太陽は西に傾き始め、近所の家からは夕餉を作るいい匂いが漂ってきている。
 子供たちは町内放送を聞いて家路につき、はや仕事を終えたお父さんたちも家族に会うため足早に家を目指していた。
 秋の夕暮れは他の季節より色が深い。真っ赤なモミジに真っ赤な夕陽がよく映える。真っ赤な秋とはよく言ったものだ。
 その日はいつも通り、なんの変哲もない、いたって普通の日だった。
 …………学校から帰宅するまでは、の話だが。





「ただいまー」
 ガラリ、と玄関の扉を開けながら帰宅の声をかける。
 今日も一成にたのまれた生徒会の備品修理の仕事をしていたせいで、少し遅くなってしまった。
 桜はもう夕食の支度をしてしまっただろうか。虎は暴れることなく空腹に耐えているだろうか。
 心配事はいくつもある。だから家に帰り着いたら、さっさと居間に顔を出すのがいつもの日課だった。
 しかし。

「士郎、士郎、士郎、士郎、士郎ーーーーー!!!!!」
 ドダダダダダダダダ。

 俺が顔を出すより早く、居間の方からけたたましい物音。確認するまでもない。こんな大声を出すのも、こんな狼藉をするのも、我が家では一人しかいないからだ。
 果たして予想通り数秒とて間を置かず、廊下の奥に我らが藤ねえが顔を出す。角を曲がってノーモーションでこちらに向かい突っ走ってきた。カーブだからといって一切減速しないあたり、物理法則を超越しているのだが、藤ねえに関しては今さら驚くことでもない。
「藤ねえ、近所迷惑だから大声あげて走り回るな。夕飯ならすぐ作るから」
 一度大きく息を吸い込んでみたが、家からなにかの食事の匂いはしなかった。桜がまだ来てないか、まだ作り始めて間もないか、それとも今日は来ないかのどれかだろう。
 桜は近所に住む同級生の妹である。何を気に入ったのかうちでよく料理を作ってくれているのだが、当然のことながら毎日来てくれるわけではない。料理番を取られるのはちょっと悔しくもあり申し訳なくもあるけど、3日に1日だけでも帰ったら夕飯ができているという状況は正直ありがたいのだ。虎も夕飯が早いと機嫌いいし。
 だから夕飯の支度の気配がしない今日は、彼女が来ていないのだろう。そう思ったのだが。
 藤ねえはぶんぶんと両手をだだっこのように振り回し、
「ごはんなんて後でもいいのよ!!! いやよくないけど、それより先に話をつけなきゃ!!!」
「なにぃぃぃ!!? 藤ねえが……藤ねえが夕飯より優先させる事があったのか!!?」
 思わず絶叫。だって三度の飯よりご飯が好き、飯をくれなきゃお前をとって喰う、腹が減っても食料なけりゃ自分で回ってバターになってホットケーキで腹満たす、な藤ねえが、だぞ!??
 驚きのあまり固まっている俺の腕を鷲掴みにし、藤ねえはそのままカバンも置かせず、俺を家の中に引っ張り込んだ。
「おい、ちょっと待て! 何をそんなに急いでるのか知らんが、もう少し落ち着けって」
「落ち着いてなんかいられないわよ!!! ええい、あんなわけわからんもの認めてなるもんですかーーー!!!」
 意味不明だ。というかアンタがわけわからん。
 こちらの言い分など聞く耳持たず、藤ねえは全力で俺を引きずってゆく。やがて居間に到着し、ドンと背中から突き飛ばされた。
 数歩たたらを踏み、立ち止まって、なんなんだと文句を呟きながら居間を見る。
 居間には意外な人物がいた。
 一人は、今日は来ていないと思っていた桜。若干おびえた顔をして、どこかソワソワしながら正座している。
 そして、もう一人。



