ロンドン、時計塔。ウェストミンスターにある観光名所 の事ではない。魔術の中枢を自称する、魔術協会の本部である。
世界各地から魔術を極める為に学徒が集い、その発展と衰退に貢献している学び舎。その学び舎において、今期の主席候補と目されている少女が一人、廊下を歩いている。テンポを崩さないその優雅な足取りは、モデルや女優というより、むしろ芸術家のようであった。金糸の如き髪が軽やかになびく。
ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルト。エーデルフェルトはその名を知らぬものは無い程の名門であるが、家名だけで主席になれるほど時計塔は落ちぶれてはいない。つまり、彼女本人がそれだけ優秀なのである。今日は珍しく、取り巻きがいない。リヴィアゼリッタ本人が望んでいるわけではないが、どうしても彼女の周囲には人が集まる。生まれつき人の上に立つ事が決まっているような者もいるのだ。
疎ましいとは思わない。エーデルフェルトの後継ぎともなればその程度の資質は当然であるし、何より彼女本人が、人の上に立つ事に充足感を覚えていた。だから、影では人の何倍も努力したし、表立っては誰もが憧れずにはいられない程に完璧な佇まいを見せた。
持って生まれた素養と向上心を併せ持った彼女が主席候補に挙げられるのは、むしろ当然であった。
ただまぁ、誰だってつまづく時はあるもんなのである。
季節外れの遠雷の音を聞いたような気がした。不思議に思って窓の外を見たが、空は快晴である。首を傾げながら角を曲ろうとしたた所で、人とぶつかった。
いや、ルヴィアゼリッタが反応できなかっただけで、相手は寸前で彼女の事をかわしていた。空間に取り残された黒髪が、彼女の顔を掠める。
見れば、ルヴィアゼリッタと同年代の少女だった。東洋人だろうか。意思の強そうな瞳がこちらを見ている。出会い頭にぶつかりそうになったというのに、慌てた風はない。
「失礼」
それだけ言うと、その少女はもうルヴィアゼリッタに興味を失ったように歩いていった。怒っているようであったが、その身のこなしに無様な所は欠片もない。ルヴィアゼリタが優雅なら、その少女は華麗であった。
その様に少しだけ見惚れて、訳のわからない苛立ちに襲われた。なんだか、負けたような気がしたのである。目つきが険悪になるのを鉄の意志で抑えて、今度こそ角をまがろうとして。今度こそ本当に人とぶつかった。
「きゃ──」
長いスカートに足をとられ、体が大きく後ろに傾く。掴むものなど無いというのに反射的に伸ばした腕を、誰かが支えた。廊下に倒れそうになる背中にも手が添えられる。ルヴィアゼリッタは倒れる寸前で助かったが、結果として、その青年の顔が目の前にあった。
そう、青年。魔術師には珍しい、朴訥そうな顔をしていた。飛びぬけた美形という訳ではないが、真摯そうな瞳が印象的だった。
「あ……すまない。急いでたから」
たどたどしい英語で、それでも心底申し訳なさそうに、青年は赤くなりながら謝罪した。それ以上動きがないのは、彼自身もこれからどうしたらいいかわからないのであろう。
「──立たせてくださる?」
見ず知らずの男性に抱きとめられた事などなかったから、ルヴィアゼリッタも顔が朱に染まるのを自覚していたが、それでも平静を装って、そう告げる。その声を聞いて、慎重にルヴィアゼリッタを立たせる青年。明らかに女性の扱いに慣れていない。自分にぶつかった事は腹立たしかったが、なにやら微笑ましい。
「本当にすまなかった。……ええと」
「ルヴィアゼリタ・エーデルフェルトと申します。ミスター」
完璧な仕草で一礼する。そんな姿に、青年はまた赤くなる。それが、エーデルフェルトという名に反応したものでないらしいのは呆れたが、なんだか嬉しくもあった。
「俺は士郎。衛宮士郎だ。多分大丈夫だと思うけど、どこか怪我してたりしたら言ってくれ。ミス・エーデルフェルト」
心配そうなその問いに、極上の微笑みで応える。それだけで慌てて瞳をそらしたりするこの青年をからかうのは楽しい。なんだか、今まで自分の知らなかった一面に気付くルヴィアゼリッタであった。
「じゃあ、俺はこれで」
「ええ、ごきげんよう。ミスター・エミヤ」
一瞬途方に暮れたように左右を見て、青年が走り出す。その青年が角を曲るまで見送って、ルヴィアゼリッタは自分も歩き出した。
最初の再会はすぐにやってきた。なにしろ同じ鉱石学科の同期生だったのである。少女の名は遠坂凛。日本で蒼崎に次ぐ霊地を管理している遠坂の当主。噂では、彼の地で行われた魔術師同士の争いに最後まで勝ち残った、一流の魔術師であるという。ルヴィアゼリッタと同じ宝石魔術の使い手で、
五大元素使い 。
実際、彼女はルヴィアゼリッタに比肩する才能の持ち主だった。圧倒的に勝っているのは財力くらいで、運動能力は大きく遅れをとっている。運動なぞ魔術師としてそれ程要求されるものではなく、財力というものは全てに先立つものなのだが、自身の身体能力で負け、家の財力しか勝っているものが無いというのは無性に腹が立つ。ルヴィアゼリッタは負けず嫌いであった。
