とん、とん、とん、とん。

「なあ…………セイバー」

 じゅわわわ〜〜〜〜。

「なんでしょうか」

 ことと、ことこと。

「朝飯なら俺が作るから。お前は寝てていいんだぞ」

 だん!

「いいえ。今朝は私が作ります。シロウこそもう少し寝ていてもかまいません」
 包丁を勢いよく振り下ろし、セイバーは勇ましく断言した。
 今の彼女はうちに来たときの青い振り袖を脱ぎ、持参の洋服に着替えている。シンプルなデザインの白いブラウスの胸元で髪につけたのと同じ色のリボンを結び、同じく青いリボンで後ろを止めたスカート。それらを包んでいるのが真っ白な割烹着というのが、なんともミスマッチのような、この上なく似合っているような。
 そう、彼女は自分が朝食を作ると頑として言い張り、今、衛宮邸の台所で奮戦中なのである。
 とはいえ俺が部屋に戻るのを待って一晩中起きていたセイバーは、言うまでもなく徹夜明けだ。そんな女の子に料理をさせて自分がのんびりしてるなんて、どう考えてもできやしない。
 セイバーはみそ汁に味噌をといて入れている。意外にも彼女の作った朝食は和食。しかもなかなか手際がいい。
「へえ。うまそうだな」
「そう言っていただけると有り難い。日本食は猛勉強しましたが、シロウの口に合うかまではわかりませんでしたから」
「ああ、俺も料理を作るからわかるよ。これならどこへ出しても恥ずかしくないし、俺も続きができる。
 ――――でさ。後は俺にまかせて、セイバーは寝る気はない?」
「ありません」
 にべもなく一刀両断。たったひとかけらの譲歩の可能性さえ見せない。
「昨夜は色々あって、全て桜にまかせてしまいましたが、今日からは私が料理を作ります。厨房で先陣をきるのは私の役目です。シロウは後方に下がり、大黒柱としてどっしり構えていてくれれば良い」
 うーん、それはさすがにできない。桜もこの家で料理を作るのを楽しみにしているし、俺だってまだまだ衛宮邸の厨房を誰かに任せっきりにする気などない。
 っていうか先陣ってなんだ。まるで戦場を駆ける騎士みたいなオコトバである。
 一見するとセイバーの様子におかしなところは見受けられないが、やはり時々眠たそうに目をしばたたかせている。しかし言って素直にやめる性格じゃないことは、知り合ってまだ半日しか経ってないけど、十分すぎるほどわかっていた。
 良く言えば意志が強く、悪く言えば強情で頑固者。いずれにせよ、彼女に言うことを聞かせるのはかなり苦労しそうだ。
 ――――と。

 どだだだだだだだだっっっ!!

 ものすごい轟音が衛宮邸内を駆け抜ける。
 音は離れから居間の外側を経由し、本邸の和室――俺の部屋の方へと駆けていったようだ。
「…………? なんだろう、あれ」
「さあ。しかし想像はつきます。
 この家で犬や猫などの動物を飼っていない限り、動き回る可能性のあるものはひとつです」
 セイバーがご飯の炊けぐあいを確認しながら言う。
 …………そうか。うちには犬も猫もいないけど、猛獣を1匹飼っているのだった。
 やがて同じぐらいの勢いで、おそらく俺の部屋から駆け戻ってきた虎は、居間の障子を勢いよく開けた。
「しーーーーろーーーーおおおおおぉぉぉぉぉ!!!!!」
「朝っぱらから人の名前を大声で叫ぶな、人聞きの悪い。いったいどうしたんだよ藤ねえ」
「どうした、じゃないわよぉぉぉぉ!! あなた、セイバーちゃんを、セイバーちゃんをっっ…………!」
「私がどうかしましたか、大河」
「へ…………?」
 台所で包丁を握るセイバーを見て、目を丸くする藤ねえ。そのまま10秒間フリーズ状態に入る。
 ―――ところでその10秒で、えり首を渾身の力で引っ張られている俺の意識は白くなる寸前なんだが。そろそろ手を離してもらえないだろうか。
 世界が白から黒に変わりそうな頃、藤ねえはようやく俺を放り投げてタハハと笑い、
「なぁーんだ。朝起きたらセイバーちゃんがいない上に、布団も冷たいんだもの。まさか士郎の部屋で寝てるんじゃないかと思って、障子蹴破っちゃった♪」
 やだ、わたしったら慌てちゃってー、と笑う。
 ちょっと待て、その『障子を蹴破った』ってセリフ、それでごまかせると思ったら大間違いだからなこの大トラ。誰が直すと思ってるんだその障子。
 小さくむせながら、なんとか混濁する意識を正常に戻す。ああ、やっと頭に酸素が戻ってきた。
 ごめんねー、と気軽に謝りながら、藤ねえはいつもの調子で台所を覗き込む。
「わ、すごい。これ全部セイバーちゃんが作ったの? セイバーちゃん、もしかして日本の人?」
「いえ。私は生まれも育ちもイギリスです」
 この金髪碧眼を見て、なぜに日本の人などという単語が出てくるのか、この御仁は。
 しかし藤ねえの気持ちもわからないでもない。それくらいセイバーの和食は、イギリス人とは思えないほど見事な出来だった。
「けど日本食なんて作り慣れてないんじゃない? 作るの大変だし、時間かかったでしょ。
 そういえばずいぶん朝早く起き出したみたいだけど、いつごろあの部屋出ていったの?」
「ゆうべ大河が寝た後、シロウの部屋に行ったときです」


