俺の町には、夏になると天使がやって来るっていう伝説がある。
日本のど真ん中で天使も何もあったもんじゃないが、とにかくそんな伝説がある。
そいつは天使なのに黒ずくめで、まるで死神のような奴なのだそうだ。だったらそいつは死神じゃないのかと思ったが、とにかく天使なのだそうだ。
だから俺は目の前にいるこいつに言ってやった。
「真夏にそんな格好してると、天使に間違われるぞ」
そしたらそいつは、しれっとした顔でこう言い返した。
「はぁ。 でもまぁ私、天使ですし」
安西恵子と名乗ったそいつは、俺の横に腰掛けた。「涼しいですね、ここ」
「……そうだな」
俺達が座っているのは、神社の境内に一つだけぽつんと置いてあるベンチだった。
無節操にでかくなった大木が、強い日差しに対抗するように濃い影を落としている。その影に丁度入り込んだこのベンチは、周囲の暑さと切り離された別世界のようだった。
ここは、俺がガキの頃に遊び場にしていたところだった。1000段以上ある階段のために、祭りのとき以外は誰も来ない。神主すら俺は見たことが無かった。
久しぶりに来てみたら、この天使を自称するヘンな女に出会ったという訳だ。
「蝉、一生懸命ですね」
「……うるさいな」
四方八方からの蝉の鳴き声。風情も何もあったもんじゃない。いろいろな種類の蝉の声が交じり合って、すでに雑音にしか聞こえない。
その音しか聞こえないのだ。ここにはその他の音は何もたどり着けない。
太陽、影、蝉の声、そして視界を埋め尽くす緑、緑、緑。
それしかない世界。まるで、『夏』という風景を覗き見しているような、奇妙な感覚。
蝉の声で頭がぼーっとしてきた。
「これから、ご予定はありますか?」
左腕にはめられた腕時計を眺めながら、安西がたずねてきた。ご丁寧にその腕時計も真っ黒だ。
「ないけど。それがあんたに関係あるのか?」
「あんまりありません」
みもふたも無い奴だ。
「でも、私ももうしばらく空きがあるんですよ。よかったらご一緒しませんか?」
断る理由はなかったが、かと言って受ける理由も無い。ここら辺をぶらぶらするのに、連れがいてもいなくてもどっちでも良かった。
「あんたにはなんか予定とか無いのか?」
「うーん、時間がくるまでないんですよねぇ。ちょっと早く来すぎたみたいで」
あごに指をあてて、困ったような顔をする安西。
ベンチを立った俺をみて、あわてて自分も立ちあがる。
「ついて来てもかまわないが、たぶん面白くないぞ」
「いいですよ。一人でいるの、苦手なんです」
影を出た途端、一気に気温が上昇した。ギラギラという形容詞がぴったりな太陽光線。まさしくここは『夏』だった。安西がこれまた真っ黒な日傘をさす。
「入りますか?」
「いや、いい」
階段を降りる前に、ひとつ思い出したことがあった。
この神社の神木の根元に突き刺してある板切れ。まだあるとは思わなかった。
「どなたのお墓ですか?」
「よく墓だってわかったな。……ただの猫さ。名前は忘れた」
あれはいつのことだっただろう。捨て猫をひろってきて、ここで飼っていたことがあった。給食の残りをやって世話をしていたが、ある日行ってみると冷たくなっていた。
泣きながらここに埋めたのだ。ひょっとしたら、名前なんかつけなかったのかもしれない。
少しの間だけ手をあわせて、階段へ向かった。曲がりくねっていて、下が見えない。まるでずっと続いているような錯覚を受ける。木の影になっているところを選んで降りていく。
二人とも無言だった。特に話すことも無い。
ふと、実は自分が一人きりで歩いているような気がして、安西の方を見た。
「なにか?」
「なんでもない」
少しの恥ずかしさと、奇妙な安心感。
それを振り払うように、周囲の森に目を向ける。あまりいい思い出はない。友達と一緒にカブトムシを取りに行って、一晩中さ迷い歩いたこともあった。
あの時はむちゃくちゃ叱られたっけな。
そんなことを考えていると、無限に続くかと思われた階段の最後の一段にたどりついた。
振りかえればそこには緑の森が広がるばかりで、もう神社は見えない。
今度また、この階段を上る時があるのだろうか?