しかも、類友というかなんというか、凛の方も相当な負けず嫌いであった。
「ただの実験をするにしても、もう少し使用する宝石の量を多くした方がいいんじゃなくて? ミス・トオサカ」
「ご忠告ありがとう、ルヴィアゼリッタ。大きなお世話よ」
「失敗したら無駄に無くなる物でも、出し惜しみはよくないわ」
「あら、貴女の実験の成功率が低めなのって、才能の所為だけじゃなかったのね」
「なんですってー!?」
「何よっ つっかかってきたのアンタじゃない!」
十何年被ってきた猫がはがれるのに、そう日数はいらなかった。
2つめの再会はそれからもう少し経ってから。青年は、ルヴィアゼリッタの住む屋敷に、アルバイトとしてやって来た。
「あら、奇遇ですね。ミスター・エミヤ」
「ここの主って、君だったのか……ミス・エーデルフェルト」
魔術師がアルバイトも無いものだと思ったが、聞けば彼はまだ、弟子の身分らしい。師匠の資金難の為に、彼が少しでも生活費を工面しているのだという。それでは、弟子とはいえ修行もままならないと思うのだが。
「……呆れた師もいたものですわね」
「いや、まぁ。付いてきたのは俺だし、その、弱みも握られてるしなぁ」
「いいでしょう。きちんとお給金に見合った働きは期待してますよ?」
「ああ、努力する」
ルヴィアゼリッタの差し出した手を、士郎が少し照れながら握る。
実際、士郎はよく働いた。彼自身努力家だったし、細かい所に気がつく性格である。日本の料理を作ってみせてルヴィアゼリッタの舌を楽しませもしたし、からかうと面白い。
気が向いた時は、ルヴィアゼリッタが士郎の魔術の訓練を見てやった事もある。士郎は魔術師としての適正は低めであるようだったが、ひたむきだった。その姿を見ると、自分も頑張ろうという気にさせてくれる。
これでは給金の方が見合わないと、雇用してすぐに士郎は昇給した。
「え、こんなに貰っていいのか、ミス・エーデルフェルト」
「もちろん。これでも少ないくらい。それと、ルヴィアでいいわ。親しい人はみんなそう呼んでいるの」
「う、あ、ありがとう、ルヴィア」
「そのかわり」
赤くなって目を逸らす士郎を微笑ましく眺めながら、ルヴィアゼリッタが提案する。
「わたくしも、貴方をシロウと呼んでいいかしら? ミスター」
「え──あ、いや。まぁ、問題ない、けど」
うん、やはり楽しい。
最近考えている事がある。士郎を身請けできないものかと。彼だって、自分の研究の為に弟子を働かせるような極悪非道な師匠の下よりは、ここに居た方がいいに決まっている。ルヴィアゼリッタとて弟子をとれる身分の魔術師だ。彼を一人前の魔術師に育てもしよう。弱みを握られているとか言っていたが、それこそエーデルフェルトの名前の使い時だ。
そんな事を考えながら、上機嫌で歩いていた。これで凛と顔をあわせなければ、なんと幸せな一日だろうか。
──と、珍しく時計塔の中で士郎を見かけた。手には何やら包みを持っている。
「あら、士郎。どうしたんですか」
「ああ、ちょっと俺の師匠がいきなり「久し振りに和食食べたーい」なんて言うもんだから、ちょっと弁当を作ってきたんだ」
なんて健気。なんて不憫。これでは弟子ではなく、まるっきり召使ではないか。自分にも一人ああいや、これは自分の考えをはっきり言うチャンスではないだろうか。
「士郎、いい機会だから言っておきますが、貴方──」
「あれ、早かったじゃない、士郎」
今、一番聞きたくない声がした。
「お前が急げって言ったんじゃないか」
「まぁ、そうなんだけど」
いじわるそうでいて、なんだか弾んだ学友の声。声だけで誰かわかるが、ぎぎぎ、と後ろを振り返る。
「え? 士郎ってルヴィアゼリッタと知り合いだったの?」
「遠坂こそ、ルヴィアと……って、そういや同じ鉱石学科だっけ」
「ちょっとアンタ、なんでそんなに親しそうなのよ。……あ、まさか、アンタのバイト先の魔術師って」
「多分、想像の通り」
自分の前後で繰り広げられる会話に、頭がついていかない。
「あー、ええと、これは、どういう?」
ひきつった笑顔で、どちらともなく聞く。
「ああ、彼、わたしの弟子なのよ」
「こいつが、俺の師匠なんだ」
同時に答えが返ってきた。がくっと力が抜けそうになるのを必死でこらえる。
「……自分の研究費用捻出の為に弟子をアルバイトに出す極悪師匠って、貴女だったんですのね、リン」
「なっ 人聞き悪い事言わないでよ! ……まぁ、事実だけど」
「嘘でもいいから否定してくれ……」
複雑な表情の士郎の肩をぐっと掴む。
「考え直すなら今です。こんな極悪師匠なんて見捨てて、わたくしの所へいらっしゃい。今より待遇が良くなる事確実です」
「ああ、それ無理」
本人が何を言うよりも速く、凛がそう答えた。そして、説明するのも面倒だとばかりに、士郎の腕に自分の腕を絡める。うわっ あの勝ち誇ったような笑顔!
「お給料はいいみたいだから、これからも士郎をよろしく頼むわね? ルヴィアゼリッタ」
ぴき。
何かが切れた音がした。
「こ……この陰険女ー!」
「負け犬が吠えてんじゃないわよ!」ルヴィアゼリッタの不本意ではあるが退屈しない日々は、暫く続きそうであった。