 目のさめるような青い振り袖をきっちり着こなした、
 見知らぬ金髪美少女が座っていた。



「………………………………え?」
 思わず声がもれる。
 金髪少女はとっさのことで間抜けな顔をしているであろう俺のことを、真っ直ぐに見つめていた。
 年は俺より一つ二つ下くらいだろうか。月の光を集めたように輝く金色の髪をまとめ、それを着物と同色のリボンできっちり結わえている。強い意志を持った緑色の瞳は、見ているといつの間にか心臓の動悸が上がってゆく気がした。白い肌は白磁みたいに染みひとつなくきめ細やかで、彼女の着ている青い着物によく似合っている。
 ぴしりと直線に伸びた背筋と、真面目そうな無表情のせいで固い感じがするけど、掛け値なし文句なしの美少女だ。
 少女はさっきからまばたきひとつせず、さりとて食い入るようにではなく、ただ無心に俺を見ている。なんとなく目を合わせていづらくなって、もう一人の人物――桜に視線を移した。
「――――あー、桜。お客さんか?」
「は、はい…………。夕方にお邪魔したら、もう家の前にいらっしゃって。なんでも先輩を訪ねていらしたそうなんですけど…………」
「……………………俺を?」
 お知り合いじゃないんですか、と桜が目で問うてくる。しかし俺も初対面だ。こんな目立つ女の子、一度でも見たら忘れるもんか。
 再び金髪少女に視線を移すと、彼女は一度だけゆっくりとまばたきをして、
「――――貴方が、エミヤシロウ?」
「そ、そうだけど…………」
 少女は宝石のような瞳で、何の感情もなく俺を見据えた後。


「―――問おう。貴方が、私の婚約者か」


 凛とした声で、そう言った。





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「「「えええええええぇぇぇぇぇえええぇぇぇぇえええええぇぇぇぇぇぇえ〜〜〜〜〜〜〜!!!!!???」」」





 遠慮なしに近所迷惑な声が、俺たちの口から飛び出した。










 カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ。
 時計の秒針を刻む音だけが、いやに響き渡る。
 誰一人、何一つ口を開かない。チラチラと他の人間を横目で見て、だがたとえ目が合っても何も言い出せず、やがて目をそらす。
 そんな気まずい思いをしてるのは俺たち三人だけで、さっき爆弾発言をかましてくれた金髪少女は、じっと視線を固定したまま動こうとしない。
 ――――その視線の先にいるのは、まぎれもなく俺であり――――
 いや、ほんとかんべん。このままだと胃に穴が開く。
 カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ。
 時計は無情にも時を刻む。このままいつまでも時間だけが流れて、やがて夜が明けるのではないか。そう思い始めた時。

「こんばんはー」

 玄関の方でドアの開く音がした。
 反射的に、俺と桜の腰が半分浮かび上がる。この状況をなんとかしてくれるのではないかという期待と、余計場を混乱させられるのではないかという怖れの、相反する二つの感情から。
 そう、こんな時間にやって来るやつは、一人しかいない。
 俺たちがどうしようかと迷っているうちに、そいつはさっさと廊下を歩ききり、居間へ到着した。
「どうしたの? まだ夕飯の支度ができてないみたいだけど……………………って、あれ?」
「ね、姉さん……………………」
 桜が困惑しながら相手を呼ぶ。
 学校でもよく見るツインテールと、プライベートでよく見る赤い私服が鮮やかな少女。
 近所に住んでる同級生にして桜の姉、遠坂凛。
 ちょっとしたツテで知り合った少女で、俺と桜が知り合いになったのも元をただせば遠坂経由だ。今では妹と同じくちょくちょくうちに来て、たまには勉強を教えてくれることもある。
 特に桜がうちで料理を作る日は必ずやって来て、一緒に夕飯を食べてゆく。しかも準備が終わった頃に現れるという用意周到さだ。まあ彼女たちも家では二人暮らしだし、俺も藤ねえと二人だけの食卓は少し寂しい――いや、俺だけが藤ねえの騒々しさの犠牲になるのは少し寂しいので、二人が来てくれるのは歓迎なんだが。
 遠坂は居間で顔をつきあわせている俺たちを見、見慣れぬ和服の金髪少女を見た。
「…………? 貴女、誰?」
「私の名はアルトリア・ペンドラゴン。故あって、セイバーとお呼びいただきたい。
 シロウの妻となるため、イギリスから参りました」



