セイバーがうちに来て一ヶ月ほどたった頃。
庭の隅にある木造の建物から、竹刀の音がするのが日課となった。
―――パシーン……ッ!
一際高らかに響く音。しかしそれをのんびり鑑賞するヒマなんてない。
「ぐっ………!?」
竹刀を手から半分とりこぼした俺は、今や丸腰同然。片や相手はいまだに得物をしっかと構えている。
……いや。
ヒュオッ! と風切る音がして、静かに構えられていた竹刀は、枯草の原っぱを走る炎のような勢いをもって俺の首元に押し当てられた。
文句なしの一本。誰が見ても正真正銘彼女の勝ちだった。
俺の戦意が消えたのを見てとって、セイバーが竹刀をひく。
「シロウ。貴方は踏み込みのタイミングが早すぎる。
そんなに手前から思い切り踏み込んでは、今から突撃しますと宣言しているようなものです」
「う……そうか」
彼女は的確に丁寧に、俺のいたらないところを指摘した。
次からは注意しよう。なかなか注意したからといって実現できるとは限らないんだけど。
自分に言い聞かせるため、踏み込みは近くから、と胸の内で唱える。床に落としていた竹刀を拾い、ふたたび構え直した。
「よし、もう一本」
「やる気ですね、よいでしょう。お相手します」
不敵に、どこか満足そうに口の端を上げ、セイバーももう一度竹刀を握る手に力をこめる。
――――で、二時間後。
「ハァ、ハ―――やっぱり、セイバーは、すごい、な」
「それを言うならばシロウこそ。基礎訓練しかした事がないという話でしたが、よほどしっかり鍛えてきたのでしょう。貴方の基礎体力は目を見張るものがある。
これならば少し技術をつけるだけでかなりの上達が期待できます」
道場の床にへばって休憩している俺へ、セイバーはおだやかにほほえんで、健闘をたたえてくれた。
しかしこっちは息をきらしているというのに、あちらが軽く汗をかいているだけというのはどうにもかっこがつかない。
「でも、もっとしっかり鍛錬しないとな。セイバーから一本取れなくても、せめてスタミナくらいは追いつきたい」
「いいでしょう、楽しみにしています。返り討ちにしてさしあげますが」
揺るぎない自信をのぞかせるセイバー。く、絶対いつか追いついてやる。
わずかに感じた悔しさのままセイバーを見ると、彼女は不肖の弟子の意地がほほえましいと言わんばかりに、もう一度小さな笑みを見せた。
あれは、たしかセイバーがうちにやってきて数日後の事だった。
「シロウ、あの建物はなんでしょうか」
廊下で偶然彼女とすれ違った時、セイバーは庭の隅にある二つの建物を交互に指さして、俺にたずねた。
「ああ、あっちの壁が白い方は土蔵。簡単に言うと物置だな。今は俺の持ち込んだガラクタでけっこう埋まっちゃってるけど。
あっちの木で造った方は道場。えーと、剣道とか柔道とか空手とか……格闘技の稽古をする場所だ」
「ほう、つまり鍛錬場ですか」
俺としては土蔵の方がはるかに思い入れがあるのだが、セイバーは道場に興味を持った様子。声の調子がわずかに変わった。
「行ってみるか?」
水を向けてみると、彼女はこくんと小さく頷く。
女の子が道場に興味あるなんて一般的には珍しいけど、うちは藤ねえが剣道をやるし、桜も弓道をやっている。とりたてて不思議に思うこともなかった。
道場の戸を開けると一瞬空気が変わる。自主トレの時に俺が使ってはいるものの、基本的にこの道場ではここ数年、精神性を重んじる武道が行われたことはない。
それでも道場というだけである種の静謐な雰囲気をにじませるのは不思議だった。
そしてそんな道場独特の気配は、外国人である彼女にも感じ取れたらしい。
「ふむ……なるほど、これは…………」
あちこちを見て回り、壁に手を触れてみる。道場の真ん中で目を閉じてみる。大きく息を吸い込んでみる。
道場の全てをその身で感じ取ろうとしているしぐさは、なぜだか武人を連想させた。
ひとしきりいろんな動作をした後、セイバーはこちらに振り返る。冷静な視線はいつも通りだが、どこかいつもより生き生きとした瞳で。
「良い鍛錬場のようですね。空気が清澄で、気持ちがほどよく引き締まる。ここならば集中して鍛錬することも可能でしょう。
シロウはここでどのような事を?」
「うーん……そんなたいしたことはしてないぞ」