 ……………………………………………………………………………………


「「「なんですってえええぇぇぇえぇえぇえぇえぇぇぇぇ〜〜〜〜〜〜!!!??」」」


 驚きの声は三人分。…………三人?
「わっ!? 遠坂に桜! お前ら、なんでこんな時間に!?」
 いつのまに入ったのか、二人はすでに居間に到着している。
 夕飯を作りに来てくれることはあっても、これまで朝飯の時間に彼女たちが来たことなんて滅多になかった。一度だけ休日の朝に姉妹ケンカをしたと言って来たことはあったが、せいぜいそのくらいである。
 近所では美人姉妹と名高い二人の少女は、目と口をそっくりに丸く大きく開かせて、
「ちょ、ちょっと! なにそれ!? ま、まさか士郎の部屋に一晩中いたっての!?」
「そうです! まさか出会って数時間も経ってないのに、せ、先輩と……! 藤村先生!! なにをやってたんですか!?」
「そ、そうよ! セイバーちゃん、ゆうべはわたしと同じ部屋で寝るってことになってたでしょ!?」
 突然の乱入者に一瞬呆然としていた藤ねえだったが、すぐに遠坂たちと一緒になって――――みんな、なんで俺に詰め寄る?
 セイバーもその光景を見て、自分の失言に気づき口をつぐんでしまった。そりゃそうだよな、これがバレたら今度こそ藤ねえの家に連行されるかもしれない。
 藤ねえたちの怒り方が予想外だったのか、それとも自分の発言が爆弾だと思い至らなかったのか。いずれにせよ、こんな簡単なことに気付けないあたり、確実にセイバーも寝不足にやられている。眠そうなのは外見だけじゃない。
 そしてそんなセイバーの異変を、いつも目敏い遠坂が見逃すはずはなかった。
「――――ねえセイバー。貴女、なんだか眠そうね」
「は? ええ、少々」
「ふーん。そういえばゆうべは慣れない和室で大変だったでしょう。よく眠れた?」
「いいえ。実はあまり…………」
「そう。で、眠れなかったっていうのは士郎の部屋で?」
「そのとおりですが、なんですかさっきから持って回った言いか」


「先輩、フケツですっっ!!」
「お姉ちゃんはそんなの許しませーーーーん!!」

「濡れ衣だ! 俺はなにもしてないっっ!」


 慌ててその場からダッシュする。一瞬遅れて、さっきまで俺がいた場所を、虎竹刀が盛大に叩きのめした。
 プシュウゥゥゥとかいって煙をたてる畳がってオイ! 焦げてるのかもしかしてあれ!?
 桜は桜で「先輩がスケベオヤジになってしまいましたーーー!!」と絶叫しながら走り回っている。いくらうちはご近所と少し距離があるとはいえ、これだけ大声を出していれば向こう三軒両隣まで丸聞こえだろう。この二人を止めないと、いろんな意味で俺に未来はない。
 桜を追いかけつつ藤ねえから逃げるという、かなり特殊な状況で説得を試みる。
「信じていたのに、先輩はそんな人じゃないって……! 所詮先輩も男の人だったんですね、どこかのワカメ星人みたいに抵抗できない女の子がいれば容赦なく手込めにするような、ヒヒジジイだったんですねっっ!!」
「なんだよワカメ星人って!? いやそれより、手込めになんてしてないっ! 誤解だ桜!!」
「わたしや姉さんが二年近く通っても、藤村先生が十年間通っても完膚なきまで放置プレイだったくせに、セイバーさんはたった一晩で手を出すんですねっ! パツキン専門ですか、専門なんでしょう!! こうなったらわたしも金髪に染めますっっ!! セイバーさんより真っ金色に染めまくって、ピカピカ金閣寺みたいに光る髪で、先輩に抱いてもらうんですっっっ!!」
「なんでそういう結論になるんだ!? だからそれ以前に、俺は手なんて出してないって!!」
「しーーーーろーーーーおーーーーーー!! 天誅ぅぅぅぅぅぅぅ!!! せーーーーばーーーーい!!!」
「うわっ、藤ねえンな物騒なもの振り回すな!! 落ち着けってのこの暴れ虎!!」
「わたしを虎と呼ぶなーーーーーー!!!」
 追いかけるのも逃げるのも苦手じゃないが、両方同時にやるというのはかなり疲れる。前の動きを睨みつつ、後ろの動きにも気を配らねばならないからだ。
 ドスバタガタン、とものすごい音がして三人が駆け回る中、遠坂は我関せずの体で食卓に座っている。セイバーも料理が終わったらしく、皿を一品一品丁寧に並べていた。
 その二人の姿は、まさしく優雅な朝の風景そのもの。
 くそ、お前らの会話が原因でこうなってるんだぞ!?
 恨みを込めて一瞬だけ睨むと、遠坂は面倒くさそうな視線をチラリと俺に向け、同じような視線をセイバーにも向ける。
「ちょっと。アンタの亭主、他の女の子のこと追いかけ回してるわよ? いいの?」
「構いません。多少の浮気は男の甲斐性です。私がシロウの妻だという事実は変わりませんから」


 ――――思わず。
 足が止まった。


「ふ、ふ〜〜ん…………余裕ね」
 ――――違う。今のは。
「そうでしょうか。当然のことと思いますが」
 ――――余裕なんかじゃ、ない。


 セイバーは相変わらず、考えてることの読めない顔で料理を並べ続ける。
 その横顔は、その口調は、昨日の晩に俺の婚約者だと言い切った時と同じく、確固たる意思を感じさせた。
 そこには彼女自身の感情は何もない。
 俺への信頼も愛情もない。
 怒りや嫉妬さえもない。
 彼女自身は、今の自分の言動を全く疑っていない。正しいことだと心の底から思っているのが、この微動だにしない顔を見ればわかる。
 それが。
 いやに異質な事のように、感じられた。





