こっそりと、いつもの様にイリヤは城を抜け出そうとしていた。なにしろ、こんな馬鹿みたいに広い城に住人は3人きりである。メイド2人に内緒で出かけるなんて、楽勝だった。
だが、今日ばかりは勝手が違ったようで。
「きゃっ」
いくつめかのドアを開けた所で、メイドの1人であるリーゼリットとぶつかってしまった。リーゼリットの手には『ベコちゃん』と書かれた紙の箱。
「イリヤ、また出かけるの?」
「な、なによーっ 別にいいでしょう!?」
見つかってしまってふてくされるイリヤの手を、リーゼリットががしっと握る。
「逃げましょう。どこか、遠くに」
「は?」
確かにリーゼリットはイリヤが外出する事に反対したことはなかったが、一緒に行くと言ったのは今が初めてだった。
というか、逃げる?
「ケーキを、買ってきたの。セラと一緒に、食べようと思って。でも、1つしかないから」
本当は2つあったが、城に帰るまでにリーゼリットがつまみ食いした。
イリヤは、城ではあまり甘いお菓子は食べさせてもらえない。運動もあまりできないのに糖分ばかりとったら大変な事になるというのがセラの弁。イリヤはリーゼリットみたいに食べた養分が胸にはいかないらしい。キャラ的に、イリヤは胸がおっきくなっては、いけないのよ、とリーゼリットは説明していたが、意味はよくわからない。
虫歯にはならない。歯磨きはひとりでできるもん。
「だから、セラの為に、スポンジと木工用ボンドで」
セラ、それを食ったらしい。
口に入れる前に気付け。
「そ、そんなのわたしに関係ないじゃない! リーゼが1人で怒られればいいでしょっ」
イリヤにちょっと怯えが入る。セラは、怒ると恐い。
「──そう、なら」
リーゼリットの手から力が抜けた。箱の中からケーキを取り出す。名残惜しそうに一口だけかじると、生クリームをちょこんとイリヤの口元にくっつけた。
そして、残りのケーキを全力投球。
「無理心中」「リーゼ──」
べちゃ。何が何やらわからないイリヤの手が、リーゼリットの行為を止めようとした途中で固まった。
ケーキが、リーゼリットを追いかけてきたもう1人のメイドの顔に命中している。しばらくそこに留まった後、ケーキは重力に逆らえずに絨毯に落ちた。白いセラの顔が、今は真っ白。唇についたクリームを舐め取った舌だけが妙に赤くて印象的だった。
「あー、イリヤったら、何てことを」
「な!?」
どう対処していいやら混乱するイリヤの横で、リーゼリットがトンデモナイ事を口にする。
「……イリヤスフィール様?」
「ひ!?」
セラの声の温度が、低い。絶対零度だ。顔はいつもみたいに無表情だが、ヤバいオーラを発している。
「いかに高貴なご身分といえど、食べ物は粗末にしてはいけないと、そうお教えした筈ですが」
セラの右手がわきわきしている。
「ちょ、ちょっと待ってっ 今のはリーゼが……!」
「イリヤスフィール様の教育係として、お仕置きが必要ですね」
「お──」
イリヤが涙目になった。
「おしりペンペンはいやー!?」
あれはきつい。痛い上に恥ずかしい。イリヤには羞恥プレイとかそういうのはわからない。
「■■■■■■■■■■──ッ!!」
主の恐怖に反応して、鉛色の巨体がイリヤの横に出現した。そんなにおしりペンペンが嫌か。
嫌なのである。
だが、バーサーカーの出現にも、セラはまったく怯まない。
「や、やっちゃえバーサーカー!」
イリヤの命に応えるように、バーサーカーは手近にあったリーゼリットをむんずと掴み、大きく振りかぶった。
「──時速」
全身の筋肉が軋みをあげる勢いで、投げる。
「200kmくらい?」
そのくらいの勢いで射出されるリーゼリット。妙に余裕っぽく頭から突っ込んでくるリーゼリットを、セラは避けようともせず。
──その攻撃は、セラを僅か10cm程後退させるだけに終わった。彼女の足元には、白い煙がかすかに揺らめいている。絨毯が焦げて、黒い2つの線を描いていた。
セラの右手にはリーゼリット。両手両足をばたばたと揺らしていたが、セラが右手に力を込めると「ぎぶぎぶぎぶぎぶ」と騒ぎ出し、──やがて動かなくなった。お仕置きが済んで、死んだ魚の目をしているリーゼリットをぽいっと投げ捨てるセラ。
「……さて」
「バーサーカーぁ!」
バーサーカーの手に、斧剣が出現した。一介のメイド相手に、完全に殺る気である。バーサーカーの踏み込みに、セラもまた優雅な足取りで応えた。
2秒。それだけでセラはバーサーカーの斧剣の間合いに入る。だがその刹那、セラの歩みが加速した。空を切る斧剣。セラは既にバーサーカーの懐に潜り込んでいた。軽く地面を蹴る。相対する2つの視線が、同じ高さで交錯した。──さて、バーサーカーの必殺の一撃をかわしたセラだが、彼女にこれ以上の手段があるのだろうか。確かにセラは片手でリーゼリットを沈めたが、バーサーカーの顔は大きい。とてもセラの手では握れない。そんな問題ではないような気もするが、気のせいである。
果たしてこの状況で、セラがバーサーカーに有効打を与える事は可能なのだろうか。答えは可である(可なのかよ)。
左右に広げた両手を拳に固め、バーサーカーのこめかみにあてた。ぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎり。
「■■■■■■■■■■──ッ!?」
バーサーカーが、吼える。俗称:うめぼし。
巨人の膝が折れた。
セラはうめぼしをやめない。
バーサーカーの右手がばしばし絨毯を叩く。タップだ。バーサーカーがギブアップしている!
それでもセラはうめぼしをやめない。
イリヤはもう、バーサーカーに対する信頼とかアイデンティティとかいろんなのが崩れて半泣きだった。
だからってセラはうめぼしをやめないのだ。その後、たっぷり10数えてからバーサーカーは解放された。ううーとこめかみをおさえてうずくまるバーサーカー。かなり痛かった。命が2、3こ削れたかもしれない。
「──さて、イリヤスフィール様」
びゅんびゅんと音のする勢いで素振りをしながら、セラはイリヤに向き直る。
「100回くらいは、覚悟していただきます」
「い、嫌あぁぁぁぁぁぁぁー!?」その叫びは深い森に阻まれて、誰の耳にも届かなかった。
「おしりだけ、ナイスバディ」
「嬉しくないわよー!」