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「えええええええぇぇぇぇぇえええ」
「すまん遠坂、それはもうやった」
 思わず止めると、遠坂は行き場のなくなった勢いのまま、俺をキッ!と睨み付けてきた。
 ――――止めなきゃ良かったか。
 彼女は机へ音をたてて手をつき声を荒げて、
「どういうことよ士郎!? あんたいつのまに外国行って、しかも女の子をひっかけてきたって!?」
「いや待て、俺はこんな子、会ったこともないぞ!」
「とぼけんじゃないわよ! 初対面で妻だのなんだの言い出す娘がいるわけないでしょ!!」
「いえ、シロウの言い分は正しい。私と彼は今日が初対面です」
 横から滑り込んできた声に、遠坂がフリーズする。
「――――――――――――へ?」
 金髪少女――セイバーとやらは、やはり俺を見たまま全く表情を変えずに話す。
「それでも私は、シロウの婚約者です。私と貴方の間には約束があります。
 ――――私の母と、貴方の父、衛宮切嗣によって結ばれた」
切嗣オヤジの!?」
 意外な名前に思わず声をあげる。まさか5年前に死んだ人間の名前を、今さら初対面の人間に出されるとは思わなかった。
 セイバーは脇に置いていた荷物の中から、一通の書状を取り出し、スッとこちらへ差し出す。
「ここに手紙があります。切嗣からシロウへと宛てられたものです」
 切嗣からの――――
 5年前、病に倒れた衛宮切嗣。養父ではあっても俺をとても可愛がってくれて、優しくて、でも少し頼りなくて、俺のヒーローだった父。今でも切嗣の目指した憧れものは、俺にとっても人生の理想だ。
 切嗣は死に際、死後のことを何も言い残さなかった。つまりこれは、切嗣から俺へ宛てられた遺言とも言える。
 知らず、喉が唾を飲み込む。緊張に震える手で、渡された手紙を開いた。

『やぁ! 士郎、元気にしてるかい?
 こんなサプライズをしかけてたなんて、思いもしなかっただろうな。
 君は今、感動にむせび泣いていることと思う。そうだろうそうだろう、やっぱり知らされてなかった僕の嫁っていうのは、男のロマンだからねえ。
 しかも金髪外人さんだ! こう、金髪さんっていうのは本能にググッと訴えてくるものがあるだろう!?
 ああもうホントに羨ましいっ! 今からでも僕が代わってほしいくらいだか』

 パタム。
 手紙を閉じた。

「――――シロウ」
 自らの人生について真剣に悩みはじめる俺に、セイバーが声をかける。
「実は私も、切嗣からの手紙を受け取っています。それによると、シロウ宛の手紙を読んでいる途中でシロウが読むのを拒否した場合、なんとかして先を読むよう説得してほしい、と。
 すみませんが、続きを読んでいただけませんか」
 至極真面目な顔でセイバーはうながす。頭でも下げかねない雰囲気だ。
 うう…………なんだかものすごく見たくない。全て遠き理想郷がますます遠ざかる気分になってきた。
 しかし切嗣も、俺が手紙を読むのを拒否することまで予想し、それでもなお読むようにと指示するからには、この手紙にまだ大事なことが書いてあるんだろう。
 カルイ調子の続く1枚目のびんせんはほぼ頭の中に入れないようにして、2枚目のびんせんをめくった。

『――――と、冗談はこのくらいにしておこうか。そろそろ彼女の訪問の驚きから解放されたころだろうしね。
 この手紙が士郎の手元に届くということは、たぶん今、なんらかの理由で僕は君のそばにいないんだろう。
 今回の事は本当に驚いたと思う。内緒にしていて済まなかったが、彼女がこの話を嫌がり、士郎に会おうともしないのなら、最初から伝える必要はないと思っていたからね。
 この手紙を持ってきたセイバーと君は、僕と彼女の母親の間で決めた婚約者、いわゆる許嫁というやつだ。
 正直僕は長生きできないような気がするし、そうなると士郎の将来が心配だからね。子煩悩な親の最後のおせっかいだと思ってくれ。
 とはいえもちろん、強制するわけじゃない。セイバーが士郎に会いに来たとき、君に恋人がいるのなら、あるいはどうしても彼女と結婚する気が起きなかったら、この話はなかったことにしてもいい。ただ、その場合でも彼女と友達にはなってやってほしい。人付き合いのあまりうまくない、不器用な子だからね。仲良くしてやってくれると嬉しい。
 追伸。たとえ僕が士郎のそばにいなくても――――――』