親父が生きてる頃はあれこれ武道の稽古をつけてもらったこともあるが、一人暮らしになってからは自主トレしかしていない。
「なんと。ではこの鍛錬場はずっと、本来の役割を果たしていないと?」
「そうなるかなあ。昔はたまに藤ねえに、剣道の奥義を伝授してやるーとか言って叩かれたこともあったけど」
あれは本来の道場の使い方ではあるまい。当時高校生ながら段持ちだった藤ねえが、遊びで小学生の俺を竹刀でひっぱたく、なんてのは。
ぼーじゃくぶじんな藤ねえの暴れっぷりに数秒のあいだ思いをはせ、現実世界に戻ってみると、いささかセイバーの顔が近くなっているように感じた。
「シロウ」
「な、なんだ?」
「貴方は剣道をするのですか」
「するっていうか……まあ、藤ねえに教え込まれて強引に」
「では、ぜひ一度手合わせを願いたいのですが」
「へ?」
突然の話の飛び方に驚いた。セイバーは、今度はあからさまに興奮したように、
「剣を使うスポーツのうち、この国で最も有名なものは剣道と聞いております。私も日本文化の一環として学んではいましたが、実際に誰かと打ち合いをしたことはない。
ぜひとも、お手合わせ願えませんでしょうか」
「お手合わせ、って……セイバーが剣道やるのか?」
「はい」
始めの日からこれまで何度も見てきた、真剣すぎる彼女の顔。しかし今回のそれには多少の熱がこもっているように見えた。
今の顔を見てしまうと、これまでの真剣な顔は表情の温度が感じられず、義務感の方が強かったんだなとわかる。
逆を言えば今のセイバーは、あくまで自分の希望として打ち合いをしたがっているのだと気づけた。
そうか。そういえばセイバーが結婚や夫婦生活なんてものとは無縁の要望をしてきたのは、これが初めてだな。
そこに思い至ってしまえば、もう拒否する理由はなにもない。
「よし、いいぞ。竹刀だったら2本あるから」
「ありがとうございます」
そうして、俺とセイバーは道場の真ん中で向かい合い――――
完膚無きまで叩きのめされました。
「っつ……あいたた………」
板張りの床に大の字になってへたばる。セイバーが水を汲みに行ってくれたので、彼女がいる間は言えなかった痛みを遠慮なく口に出すことができた。
「……まさかあそこまで強いなんて……」
セイバーは強かった。
そりゃもうびっくりするぐらい強かった。
うちには剣道の防具がない。だから竹刀だけで、いわゆる剣道ごっこというかチャンバラ遊びのつもりで打ち合いを始めたのだが―――そんなのは違うのだと、セイバーの構えを見た瞬間、理性ではなく直感が理解した。
今、自分の目の前にいるのは、おまえなんかが逆立ちしても敵わない強者なのだと。
それでも万一に女の子を叩いてしまってはいけないので、多少遠慮して打ち込んだ。
そしたら。
「容赦なく打ち返してくるんだもんなあ、セイバー……」
事前にセイバーの実力なぞ知らず、『遠慮なく打ち込んできていい』と言っておいたのがまずかった。セイバーは情け容赦なく、脇目もふらずまっすぐに俺の額へ会心の一撃。
あれで気絶しなかったのは奇跡に近い。
頭をクラクラさせた俺を見て、セイバーもこっちの実力を悟ったらしい。それ以降は明らかに、初撃と勢いが違っていた。
――悔しいが、どう考えてもあれは手加減をしてもらっていたのだろう。
「シロウ。水を持ってきました」
一面の天井だった視界の端に、セイバーの金髪がひっかかる。ゆっくり起き上がると、思ったより身体はバテておらず、息もおさまっていた。
「ありがとう。セイバー」
「いえ。それよりも大丈夫ですか? かなり疲れていたようですが……」
「大丈夫みたいだ。こう見えても結構身体は鍛えてたつもりなんだぞ。さっきはセイバーにコテンパンにされちゃったけど」
「そのようですね。私が貴方に勝てたのは、おそらく身体能力よりも技術の差でしょう」
異人さんながらセイバーは道場の床に正座して俺と相対する。その姿勢はとても美しくて、和風の道場によく溶け込んでいた。
「でもセイバーがあんなに強いとは思わなかった。こんなちっちゃい女の子なのにな。ズルいぞ、隠してるなんて」
「………………」
負け惜しみを驚きでカモフラージュして口にすると。
