのか、悔しいのか、怒っているのか、全然わからなかった。
 今すぐ香純くんの顔を見たい。でも、もう二度と顔を見たくない。
「あのさ」
 しばらく黙っていた香純くんが、あたしに聞こえるか聞こえないかの声でそっとつぶやいた。
「神元、あの時に死んじまったんだってさ」
「えっ」
 一瞬、香純くんが言ったことが理解できなかった。香純くんの言葉がゆっくり染み込んで、それでもその言葉が信じられなかった。
「だって、そんな、希美ちゃん振られたって」
「まぁ、そっちの方が不自然だったからな。だから言ってやったんだ。『仲間にも隠すことはないだろ』って。そしたら……誰にも言えなくて、一人で抱えこんでたんだろうな」
「なんで? なんであたしに言ってくれなかったのよ!?」
「俺も辻も、お前の泣くとこ見たくなかったんだよ。……悪い、お前も仲間なのにな」
「あた、あ、あたし」
 あたしは、なんて馬鹿なんだろう。
 涙がぼろぼろこぼれた。ずっと香純くんといっしょに幸せでいて、そんな可能性のことなんてすっかり忘れていたのだ。あたしだって、あの時死んでたかもしれないのに。
 それなのに、希美ちゃんの気持ちなんか全然考えないで勘違いの同情なんかして。
 あたしは、どれだけ希美ちゃんを傷つけたのだろう? つらいのは希美ちゃんの方だったのに。
「どうしよう、どうしたら……」
「どうしようもねぇよ」
「だって!」
 ぶっきらぼうな香純くんの言い方に反発してしまう。でも、香純くんの声がやさしいことに気が付いた。そして、少しだけ震えていることにも。
「俺たちが何をしたって神元は生き返らないんだ。……生き返らないんだよ。でもな、俺たちは生きてる。生きて、ここにいるんだ」
「香純くん……」
「俺たちは今でも辻の仲間だ。それで、それだけでいいんじゃないか?」
 涙は止まらない。
 でも、香純くんの声を聞いて、あたしは立ち上がる事が出来た。そっと、ドアのノブに手をかける。
 いつも、香純くんには助けられてばっかりだ。
「なぁ、恭子」
「ん?」
「一度しか言わないから、よく聞けよ」
 香純くんも立ちあがっていた。
 ドア越しにでも、香純くんを感じる事が出来た。
「俺は、お前が好きだ。これからも一緒に生きていこう」
「……うん」
 そっとドアを開けた。赤い顔をした香純くんがそっぽを向いている。
 胸に飛び込んだあたしを、香純くんがぎゅっと抱きしめてくれた。
「知ってると思うけど、あたしも香純くんのこと好きだよ」
「ああ、知ってる」
「ずぅっと一緒にいてくれる?」
「そう言っただろ」
「また、希美ちゃんに会いに行こうね」
「……ああ、そうだな」
 
 
 
 

 あたしはこの日、仲間と再会して、仲間の死を知った。
 あたしを抱きしめてくれる、大事な、本当に大事な仲間だった大切な人と一緒に。
 今までも、そしてこれからも、きっと楽しいことばかりじゃないだろうけれど、
 それでもあたしは生きていく。


end