 弓道部の朝練を盾に、なんとか藤ねえと桜の暴走を止めることができた。
 ただしもちろん一発では止まらず、どうにか説き伏せたという形だ。今日は弓道部より士郎を折檻することが大事、と藤ねえに断言された時は、我ながら死を覚悟したもんだった。
 落ち着きはしたがトンでもなく恨みがましい視線で二人に睨め付けられつつ居間に戻ると、セイバーと遠坂は朝食の準備を終えて俺たちが帰ってくるのを待っていた。
「ったく、朝からひどい目にあった」
「なによう、士郎が悪いんでしょー。言っとくけどわたしの目の黒いうちは、この家での不純異性交遊なんて認めませんからね」
「藤村先生の言うとおりです。少なくともわたしも、先輩とセイバーさんの濡れ場なんて認めません」
 あんなに誤解だと訴えたというのに、俺はまだ容疑者のままなのか。二人の冷たい視線が痛い。
 とりつくしまがないので、ひとまずその件は置いといて食卓についた。
 並んでいたのはサンマ、揚げ出し豆腐、わかめのみそ汁に炊きたてごはん。たくあんと海苔までつけられた、伝統的な日本の朝ごはんだ。
 若干彩りには欠ける気もするけど、非常に素朴でなんだか郷愁を感じさせるような。
 作ってる時から思っていたが、かなり細かく手を入れて、うまそうにできあがっている。
 改めてセイバーの作った朝食を見た藤ねえも、複雑そうな表情をしていた。
「むむむ…………やっぱりなかなかにおいしそう。し、しかし見た目は良くても味はどうかな?」
「人の作った料理にイチャモンをつけるな。小姑みたいだぞ」
「いいのよっ、わたしは士郎のお姉ちゃんなんだから小姑で! おいしくない料理を作る人は、士郎の嫁として認めませんからねーだ」
 この上さらに料理人を増やせというのか、この大食い虎。ってか今いる5人の中で料理ができないのは藤ねえだけである。
 昨日からセイバーに私の夫と占有権を主張され、藤ねえはすっかり拗ねてしまっているようだ。しかしなんとなく桜も機嫌が悪い気がするのはなぜだろう。遠坂だって普段はもっと猫かぶって人当たりがいいのに、最初っから本性まるだしのあくまモードなのは珍しい。
 それはともかく、セイバーが衛宮邸での居住権を公に認められるかどうかは、この料理がどれだけ藤ねえの舌を満足させられるかにかかっていると言っても過言ではない。
 俺も期待と不安を半分ずつ抱きながら揚げ出し豆腐に手をつけた。
 ぱく。
「お…………」
 むぎゅ。
「あら…………」
 もく。
「これは…………」
 はぐはぐはぐっ!
「おいしいぃっ! おいしいようセイバーちゃん! 花マルあげちゃおうっ!」
「ありがとうございます。どうやら口に合ったようですね」
 安心したように、少しセイバーの顔が綻んだみたいだった。
 そういえば俺も最初に人に料理を作った時はそうだったっけ。切嗣オヤジと藤ねえの前にできたての料理を並べ、絶対に表情を見逃すまいと睨みつけるように見ていたもんだ。
 さすがに腕があがってきてからは当たり前に食事を出していたが、それでも初めて遠坂や桜に自分の料理を食べさせた時は、今のセイバーと同様の緊張感があった。どれだけ日常的に家族へ料理を作っていても、家族以外の人間に食べさせる時は相手の舌に合うか心配するものだ。
 だから俺もちゃんと感想を口にする。
「ああ。和食の基本をちゃんとおさえてる。これならどんな和食も太鼓判をおせそうだ。セイバー、料理うまいんだな」
「シロウに気に入ってもらえたのなら何よりです」
 今度はかなりわかりやすく肩の力が抜けた。自惚れるわけじゃないが、やはり俺の舌に合うかどうかが一番気になってたんだろう。
 それにしてもイギリス人だと聞いているがこの味つけは立派に日本人好みだ。イギリス人は味のわからないやつばかり、と悪口を言う人間もいるが、少なくともセイバーに関しては当てはまらないらしい。
 と同時に不思議に思う。彼女はどこで和食を学んだのだろうか。
「なあセイバー。この料理って、イギリスで覚えたんだろ? 誰か先生でもいたのか?」
「いえ、独学です。資料を見ながら独自に研究しました。
 家の者には味見を頼んでいましたが、日本の味になっているかはわかりませんでしたので、シロウたちに受け入れてもらえるかどうかは自信がありませんでしたが」
「すごいな、独学でこれだけの腕になったのか? 大変だっただろ」
「それほどでもありません。シロウのためでしたから」
「え…………?」
 一瞬思考回路が固まる。俺のため?
 セイバーは誇るでも自慢するでも、ましてや愚痴るでもなく淡々と、事実として告げる。
「シロウという婚約者がいると知らされてから、私は日本の文化をできるだけ学びました。言葉、習慣、もちろん料理もその一環です」
「って――――いったいいつから?」
「シロウは昨日まで知らなかったようですが、私は切嗣と母が私たちのことを約束した直後から知っていました。今から8年前の事です」
 8年――――
 まさか、その頃から日本のことを、学んできたっていうのか。
 いつの日か嫁ぐであろうと見定めた国のことを、顔を見たこともない、他人に決められた婚約者なんてバカな話のために。

 ――――それは。
 それは、なんだか――――

 言葉もなくセイバーを見つめる俺と、俺の視線を静かに受け止める彼女。
 動きの止まってしまった二人の雰囲気を壊すように、横から声が割り込む。
「なるほどね……たしかにうまいわ。でも――――」
 桜と同じくどこか真剣な顔で箸を進めていた遠坂の顔が、にまりと悪魔の形に笑んだ。
「――――和食なら、士郎には敵わないわね」
「なっ…………!?」
 驚愕の表情に固まるセイバー。
「しっ、しかし今、貴女がたは美味しいと言ってくれたばかりなのではありませんか!?」
「ええ、おいしいわよ。でも士郎が作るともっとおいしい。そうよね、桜?」
「はい。このお魚も、先輩が焼いたらこんなに焦げ目なく、もっと外はパリッと、身はふっくらとやわらかく焼けます。いかがですか藤村先生?」
「んー、わたしも士郎の作るおみそ汁の方が好きかなー」
 いつのまにか小姑が三人に増えている。両親のいない俺の家で、まさか真性の嫁イビリを目の当たりにするとは思わなかった。
 ってそんな場合じゃない。
 よほど屈辱なのか、プルプルと震えているセイバーに慌ててフォローを入れる。
「そ、そんなことはないぞ、セイバー。ほら、このみそ汁だってちゃんとダシが取れてるじゃないか。十分うまいって」
「けど士郎のおみそ汁は鰹だしと合わせ味噌がしっかり互いに高め合う、調和というものを考えて作られてるわ。それに比べるとこのおみそ汁は、ダシと味噌はそれぞれ美味しいけど、ちゃんと調和がとれてない。白味噌に煮干しだしってフツーやらないわよね」
 まるでどっかの美食家のように批評する遠坂。――おまえ、これまでそんな事、一度も言ったことないくせに。
「士郎はどうなのよ。嘘や慰め、謙遜はヌキで忌憚ないところを言ってしまえば。自分とセイバー、どっちの方が上だと思うの?」
「うっ…………!」
 たしかにセイバーの料理はうまい。少なくともこの料理は、遠坂の和食よりもうまいだろう。遠坂は俺に敵わないと知ると早々和食を捨て、中華の道を極めようとしているフシがある。
 …………ただ。
 和食に関してなら、俺も長年トラのエサ係をやってきた多少の自負があるわけで。
「――――――――」
 沈黙したのが悪かったのか。セイバーは無言の中に俺の真意を読み取ったようだ。
「――――なるほど。そこまで言われるのでしたら、後には退けません」
「え? セ、セイバー?」
「本日の夕飯はシロウにおまかせします。ぜひとも、わたしをうならせる料理を作っていただきたい」
 キッと真剣――というか明らかに怒っている眼差しに射抜かれる。
 彼女の怒りは遠坂の挑発が聞き逃せないというものであって、俺に直接向けられたものではない。だっていうのにセイバーの背後には、はっきりと気炎が見えていた。藤ねえの咆吼が虎なら、彼女の迫力は獅子を連想させる。
 普段は眠っている本能が、これに逆らってはいけないと懸命に訴えていた。でなければバッドエンド、道場行きまっしぐらだと。…………道場?
 睨み付ける視線へ、必死にコクコクとうなずく。
「あ、ああ。俺が作ればいいんだな」
「はい。楽しみにしています。シロウ」
 言葉では楽しみと言っておきながら、その顔はどう見ても勝利をもぎ取らんとする戦士の顔。
 彼女にそんな目で睨まれると、なぜか名のある騎士に一騎討ちを挑まれた一兵卒の気分になるのだった。








