汝、全てを知らぬ者なれば/成瀬看祢・2
敬一が変わった。「小鳥を拾った」と言ってからしばらくして、敬一は妙に明るくなった。そして、もうしばらくして学校を休みがちになった。学校に来たら来たでずっとぼけっとしている。しかも生傷がたえない。
敬一の友達は「女ができてふられた」なんて言ってた。たしかにそんな雰囲気だったが、少し違うような気がする。もっと、深い何か……
「坂崎敬一君、いる?」
私の思考はそんな声で中断された。
教室のドアから、違うクラスの子が顔をだしている。
……かわいい女の子だ。敬一とどういう関係なのだろうか。訪ねてみたかったが、今のところ敬一とはなんでもない私が聞けるものでもない。
悪い癖が出た。
「坂崎くーん、彼女が来てるよーっ」
クラス中の注目を集めてから、しまったと思った。敬一はともかく、この女の子に迷惑をかけてしまう。
ひやかす声の中敬一が無言で立ち上がり、こっちに歩いてくる。
これは、本気で怒ってる?
「あ、あの、その」
必死で言い訳を考える私に敬一は、
「サンキュ、成瀬」
と言った。
それだけだった。
女の子の方も、一度ため息をついただけで何も言わない。
あれ?
これは、もしかして、本当に。
私はそこから動けなかった。悪いとはわかっていても、つい聞き耳をたててしまう。
「じゃあ、後は俺の部屋で」
すぐに後悔した。
アトハオレノヘヤデ。
私も入ったことないのに。
あたりまえだ。私は敬一の彼女でも何でもないのだから。
女の子の方を見る。彼女は私より美人で頭も良さそうで線が細くてその割に出るところは出ていて脚がきれいで色白で髪がてつやつやでまつげが長くて目元涼し気でそれからそれからとにかく私なんかメじゃなかった。
「じゃ、じゃあ。彼女と仲良くね」
そんなことを言って、私は教室から逃げ出した。
「あ、成瀬さん、ちょっと相談が……」
うるさい。
名前もよく覚えていない他のクラスの女子の横を走り抜ける。
「あ、ナル」
「よぉ、成瀬」
「看祢ちゃん」
うるさいうるさいうるさいっ
不公平だ。私はみんなの相談にのっているのに、私の悩みなんて誰も聞いてくれない。
靴を履き替えるのももどかしく、私は昇降口から外に飛び出した。
鞄を教室に忘れてきた。
今更戻れるわけない。
鼻の奥がつんと痛い。
ははは、私何泣いてるんだろ。
走って、走って、走って、気がついたら家の近所の公園まで来ていた。
さすがに苦しい。立ち止まったとたんに汗が吹き出た。
このまま家に帰る気にもなれずに、わたしはとぼとぼと公園の中に入っていった。夕暮れ時の公園には誰もいない。
少し落ち着いてみると、我ながら馬鹿みたいだ。たかが失恋で、なにをそんなに動揺しているのか。
たかが。
失恋……
「泣くな! 成瀬看祢!」
声に出して自分を励ましてみた。大丈夫、涙はこぼれていない。
その時、私のすぐ横でがさっと茂みが揺れた。
誰かいた!?
痴漢だろうか?あわてて私から逃げていこうとする。私もその場から離れようとした。たとえ誰であろうと、恥ずかしい所を見られてしまったことに変わりはない。
好奇心に負けて一回だけ振り返る。
茂みから逃げ出そうとしていたのは敬一だった。
「敬一!?」
そんなはずはない。敬一は今ごろ彼女と……
驚く私の目の前で敬一はぐらりとよろけると、そのまま地面に倒れた。
敬一の姿が霞み、泥だらけの青翔の制服を着た女の子になる。
「ちょ、ちょっと、大丈夫?」
息はしていたが女の子の顔は真っ青で、手や足は擦り傷だらけだ。傷が少し化膿していて、放っておくと危ないかも知れない。
女の子の口が少しだけ開いた。
「お腹が……」
「お腹?どうしたの?痛いの?」
その時、彼女のお腹が「くーっ」と鳴った。「あなた、名前は?」
とりあえず家まで運んで、傷の消毒をした。
女の子はぬるめのココアをゆっくりと喉に流し込んでいる。
「御厨奈津美……です」
蚊の鳴くような声、というやつだ。
「あ、あの……」
「ああ、いいのいいの、大体わかるから。奈津美ちゃん、私の顔、どんな風に見える?」
奈津美ちゃんはきょとんとしている。
「あの、とっても悲しそうで、恐がってて……。でも、どうして?」
「それはね、あなたが恐がっているからよ」
奈津美ちゃんの顔にゆっくりと理解の色が浮かんだ。
「あなたも似たようなものでしょ?」
うなずく奈津美ちゃんに笑いかける。
「成瀬看祢って、知ってる?」
「……はい。なんでも相談にのってくれるっていう……。あなたが?」
「そう。よかったら相談にのるわよ。で、どうしてあんなところにいたの?」
私の質問に、奈津美ちゃんは下を向いて唇を噛んだ。
「あ、言いたくないんだったら言わなくていいから。じゃあ、とりあえず家の方に連絡しておこうか」
「……連絡は、いいです……」
返ってきたのは静かな、でもはっきりとした拒否の言葉だった。
「どうして?きっと心配してるわよ?」
顔をあげた奈津美ちゃんの目には、涙がいっぱいにたまっていた。
「私、もうだめなんです。自分の力が抑えられなくて……。これ以上創ったら、亜紀子まで……」
しばらくそっとしておいた方がいいのだろうか?ともかく、今の奈津美ちゃんは何を言っても聞いてくれそうにない。
「ちょっと待ってて。おかゆ作ってくるから」
そう言って部屋を出た。
おかゆを作りながら、これからのことを考える。
(やっぱり、学校に連絡した方がいいのかな?)
自分の力に気づいた時のことを思い出す。私はなんとか折り合いをつけることができた。
でも、奈津美ちゃんは私じゃない。それに、あの子の力は表情だけではすまない。「つくる」という言葉も気になる。
おかゆを部屋に持っていく間も、私の考えはまとまらなかった。
まぁ、後は食べてからにしよう。
「おまたせ。成瀬看祢特製、梅干しおかゆだよ」
その声は誰もいない部屋を空しく通り抜けた。
おかゆが音をたてて床に転がる。
どんっ
壁に叩きつけた手の痛みなんて、感じなかった。
「くそっ、くそっ、くそっ……」
何が「相談にのる」だ、偉そうに。結局私のやってたことはただのまねごとだったのだ。
本当に助けを必要としている人の役になんてたてないのだ。
「くそっ、くそっ、くそっ……」
私は、しばらくの間壁を叩き続けた。