セイバーは、ふと表情を消して視線の力を強くした。
「やはり気になりますか?」
じっと俺の目を見て、探るように問う。
「女の私が、男性である貴方より強いというのは」
「う……それは……」
たしかに、女の子に負けっぱなしの男っていうのはどうにも収まりが悪い。気になると言えば気になるだろう。
しかしセイバーは、対戦相手のこっちが見惚れてしまうほどの美しい構えをしていた。それは彼女が長年かけて行った鍛錬の歴史を物語る。
一方の俺は剣道などかじった程度。別に専門にやってたわけじゃない。
それで男だからってだけで彼女に勝てると思うなど、セイバーにも失礼ってもんだろう。
そんな胸の内を伝えると、セイバーはほほえんだ。
「なるほど。理性では理解していても感情が納得していないのですね」
「そう……なのかなあ」
感情ねえ。そんなものか―――
「………………」
「シロウ?」
セイバーの方を見たまま思わずかたまっていたら、怪訝そうに小首をかしげる彼女と目が合ってしまった。慌ててとりつくろう。
「あ、ああ。なんでもないなんでもない」
……気が付けば。
さっきから彼女はずっと、身体からよけいな力が抜けている。
そう思った瞬間、つい言葉が出た。
「なあ、セイバー。よかったらまたやらないか? 打ち合い」
「は? 良いのですか?」
「ああ。って、でもセイバーは俺なんかじゃつまらないかもしれないな。なんなら藤ねえに頼んで――」
「いえ。大河とも手合わせをしてみたいとは思いますが、それとは別にシロウともぜひ手合わせをしたい。
貴方の打ち込みは一心で力があります。それを受けるのは、私としても心地良い」
そんな、俺ではわからないところに対して、穏やかな笑みを浮かべる。
「――――――――
そ、そっか。じゃ、決まりだ」
顔が熱くなったような気がして、残りの水を一気にあおった。
俺が自分の打ち込みをよくわかっていないように、セイバー自身も気づいていないのかもしれない。
道場にいる間中、ずっとセイバーは『婚約者』という枷を脱いだ、年相応の女の子だったことを。
それ以来、必ず週末と休みには手合わせをしてるうちに、いつの間にか彼女に稽古をつけてもらうような形になっていた。
ちなみに、やっぱりというかなんというか、藤ねえはセイバーと手合せをした日の夕方、ずっと不貞腐れて不機嫌な様子を隠さなかったことから、その結果はおのずと知れた。
何度も道場で時間を過ごすうちに、わかったことがいくつかある。
セイバーはやっぱりとんでもなく強いこと。しかもやたらと負けず嫌いなこと。
そして、道場で本音と感情を出しているセイバーを見てるのは、俺も案外楽しいということだった。
「シロウ、これで本日の買い物は終了ですか?」
「うーん、メモのもんはみんな買ったし……あ、そうだ。クリーニング取りに行かないと」
休日の商店街は昼過ぎという早い時間でも賑わっている。俺とセイバーの両手には、いつもお世話になってるマウント深山商店街で買ったたくさんの戦利品があった。
家族が増えれば、当然買い出しの量も増える。幸いセイバーも食費を入れてくれてるものの、やはり買い物は人力で行かねばならない。
そういえばセイバー、最初は一ヶ月の食費だと言って、ぽんと50万円も出してきたんだよな、日本円で。あの時は目玉が転げ落ちるかと思うほどびっくりした。
「シロウ?」
「あ、ああ、悪い。そこの公園を突っ切って行こうか」
クリーニング店へ行くならそこが近道だ。小さな公園で、特に変わり映えもなく子供用遊具が置いてあるだけの公園だが、たまにああやって食べ物の露店が出ていたりする。
そういや久しぶりに見たな、あれ。
「セイバー、今日のおやつはあそこで買ってこうか。まだ食べたことないだろ?」
「はい。日本に来てからあのような場所で食べ物を買うのは初め、て………………」
セイバーの表情が言葉の途中で強張った。
なんだかご主人さまの殺人現場を見てしまった家政婦のような、驚愕、いや、むしろ恐怖すら孕んだ瞳で。
「? セイバー?」
その先にあるのは――――さっき俺が見つけた、たこやきの露店。
「シ、シシシシシ、シロウ……………………」
自らの見たものが信じられないのか。