「衛宮。今日はどこかへ寄り道をして帰らないか?」
「あー……悪い、一成。今日は早く帰らなきゃいけないんだ」
 珍しく生徒会の手伝いも俺のバイトもないからと、誘いをかけてくれた級友をすげなく断る。
 本当に申し訳ないんだが、今日ばかりは夕飯の手を抜いちゃいけない気がするからだ。
「む。そうか。いつも世話になっている礼にと、甘味でもおごろうかと思ったのだが」
「すまん、気持ちだけもらっとくよ。ちょっと都合が悪くって」
「いや、構わん。別に約束をしていたわけではないのだ。逆に気を使われてしまっては本末転倒というもの。
 しかし、そうか。本当は買い食いの時にでも言おうと思っていたのだが…………」
 一成は周囲をはばかり、声をひそめて、
「しばらく身辺には十分注意しろよ、衛宮」
「? なんでさ」
「いや、つまらん感傷だ。実は昨日の夢見が悪くてな。衛宮になにか災いが降りかかるのではないかと心配になったまでのこと」
 むすっと口をへの字に曲げて言う一成。本人もあまり信じていないのか、それともそんな夢を見てしまった事が面白くないのか。
「災いねえ。たとえばどんな?」
「うむ。具体的に言うと、お前に女難の掛があるという、夢のお告げだ」
「――――――――――――」
 心当たりがありすぎて、思わず思考回路が停止した。
「さだめし衛宮にとっての女難と言えば、あの遠坂の女狐であろうが。あの仏敵を排除できない己の未熟さを恥じるばかりだ」
「は、ははは……」
 もう乾いた笑いしか出てこない。
 いや一成、お前きっと立派な坊さんになれるぞ。残念ながらちょっと遅かったが。
「まったく、あんな女とは手を切れと、何度言っても衛宮は聞き入れんからな。いいか衛宮、もう一度言うが、あの姉妹は魔性の女だ。特に姉はいかん。きっとお前を不幸にする」
「い、いや、そんなに目の仇にしなくてもいいと思うぞ? わりとあの二人には世話になってるし」
 いつのまにか定番の、遠坂との絶縁勧告にシフトした一成のお説教をなんとかなだめる。
 一成はなぜか、遠坂姉妹と仲が悪い。というか、一方的に一成が敵視しているという形だ。遠坂の名を持つものは袈裟まで嫌いらしい。坊主見習いのくせに。
 それでも桜はまだマシな方で、せいぜい他の女生徒よりぶっきらぼう、突き放した接し方をするぐらいですんでいる。元々一成は女生徒と親しく話をするタイプではないし。
 問題なのは姉の方。堂々と口ゲンカを繰り広げ、普段の物静かで聡明な生徒会長の面影をかなぐり捨ててまで遠坂を攻撃する。まさに犬猿の仲、前世で親の仇だったんじゃないかとひそかに疑ってるぐらいだ。
 遠坂に聞いたら、修学旅行の行き先を決めるとき彼女が『お寺は辛気くさいからパス』と言ったのを根に持ってる、なんて答えが返ってきたけど、一成に聞いてみたところいかに遠坂が中学からあくまのような手腕で好き勝手やってきたかを長々と語ってくれた。
 両者の共通の友人としては、これ以上事態が悪化しないように務める他ない。
 一成は、俺のとりなしに大きなためいきをつき、
「……まあ、衛宮の答えはわかっていたがな。まったく、本当に頭が痛い。
 せめて衛宮を任せられる伴侶でもいれば良いのだが。このままあの姉妹のどちらかに衛宮を取られでもしたら、俺は業腹のあまり憤死するぞ。
 姉はもちろんだが、妹もいかん。衛宮があの遠坂と義理の姉弟になるなどと……想像するだけで悪夢だ」
「や、大丈夫だって。二人とも友達や先輩として仲良くしてくれてるだけだからさ」
 俺としては二人がケンカするのが一番の頭痛のタネだが、さすがにそれは言わない。一成は一成で俺のことを心配してくれているのだから。
 そういえばと、昨日突然やってきた自称伴侶候補を思い出す。彼女、昼間は一人ぼっちなんだよな。
 慣れない居間でぽつんと一人、正座してるセイバーを想像したら、無性に焦りを感じてきた。
「すまん、一成。そろそろ帰るよ」
「うむ。重ねるが、十分に気をつけて、息災でな」
 喝、と気合を入れてくれる友人に手を振って、少し急ぎめに校門へと足を進める。
 やっぱり早く帰ってやろう。きっとあいつは、今朝言ったとおり夕飯だけを心待ちにしているのだろうから。





 商店街で大量に買い物をして、家路につく。遠坂や桜もうちで料理をする時は食材を買ってきてくれるが、やはり重いものを買ってくるのは俺の仕事である。
 今日の主菜はアジの開きにした。みそ汁は定番の豆腐とダイコン。今日はダイコンが安かったのだ。ついでにもう一品、風呂吹き大根を用意する。
 ……いや待てよ。考えてみれば、せっかくセイバーが日本へ来たというのに、歓迎会らしきものをやってないじゃないか。
「よし、材料は…………あるな」
 明日の分まで買い物を終えていたので、材料は二日分ぐらいある。これなら豪勢な夕飯を作り、彼女を驚かせることが可能だ。
 セイバーは久しぶりに切嗣の匂いを運んできてくれた。口には出してないけれど、それは俺にとってすごく嬉しいことだったのだ。
 この感謝の意を表したい。そんな気持ちで、本格的に時間をかけるべく、大きく腕まくりをした。





