人類は圧倒的優勢のまま自然休戦期を迎えることができたが、戦いから解放されたわけではなかった。その敵は狡猾で、残忍で、そしてどこにでも出没した。
人類最大の敵――すなわち人類である。
士翼号を駆って人類を勝利に導いた英雄、芝村厚志千翼長の多忙な生活も、そろそろ落ちついてきた。
自然休戦期に入った時の戦勝祝賀会からこっち、毎日のようにパーティだの講演会だの、そんなことで一日のスケジュールがうまってしまっていたのだ。
体もすっかりなまってしまったと思う。ほんの少しでも時間があけばトレーニングをしていたが、それでも以前の、戦時中の体はとりもどせないでいる。
「まさか太った程度で嫌われる事もないだろうけど」
そうつぶやいてから、芝村準竜師の顔を想像するという反逆罪ものの行為をして、厚志は苦笑した。
「僕もああなっちゃうのかなぁ」
月を見上げながら、今はもうすっかり懐かしくなってしまったドブ川沿いの道を一人歩く。
隣に舞はいない。たまにはそんなこともあるのだ。本当にたまに、だが。厚志はそうやって、久しぶりにスケジュールのない時間を一人で無駄に使っていた。
それは、今やもっとも有名な芝村の一人となった人間としては、かなり迂闊な行動だった。厚志は、首筋にスタンガンを当てられて気を失うまで、一度も後ろをふりむくことがなかったのだ。
『では、厚志は敵の手におちたのだな』
「そうだ」
翔吏と通信している舞の目には、今のところ怒りも不安も悲しみもなかった。
強く握りすぎてすっかり白くなった手は、翔吏からは見えない。
『予定通りだな』
「そうだ」
舞の目が、ほんの少しだけゆらぐ。
『……発案は厚志だ』
「そうだ」無言。
『舞』
「なんだ?」
無意味に挑みかかるような口調だった。
『お前は芝村だ』
「あたりまえだ」
『わかっているならばいい。厚志のことは任せる』
それで通信は終了した。
舞は固まった表情のまま、傍らのモニターに目をやる。弱々しく発光する点が一つ。
誰も周囲にいないことをたっぷり時間をかけて確認すると、舞は小さく彼女のカダヤの名前を呟いた。
目を覚ました時にはすでに、厚志はパイプ椅子に拘束されていた。
ニ、三度頭をふって髪についた水をふりはらい、周囲を見渡す。
目つきの良くない連中に取り囲まれているという予想通りの光景に、厚志はほんの少しだけ笑った。
「何がおかしい」
バケツを持った男がじろりと厚志を睨む。雰囲気からして、この集団のリーダーのようだった。
「なんだか悪者っぽいなって」
裏拳が厚志の頬を打った。血の味が口に広がる。「化け物に悪者呼ばわりされる憶えはない」
「ひどいなぁ」みぞおちに一撃。
厚志はかろうじて嘔吐をこらえた。
さらに殴られる。
縛られている上に外見はあまり強く見えない厚志の周囲にいた人間たちが、次々と暴力に加わってきた。
いい加減意識が遠くなってきたころ、やっと一方的な暴力は終り、最後にバケツの水をかけられて無理やり覚醒させられる。気管に水が入って、厚志は咳き込んだ。ありがたい。今、意識を失うわけにはいかない。
「気が済んだ?」
懲りない一言に拳がとんできた。
かわす事はもちろんできず、椅子に縛り付けられた体勢のまま転がる。
「ガキが。なめた口をきくな」
何を言っても殴るくせに、とはさすがに言わなかった。無駄にダメージをくらう必要はない。
「断っておくけど、僕の為に身代金を払ってくれるような心優しい人間は一人もいないよ」蹴られたと同時に鈍い音が聞こえた。あばらにひびくらいは入ったらしい。
「俺たちがそんなゲスに見えるのか」
うめき声ひとつあげない厚志を、男がつまらなそうに見下ろす。
「俺たちは」
「テロリストでしょ」
「……知っているのか」
厚志の胸ぐらを掴み、強引にもとの姿勢にもどす。水を吸って重たくなった髪を鷲掴みにして顔をあげさせた。
厚志の瞳は、たった今まで暴行を受けていた人間のものではなかった。腫れ上がった瞼の下からのぞく眼光は鋭い。
「上官が襲撃を受けたばかりだからね」
「なら話が早い」
髪を掴んだまま、男がぐっと顔を近づける。
水のせいで鼻が麻痺していてよかったかもしれない。
「答えろ。芝村とは、何だ?」
「……質問の意味がつかめないな」
「あいつらは、あの化け物は何者だと聞いている。この短期間で癌細胞のごとく蔓延った奴らは、何だ?」
拷問を受けなくても、たまにされる質問だった。
なにしろかの一族ときたら、誤解されることに関しては天下一品だったから。誰もがその超人的な表面だけをなぞってかの一族を知ろうとする。
「そんな事知って、どうするつもり?」