蒼白な顔面の中、セイバーの口がわなわなと震えた。
「ま、まさか、まさか…………その、その中には、まさか、た、蛸…………」
「へ? ああ、たこやきだからな。当然タコが入って……って、セイバー、もしかして」
「しょ、しょ、正気ですか!? 日本人が蛸を食すこともあるとは聞いていましたが、まさか、まさかシロウがそんな、このような魔魚を口にするなどと!!!」
大絶叫。珍しい、あれだけ冷静沈着でどんなことにも動じなさそうなセイバーが取り乱してる。
というか魔魚って……まあたしかにあの異様な風体とヌメヌメした粘液はどこか妖怪じみてるけどさ。
「そんなこと言うなって。うまいんだぞ? タコ。シコシコプリプリした弾力の歯触りがなんとも言えない。
刺身とか、から揚げとか、魚介類のサラダに入れてもいける」
セイバーはますます色をなくし、口を半開きにして固まっている。
……う〜ん、どうやらこれは本格的に苦手みたいだ。顔から血の気がひいてきてる。
たしかにタコはキリスト教圏ではデビルフィッシュと言われるらしいが、総本山たるローマのあるイタリアではタコを食うらしいし、最近は世界的にタコの消費量が増えて、品薄となった日本での値段も……ってそれは置いといて。
ともかく、食材として広まってきてるそうなんだが、目の前の彼女には受け入れがたいことのようだ。
「よ、よもや、シロウっ……。貴方は、蛸が好物、などということはっ……!?」
「好物というか……まあ、人並みに」
日本人にはお馴染みな食材だから、普通の日本人と同じぐらいには口にするし、他のみんなと同じぐらいには好きだろう。
そういえば最近食卓にタコが上ってなかったな。思い出したら食べたくなってきたが――セイバーのこの様子じゃ無理だろうか。
「…………………………………………」
「え? セイバー?」
元から肌の白い彼女の顔からは血の気が引き、いまや紙のように白い。と、思ったら。
見る間に、その白い顔を真っ赤に染めて、
「あ、あ、あ、ありえません――――――――!!!」
ま、待ってくれ、耳がキーンとなった、キーンと!
「こんな薄気味悪い魔物など、到底食物として認められません!! シロウ、どうか考えなおしてください、貴方はこの悪魔に呪われているのではありませんか!?
タコを食べるなど唾棄すべき悪行です! 正気の沙汰とも思えません!!」
そこまで言わなくても……こりゃ納豆を出したら、腐っていると大騒ぎされるかもしれない。
俺としても、スターゲイズパイとやらの写真を見た時は絶句したもんだが、食文化はなかなか壁の厚い問題だと再認識した。
さてこの興奮しきったセイバーをどうなだめようかと悩んでいると。
「おう姉ちゃん。なにイチャモンつけてんだ、ああん!?」
ドスの聞いた声が会話に割り込んできて、俺たちはそちらに視線をやった。
強面の顔はお世辞にもご機嫌うるわしいとは言い難く、目線に殺気をこめてセイバーを見下ろしている。古びた極彩色のシャツと趣味の良くない金色のネックレス、どこか傾いだ姿勢、雰囲気だけで真面目ではないとわかる態度。
どう見てもチンピラと分類できる姿形をしているのに、可愛いタコのプリントされたエプロンがミスマッチである。
ん? タコのエプロンってことはもしかして……
「人の屋台の前でさんざんタコの悪口言いやがって。営業妨害か!! 何か恨みでもあるのか、ああん!?」
やっぱり屋台の主か。……ってこれはヤバいんじゃないか!?
セイバーも一瞬、屋台の人のことなど忘れていた暴言の自覚があるのか怯んだが、すぐに気合いを入れなおした様子に戻り反論する。
「たしかに今の私の言葉は、タコを食べるなという意味を成していました。しかしこれは私の思う真実です。
タコのように気持ち悪いものを食べ物とは思えない。貴方もたいやき屋に転身したらいかがです? あれはとても美味で、良く売れるでしょう」
さりげに、最近一番のお気に入りの茶請けを推してくるセイバー。意外に皮肉屋なのか、それとも単なる天然の食いしん坊なのか。後者のような気がする。
しかしこれを挑発と取ったらしい、血の気の多そうな男は、眉をぴくぴくと震わせ不快に顔を歪めた。
「やっかましい!! 俺はタコ焼きが好きだし、ちゃんと売上出してんだよ!!