「――――――僕はいつも士郎の幸せを願っている。衛宮切嗣」
「切嗣さん…………」
 藤ねえが感慨深げに切嗣の名をもらした。俺も同じ気持ちだ。
 この事をまったく教えてくれなかったのは困るし、突拍子もない話だけど、これは切嗣が俺のことを本当に思ってしてくれた事なんだ。それがものすごく嬉しかった。
 セイバーは荷物の中からもう1通、別の書状を出してくる。
「こちらが私宛の、切嗣の手紙です。これにはシロウが17歳になったら、いつでも良いので1年間私が日本に滞在し、シロウと互いのことをよく知り合うようにと指示されています。その結果、両者が結婚を望んだ場合、シロウの父親として二人の婚姻を許可するとも書かれていました。
 私は彼の指示通り、日本にやってきたのです」
 17歳。……17歳?
 藤ねえと二人、思わず顔を見合わせた。
「あっ…………そういえば昨日は!」
「そっか。俺の誕生日だ」
「「えええええええ!!?」」
 言われるまできれいさっぱり忘れてた昨日の日付に、なぜか驚きの悲鳴をあげる遠坂姉妹。
「衛宮くん! なんでそんな大事なこと、すっぱり忘れてるのよ!? 藤村先生もっ!」
「そうです! 誕生日なんて大事なイベントに乗り遅れるなんてっ……!」
「そ、そんな事言われても…………」
 いつもは藤ねえがケーキやプレゼントを持ってきてくれるまで思い出さないのだ。その藤ねえもたまに、何日か遅れてしまうことがある。この時期は教師にとって結構忙しい時期なのだとか。
 そういう意味では、今年はとんだバースデイプレゼントを貰ってしまったとも言える。
 セイバーはスッと体をテーブルからずらし、畳に三つ指ついて、綺麗なお辞儀をした。
「シロウ。今日からお世話になります。ふつつか者ですが、末永くよろしくお願いいたします」
「「「「…………………………………………」」」」
 ――――たしか切嗣の手紙では、ひとまず1年間の滞在、ということだったんだが。
 今の挨拶は、すでに嫁入りの挨拶に近い。
 きっとセイバーは、まだ日本語がよくわからないのだ。うん。そうに違いない。
 決して最初から嫁に来る気マンマンってわけじゃないんだから。
 それにしても、そうなると――――
「セイバーをどこに泊めるか……なあ、遠坂の家で、は…………」
 言いながら振り向くと。



「ふふふふふ……友達、友達ですか…………
 先輩のお父さんもわかってませんね。先方が始めからその気なのに、友達になんてなれるわけないじゃーないですか。
 もし先輩に恋人がいても、本気でセイバーさんと先輩が友達になれると思ってたんでしょうか。そんなの恋人だって許すわけないってのに、先輩を取ろうと虎視眈々な友達なんて。
 先輩のお父さんも女性には優しいんですね。そうなんですね。そのくせかなりのニブちんですね。子は親の背中を見て育つと言いますけど、そうですか先輩がこんなになってしまったのはきっとお父さんの…………」