 じゅわわ〜〜
 高温の油の中で野菜と肉が踊り、美味しそうな匂いが台所にたちこめる。
 うん、いい出来だ。これならみんな喜んでくれるだろう。
 いつもならそう満足して、嬉しい気分になれる、そんな瞬間はしかし。

「………………………………」

 料理を作り始めてすぐ、背後に感じる一心な強い視線に水をさされる。
 居間に早々陣取ったセイバーは、脇目もふらず休憩もせず、まっすぐに料理中の俺を見続けているのだった。
「あー……セイバー?」
「はい。なんですか」
 呼べば鐘を打つように響く明朗な返事。だがどうも、俺の言いたいことはわかっていない様子。
「悪い、そんなにじろじろ見ないでくれ。なんとなく集中できない」
 むろんこれくらいで皿を落としたり味付けを間違えるほどうっかりではないが、どうにも落ち着かなくて困る。
 俺の申し出に対し、セイバーは凛々しく胸を張って、
「相手の力量を見極めるときに、結果だけ見ていてはいけません。結果は何よりも大切ですが、その過程、できることならば普段の鍛錬も知っておくことが、正しい判断を下すために必要なことなのです。
 皆が私より上手だと言ったシロウの実力がどれだけのものか、できるだけ正確に把握したい。ですからこうして、調理の過程も見ているのです」
 ……えーと。要約すれば、本当に俺の方が上手なのか監視したい、ということかな。
 俺の方がうまいと言われたあの言葉を、彼女はずいぶん気にしているようだ。やたら意固地なのはこの一日でいやというほど思い知ったけど、おまけに負けず嫌いである。
 とはいってもこうして無言で見つめられるのも気詰まりだ。
「じゃあせめて、なんかしゃべってくれ。それだったら見られてるのも気になんないから」
「なにか、ですか? そうですね――――」
 セイバーは、やはり俺を見ながらしばし考え、
「…………シロウは、料理をするのですね」
 そんな、当たり前のことを言った。
「見てのとおりだけど、なんか不思議か?」
「いえ――切嗣は、料理をしない人だと覚えていましたから」
 おや、彼女は切嗣を見知っていたんだろうか?
「ああ、親父は料理なんてできなかったからな。だから俺が作るしかなかったんだ。必要にせまられて、ってやつだな」
 少しの間、言葉が途切れる。セイバーは珍しく、どこか言葉を選んでいるようだった。
「……シロウは、あまり切嗣と似ていないと思ったのです。私も数回しか彼に会ったことはありませんが、切嗣の息子ということで彼と似た人物だろう、と想像していたのですが……」
「そりゃ似てなくて当然だ。俺は切嗣と血が繋がってないから」
「え?」
 虚を突かれたセイバーの声。
 あまり積極的に言いふらしてることではないが、あえて隠していることでもない。彼女が切嗣の縁者だというならば、話しておいてもいいだろう。
「俺、養子なんだ。切嗣の。だからむしろ、似てないところのが多いと思う。
 いやまあ、いつかは切嗣みたいになりたいとは思ってるけど」
「そうだったのですか――だから貴方は、彼女にもあまり…………」

 彼女?
 手を止めて振り向くと、セイバーはぶつぶつと口の中で何か呟きながらうつむいていた。
 が、それもすぐに終わる。やがて彼女の顔に浮かんだのは。
 ――――なぜか、影を含んだ、元気のない表情だった。

「セイバー?」
「いえ……なんでもありません」
 素っ気ない返事。それはいつも通りのセイバーなのだが、やけにひっかかる。
 もう一度聞き返そうとしたとき。

「たっだいまーー! 士郎、ごはんできてるかなー!?」

 玄関から響いた腹ぺこタイガーの大声が、そんな空気をぶちこわした。
 時計を見ればもう六時半。そうか、弓道部の練習も終わったのか。
「もう少し待ってくれ! じきに準備終わるから!」
 玄関に怒鳴り返し、改めて彼女を見る。
 しかし時すでに遅し。そのころにはもう、セイバーはさっきまでの不思議な色を全て消し去り、完全に元のままでそこに座っていたのだった。