それが見ろ、姉ちゃんのせいで客がみーーんな逃げちまった!!」
ちょ、これは完全に言いがかりに入ってきた。
たしかに今見回せば、公園には犬の子一匹いない状態だが、その前もせいぜいたこ焼きなど買いそうにないベビーカー連れの親子が通り過ぎてるだけだったのに。
「む。しかし見たところ、元々人通りは多くないようですが……。この上まだ、何か問題でもあるのでしょうか」
「慰謝料ってモンが世の中にはあんだよ! ンなことも知らねえのか!」
伸ばされる男の腕。それがセイバーの白く細い手首をつかむ前に、彼女はパチンと音をたてて無骨な手を振り払った。
互いの意思を正しく理解し、一瞬で臨界点まで高まる緊張感。
さすがにこれ以上は見過ごせない。急いで睨みあう二人の間に割って入った。
「ちょ、ちょっと待った!」
「あん? なんだテメエ、黙ってろ」
「シロウ。貴方の手をわずらわせる必要はありません。このような無体な男は私の一存で成敗します」
やはり退く気配など微塵も見せない両者。しかし俺だって、ここで退くわけにはいかない。
なんとかここは穏便に、争わないままこの男にお引き取り願わねば。
セイバーを背中で庇いつつ、できるだけ深く頭を下げる。
「すみません、連れが失礼をしました。どうか許してやってください」
「おい。ふざけてんのか? 口で謝ったぐらいじゃ許せねえって言ってんのが聞こえねえのかこの耳は!」
つばがかかるほど口を近づけられ、耳元でどやされる。鼓膜が軽く痛みを訴えるが、それどころではない。
さっきからの剣呑な言い合いが人を呼び、公園の入口ではさわさわと遠巻きにこちらを見ているギャラリーの気配がする。
事態は悪化の一途をたどるばかりだ。なんとかして今すぐに、この場を納めなくては。これ以上騒ぎになると大変なことになってしまう。
だっていうのに。
「シロウ、そこをどいてください。この男は私が排除します」
セイバーさん、そんなにヒートアップされては消火できません。
この手のヤバげな筋の相手との争いは避けなければ。それにはひとまずこっちがひたすら低姿勢になるしかない。
しかしもちろん、セイバーより遥かに沸点の低そうなチンピラが、好戦的になった彼女へ反応しないはずもなく。
「……テメェ、いい度胸だなぁ、おい? たぁぁぁっぷり日本の礼儀ってやつを教えてやろうか、この体によぉ」
「できるものならばやってみるがいい。貴様程度に遅れをとる私ではない」
もう殺すブチ殺すマジ殺すと声以外の全てで叫んでいるチンピラと、不敵な笑みを見せるセイバー。
だ、ダメだ。もはや一触即発、今手が出ていないのが不思議なほど。
そして限界を超えた緊張感は、瞬時の後に破られる。
「おらどけテメェ!」
チンピラが俺の胸ぐらを掴み、一気に横へとなぎ払う。突然の行動だったんで、こらえきれずついよろけた。
続いて男はセイバーへ拳を振り上げ、セイバーは応戦しようと腰をわずかに落とし――――
ばぎぃっっ!