「さ…………桜…………?」
 なんか桜が黒かった。
 そのくせ髪は白かった。
 控えめに言って、すんげえ怖い。
 そんな妹の肩を、遠坂がそっと叩く。こう、孫の手を使って、ぽんと。
「桜……あきらめなさい。士郎のお父様の遺言だもの。下手に追い返すのはうまくないわ。
 それに相手は朴念仁の士郎よ? たった1年で結婚までこぎつけられるよーな手ぬるい相手じゃないわ」
「そ―――そうですね、姉さん。きっとなんとかなります。
 …………ただ朴念仁の先輩なだけに、自覚のないまま口説き文句っぽいこと言って、セイバーさんをますますその気にさせたりする可能性も…………」
「うっ……それはある……」
 遠坂と桜はいつのまにか、顔をよせあってボソボソと話し合っていた。
 声が小さいためところどころ聞こえないが、あまり穏やかなことでないのは顔を見ればわかる。それと、根拠もなく俺がバカにされてる気がするのは、被害妄想だろうか。
「セイバーちゃん、うちに来る? ホテルとかまだとってないなら、うちに泊めてあげるわよ」
 切嗣オヤジの知り合いだと知って一気に警戒心がとけたのか。藤ねえがフレンドリーに”ちゃん”付けで宿泊先を決めている。
 遠坂の家に頼もうかと思っていたが、藤ねえの家でもいいか。……いや、あの家は若衆さんが多いからな……。お手伝いさんは女性ばかりだけど、若い女の子は怖がるかもしれない。
 だが藤ねえの家に関した詳しい話をする前にセイバーは首を横に振った。
「ご厚意は感謝します。しかしそれには及びません」
「あ、もうホテルどこかとってあるの? それとも別のアテがあるとか?」
「私はシロウの妻となるためここへ来たのです。寝起きするのもこの家でなくては意味がありません」


「「「「………………………………………………………………」」」」


 ……今更言うまでもないとは思うのだが。
 十年前、この家に俺が住み始めた頃は、切嗣と俺の二人家族だった。
 しかし五年前切嗣が亡くなり、現在はいわゆる2ひく1は1の状態である。
「ちょ、ちょっと待ってください! この家は先輩の一人暮らしなんですよ!?」
 ――――3。
「それがなにか問題でもあるのでしょうか?」
 ――――2。
「あるに決まってるでしょ、若い男女の二人暮らしなんて。…………って、貴女まさか、寝る部屋は…………?」
 ――――1。
「夫婦が閨を同じくするのは当然でしょう。私はシロウの部屋で寝ます」
 0。
「ばっっ! バカ言うな!! そんなこと――――」


「ダメぇぇぇぇぇぇ!!!! 士郎の保護者として、お姉ちゃんは絶対に認めませえええぇぇん!!!!!」
「…………できるもんか……って、おーい……」


 虎柄爆弾大爆発。俺の抗議はその爆音にかき消された。
「ちょっとセイバーちゃん!! わたしは教師として、士郎の保護者として、年頃の少年少女を二人っきりで置いとくわけにはいかないの!
 毎日この家に通うのはいいけど、ここで寝起きするのだけは認めないわよ!」
「いいえ、それでは私が困る。夫婦たるもの、同じ屋根の下で生活するのが当然です。最初から別居など言語道断ではありませんか」
 セイバー、難しい日本語知ってるんだな。
 じゃなくて。
 もちろん夫婦には色んな形があって、中には同居できない夫婦もあるんだけど、彼女の言ってるのはそういう事じゃないんだろう。
 セイバーも引く気配を見せないが、藤ねえも全く退かない。さらに身を乗り出して、今にも頭から丸かじりしてしまいそうだ。
「だからって、それで士郎が万一にでもあなたを襲ったりしたら――――!」
「私は構いません」
「「「「な!?」」」」
 本日三度目のシンクロがハモる。
 い…………いま、なんかとんでもないことをいわれたよーな…………?
「シロウは私の夫ですから。その行為は”襲う”ではなく”契る”という言葉を使う方が正しい」
 ほんと、難しい言葉知ってるな…………じゃなくて!!
「な、先輩はセイバーさんの夫なんかじゃありません!! あくまで先輩と1年一緒にいるのが最初の条件で、結婚するかどうかはその後に…………!」
「しかし私は、すでにシロウを夫と見定めています。ならば違いはないのでは?」
「あるに決まってるだろ!! しかも”契る”って意味わかってるのか!?」
「一晩を同じ床で共に過ごす、という以外の意味が他にあるのでしょうか」
「士郎のバカーーーー!! ケダモノーーーー!!!」
「ぐはっ、俺はまだ何もしてなっ……! 藤ねえ、首! 落ちる、落ち…………!」










