風が。かくて死神は幕を降ろす
とても冷たい風が吹いた。
雪が降るかも知れない、そんなことを頭の片隅でぼんやりと考えていた。
月も星も見えなかったのは、あれは空が曇っていたからだと気がついたのは、ずっとずっと先のことだった。突然現れたその乱入者は、私たちの混乱などどこ吹く風で私たちを見下ろしていた。
その姿は闇に紛れてもうよく見えないが、真っ白に化粧されたその顔だけが闇の中にくっきりと浮かび上がっている。
まるで、幽霊かなにかのようだった。そして、その印象は間違いではないのだと、直感が囁きかける。
「お前……誰だ?」
彼が現れてからどの程度の時間が経ったのか、直也がやっとのことで口を開いた。だが、その質問はあまりにも陳腐だった。彼が何者なのか、彼の言葉を借りるならば私たちはもう知っているのだから。
そのことに直也も気がついたのか、すぐに質問を続けた。
「本物、なのか?」
「この世に本当の本物なんてものが存在するのか、怪しいものだがね」
男とも女ともつかない、ひややかな声。少しばかりからかうような口調。
「ただ、無責任な噂の主人公というなら、ぼくがそのブギーポップだ。死神、殺し屋……そう呼ぶ者もいる」
その言葉を聞いて直也がふっ、と笑った。
「なるほど、どうやら君も『違う』ようだね。で、そのブギーポップ君が何の用だい?」
「世界の敵を遮断しに」
「何?」
「君を殺しに来たのさ。真人直也君」
「なっ……!」
何でもないことのように、ブギーポップはそう言ってのけた。
直也が固まる。
「君は人を人ならざる者に『変えて』しまう。どんな風に変わるのか、変えてみるまでわからないが、それは人の遺伝子が一人一人違うように、その変化も人によってまったく違うものになる」
「そ、そうだ」
「だが、君も本当は気がついているんじゃないかな?君の力は人を『変える』と同時に『歪めて』しまうことに。そして……」
ブギーポップの目が鋭く細められた。
「君自信は気づいていないかも知れないが、君の力が最初に『歪めて』しまったのは、君自信だ」
「黙れ!」
直也が吠えた。だが、その声は怒りというよりむしろ脅えに近い。
「僕の力が人を歪める? 違う! あれは、人がもともと持っているものだ!欲望だ。だが欲望なんて希望とどこが違う?同じさ。希望なんて欲望を綺麗に飾り付けただけだ。その希望を、欲望を、願望を!僕は望みをかなえてやったんだ!」
だってそうだろう?
直也はもう、ブギーポップに向けて叫んでいるのではなかった。どこか遠くに。それがどこなのか、私にはわからなかった。
「人は誰でも変わりたいと思ってる。誰だってそうだ。人と同じは嫌なんだ。自分が無くなるのが恐いんだ。だから僕が背中を押してやったんだ」
「そうして、世界の全てを『違う者』に変えるのかい?」
「そうさ。それのどこが悪い!?」
直也はもう、泣き出さんばかりだった。自分の正義を否定されて逆上していた。
直也の言いたいこともわかるのだ。私も変わりたいと願う時がある。
しかし、それでも……
「それでも、あなたは間違ってる」
「な……に?」
直也がゆっくりと私の方に振り向く。その目には涙が溜まっていた。
そう、彼は世界の敵なのだった。今直也は、世界の全てを敵に回してひとりぼっちで戦っているのだ。
どうしようもない孤独。
胸の底がちくりと痛んだが、それでも私は立ち向かわなければならない。私も、直也の敵なのだから。
「人は、誰かに変えてもらうものではないわ。自分で変わるものよ」
「知ったふうな口を聞くな! 自分で変われる奴がこの世界にどれだけいるんだ!? たしかに君は強い。だが、ほかの奴はどうだ? 変わりたい、そう願って願うだけの連中だ。いつまでたっても変わることなんてできやしないんだ!」
「それでも……!」
「それでも人は、自分で変わらなければならないのさ」
私の言葉を奪ったブギーポップは、ゆっくりとその手を前に差し出した。黒いマントが少しだけはだける。
大気に、血の匂いが満ちる。
ブギーポップの手は、血に塗れていた。
「君の言う『違う者』に会ってきたよ。あれが君の創りたかった世界なのかい?」
「ま、まさか……」
「違うのだろう?だが、君はああすることしか出来なかった。それでも君は、君の正義のために『変える』ことをやめなかった」
手だけではなかった。マントに隠されていたその下は、すべて真っ赤に染まっていた。
「君の作ってきた道はすべて遮断した。そして、これから君が作ろうとしている道も遮断する」
ブギーポップが、まるで指揮者が演奏を終えた時のようにその腕を振り降ろす。たったそれだけだった。
直也が糸の切れた操り人形の様に崩れ落ちる。
何が起こったのかわからなかったが、たった一つだけ理解出来たことがあった。
今この瞬間、直也が死んだのだ。
彼の名を叫びながら駆け寄る自分を想像したが、実際にはそうはならなかった。
不思議に思う。ほんの少し前まではあんなに好きだったのに。今でも本当は好きなのだ。
だから、一滴だけ涙がこぼれた。
でも、それだけだった。
「彼は本当に間違っていたのかしら?」
私の口から、そんな言葉が洩れた。つぶやくような、誰にも聞こえなくてもかまわないと思った問いかけに、ブギーポップは答えてくれた。
「ぼくが勝ったから彼が間違っていたなんて、そんな単純なものではないよ。それに、何が間違いで何が正解か、本当は誰も決められないんだ」
「それでも、あなたはこんな事を続けていくの?」
ブギーポップはゆっくりと、しかしはっきりうなずいた。
「それがぼくの使命だから。そして、たとえその道が間違っているかも知れなくても、それでも生きていかなくてはいけないんだ。ぼくであれ、君であれ、……誰であれね」
そう言ってブギーポップは、笑っているようなからかっているような、曰く言いがたい左右非対照の表情をしたのだった。
Boogiepop "the Lost" closed.