「っ!?」
「シロウ!!」
息を飲んだ男の声と、驚愕を伴ってあげられたセイバーの叫び声。
崩れた姿勢から男のパンチを止められるほど、俺の身体能力は達者じゃない。ならば、と、自分の頬を使って無理やり受け止めた。
くそぉ、女の子相手だってのになんて重いパンチだ、こいつ。本気で殴るつもりだったな。
口の中に苦い鉄の味が広がる。軽く切ったらしい。
「ぐ――がはっ」
「シロウ!? くっ……貴様、シロウになんてことを!!」
「ざけんな!! テメェも殴られてえのか!!」
今のでセイバーの怒りはますます滾り、男の矛先は俺へと変わっている。こうなってはもはや収拾がつくわけもない。
あと、できる手段はひとつだけ。
「セイバー! 逃げるぞ!」
俺を案じて傍によりそう彼女の腕をひっつかみ、脱兎の勢いで走り出す。
「待て! オトシマエつけろっつってんだ!」
後ろから聞こえる男の声がみるみる遠くなってゆく。思った以上に足が遅い。……もしかして最初からこうしていればよかったんだろうか。
抗議の声は、背後だけでなく隣からも聞こえてくる。
「シロウ、放してください! 貴方が殴られたのです、やられっぱなしでは納得がいきません!」
言葉遣いは違っても意味としては全く同じことを言うセイバー。物騒なことこの上ない。
「いいから、セイバー。あいつにやり返そうなんて考えるな。ここは俺が我慢してればいいんだから」
「なっ……!」
あまりにも俺の言葉が意外だったんだろう。
そのままセイバーは黙り込んでしまった。理解したというのではない。いまだ彼女の走るスピードが上がらないのは、きっと俺の判断に怒っているからだろう。ただ、俺が言ったことだからとりあえず従ってくれてるだけで。
家に帰ったらどんな説教が待ってることか。それが少しだけ恐ろしいなと内心で嘆息した。
べっちん。
「いた――――!」
「まったく……情けないことこの上ない。まさに未熟の一言につきます。
いいですかシロウ。別に強くあることを結婚の条件にするつもりはありませんが、気弱な夫というのは極めて頼りない。
あんな暴漢相手に一合も交えず、まして逆に殴られて逃げ出すような腑抜けでは困ります。貴方には危機に直面したときにも臆することなく立ち向かえる、自信と度胸をつけてもらわなければならない。
幸い怪我は口の中を切ったのと痣だけのようですから、痛みが引いたらすぐにでも私の特訓を受けてもらいます」
セイバーは最後のところだけわざとじゃないかってぐらい痛くしながらも、それ以外は優しく治療をしてくれた。その最中のお説教もこのぐらいなら予想の範囲だ。
……後の問題は、これからの稽古がどれだけ厳しくなるかだろうか。
「悪かった。怒らせたおわびに、今日の夕飯は腕によりをかけるから」
「む……それは違いますシロウ。
私は怒ったのではなく気合を入れ直しているのですし、料理を豪勢にしてもらうことが私への詫びになると考えてもらうのも困ります。そして最も違うのは、貴方は怪我人なのですから、」
キンコーーン
セイバーの言葉の途中で、チャイムの音が家中に響き渡る。
「はて。桜が来たのでしょうか」
「いや、それにしては時間が早い」
もしかして…………あっちが来たかな。
いちはやく立ち上がって玄関に向かうセイバーの後を追う。ほんとは顔を見せない方がいいんだけど、だからってセイバーだけじゃ対応しきれない。
キンコーーン
「はい、どちら様でしょうか…………な!!?」
玄関の扉を開けて、セイバーは絶句した。
外に立っていたのは、見覚えのある大きな体と極彩色のシャツ、安っぽい光を放つ金ぴかのネックレス。悪い人相、それもついさっき見たものならば、そうそう忘れられるものではない。
――――さっき俺たちと公園で会ったチンピラだった。
一瞬言葉をなくしたセイバーだが、すぐに立ち直り険しい顔で身構える。
「まさかここで会うとは思いませんでした。しかしいい機会です。
先ほどシロウが受けた苦痛と屈辱、倍にして受け取ってもらいま――――」
「「「「「申し訳ありやせんっした!!!!」」」」」
玄関先に、怒号にも似た謝罪が響く。セイバーは再び意表を突かれて動きを止めた。
それはさっきつまらない理由で因縁をつけてきた相手が謝ったからというだけではない。謝罪の声は複数――――それも何人か特定するのが難しいほど多かったのだ。
チンピラの後ろに目をやれば、予想通りうちの門から溢れるほどの人数の男たちがぞろりとそろっている。……間違いなく総勢で来たなこれは。
そんなたくさんの男たちの中から、ひときわ厳つい顔をした男が姿を現す。それは俺にも見知った顔だった。
「衛宮の坊ちゃん、申し訳ありやせんでした!」
「あー、仁さん――――その、気にしないでください。たいしたことなかったんですから」
「そんなわけないでしょう! そのアザ、どう見てもこのバカがこしらえたもんでしょうが!」
――――やっぱりごまかせなかったか。いくら殴られた方がたいしたことないと言い張っても、頬の湿布の端からはみ出るほど派手なアザができていれば、誰だって驚くぐらいの怪我である。
だからあんまり顔を出したくなかったんだが。
仁さんは思い詰めた顔で、
「衛宮の坊ちゃんは三代目の弟分、それはつまり藤村組の看板の弟分も同じ。そんな相手を殴るとは――――しつけが行き届いてないにもほどがありやす。
この不始末は、二人分の二本でワビ入れさせてもらいやす!!」
言うが早いか、胸元から大きな刃物を取り出した!