「うわーーーー。どうしちゃったの? 士郎ってば」
 食卓に並んだ料理の数々を見て、藤ねえが歓声をあげる。基本的にこの人は料理に気合いが入っていると機嫌がいい。
「ああ。まだセイバーの歓迎会をやってなかっただろ。それを考えて、今日はいつもより豪勢にいってみました」
 主菜はアジの開きだが、おかずとして日本の和である刺身や、もやしと豚肉の炒め物、冷や奴ひややっこにかぼちゃの煮物。肉じゃがひじきの煮物小松菜のおひたし。それに最初から作ろうと思っていた風呂吹き大根とみそ汁。
 ひたすら和食の夕飯が、豪勢というより作りすぎの感もあるほど食卓に所狭しと並べられている様子は、ある意味圧巻だ。
 そしてそんな料理の中に当然のような顔をして座っている二人の姉妹。
「…………なんか昨日から、ずっと遠坂と桜の顔を見ている気がするんだが」
「気のせいよ。それより冷めないうちにいただきましょ」
 すげなく切って捨て、遠坂は箸を手に取る。別に彼女たちの訪問が嫌なわけじゃないけど、なんだって昨日からずっと入り浸りなんだ?
 本日の主賓であるセイバーに目をうつすと、こっちはこっちで真剣な眼差しで料理を睨み据えている。
「セイバー? 食べないのか?」
「いっ、いいえ……もちろんいただきます」
 そうは言ったものの、やはり彼女は動かなかった。というか、俺に返答する時も料理から目を離さなかったくらいだ。
 やがて意を決したのか、真剣な顔はそのままに、和食の代表選手――肉じゃがへと箸を伸ばす。
 ――――ぱく。
「こっ…………これは…………!」
 セイバーの顔が驚愕にひきつった。
「……箸で簡単に崩れる、しかし決して脆くはないほっこりとしたじゃがいも、しかもこんなに中まで出汁だしが染み通っているとは……食材を噛んだ瞬間に広がる味、くっ、これが和食の基本、外にかけるソースではなく中に染み込ませる出汁の真の活用法…………!」
 なんだかいろいろショックを受けている。自分ではいつの間にか身についた技術のつもりだから、そんな料理番組風に言われるとむしろ引いてしまうんだが。
 セイバーはアジ、煮物、おひたしと次々に手をつけて、そのたびに何かに衝撃を感じていた。
 一通りつまみ終わると愕然とした顔で箸を置く。その様はむしろ落とすといった方が近かった。
「なんという――――私がこれまで修行してきたのは、いったい何のために――――」
 彼女はこの世の終わりともいえる空気を漂わせてやたらうちひしがれている。心なしか頭のてっぺんのクセ毛もしおれて見えるような。
 そこまで落ち込むこととは思えないが、ほったらかしにしておくわけにもいかない。
「あー、その。セイバー、気にするな。俺がうまくなったのは、毎日自分で作ってたからで、ほら、必要に迫られてってやつだし…………」
「そうよー。セイバーちゃん十分に上手じゃない。まあ、士郎には負けちゃうけど」
 なにげなく事実を告げて追い打ちをかます藤ねえ。おい! 慰めるのかトドメをさすのかどっちかにしろ!
 助けを求めて視線をさまよわせると、赤いあくまはにやにや笑っていて、黒い妹はくすくす笑っていた。あんたら鬼か。
「くっ…………」
 セイバーは強く唇をかんで黙り込んでしまった。えーと……ゴッド、俺なんか悪い事しましたか?
 いつも通り料理を作って、まして今日はセイバーを歓迎するためにやったというのに、彼女はこうやってダメージを受け、俺は罪悪感に苛まれている。
 フォローになるかはわからないが、なにかを言わなければ。
「セ、セイバー。ほら、気にすることはないから。日本人じゃなくてもここまで上手に和食が作れるのは立派に誇れることだと思うし」
「…………いえ、そうはいきません。
 私は日本人の妻となるため、日本食を勉強していたのです。ならば日本人の平均値に届いていなければ意味がない」
「平均値って……十分平均値だと思うけど」
「しかし、夫より料理が下手では面目が立ちません!」
 キッと仇敵のごとく俺を睨むセイバー。…………そういや初めて遠坂に和食を食べさせた時も、似たような目をされたっけ。あの後中華で反撃され、今度は俺が同じ目をするハメになったけど。
 セイバーに遠坂で言うところの中華のようなスキルがあるかはわからないが、いずれにしろ和食が俺より下手では意味がないと思っているのだろう。他の取り柄など関係ない。和食がどうなのかだ。
「あー…………それなら、セイバー。
 これまで独学でやってきたんだろう? なら、今度は俺が教えるっていうのはどうだ」
「…………シロウが?」
「ああ。腕はご覧のとおりだ。独学でここまでの腕にしたんだから、師匠につけばセイバーはまだまだ伸びるよ。
 うちは味にうるさい人間がそろってるからきっと上達できると思う」
「そんなっ!? 台所はわたしと先輩の聖むぐっ!」
 なにか叫びかけた桜を、後ろから藤ねえがはがいじめにする。
「まあまあ桜ちゃん。料理教室くらいいいじゃない。
 セイバーちゃん、和食はうちでは士郎が一番うまいから、技術を全部盗み取るぐらいのつもりで覚えた方がいいわよー」
 その目には、獲物を狙う猛獣みたいな色が爛々と輝いていた。
 ――――藤ねえ。あんた料理人の数だけでなく、質にもこだわるのか。恐ろしい。
「む…………夫に料理を教わる妻、というのも格好がつきませんが、この家の味を覚えることも大切です。
 今日から私は貴方に教えを請います。
 ふつつかものですが――――」
「セイバー。そういうときは『ふつつかもの』とは言わないから」
「そうなのですか? ではあの書物が間違っていたのでしょうか……」
 ぶつぶつと呟くセイバー。やはり初日の『ふつつかものですが』発言は聞きかじったものだったか。
 あの時は嫁入りのつもりだったんだろうから間違いじゃないんだが、弟子入りの時にはいまいちふさわしくない。
「じゃあまずは、師匠の味を覚えてもらおう。
 たくさん作ったからじゃんじゃん食べてくれ」
「はい。それではいただきます」
 宣言すると、料理に相対して箸を伸ばしてゆく。

 はくりっ。
 ――――こくこく。
 むぐむぐ。
 ――――こくこく。

 セイバーは新しい料理を一口食べるごとに、小さく何度も頷いている。もしかして新しい味に感嘆しているんだろうか。なんだか小動物がエサを食べてるみたいで、すごく愛らしい。
 そんな彼女を見ていると、料理を作ってほしいというより、料理を食べさせてあげたいとほのぼのとした気分になるのだった。








