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前夜祭

 凪のマンションの一室。いつもは彼女がトレーニングに使っている、何もない空間。
 ひんやりとした空気が、緊張に張り詰めている。今日は、トレーニングではないのだ。
 部屋の中には三人。向かい合う凪と正樹。そして、それを心配そうに見守る綺。三人とも動こうとはしない。動けば、この空気に押し潰されてしまいそうだった。
「本気か?」
 そう訪ねる凪は、どこか呆れ顔だった。彼女にとって、いわばこれは茶番である。
 だが、その問にうなずいた正樹の目は真剣そのものだった。どこか、飢えた野獣を思わせるその瞳は、まっすぐに凪を射抜いている。
「バカが」
 すぅっ、と凪の目が細められる。
 その瞬間、綺にもわかるほど場の空気が一変した。悪寒に、両腕で自らの体を抱き締めなければ震えが止められない。
(恐い)
 それが綺の正直な感想だった。普段の優しい凪からは想像もつかないその表情は、あの死神とも共通する冷たい輝きを放っていた。
 正樹もまた、凪の殺気に恐怖を感じていた。真正面からそれをぶつけられている彼にとって、ほとんどそれは物理的な力に等しかった。
 風を感じる。それも、体の底から体温を奪う冷たい疾風。足が後ろに下がろうとするのを必死で抑える。
「恐いか?」
 一歩、凪が前に出る。二人の距離が縮まったぶんだけ、正樹に向かって吹く風はその強さと冷たさを増す。
「恐怖を感じるのは、お前がそれなりに『できる』奴だからだ。オレとお前の力の差を正確に判断できているからだ」
 また一歩。
 自分の心臓の鼓動が耳障りだった。自分の顔はきっと真っ青だろう。綺にかっこ悪い所見せてるな。
 足はまだ、後ろに退かずにいてくれている。
「それでもやるのか?」
 また一歩。
 ちらりと綺の方を見る。彼女の目は涙で潤み、やめるように訴えかけている。
 自分でも、こんなバカげたことをやめるべきだと思う。だが、ここで一歩退いてしまったら、二度とここに戻ってこれなくなる。前に進めなくなる。そう、わかってしまっていた。
 そんなのは嫌だったから。
 こんなのは、勇気ではなく無謀なのだとわかっていても、正樹の足は、一歩前に出たのだ。
 凪の口元に一瞬だけ笑みがうまれる。
「……本当にバカだな」
 風が止まった。凪と正樹の体が、来るべき戦いにむけて緊張していく。
 凪から発せられるのは、猫科の猛獣を思わせるしなやかな獰猛性。
 かたや、正樹の射る寸前の弓のような緊張感は、獲物を狩る狼のよう。
 耐え切れずに一歩後ろに下がった綺の微かな足音が、奇しくも戦いの合図となった。
 一際大きい踏み込みの音と共に、凪が間合いに入る。正樹が知覚するよりも速く彼の側面に回り込んだ凪は、正樹の延髄めがけて、手刀を放つ。
 寸前、自ら前に倒れこんでそれをかわした正樹が振り向き様に繰り出した足払いを軽いステップであしらい、お返しとばかりに空中から蹴りを重ねた。
 吹き飛ぶ正樹。だが、凪の攻撃は防がれていた。すぐさま体勢を立て直すと、今度は正樹の方から間合いを詰める。
「工夫が足りねぇっ!」
 正樹の正拳突きを片手で捌き、踏み込まれた足を払う。たまらず宙に舞う正樹。
 あいた方の拳でとどめをさそうとした凪は、だがその腕を防御に回さなければならなかった。宙に投げ出された正樹の脚が凪の顔を狙う。
 同時に、正樹の手刀が彼女の足を払った。
 二人で折り重なるように倒れこむ。だが、それも一瞬。体勢を立て直した二人は、三度ぶつかりあう。
 正樹の回し蹴りを肘で突き上げ、至近距離から掌底で鳩尾を貫く。だが、同時に跳ねあげた蹴りが凪の肩に叩き落とされた。
 凪と正樹の体が同時に揺らぐ。だが、そのフォローは両足を地につけていた凪の方が速かった。
 凪の右足が斜め下から正樹を襲う。
「……!!」
 綺の声にならない悲鳴。彼女も確かに聞いた。今の音は、あばらにひびぐらいは入った音だ。
「それでも、倒れないか」
 脂汗を流しながらも立つ正樹に向けて、凪は再び拳を構える。
「凪!? 正樹はもう……」
「ばーか。誰のためにこのバカが戦ってると思ってんだ」
 凪が間合いを詰めた。

 それから、どの位の時間がたったのだろう。その部屋には立っている者など誰もいなかった。大の字になっって倒れている正樹。疲れて座り込んでいる凪。そして、途中から泣き出してしまった綺。
「どうして……こんなことになったのかなぁ」
 ぽつりと、正樹がそうもらした。体の節々が痛むが、意識ははっきりしていた。
「考えてみたら、これは俺と綺の問題で、凪は関係ないんじゃないの?」
「バカ」
 凪はゆっくりと足を持ち上げ、重力に任せてそれを正樹の顔面に落とした。
 のたうちまわる正樹にも、泣いている綺にも顔を向けず、凪はぽつりとつぶやいた。
 照れくさそうに。
「お前はどう思ってるか知らないけど、オレは綺のことを家族だと思ってる。……ついでにお前もな」
「凪……!!」
 綺の目から新たな涙がこぼれ落ちた。今度は嬉し涙が。
「よって、クリスマスに二人きりで外泊など却下だ」
「そんなぁ〜っ」
「うるせ」
 もう片方の足を持ち上げて、正樹の顔面に落とす。
 今度は力を込めて。 


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