ヤクザの宝具、伝説にして日常の武器、その名も――――
「わーーーーっ!! 仁さん、いいから!! 包丁しまってください!!
指なんて詰められても困ります!!」
包丁を振り上げる仁さんと、その腕にしがみついて必死に止める俺。
いきなり玄関先で繰り広げられるすったもんだに、セイバーは目を丸くしているだけだった。
「ふー…………。やっと帰ってくれたな」
指を置いてかないと気が済まないとすっかり興奮している仁さんを押し留めること30分。
なんとか藤ねえや雷河じいさんにはいつも世話になってるからと納得して帰ってもらうことができた。
しかしこの言い分だって、最初は『なればこそ、お二人が大事にしている衛宮の坊ちゃんを傷物にしたワビを入れないわけには!!』なんて余計その気にさせてしまったのだ。二枚も舌を持たない一枚舌の俺があの人を説得できたのは本当にラッキーだった。
それに何事もなく帰っていったとはいえ、どうも仁さんはこれを借りに感じているフシがあった。帰り際に、坊ちゃんのためなら一度だけ命を捨てるみたいなことを言われた時には、苦笑するしかなかったけど。
セイバーはまだ驚きの抜けきらない表情で質問してきた。
「シロウ。あの、先ほどの人々は――――いったい?」
「ああ、あの人たちは――――」
説明しようとしたその時。
開けっ放しだった玄関の扉から、ちらりといつもの虎柄の模様が見えた。
「――――藤ねえ」
呼びかけると、いつもとは違って消沈した様子の我が姉が遠慮がちに姿を見せる。
こんなに元気のない藤ねえを見るのも久しぶりだ。
藤ねえは顔を見せたものの、なかなか家の中に入ろうとしない。
「ほら、入れよ。今お茶淹れるから」
「士郎…………。あの、その、ごめん、ね…………?」
消え入りそうな声で謝る藤ねえ。
「藤ねえが謝るなんて珍しいな。明日は雨どころか、霰の代わりに雛あられでも降るんじゃないか」
「む〜っ…………そ、そんなことないもん。わたしだってちゃんと悪いことしたら謝ってるじゃない。おやつを食べちゃった時とか、おかずをつまみぐいした時とか」
「結構、そのくらいで謝ってるのが藤ねえらしい。できれば反省もしてほしいもんだが、高望みってやつだろう。
だからいいんだよ、藤ねえはそれっくらいで謝ってれば。だいたい藤ねえの責任じゃないんだからな。あいつの攻撃を避けられなかった俺が未熟なだけなんだし」
「……………………そうよね。
うん。士郎が悪い。介さんのパンチぐらい、セイバーちゃんを守ったままでも避けられなくちゃ」
口では俺を悪く言いながらも、得意げにではなく、泣き笑いの顔で笑う藤ねえ。これで気持ちも晴れるだろう。
俺も少しだけ晴れやかな気持ちでいると、くい、と服が引っ張られる感覚。つられて視線を落とす。
「………………………………」
そこではセイバーが無言の抗議を行っていた。
「あー……わかった。説明する。お茶でも飲みながらちゃんと説明するから」
だから、そんな仲間外れに拗ねるようなジト目で見ないでほしい。
「な……! では大河の家は、マフィアだと言うのですか!?」
藤ねえん家の家業を説明したとたん、開口一番セイバーが言い放ったのはそれだった。
うーん、説明が悪かったかな。さすがに藤村組をマフィアと呼ぶのは言い過ぎのような気がする。
お茶は一通り行き渡っているので、お茶請けの柿を剥きながら訂正した。
「そこまであくどいもんじゃない。むしろ藤村組はいいヤクザだ」
「…………? マフィアに良いと悪いがあるのですか?」
「マフィアは知らないけど、組はそうだな。んで、藤ねえんとこはいい組」
元々ヤの字の商売というのは、腕っぷしの強い若者がガラの悪い人間から地元を守るために始まったようなものなのだ。ショバ代というと何の落ち度もない屋台や露店に因縁をつけて、売り上げを巻き上げるという悪いイメージがあるが、江戸時代などはそうやって余所者の商売人が入りにくくすることで、地元の店を守ってきたという背景がある。
藤ねえも口を尖らせながら、セイバーのイメージに物言いをつける。
