別れる(或いは一緒にいる)ということ/朝臣さやか・2
普段は立ち入り禁止の校舎の屋上のドアが、実は壊れていることを知っている人は少ない。だからそこは、知っている人だけの秘密の場所だった。
ここまで走って来て、痛いほど荒くなった呼吸を無理やり整えてから、ノブに手をかける。
最初に見えたのは、今にも雨が降りだしそうな灰色の空だった。次に塗装が所々はげ落ちたフェンス。その向こうに広がる街並み。
「あぁ、思ったより早かったね」
そして、記憶とそっくり同じに私に微笑みかける少年。
真人直也の形をした、私の思い出。
風が、私の髪を乱す。その風は、直也の向こう側から吹いてくるように感じた。その向かい風の中をゆっくりと歩き始める。
「どうして、ここだってわかったんだい?」
「……一番の思い出の場所にいるって、言われたから」
「御厨さんに? いや、つばさちゃんか」
直也も私に向かって歩き出した。
「そうだね、ここが一番の場所だ。僕達はここで……」
「やめて」
ドアとフェンスのちょうど中間で、私達の歩みは止まった。
直也は微笑を浮かべたまま。私は、きっとひどい顔をしているだろう。
「あなたは、直也じゃないわ」
「その通り。でも、同時に僕はまぎれもない真人直也さ。少なくとも、君の思い出の中の真人直也そのものだ。本当の本物なんて存在しないってあいつは言ったけど、完全な偽物もまた存在しない。そうは思わないか?」
「思わないわね」
「ははは、相変わらず自分の敵には容赦しないね、君は」
「相変わらずなんて言葉、使わないで」
髪と一緒に、心も乱れていく。幻だとわかっていても、目の前のそれは直也でしかありえなかった。確かに直也は、私の目の前で死んだのに。
不意に涙がこぼれそうになるのを必死にこらえた。馬鹿げている。あの時だって私は泣かなかった。
「君の中で、真人直也というのはどんな人間だったんだろう?」
直也の手が、私の頬をなでる。ひんやりとした感触。思い出と同じ感覚。でも違う。これは直也じゃない。
違うけれど。
「君の恋人だったのか、理想のために手段を選ばないエゴイストなのか。それとも世界の敵、とやらだったのだろうか」
「あなたにはわからないの?」
「わからないね。そして君にもわからない。真人直也という人間が本当はなにを望んでいたのか」
そっと近づいてきた直也の唇が、私の唇と重なった。
「だから、僕が産まれた」
突き飛ばそうとした私の腕を直也がつかむ。
もう片方の手が私の腰に回って、二人はまるでダンスを踊るような格好になっていた。
「あの時の続きをしよう」
「なにをっ!」
「君を変える。前みたいに邪魔が入らないうちにね」
振りほどけない。もがく私を直也がさらに力をこめて抱きしめる。
息が詰まって、苦しい。
どんな気持ちでいていいのかわからなくて、苦しい。
「なんでこんなこと……」
「それが、『僕』の最後の願いだったから」
直也は微笑んだままだった。
そう、路地裏で会った時からずっと彼は微笑んだままだったのだ。
微笑んでいるのに、その目はずっと寂しそうだった。
「直也は、そんな顔しなかった」
「そうかも知れない。でも、これが君が見た真人直也という人間だ。誰にも理解されない孤独な少年。……君も、ついに理解することはなかった」
「だって、だってあなたは!」
「……君を騙し、人を歪め、君の親友が死んだ元凶だった。それでも、君は『僕』のことが好きだったんだろう?」
そんな言い方は、ずるい。
「これは、君が真人直也を理解する最後のチャンスだ。君は変わり、『僕』と同じ所に立つ。僕達は一つになれる」
そんな言い方は。
「決めるのは君自身だ」
再び、私達の唇が重なった。何かが流れ込んでくる。
心の奥に、そっとささやきかけてくる声。キミガノゾムモノハナニ?
キミノヤリタイコトハナニ?
キミニヒツヨウナモノハナニ?私が望むもの
私のやりたいこと
私に必要なものあの、ブギーポップを名乗った少年は何を望んだのだろう? 何をやりたかったんだろう? 何を手に入れて、何を無くしてしまったんだろう?
私が
私の
私に私は……
いつのまにか閉じていたまぶたをゆっくりと開ける。
重なっていた唇がはなれた。
直也が腕の力をゆるめ、二人の身体もはなれる。
「私は……」
「やっぱりそうだ」
直也の目から、寂しげな表情が消えていた。その顔はとても満足そうで、私を不安にさせる。
「私は、変わったの?」
「いや、君は君のままだ。何も変わってなんかいない。やっぱり『僕』の力じゃ、君みたいな強い人間は変えることができなかった」
それでも、直也は満足そうだった。
「君は、もう大丈夫だ」
「直也?」
「君は『僕』を乗り越えた」
一瞬、直也が霞んで見えた。
「君は、『僕』といるよりも自分であることを選んだ。それでいい」
今度こそ、直也の体が霞んでいく。
「直也!?」
「僕の役目は終わった。僕は望んで産まれてきた訳じゃないし、産まれたことに何の意味もなかったが、君の力のなることができて嬉しい」
どうして?
「直也は、そんなことを言う人じゃなかった」
「言うさ」
向こう側の透けて見える腕で、直也は私をもう一度だけ抱きしめた。
暖かい感触。
「世界の敵として、歪める者としての『僕』は確かにひどい奴だっただろう。でも君はずっと信じていた。『私の恋人の真人直也』は、いつだって君にやさしかった、って」
「な……お、や」
「かえって未練を残したかな? でも、君ならもう大丈夫さ」大丈夫。
そう繰り返して、直也の形をした私の思い出は消えた。見上げれば、今にも雨が降りだしそうな灰色の空。
雨なんか降るな。
降ったら、その雫といっしょに泣いてしまう。ゆっくりと一つ深呼吸をしてから私は振り返り、ドアに向かって歩き出した。
風は、今は追い風になって私の背中を押している。