「それじゃあ改めて。
 セイバーの部屋割りについてだが」
 食後、きちんとみんなで家族会議を開き、議題を発表した。
 するととたんに、さっきまで料理に舌鼓をうって幸せそうだったセイバーの顔から、喜色が消えてゆく。
「シロウ。それは話し合っても意味がない。
 すでに私の寝起きする部屋は、貴方の部屋に決まったはずだ」
「じゃあ議題を変えよう。
 セイバーはあの部屋で寝泊まりするらしいから、俺の新しい部屋について――――」
「どういう意味ですか、それは」
 ――ちりりっ。
 肌が灼けつくような痛みを感じる。
 セイバーから放たれる怒気は、抜き身の剣のごとき鋭さをもっていた。
 今朝の獅子の怒りとはまた違う。あれは単純な怒りだったが、今度のは敵意――殺意にすら思えるほどの冷たい感情。それでいて、抑えきれない怒りがふつふつと内に沸いていると、睨まれる視線からはっきりわかる。
 彼女の背後に青白い炎の錯覚を見たのは、果たして本当に気のせいか。首筋に切れ味の良い刀を突きつけられているようだ。スッと引けば、そのまま俺の首が落ちる。
「昨晩、シロウは私が貴方の部屋で寝起きすることを認めた。忘れたとは言わせません。
 それでもなお同室を拒否するとは、一体どういうつもりなのです」
 発する声も、今当てられている幻の刃と同じくヒヤリと冷たいもの。彼女にどこまでその気があるのかわからないが、首の刀はすぐここだと知らされている気がして、思わず息を呑んだ。
 そんな怒りに晒されて、それでも口を開くのはかなりの胆力が必要だったが。
「だけどな。ゆうべの段階では、お前は藤ねえと同じ部屋で寝泊まりするはずだったろ。それを勝手に変えたのはセイバーじゃないか」
 セイバーが怒気を少しだけひっこめて黙り込んだ。そう、彼女が俺の部屋の住居権を主張するのも、元をただせばセイバーが藤ねえの監視をかいくぐり、俺の部屋へ押しかけてきたから。お前が出ていかないなら俺が出ていくという成り行きになってしまったのだ。
 俺の部屋を使うのはたしかに認めた。けれど同室で眠ることを了承した覚えはない。
「シロウは……」
 小さくセイバーの唇が揺れる。紡がれた言葉は小さく、しかしはっきりと耳へ届いた。
「シロウは、そんなに私と結婚するのが嫌なのですか」
 ぽつりと。
 何気なく呟かれた声は、今までと同じく平坦で、感情を感じさせない。
 けれど。
 逆にそれが、彼女の気持ちを現しているようにも聞こえた。
 文字通り見ず知らずの土地へ一人きり、置き去りにされた子供のような。
「結婚っていうのは好きなやつとするもんだろ。誰かに決められてするもんじゃない。女の子だったら、もっと自分を大切にしろ」
「自分を大切になどと――――シロウは私の婚約者ではありませんか。何をいまさら――――」
「それはセイバーだけの話だ。俺にとってセイバーはまだ、会って1日しか経ってない女の子なんだ。
 そんな相手と同室で寝るなんてできるわけがない。俺には、切嗣の墓にもセイバーの親御さんにも顔向けできなくなるような真似はできない」
 セイバーは俺の目から真意を探る視線をじっとこちらに送ってきた。
 やがて何かを見つけたのか。
 凛とした声で、確認の意味も込めているであろう問いを発した。
「つまり、シロウは未だ私と婚約しているという自覚がないということですか?」
「ひらたく言えばな。セイバーはきっと決意して日本に来て、肩すかしをくらわされた気分なんだろう。それに関しては気の毒だと思う」
 苦情は切嗣の墓に盛大に言ってやってほしい。彼女が嫌がることを予想して俺に何も言わなかったんなら、こうなることも予想できたはずなのだ。
 彼女は俺と結婚することを8年も前から受け入れていたというし、それなりの準備もしてきた。なぜこんなに気合いが入っているかはわからないが、意気込みからして今すぐ結婚するという話になっても当然と受け入れただろう。
 つまりはそれくらい固く意志を決めてやって来たわけだ。なのに8年越しの意志を相手に否定されたら怒りたくもなる。
「でも逆に俺たちの事も考えてくれ。いきなり会ったばかりの女の子と結婚しろなんて言われても俺はできないし、藤ねえたちだって納得できない。
 セイバーだって、ある日いきなり見知らぬやつに結婚してくれなんて言われたとしたら、そのままハイと頷けるか?」
「――――――――」
 セイバーは黙って考え込んでいる。けっして気圧されぬよう、こっちも真剣に見つめ返した。
「シロウ。ひとつだけお訊きしたい。
 それは、私と結婚することは有り得ない、という意味でしょうか」
「そこまではまだわからない。セイバーのことを好きになるかならないかは、これからの事だからな。
 ただ、今の時点で結婚っていうのはまだ考えられないだけだ。
 後になってやっぱり破棄するくらいなら、婚約してるなんて考えない方がいい。だから今、セイバーと婚約してるっていう意識は、俺にはない」
 またしばらく互いに無言で目を合わせる。
 ――――先に力を抜いたのはセイバーの方だった。
「…………わかりました。たしかにシロウがこの婚約のことを全く知らなかったと言うならば、突然押しかけて今すぐ結婚しろというのは乱暴な話です。
 婚姻はシロウの心の準備ができるまで待つことにしましょう。
 思えば、切嗣はそれを見越して、1年間の滞在という条件をつけたのでしょうから」
 彼女の言葉は、婚約を撤回することこそなかったが、猶予期間という譲歩を有していた。
 長期戦になることがわかったからか。
 セイバーは、うちに来て初めて自分から、本当に肩の力を抜いたようだった。
 その拍子に一瞬だけ見えた無防備な素顔。固く張り詰めていた鎧のような空気を脱いだ、微笑さえ含んだ安らかな表情。
 それは、びっくりするほど可愛らしい女の子で――――
「――――――――」
 ……思わず見惚れてしまった。だってセイバーは元からとんでもなく美少女なんだから。
 と同時に安心もした。昨日はあんまり表情が出なかったから、もしかして感情なんてない、ロボットみたいな人間なんじゃないかと心配していたけど。
 彼女はあくまで、普通の女の子なんだ。
 結婚うんぬんはともかく、これから一緒に暮らしていく上で、なんとかうまくやっていけそうな気がした。