 いつもの倍くらい暴れる藤ねえと、普段暴れない桜がさんざん暴れ、抑止力になるかどうかは状況まかせの遠坂が今回はそれに当たらず、結果トリプルコンボで俺の意識が闇に落ちた、その後。
 桜はなにかブツブツとうわごとのように口の中で呟きながら、遠坂に連れられて帰っていった。それでも夕飯を作って帰ってくれたあたり、さすが衛宮家第二のコック、俺の料理の一番弟子というところか。
 それにしても、遠坂のあんな顔は初めて見たな。あの、産業廃棄物というか触れると飲み込まれる泥みたいな、近づいてはいけない物にあえて近づく南極探検隊のような。
 喧々囂々けんけんごうごうの話し合いの末、セイバーはうちに滞在。ただし藤ねえと一緒に離れの部屋、という事に決まったらしい。
 セイバーは相当ごねていたそうだが、藤ねえの勢いに渋々首を縦に振ったとか。やはり切嗣オヤジが亡くなってから実質保護者をしていた5年間が利いたようだ。というか、もしセイバーがその条件で頷かなかったら、藤ねえはきっと首に縄をくくってでも自分の家に引きずって帰っただろう。それはもう、まるでドナドナのごとく。
 女の子が離れとはいえ同じ屋根の下に泊まるというだけでも、ある意味とても健全な男子である俺にはドキドキすることだが、藤ねえが一緒となれば少しは安心できるようなそうでもないような。……いや、別に藤ねえを女性だと思ってないわけじゃないぞ。ただ異性や恋愛対象として見てないからそうなるだけで。
 そんなわけで、まずは。
「ここが風呂。悪いんだけど、和式で入ってもらうことになる」
 長旅で疲れただろうからひとまず休んでもらおうと、セイバーを風呂へ案内した。
 実際には見たことも入ったこともないけど、洋風の風呂は日本とずいぶん入り方が違うと聞いている。洋風では腰程度の高さまで湯を入れて、中に直接ボディソープを入れるんだとか。湯であったまるという習慣はなく、身体を洗うことが主な目的なので、毎回湯を入れ替える。そんな知識は俺にもある。
 しかし、日本の風呂でそんなことをやられては、水道代と光熱費が大変なことになってしまうわけで。
「ええっと、まず入り終わってもお湯を抜いちゃダメだぞ。それとせっけんを湯船に入れるのもダメだ。あとは――――」
「風呂に入る前はかけ湯をする。お湯の量は肩までつかることを前提として入れてある。シャワーは湯船の外で浴びる。ですね」
「へ?」
 こっちが言うべきことをスラスラと述べてみせるセイバーに、思わず呆気にとられた。
「違いましたか?」
「いや、違わない。でもセイバー、詳しいな」
「それほどでも。あとはせいぜい、一番風呂は家長が入る、ということを知っている程度でしょうか」
 そこまで知っていれば十分だ、というか。
「そういう考えもあるけど、今はあんまり守られてない。みんな時間の都合ってもんがあるしな。だからセイバー、よければ入っちゃってくれ」
「なるほど。では遠慮なく」
 客用のタオルとバスタオルを渡されると、セイバーは素直に風呂場へ足を踏み入れた。
 ――――と、数歩も行かぬうち。
「シロウ」
「? なんだ?」
「先程から聞いておかねばならないと思っていたのですが……貴方が切嗣から婚約の話を聞いていなかった、というのは本当でしょうか」
「あ、ああ。切嗣の手紙にもあったろ。セイバーが来なかったらずっと知らないままだったって」
「……………………」
 彼女はこちらを振り向かぬままわずかの間黙り込む。キン、と一瞬空気が凝固した錯覚を覚えた。

「……切嗣は、最終的には私たちの自由にして良いと言った。
 しかしそれでも、私は貴方の婚約者――いえ、妻です。貴方以外の男性を夫とあおぐつもりはない。それだけは覚えておいてください」

 きっぱりと。はっきりと。一切の迷いも躊躇いもなく。
 彼女は一方的に宣言して、風呂場へ続く扉を閉めた。
「――――――――」
 あとには、ただ。
 何も言い返す隙すらなく、取り残された俺が呆然と立っているだけだった。










