「どぉーっ!」
道場に一際響き渡る少女の声。続いてべきぃと音がした。
「またか……」
顧問の教師がとほほ、と額に頭を当てた。周囲の生徒達は気楽に喝采を上げている。
「またぶっ壊したのか藤村」
「さすがは冬木の虎」
折れた竹刀を持って「てへへ」と笑っていた少女が、その声に敏感に反応する。
「わたしを虎と呼ぶなー!」
「わ、待て防具つけてなぃっ!?」
横方向に「く」の字になってぶっ飛ぶ男子生徒。グラップラー某に殴られたかの様にぐるぐる回転しながら壁に激突した。
「わーっ、藤村がキレたー!?」
「よせ、やめろタイガーっ」
「コロース!」
泣きながら少女が男子生徒を追いまわす風景は、剣道部において既に日常茶飯事であった。
「何、また竹刀折ったわけ?」
「わ、わたしが悪いんじゃないわよぅ、竹刀が脆いのだー」
校門で落ち合った友人のじと目から逃れる様に、剣袋をぶんぶん回す。
「だからって折れないでしょ、普通」
そう、普通は竹刀なんて折れるものではない。ただまぁ、例外は存在するのだ。もちろん、ただの怪力という訳ではなく、彼女の場合、練習量が桁違いだった。来る日も来る日も練習して、しかもいつでも全力投球、その上手入れはサボり気味であり、結果、普通では考えられない速度で竹刀が劣化する。
「あれだ。アンタ馬鹿」
「うぅー」
反論もできずとぼとぼ歩いた。途中の交差点で新都でやってる居酒屋が実家の友人と別れ、自宅に向う。と──
「あれ?」
坂を上がった所で、いつもと違う風景に出くわす。
とある屋敷に灯りが燈っていた。その家は今まで空家で、大地主であったりする彼女の祖父が管理していたのだが。好奇心にかられて玄関の方に行ってみる。と、そこで祖父と何やら話している男を見つけた。
目が合った。
特に物音を立てていた訳でもないし、何より男は祖父と話しこんでいたのだが、唐突に目が合った。息が止まる。
それだけでもかなりの不意打ちだというのに、その男は少女に向けてにっこりと、胡散臭そうな、それでいてやたらと優しげな笑顔で会釈してきた。
赤面した。自分でもなんでだかわからないが真っ赤になった。
そこでようやく気付いた祖父に呼ばれる。ぎくしゃくとした足取り。とりあえず「こんばんは」と挨拶した。ちょっと上ずっていたかもしれない。
祖父は、彼が今日からここに住む事になったのだとか、今までずっと外国に住んでいたのだとかそういう事を紹介していたが、あんまり耳に入らなかった。「いつもは馬鹿みたいに元気がいいんだがね」そういう事を言うなー!
がちがちに緊張してうつむいた視線に、差し出された手が見えた。ごつごつとした、男の人の手。見上げれば、さっきと同じ笑顔で男が少女を見ていた。
「衛宮切嗣です。よろしく」
「あ──う。ふ、藤村、大河、です……」
最後の方は声にならない。少女は自分の名前が大嫌いだった。タイガーなんて呼ばれたら最悪である。虎もダメだ。泣く。
だって言うのにこの男は。
「大河……うん、いい名前だね」
「よかないやいっ!」
男の手をつっぱねた。どいつもこいつも。泣きながら走った。後ろで何か声がしたが、よく聞こえなかった。
「はー……」
「何だ、藤村。悪いもんでも食った? いや、藤村が食い物に中る訳ないか」
昨日と同じ帰り道、元気のない少女に友人があんまり心配そうでない声をかける。
「ははーん、アレだろ藤村」
「ち、違うもん」
「変」
とりあえず新しい竹刀でかなり思いっきり叩いた。頭をおさえてうずくまる友人を無視して歩いて行く。
「いたたたた……。で、ホントにどうしたのさ」
「うー、昨日坂の上のお屋敷に引っ越してきた人がいてね、いきなり……」
「いきなり?」
「いい名前だねって言われた」
「馬鹿だろアンタ」
「馬鹿って言う奴が馬鹿だーっ」