「――――来たわね」
 まるで果たし合いのように言われると、正直かなり引き返したい気分でいっぱいになってくる。
 桜は夕食の片づけ。セイバーは新たに決まった彼女の部屋での荷ほどき。藤ねえは今日も監督役として泊まると言い張り、風呂に入っている。
 つまり今俺が命を落としても、アリバイのある人間は一人も――――
「……………………ちょっと。
 なに悲壮感ただよう顔してんのよ。失礼じゃない」
 憮然とした遠坂の声で我に返った。どうやら思考回路がおかしな方へ行っていたらしい。
 三日月の下の縁側。遠坂はそこに座り込み、手振りで隣に来るよう指示した。
 話がある、とこっそり伝えられていたので、俺も逆らわず指定された場所へ座る。
「率直に聞くわ、士郎。
 貴方、セイバーのことどう思ってるの?」
 こちらが腰を下ろし終わるのも待たず、いきなり直球ストレートを食らった。
 いつもはネチネチと回りくどい……もとい、周囲からかためて、聞いたことにも気づかせず本心を訊き出す術に長けた遠坂にしては珍しい。もっとも時間がないといえばないから、むしろ当然なのかも。桜の洗い物が終わったら、遠坂は一緒に家へ帰ってしまうのだから。
 それはともかく、彼女に関して俺が言えることはひとつだけ。
「どうもこうもないだろ。セイバーは切嗣オヤジの知り合いの娘さんだ。
 俺にとってはそれ以上でもそれ以下でもない」
「…………ここんところをはっきりさせておきたいんだけど。婚約者うんぬんってくだりは?」
「それこそはっきりしてるじゃないか。さっきも言ったとおり、会ったばっかりの女の子と婚約なんてできるわけないだろ」
 そりゃあんな可愛い子に求婚されて、ドキドキしないと言えば嘘になる。
 でも俺は彼女のことを何も知らないし、彼女も俺のことをよく知らないはずで。
 そんな状態で結婚なんて話が出ること自体考えられない。だから彼女の希望に応じるわけにはいかなかった。
 遠坂は斜に構えた目で俺を見る。ぼやけた月明かりの下では瞳に宿る色まではわからない。
「ふうん。それじゃ彼女の求婚は断っちゃうんだ。
 可哀想じゃない。あんなに士郎を慕ってくれてる子なのに」
「……あいつが頑張るのは、『切嗣の息子』である俺と結婚するためだろう。『俺』と結婚するためじゃないはずだ」
「衛宮くん。言ってること矛盾してる気がしない?」
 ――――いや、していない。まだ根拠もない直感の段階だが、なんとなくそう感じていた。
 かたくななまでに、見ず知らずの俺との結婚にこだわる彼女。そこにどんな意志が秘められているのかはわからないが。
 ひとつだけわかるのは、彼女は8年前に婚約が決められた時点から今まで、まるで俺と結婚するのを自分の使命か義務のように感じているということ。
 俺のことを話に聞き、想像の中で想いを抱いた、というのも考えづらい。セイバーを見るかぎり、とてもそんな恋に情熱的な性格とは思えないのだ。
 きっと彼女が……セイバーが見ているのは俺自身ではない。『切嗣の息子』と結婚することだ。
 それはもし俺に他の男兄弟がいたら、その中の誰でもいい、という意味。
「そりゃ俺は、切嗣が遺した物なら全て受け継ぎたい。息子なら当然だ。
 でも……だからって、それであいつと結婚するのは、絶対に違う」
 切嗣は俺のためを思ってセイバーとの婚約とやらを決めたんだろう。そこだけは疑っていない。
 けど、切嗣の求めているのは、”切嗣の残したものだから”彼女と結婚することではないように思えた。
 それにどんな事情があるのかは知らないが、セイバーにとってもいいことじゃない。
 彼女の求婚には、結婚に関して最も大切なものが欠けている。
「ふーん。…………つまり?」
「つまり――――」
 一瞬、言葉がのどに張り付いた。

「あいつは俺を好きだから結婚しようって言ってるわけじゃない。なにか別に俺と結婚する理由があるだけだ」

 遠坂は冷めた視線で俺を見、
「…………なんだ、わかってるじゃない」
 ためいきまじりに呟いた。
 そうだよな。女の子が単身異国に乗り込んで求婚する決死の思いを否定したんだ。呆れられても…………って。
「――――――へ?」
「鈍感な衛宮くんのことだから、もしかしてセイバーの婚約者宣言にのぼせて、うっかり自分のことを好きだから彼女が結婚しろと迫ってると思うんじゃないかって心配だったし、ましてそれでセイバーに申し訳ないなんて思ってたら叩き直してやろうと思ってたの。……いらぬお世話だったわね」
 貴方のこと見くびってたわ、ごめんなさいね、と笑いながら謝罪する遠坂。
 謝ってもらえるのはいいのだが、しかし。
「遠坂。いくら俺だって面と向かった相手が自分のことを好きかどうかぐらいわかるぞ」
「…………嘘ばっかり」
「? なにか言ったか?」
「なんでもないわ。それよりこれからどうするの?」
 言外に問われる。目的語はもちろんひとつしかない。
 この話を全く受ける気がないなら、いつまでも期待を持たせておくのは彼女にも失礼だ。しかし。
「…………セイバーには納得するまでうちにいてもらおうと思う」
「本気なの? 彼女の要求に応えるつもりもないくせに、そんなの心の贅肉よ」
「わかってる。でももう決めたんだ」
 切嗣の手紙には書いてあった。彼女と友達になってやってほしい、と。
 考えてみれば切嗣はなぜあんな事を書き残したのだろう。切嗣は人の交友関係に口出しをするような性格じゃなかった。昔俺が友達とけんかした時も、『仲直りしてきなさい』ではなく『縁があればまた仲直りできるよ』と言った。
 その理屈で言えば、セイバーとのことだって『縁があれば』のはずだ。
「それを知りたい。きっと何かあるはずなんだ。切嗣がわざわざ手紙にしてまで伝える理由が。
 そしてもしも彼女が困ってるなら力になってやりたい」
 だからなんだろう。強引につっぱねてでもセイバーを藤ねえの家に行かせなかったのは。
 遠坂は、はあ、と大きくためいきをついて、
「――――しょうがないわね。士郎がそこまで言うんじゃ。
 それに彼女だって『士郎は貴女と結婚するつもりはないから帰れ』なんて言ったところで、簡単に納得するとも思えないし」
「遠坂?」
「少しは協力してあげるわ。藤村先生がいるとはいえ、セイバーを日本に慣れさせるのに人手は多い方がいいでしょ。特に彼女、頑固そうだし」
 遠坂の顔にはもう真面目な色も突き放した色も存在しなかった。今夜の月夜のように、カラッと晴れ渡った明るい笑顔。
 それでいて今の言葉が一片の冗談もない本気なのだとはっきりわかる。
 彼女はこう言ったのだ。自分もセイバーと友達になろう、と。
「ありがとな、遠坂。俺、おまえのそういうとこ、すごく好きだ」
「――――っ! も、もう、女の子に軽々しくそういうこと言うんじゃないっっ! セイバーが聞いたり言われたりしたらいろんな意味で誤解するわよ」
「……む、そうなのか?」
「そうなの! はあ…………まったく」
 遠坂は疲れたためいきひとつつき、それと同時に立ち上がった。
「じゃあ、そろそろ桜も終わっただろうし、わたしは帰るわ。今夜もごちそうさま」
「ああ、おやすみ。また明日な」
 俺の声を背中で受けて、優雅に髪をなびかせながら遠坂は去っていった。
 女の子にこういう事を言うと、すごく失礼なのはわかってるんだが。
「…………あいつの背中、兄貴みたいに頼もしいな」
 いや、女の子には姉御肌とか言うんだろうけど。
 桜が俺にとっての妹で、藤ねえがだらしない姉貴なら、遠坂は頼りがいのある兄か姉という感じだ。
 皆、俺には大切な家族である。
 セイバーともそんな関係――――家族みたいな絆が築けるだろうか。これから大きく丸くなるであろう月を見上げながら、ぼんやりとそんなことを考えた。




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