「んー……」
 ぺたぺたと裸足と床が接した粘着質の音が響く。
 風呂上がりなので足は冷たくない。とはいえたぶん、真冬であったとしても寒さなんて感じてる余裕はなかっただろう。
 頭の中はとつぜん飛び込んできた少女、セイバーのことでいっぱいだった。
 セイバーと藤ねえの風呂が終わり、彼女たちが部屋へ引き上げ、やっと一人になってから。
 ずっと今日、降って湧いたこの問題が頭をぐるぐる駆け巡っている。
 セイバーというイギリスからやってきた少女。切嗣が死ぬ前に彼女の母親と交わした約束。上流階級か物語の世界でしか聞いたことのなかった、許嫁の存在。
「ふーーーー…………。やっぱり教えといて欲しかったよな」
 空の上だか俺の胸の中だかにいる切嗣に向けて一人ごちる。本人を目の前にするより先に、まず心の準備をしておきたかった。もう今さら言っても遅いのだが。
 部屋の障子に手をかけ――――
「…………ん?」
 おかしい。部屋の明かりがついている。
 つけっぱなしにしといた覚えはないんだが…………
 とりあえず、障子をあけた。
 するとそこには。

「お帰りなさい、シロウ」
「ぶっ――――!!??」

 せ、せせせせせせ………………
「セイバー!?」
「はい」
 驚く俺に対して、彼女は平然と部屋の中で正座していた。
 相変わらず無表情なその顔からは、何を考えているのか読み取れない。
「どうしてここに!?」
「先ほども言った通り、貴方は私の夫ですから。妻として、この部屋で寝るのは当然かと」
「だ、だってさっきは、藤ねえと一緒に寝ることで了解したって……!」
「大河はこう言っていました。『わたしの見張っているうちは同室なんて認めない』と。
 そして彼女は布団へ入るなり、疲れていたのかあっという間に眠ってしまったのです。つまり今、大河の見張りはありません」
 だからこっちへ来た、ってわけなのか!?
 そりゃヘリクツだし、何より…………
「セイバー。こっちに来られても俺が困る。今日会ったばかりの女の子と同じ部屋で寝るなんて、そんなのできるワケがない」
「なぜです? 私はシロウの――――」
「夫だとか妻だとかいう前に、女の子の隣に寝る覚悟なんてできてないんだよっ!」
 叫んで彼女の言葉の先を止めた。だってそうだろう、笑いたければ笑え。こっちは生まれてこの方、キスはおろかロクにデートもした事ないんだ。一足飛びに女の子と同室なんてできるはずがない。理性の前に心臓が持たなくなっちまう。
 セイバーはじっと俺を睨んでいる。なんとなく、その無表情な目の中に、俺への非難が混じっているように見えた。
 しかしこちらも退くわけにはいかない。しばらく無言で睨み合う。
 ――――先に目をそらしたのは俺の方だった。
 踵を返し、部屋に背中を向ける。
「――――シロウ?」
「そんなにこの部屋で寝たいなら、使ってもいい」
 俺は他の場所で寝るだけだ。
 死角に入って見えなくなるまで俺の背中を見つめ続けるセイバーの視線を感じながら、戦略的撤退を試みる。
 我ながら情けなかったが、彼女を部屋から追い出す言い訳も、観念して同じ部屋で寝るという選択肢も、全く浮かんでこなかった。










「――――ックション! う〜〜…………」
 自分のクシャミで目を覚ます。意識が浮上すると同時に、頬にはいつもの柔らかい布団のぬくもりではなく、固い床の感触があった。
 ……ああ、そうか。ゆうべはあの後、土蔵で寝たんだっけ。
 とはいえ別に、寝たくて土蔵を選んだわけじゃない。土蔵というホームグラウンドにひとまず戦略的撤退をしてから、じっくり今日の寝床とセイバーのこれからを考えようと思っていたのだ。
 しかし予想外に疲れていたのか、それとも思ったよりはるかに長く考え込んでしまったせいか。突然意識が反転して、ヤバい、と思った次の瞬間には、もう眠りの淵に引きずり込まれていた。
「まあとりあえず、一晩の宿はどうにかなったからいいか」
 自宅で一晩の宿の心配をするのもどうかと思うが。
 それに問題は先送りにされただけで、結局なにひとつ解決したわけではない。
 そもそも、最大の懸案事項はセイバーという少女の事だ。切嗣の話では親同士の決めた婚約者ということで、逆に言えば繋がりはそれしかない。ましてその繋がりも親の意向より本人たちの意思にまかされるらしく、なおかつ俺と彼女は昨日が初対面である。
 にもかかわらず、なんだって彼女はああ乗り気なんだろう。ある種の迫力さえ感じさせるほどだった。