嫌なものはしょうがないのである。まぁ、自分でもただ褒められただけっていうのはわかってはいるのだが、どうしても怒りが先行してしまう。
「……で、なんでついてくるの?」
「いやー、藤村が変したのがどんな男かと思って」
「だ、誰も男の人だなんて言ってないもん」
「女なの?」
「男の人だけど……」
なんて会話をしながら二人して坂を上がっていく。だいたい、付いて来たからって屋敷の中に入る訳ではないのだから、会える訳ないのだ。昨日はたまたま玄関で祖父と話していただけであって。居た。
なんでか知らないが玄関先にぼけーっと突っ立っていた。
「あ、藤村さん、今晩は」
しかも挨拶してくるし。
「昨日は、ごめん。なんだか怒らせちゃったみたいで」
頭まで下げた。
隣で友人がニヤニヤ笑いながら見ているが、こんなのどーしろと言うのだ。顔も頭も茹っている。
「い、いえっ 気にしてない……わけじゃないけど、謝ってくれたんだったらもういいですっ」
「あ、うん。ありがとう」
ああ、やっぱりこの人の笑顔は胡散臭いけど優しいなぁ。
その日は、笑みを返す事ができた。
……で、まぁ。そんなこんなで少女は衛宮邸にいりびたるようになるのである。道場があるのを言い訳にして、休日は特訓と称して茶菓子をまったりと食べて過ごしたり。
一人暮らしの男の家に愛娘が入り浸るのは親が心配するものだが、元々藤村家は超が付く程の放任主義であったし、少女がいくら駄々をこねようが夕方には切嗣が家に帰してしまうので、何も言われる事なく、少女の幸せな日々は続いた。「あ、そうだ」
自称特訓のだらけた休日が3度目を向かえた頃、切嗣が思い出したように呟いた。
「前、よく竹刀が折れるって言ってたよね?」
「う、うぅー、わたし悪くないですもん」
赤くなって涙目の少女に「いやいや」と手を振る。
「気休めだと思うけど、ちょっとお守りみたいなのを作ってみたんだ」
「お守り?」
うんと頷いて、ポケットをがさごそとポケットを物色する。中々みつからないらしい。この男の要領の悪さは会って3日目くらいで理解していた。
やっと見つかったらしい。いつものような優しい笑顔で、「はい」と差し出す。
その手の中には虎をあしらったストラップ。少女はぼろぼろと泣き出した。
「あ──え?」
面食らったのは切嗣の方だった。おろおろと周囲を見渡すが、当然助けなんてない。
ぐずぐずと鼻をすすりながら、少女は切嗣をきっと見つめた。いつもみたいに激昂はしないが、それだけ悲しい。
「わた……わたしの名前は大河、だし…そんな名前も嫌いだけど、タイガーなんて呼ばれたくない、し…虎なんか、大嫌い……」
それ以上は声にならなかった。顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃである。それでも顔はそらさなかったから、気付いた。
切嗣の顔がびっくりするくらい青くなっていた。
ああ、ひょっとしてこの人は。
まさか本当に今の今まで大河がタイガーで虎なんて事に気付いていなかったのだろうか。
とことん要領が悪いというか、間が抜けすぎてるというか。
「ごめん、ごめんなさい。僕が虎が好きだったからこんな形にしたんだけど、気付かなくて、ああ、本当にごめん……」
しどろもどろになりながら慌ててそのストラップをしまおうとする切嗣の手を、少女の手がぐっと押さえた。
なんだかもう、泣くのも怒るのも馬鹿らしくなってしまった。だから笑おうとしたけれど。
やっぱり泣いたり怒ったりしたかったので、その顔はぐちゃぐちゃのままだった。
──それは、少女の竹刀がまだ普通の竹刀だった頃のお話。
いつしか切嗣がこの世を去り、少女が伸ばしていた髪をばっさりと切った後も。
その虎のストラップを付けた竹刀は一度も折れる事なく、ずっと彼女の傍らにある。