「決まっているだろう。奴らを打倒して、この国を正常化する」
半分は本気で、半分は自己欺瞞の台詞だった。
自分に力がないことへのひがみ、成功者へのやっかみ。そんなものが自己の正義にフィルターをかけてしまっている。
そんな感情が混ざって出来た怒りらしきものが、自己判断を鈍らせて自分の意見の正当性をゆるぎないものにしていた。
哀れといえば哀れだ。
「かの一族は……我らは普通の人間さ。ただ、陰で人よりちょっとだけ努力してるけどね」
「ふざけるな」
厚志としては知りうる限りもっとも正しい解答をしたつもりだったが、案の定信じてもらえなかった。
ニ、三発殴られて、同じ質問を繰り返される。
厚志は笑って嘘をついた。
「これ以上のことを聞きたいなら、もっとちゃんとした設備を用意することだね。芝村の姓を名乗らされた時点で洗脳されたから、ちょっとやそっとじゃ口を割らないよ」
事実よりも事実らしい嘘だった。
受信機から、人の殴られる音が聞こえて来る。
誰が殴っているかは知らないが、殴られているのが誰かは分かった。
だから、受信機を睨む舞の目はひどく厳しい。
一言も喋らず、その場所から一歩も動かず、ただただ彼女にとってなにより不快な音を発する受信機を睨みつづけている。
今すぐに厚志のもとにかけつけたいが、それではいけない。あるいはそれは人間として正しい行動なのかもしれないが、芝村としては論外だった。翔吏の言葉を今更ながらに痛感する。
種は蒔いた。刈り取りの時期を誤れば、元も子もない。
だからせめて、この場所を離れるわけにはいかなかった。その時が来たら、1秒でも0.1秒でも速く行動するために。
だから舞はこの場所を離れなかった。もう何時間そこにいたのかも憶えていない。そして
「……動いた」
モニターの光点が、右上の方に移動をはじめた。
目的地があらかじめ予想されていたいくつかの場所の内の一つであることを確認すると、何時間かぶりに立ちあがり、振りかえる。
「力を貸して欲しい」
ずいぶんと芝村らしくない台詞だったが、舞の心からの言葉だった。
「犯罪者になるほど、あの役職を追われたのが悔しかったのかな」
横に座っていた男がぴくりと反応した。
目隠しをされて護送されている厚志は自分がどこに向かっているのか分からなかったが、このかまかけはどうやら図星だったらしい。
「どこまで知っている」
「だいたい全部」
あながちはったりでもない。容疑者はすでに何人か上がっていた。証拠がなかっただけだ。
そして、これで犯人が確定したというわけだ。
なんのことはない。数ヶ月前に汚職がばれて免職になった政治屋だ。それでも没収されなかった資産はかなりのものになるはずだが、それだけでは気が済まないらしい。
私憤を公憤にすりかえたわけだ。わずかな振動の後、車体が傾斜した。どうやら、屋敷の地下駐車場にでも入ったらしい。
「こんな家に住んでいるのに、何が不満だんだろうね?」
目隠しされていながらそんな事を言う自分が気味悪く写るのを、厚志は充分計算に入れていた。布石はうっておくことに越した事はない。
「……殺さないでよ」
「それは貴様次第だ」
男は、厚志のその言葉が自分に向けられたものではないことに気付かず、そう応えた。
車が停車し、銃で背中をつつかれながら降りる。自分を中心にして歩く集団が唐突にその歩を止めたとき、厚志は作戦の成功を確信した。
地下の空間に、靴音が響く。
暗がりから現れた少女は、銃を構えて男たちを睨みつけた。
「厚志を返してもらおう」
最後に声を聴いてからまだ24時間と経っていないが、ひどく懐かしい感じのする舞の声だった。
「馬鹿かお前は」
厚志のこめかみに銃がつきつけられた。
「この状況で、一人来た所で何ができる。こいつを殺されたくなければ銃を捨てろ」
「断る」
断言。
一瞬、男たちはあっけにとられた。
「私が銃を捨てたら、私は殺されるか慰み者にされるだろう。そんなことになったら厚志が悲しむし、助けにきた意味がない。厚志も助けるし私も生き残る。それが芝村のやり方だ」
「よく言った」
厚志が笑う。
「それでこそ僕のカダヤだ」
少しだけ頬を紅くして、舞が続ける。
「それに馬鹿は貴様たちだ」
「何?」
「この状況で一人で来るわけがないだろう」照明が落ちた。
突然の暗闇。男たちに動揺がはしる。
「ぐっ!?」
一人の男が腕をおさえて銃を落とした。
「おらぁっ 俺の親友を誘拐したのはどこのどいつだ!?」
滝川が叫ぶ。
その銃撃の合間を縫うように壬生屋が走った。両手の木刀が男たちを薙ぎ払う。
「成敗します!」
「このアマっ」