『だからって、それで士郎が万一にでもあなたを襲ったりしたら――――!』
『私は構いません』

「……………………〜〜〜〜っっ」
 昨日の会話を思い出して、つい顔が赤くなる。
 簡単に言っていたが、俺が襲うということは、つまりその、そういうことなわけで…………。
 つまり、生半可な覚悟でできることじゃないはずだ。世の中にはお金と引き替えに、あるいは友達ならこだわらず、そういう行為をする女の子もいるとは聞いている。だが彼女の真面目さから、そんな薄い貞操観念は微塵も感じ取れなかった。
 それでもなお知り合ったばかりの男に身を任せてもいいなんて、明らかに普通の発言ではない。
 ……なにか事情があるんだろうか。
 もしかすると、彼女は家出をしてきてしまっている、とか。十分ありそうな話だ。
 女の子が単身見知らぬ異国に乗り込んで、見知らぬ婚約者、それもこういう時によく聞く政略結婚にもなりそうにない俺と、結婚しようなんて話よりは理解しやすい。発作的か計画的かはわからねど、この婚約話を利用して居心地の悪い家を出てきたのかもしれない。
 もしそうだとしたら、昨日のは意気込みを見せるための単なるパフォーマンスってことになる。
「その方が気楽でいいけど。うまくいけば1年経たずに国へ帰るだろうし」
 本当に家出であっても、この家に滞在できることがわかったら、もうちょっと態度を変えてくれるだろう。そうだとしたら、俺には切嗣の知り合いである彼女を追い出すつもりなんか毛頭ないんだから、早く安心させてやらねば。
 ――――正直なところ、心のどこかで、それは違うと訴える声は聞こえる。
 あいつの意気込み、気合の入れ方は、とてもそんなポーズには見えないと。
 だがしかし常識的に考えれば、ある日いきなり嫁候補が訪ねてくるなんてトンデモ展開よりはよほど信じやすいのもたしかだ。あと、俺の心情としてもそっちのが安心できる。希望と現実をごっちゃにしちゃいけないけど、期待するぐらいならいいと思うのだ。
 太陽の上りぐあいからして、今の時刻は朝の六時前後。そろそろ朝飯を作らなくちゃいけない。
 着替えを取るため、部屋の障子を開け――――

「なっ――――――!?」

 絶句した。
 部屋には数時間前と寸分違わぬ位置に正座した、金髪の少女の姿。
 彼女は初めはぼんやりとしていたが、俺の姿に気づいた瞬間、背筋を伸ばして表情を引き締め、ゆっくりお辞儀をした。
「おはようございます。シロウ」
「あ、ああ、おはよう…………じゃなくて! セイバー、なんでこんな朝っぱらから…………」
「昨夜の事を忘れたのですか? 貴方がここにいても良い、と言ったのですよ」
 確かに、この部屋を使ってもいいと言った。入室の許可もとらずに入ってしまったのは俺のミスだ。
 でも聞きたいのはそういう事じゃない。
 おまえのうっすら腫れぼったく、赤い充血した目。部屋に入った瞬間に見た、胡乱うろんとした眠そうな顔。その理由を聞かせろってんだ。
「セイバー。まさかおまえ、ここで一晩中」
「もちろん起きていました。夫が帰らぬのに妻が寝ていい道理はありません」
「ばっ、そんなわけないだろ!? だいいちゆうべ、俺がこの部屋に戻らないの、話の流れでわかんなかったのか!」
「しかしシロウははっきりと明言しなかった。戻ってくる可能性がある以上、やはり私が寝るわけにはいかないでしょう」
 一晩徹夜した疲れなど微塵も感じさせず。
 それがこの世の絶対の定理であるかのように、セイバーは告げた。





 ――――――まいった。
 どうやら彼女は、
 本気で、俺の嫁になるつもりらしい。




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