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二人なら


 空から舞い降りた白い結晶が、この街から音と色を消していく。
 日付がかわったばかりの大通りは他に誰の姿もない。
 気まぐれに吹きすさぶ風が、体温を奪い去っていく。

(一人だったら、どんなにつらかっただろう)

 街灯の明かりが、二人をそっと照らしている。
 まるで、この世界の二人だけの登場人物にスポットライトをあてるように。
 そんなことはないとわかっていても、
 不安になる。

 いつのまにか名雪の手を強く握っていた。
 その体温を、あたたかさを確かめるように。

 あの日から、秋子さんが事故にあってから、どれくらいの時間が過ぎたのだろう? 7年前に別れ、再会し、想いを伝えて、そしてまた心が離れてしまってから、どれくらいの時間が過ぎたのだろう?

 名雪がそっと、俺の手を握り返してきた。
 あたたかい、本当にあたたかいぬくもり。

 俺も名雪も、ずっと黙ったまま歩いていく。
 でも、言葉にしなくたって思っている事は一緒だと、今は信じることができた。

 二人なら大丈夫。
 一人だったら押しつぶされてしまったかもしれない。
 でも、二人ならきっと待っていられる。

 二人なら……

*  *  *

 その音に気が付いたのはどちらが先だっただろう?
 たどり着いた家の中から微かに聞こえた、電話のベル。
 靴を脱ぐのももどかしく走り出す名雪。受話器を取ろうと伸ばした手が、その直前で動きを止めた。
 信じていても、最悪の想像が頭を離れないのだ。
「……うー」
 震える名雪の手に自分の手を重ね、俺は開いている方の手で受話器を取った。
「はい、水瀬です。…はい、はい。……意識が戻ったんですね!?」
 名雪の目からこぼれ落ちた涙が、俺の手を濡らした。力が抜けたようにその場に座り込んでしまう。
「よかったよ。……本当に、よかったよ……」
 涙をぬぐおうともせず、泣き笑いの表情でそれだけを繰り返す名雪。
 だから俺は、その後に続いた『これで最後かもしれない』という知らせを、自分の中にぐっと押しこめた。
「はい。もちろんすぐ行きます。……え?」
 だが、もう一つの知らせはどうしても胸の中にしまっておくことができなかった。

「ジャム?」

 名雪の顔が凍りつく。俺は自分の耳と相手の正気を疑っていた。
「ちょっ ジャム持って来いってどういうことですか!? あんたそれが何を意味するか知ってんのか!」

――患者さんのたっての願いですから。
――じゃ、そゆことで。

 ガチャ、ツー、ツー、ツー

 受話器を置く俺を、名雪がぎぎぎ、と音がするような感じで見上げる。
「ゆ、祐一。ジャムって」
「深く考えるな! 別に『あれ』を持って来いって言われたわけじゃないんだ。秋子さんが、ちょっと自分のジャムを持ってきてくれって、それだけの話だろ。……多分」
「そ、そうだよね。急いで持っていかないと。お母さん、待ってるから」
 のろのろと立ちあがり、ジャムのしまってある戸棚を開ける名雪。
 
 しばらくの間があった。

 泣きそうな顔をして、名雪が振りかえる。
「祐一。ジャムが、ジャムが」
 そこにあったはずのジャムがなくなっていた。
 ただ一つをのぞいて。
 一度しか見たことがなかったが、どうしても忘れることができないそのオレンジ色のジャムだけが、主成分:謎の、秋子さんお気に入りのそのジャムだけがそこにあった。
 その色を見ただけで思わずあの味を思い出してしまい、口をおさえる。
 名雪、脂汗まみれ。
 ガマガエルみたいだ。ぼーっとする頭でそんなことを考えた。
 そして、ある一つの想像が頭に浮かぶ。
 それは、絶対にありえないはずの答。

 もしかしてわざと?

*  *  *

「こちらです。どうぞ」
 看護婦さんに案内されて、俺たちは扉の前に立っている。
 手には謎ジャム。
 一瞬、聞かなかった事にして二人で逃げるという考えが頭に浮かんだが、さすがに口にできなかった。なんとなく名雪も同じ事を考えていたような気もしたが、名雪も何も言わなかった。
 
 扉が開かれた。
 名雪が息を飲む音が、はっきりと聞こえた。

 まるでミイラのように包帯でぐるぐる巻きになっている。
 点滴が、ゆっくりと滴り落ちていく。
 やつれたような気がするのは、きっと気のせいじゃない。

「名雪。それに祐一さんも」

 それでも秋子さんは、いつもと変わらない笑顔で俺たちを見つめていた。
「おかあ、さん……」
 名雪の顔が歪む。絶対安静のはずの秋子さんに抱きつくのを必死でこらえている。頬に一筋の雫が流れた。
 俺の視界も、涙で霞んでいた。
「心配、かけてしまったわね」
「そんなこと、そんなこと、ないよ。絶対大丈夫だって、信じてるから。祐一と二人で待ってるって、約束したから」
「……そう」
 それは、俺が初めて見る秋子さんの涙。
「ありがとう、名雪」
「お母さん。お…、かぁ、さん……」
 涙を止めることができなかった。
 止める必要も無かった。
 付き添いの看護婦さんも、そっと目頭をおさえている。

「それで、ジャムは持ってきましたか?」
 秋子さんぶち壊し。
 俺の持っているジャムを見て、秋子さんがにっこり微笑む。
 ちょっぴり怖かった。
「名雪、私がいない間、ちゃんとご飯食べてた?」
 少しためらった後、名雪は首を左右に振った。
「あんまり食べてなかったよ。でも、これからはちゃんと食べるから」
「そう。約束よ、こういう時のためにあれがあるんだから」
 秋子さんの言う『あれ』が何のことであるのか、どうして俺たちはわかってしまったんだろう?
「ちゃんと食べてね?」
「う、うん。食べるから」
「じゃあ」
 って、そこでなぜ焼きたてのトーストを持ってくる看護婦!? ここで食べろってか!
 お前らグルか! そうなのか!?

 秋子さん笑顔のまま。
 看護婦真面目な表情のまま。
 俺ひきつったまま。

「……食べるよ」

 名雪が言った。
「な、名雪。お前」
 俺を見て笑う名雪の顔は、今まで見た中で一番美しかった。
「わたし、食べるよ。お母さんのこと、大好きだから」
 トーストを受け取り、ジャムを塗っていく。
 そんな名雪を見た俺の心に芽生えた、一つの決意。
「俺も食べるよ」
「祐一……。でも、祐一は」
「言ったろ。二人で待つって」

 そう。

 二人なら大丈夫。
 一人だったら押しつぶされてしまったかもしれない。
 でも、二人ならきっと待っていられる。

 二人なら……

 ぱく。

……………………。

……………………。

……………………。

……………………。

*  *  *

 俺と名雪がそれぞれ10kgほどのダイエットに成功したころ、秋子さんは無事に退院した。



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