壬生屋の後ろに回りこんだ男は、さらにその後ろから警棒でしたたかに打ちつけられた。
「まったく、戦い方は昔と全然変わらないんだな」
ガードマン姿の瀬戸口の声は、戦闘中だというのに普段とまったく変わりがなかった。
「戦いで傷物にされるくらいなら、さっさと俺に傷物にされろ」
壬生屋は真っ赤になってうつむいただけで、何も言い返さなかった。「どや、うちの調達したノクトビジョンの威力は」
『完璧だ』
狙撃担当の若宮の満足気な声が聞こえる。
「しかし、みんなももの好きだな」
加藤と一緒に指揮車の中にいた狩谷がつぶやく。
「速水……厚志君を助けるのに全員集合だなんてね」
「そう言うなっちゃんだって来たやんか」
加藤の嬉しそうな声に、狩谷はそっぽを向く。
その顔はまんざらでもなさそうだった。「どうやら成功しそうですね」
「ええ」
配電盤を操作していた森と原が笑い合う。
「こっちも終わったばい」
「まったく、なんで僕がこんなことしなくちゃいけないんだ」
中村と茜が合流した。
不満顔の茜を、森がじと目で見た。
「そんなに嫌なら来なくても良かったのに。いや、無理やり来させたけど」
「そういう訳にもいかないだろ」
心配なものは心配なのだから。「まったく、なんでボクがこんなことしなくちゃいけないのさ!」
新井木はふてくされながら、使いなれない自動小銃を縛り上げられている人々に向けてびびらせていた。
「くじびきで負けたのだから仕方ありません」
それまでおとなしくしていた岩田が突然踊りだす。
「僕だって悔しいィィィィィィッ! クネクネ」
「しかもこんな宇宙外生命体と一緒だし! あーんっ 来須先輩、どこに行っちゃったんですかぁー!?」「くそっ」
男が、厚志のこめかみに当てていた銃のトリガーを引いた。だが、銃口の先にはすでに厚志の頭はない。
一度体を沈めた厚志は今までのお返しとばかりに、男のみぞおちに頭突きをくらわせる。
「ぐっ!?」
ひるんだ男の腕を舞が取る。一瞬で体をさばき、男の体を宙に放り投げた。投げっぱなしの一本背負いだ。
背中を強く打ちつけて、男が気を失う。
それで最後だった。「ずいぶんと手ひどくやられましたね」
よろける厚志を善行がささえる。目隠しをはずし、その腫れ上がった顔を見て苦笑した。
「こんなの、かすり傷です」
「やれやれ、どうしてこうも芝村の冗談は面白くないんでしょうね」
「すぐに手当てします」
そう言って石津が救急セットを取りに指揮車へ走っていった。「おいっ 大丈夫……」
「うわーんっ あっちゃーんっ」
厚志に走りよろうとした田代は、自分よりも速くののみが彼に抱きついたのでなんだか恥ずかしくなって、そのまま走り抜けた。
腹いせにそこら辺にころがっていた男を蹴飛ばす。
「あっちゃん、大丈夫?」
「うん、大丈夫だよ。心配かけたね」
泣きじゃくるののみの頭を撫でてやる。
「ののみさん、まだ危ないですよ。彼も怪我をしているし。田辺さん、ののみさんを指揮車の方へ連れて行ってあげてください」
「はい。さ、行きましょう?」
「……うん」
ののみと田辺が去るのを見送ってから、善行がおもむろに口を開く。
「遠坂君から連絡がありました。警察もこちらに向かっているそうです」
「そうですか」
「しかし、これだけやられておいて、口から出たのが『殺さないでくれ』ですか」
「彼等は人間ですから」
厚志は、少しだけ笑った。
傷に響いたのか、すぐに苦しそうな顔になる。
「幻獣は、……多くの幻獣たちは戦って死ぬことしか出来ませんでした。だから、僕たちも殺すしかなかった。でも彼等は、人間はやりなおすことができます」
そう言ってから、厚志はひどく芝村的な表情になった。
「もしも舞に傷ひとつでもつけていたら、殺戮していましたが」
善行は眼鏡に指をかけて苦笑しただけで、それに関しては何も応えなかった。
「おや、ヒーローの登場ですね」
事後処理を終えた舞が厚志に歩み寄る。
その数歩前まで来て「ばかめ」とだけ言った。それだけだった。
むっつり顔のまま、くるりと後ろを振り返る。舞としては、むっつり顔以外の表情を衆人の前で見せるわけにはいかなかった。
「後で話がある」
「うん」
厚志が優しく微笑んだのが、なぜか舞には分かった。
「助けてくれて、ありがとう」
「……たわけ」
鼻をすする音が聞こえた。舞のプライドのために、彼女の戦友たちは彼女の顔を見ずに撤収作業をすすめていった。
傷つけ、傷つき、裏切り、裏切られ、それでも人は生きていく。
昨日よりも今日を、今日よりも明日を。
過去でも現在でもない場所へ――人類は歩みはじめたばかりだった。