あらためて周囲を見渡すと、ここは何もないところだった。
とりあえず近くにある海を目指すことにした。ここから徒歩で30分ほどのところにある。
「入りますか?」
もう一度、安西が聞いてきた。
もう一度、俺は断る。
なんとなく、夏の暑さを感じていたかった。一つ息をつくと歩き始める。
陽炎の揺らめく道路。昔と比べて舗装はされたが、景色はあまり変わっていない。いかにも田舎といったたたずまい。時間がゆっくり進んでいるような感じだ。
「ここも、にぎやかになる季節ですね」
「ああ」
俺たちの横を車が1台、2台と追い越していく。
たぶん、浜辺は人でいっぱいだろう。そこだけは昔と大きく変わってしまった。
思い立って舗装された道をはずれ、田んぼの間のあぜ道を歩き出す。
「どこに行くんですか?」
「こっちの方が近道だから」
それだけ言うと、先を急ぐ。安西は文句も言わずについてきた。
やがて林に入り、その林を出ると、そこはもう海だ。喧騒が、遠くから聞こえる。
そこは、浜辺から少し離れたところにある場所だった。
俺の、秘密基地だった場所だ。このあたりは岩が多くて、人があまり来ない。
よく魚をとってみんなで食べたっけ。
潮をのせた風が涼しい。いつのまにか蝉の声は遠く離れ、代わりに波の音が耳をなでる。
「きれいな所ですね」
日傘をおろした安西が、風で乱れる髪をおさえながら言った。
うなずいた俺は、不意に昔のことを思い出していた。
走り出す。
安西は無言で俺を見送った。
岩場に隠れるようにして、その洞窟はあった。いや、洞窟と呼ぶには少し小さいかもしれない。
潮が満ちると海の中に完全に水没してしまうような、こどもが一人やっと入れるような穴。
その中に、古ぼけた、安っぽいプラスチック製の宝箱がおいてあった。
震える手でそれを取り出す。
今まで忘れていた、大事な思い出。
蓋を開けると、中にはノートの切れ端が一枚。
『うちゅうひこうしになりたいです』
へたくそな字でそう書かれていた。
「結局、宇宙飛行士にはなれなかったよ。ごめん」
紙切れを眺めながら、俺は過去の自分に謝っていた。
なぜだか、目から涙がこぼれおちる。
「結局、俺はなにもできなかったよ……」
「また、やり直しましょうよ」
いつのまにか俺の横に立っていた安西が手をさしのべる。その手をとって立ちあがった俺は、開いているほうの手で涙を拭いた。
「できるかな? 俺に」
「そのために、私はここに来たんです。そろそろ時間ですね、行きましょう」
いつのまにか俺は、安西の手を強く握っていた。彼女の白い手がいっそう白くなっている。
正直、怖かった。
「俺は、天国に行けるのか? 虫とかだったらたくさん殺したし、人から恨まれるようなこともしたかもしれない。俺は、自分が天国なんかに行ける人間じゃないと思う」
「天国へ行けるかどうかを決めるのに、そういうことはあまり関係ありません」
そう言って笑った安西の顔は、……そう、天使のようだった。
「どれだけ愛することができたか、それだけです。あなたは色々なものを愛してきた。それはとてもすばらしいことです。だから天国へ行って、そしてやり直しましょう」
俺の体を、白い羽が包んでいた。
安西に、そっと抱きしめられる。
「あの子猫」
「え?」
「決して幸せではなかったけれど、最後にあなたに愛されて、そしてあなたを愛することが出来た。私、ずっと見ていたんですよ。助けてあげることはできなかったけれど」
ふわりと、体が浮き上がった。
「なぁ、最後に宇宙に行けないか?」
「それはできますけど、自分の力で行きましょうよ。今度こそ」
「……そうだな」
俺の町には、夏になると天使がやって来るっていう伝説がある。
日本のど真ん中で天使も何もあったもんじゃないが、とにかくそんな伝説がある。
そいつは天使なのに黒ずくめで、まるで死神のような奴なのだが、間違いなく天使なのだった。