高嶋和人(たかしまかずと)が村西さんと出会ったのは、和人が小学校5年生の時の、じめじめした雨の降る6月のある日のことだった。
和人はいじめられっこで、その日も春日部くんというクラスのいじめっこに傘を隠され、ずぶぬれのまま泣いていた。
顔はもう雨と涙と鼻水でぐちゃぐちゃだった。ついでに長靴の中もぐちゃぐちゃだ。
右の頬が赤い。春日部くんに傘を返してくれるよう頼んだ時になぐられたあとだった。春日部くんは他の男の子達よりも体が大きくて、力が強かった。それで、和人のような気の弱い子をいじめて喜んでいるのだ。
「うっ、くっ」
泣きながら帰り道を一人歩く。和人にも友達はいたが、和人がいじめられている時に助けてくれるような殊勝な心がけを持った人はいなかった。和人だって、他の子がいじめられている時に助けるようなことはできない。そんなことができたら、そもそもいじめられていない。
不意に、雨がやんだ。
空を見上げようとしたらすぐ近くに女の人の顔があって、びっくりした和人は思わず後ろに一歩下がった。
また雨が降りだした。
要するに、女の人が傘を差し出してくれていたのだ。和人はあらためて彼女の顔を見る。
知っている人だった。和人の住んでいるマンションのお隣に住んでいる、中川譲留(なかがわゆずる)さんだ。眼鏡の奥の瞳が心配そうに和人を見ている。
「どうしたんだい? 和人くん」
「……なんでもない」
「何でもないことはないだろう?」
雨は朝から降っていたのだから、『途中で降ってきた』という言い訳は通用しない。でも、『いじめられた』とはなんとなく言えなかった。
「そんなにびしょぬれになって。夏風邪は馬鹿がひくんだから、和人くんがひくわけにはいかないだろ」
よくわからないことを言って、譲留さんはもう一度傘の中に和人を入れた。
「和人くんのお父さんとお母さんはまだ仕事かい?」
黙ってうなずく和人の肩をがしっと抱く譲留さん。大きめの胸が顔にあたって、小学生ながらに心臓がどきどきした。
「だったら私の部屋にくるといい。早く乾かさないと、本当に風邪をひいてしまうよ?」
「いいよ、そんなの」
「かたいこと言いっこなしだ。私と和人くんの仲じゃないか」
仲といっても、今日まで挨拶以外にあまり話をしたこともなかったのだが。譲留さんは困惑する和人をぐいぐい引っ張って行く。仲の良い姉弟に見えないこともない。
一人っ子の和人はちょっとだけ嬉しかったから、そのまま譲留さんについていった。「一緒に入ろうか?」と言った譲留さんを慌てて追い出して、和人はゆっくりと風呂の中で手足を伸ばした。
落ち着いてくると、いじめられたことを思い出して、少しだけ涙がこぼれた。
悔しいとか、そんな気持ちにはならなかった。なんというか、悲しいのだ。自分が何をしたわけでもないのになんでイヤな目にあうのか、まるでわからなかった。春日部くんが何であんなことをするのかもよくわからない。
楽しいのだろうか? と思う。でも自分の目の前で人が泣いているのを想像して、とてもイヤな気持ちになった。やっぱり楽しいとは思えない。
「和人くん、あんまり長く入っているとのぼせるよ」
「い、今出るから!」
放っておいたらそのまま入ってきそうな勢いだったので、和人はあわてて返事をした。
風呂から出てみると、自分の着ていた服は全部洗濯機の中だった。代わりに譲留さんのワイシャツとジーパンを貸してもらった。ぱんつは貸してもらえなかったので、なんだかすーすーする。
「ついでに晩御飯も一緒に食べよう。いつも人間一人なんで寂しかったんだ」
もともとそのつもりだったらしく、テーブルの上には二人分の食器がならべられていた。
コンロにかけられている鍋からいいにおいがする。和人の好きなカレーライスだ。
「あんまり辛くないようにしたけど、辛い方がよかったかな?」
「辛くないほうがいい」
「それは良かった」
譲留さんは笑って、テーブルの真ん中に置いてあったサラダボールから手際よく野菜を和人の皿に盛り付けていく。
なんだかピーマンが多いような気がした。和人はピーマンが嫌いだ。
「大丈夫だよ、赤ピーマンはそんなに苦くないから。騙されたと思って食べてみなよ」
和人の困った顔を見て、譲留さんがそう言った。
恐る恐る和人がそのピーマンを口に運ぶと、なるほど苦くない。それどころか、譲留さん手作りのドレッシングのおかげでおいしく感じた。ピーマンがおいしいなんて、和人ははじめて知った。
「ほんとだ」
「だろ? 私の職業は栄養士といってね、おいしくて体にいい食事を作るのがお仕事なんだ」
「コックさん?」
「うーん、似てるけどちょっと違うな。栄養士っていうのはね……」
譲留さんは和人に自分の職業について説明しだした。小学5年生には少し難しかったが、それでも和人は譲留さんの話を楽しく聞いた。譲留さんの話方もうまかったし、なにより自分の仕事が好きなことがよくわかったからだ。
話が終わる頃には、和人はすっかり将来栄養士になりたいと思っていた。
すっかりさめてしまったカレーライスを見て、譲留さんが苦笑する。
「ずいぶん長いこと話してしまったね。でもそろそろ時間だし、ちょうどいいかな?」
時計をちらりと見ると、譲留さんはベランダの窓を開けた。
そのとたん、まるで待っていたかのように部屋の中に何かが飛び込んできた。びっくりした和人の目の前でそれは、ぶるっと身震いして体についた雨水を払うと、「なーご」
と一声鳴いた。猫である。
こげ茶色に黒や茶色をてきとうにばらまいたような、なんだか汚い模様の猫だ。三毛猫にモザイクをかけたような感じ。でも餌がいいからだろうか、毛並みはつやつやだ。
愛嬌のない顔をしている。
じっと、和人のほうをにらんでいる。頭を低くして、今にも襲いじゃからんばかりの勢いだ。
「警戒しなくてもいいよ。和人くんは私のお客さんだ」
抱き上げた譲留さんを見ると、その猫は目を細めて、もう一度「なーご」と鳴いた。
なんだか調子がいい猫だ。
「紹介するよ。こちら、村西さん」
「むらにしさん?」
へんな名前だ。
「でも、このマンションってペット禁止でしょ」
「村西さんはペットじゃないよ。食事時にふらっとやってくるんで、餌をあげているだけさ」
いたずらっぽく笑って、村西さんの頭をなでる譲留さん。村西さんはとても気持ちよさそうにのどを鳴らした。
しばらく村西さんをかわいがったあと、譲留さんは村西さんの食事の準備をはじめた。村西さんの餌もペットフードなどではなく、譲留さんの手作りだ。案外凝り性なのかもしれない。
『村西さん』と書かれた皿の前できちんと「おすわり」していた村西さんは、餌が盛り付けられると「なごー」と鳴いてそれを一心不乱に食べ始めた。とてもおいしいらしい。
「さぁ、私達も食べてしまおう」
そう言って、譲留さんは温めなおしたカレーライスを和人の前に置いた。
続く