「そうよセイバーちゃん。少なくともうちは他人様に迷惑かけることはやってないし。
お天道様の下を歩けなくなるような事は絶対しないんだから」
「うん。だから藤村組は町の人にも人望があるんだ。決して今セイバーが想像してるような、犯罪じみた稼業じゃない」
「あ、いえ、大河の家がそうだとは――しかしそうすると、先ほどの者たちは?」
「あれは藤ねえん家の……そうだな、徒弟とでも言えばいいか?」
「マフィア風に言うと子分ね。こればっかりは否定できないなあ」
パリパリとせんべいをかじりながら藤ねえが補足した。さっきまでのしおらしい態度はどこへやら、すっかり姿勢が崩れている。
しかし親分子分、という説明はわりとすんなりセイバーに理解された模様。というか親分子分って日本のヤクザでも使うな。
「なるほど……そういう間柄でしたか。つまり大河は――――」
「そう、藤村組三代目、跡継ぎのお嬢様なのだーーーー!!」
ひれふせー、と胸を張る藤ねえ。おい、調子に乗りすぎだ。
「……とてもお嬢様には見えないけどな」
「ん、んー? なんか言ったかなぁ士郎ー?」
「いてててて、やめ、やめろっ!」
ぐりぐりぐりと拳骨で頭を押し潰そうとする藤ねえに待ったをかける。子供じみた攻撃だが、大人だろうと子供だろうとこれは案外痛い。
最も藤ねえが藤村組三代目に見えないのは、誰しも認めるところであろう。『お嬢さま』という世間一般が持つイメージのみならず、『極道の娘』という言葉のイメージからもこの人はかけ離れすぎている。俺も十年前、最初に聞いたときは信じられなかったもんだが。
「それにしても、さっきの仁さん、あれで納得してくれたのか? また明日うちの玄関前で指を落とすの落とさないの始まるのはご免だぞ」
「うん、わたしからもちゃんと言っておくからたぶん大丈夫じゃないかなあ。仁さん、頭に血が上りやすいけど、冷静になればもうちょっと話聞いてくれるし」
そう、顔は怖いけど普段はわりと落ち着いてにこやかな、あんまり極道に見えない人なんだよなあの人も。今度会って笑いながら挨拶してくれる相手の指が、俺への詫びでなくなっているっていうのも、正直ゾッとしない。
「んで、介さんは――――」
「……そっちはいくらかお説教してやってくれ。セイバーがたこ焼きの悪口を言ったのはこっちが悪かったけど、それでインネンつけてくるのはやりすぎだ」
「そうね、そうなるかなー」
がじがじと、相変わらずせんべいをかじりながら空中を見上げる藤ねえ。あれはお仕置きを考えてる顔だ。ちょっとだけさっきの男の行く末が心配になったが、まあ藤ねえもいい大人なんだし、ちゃんと剣道有段者としての加減を知ってるんだから、取り返しのつかない事態は避けるだろう。
――――ひとつだけ、藤ねえの加減は常人のそれと幾分差異がある、という不安材料はあっても。
せんべいを食べ終えた藤ねえの手がわきわきと何かを掴みたがっているので、今切り分けたばかりの柿を小皿に入れて手渡してやった。
「えー、また柿? もう飽きたー」
「駄目。柿を食え。藤ねえが組から持ってきた柿がまだいっぱい余ってるんだからな。
柿がイヤなら梨しかないぞ」
「…………じゃあ柿食べる」
しぶしぶながらも柿を口に運び始める。どうやら梨も組で大量に食べさせられた様子だ。改めて思うが、これも藤村組の人徳なんだろう。おかげでうちも季節の食材、特に果物に困ったことはない。
「ん、よしっ、やっぱり最後は十六連打ね。うん!」
そう高らかに独り言を呟き、藤ねえは立ち上がる。…………十六連打?
文句言ってたわりには早くも手の中の柿はきれいに姿を消しており、にぱっと笑った顔はいつもの藤ねえだ。
「じゃあ士郎、わたしちょっと家に戻ってるから。夕飯にはまた帰ってくるんで、わたしの分も用意しといてね」
「ああ、わかった。じゃあな、あんまり暴れんなよ」
「むう、また人を暴れ虎みたいに言うんだから士郎は」
軽く口を尖らせて、藤ねえはバタバタと賑やかに駆け出していった。さっきの最後の言葉が非常に気になるのだが…………頼むから、塀の中に入るようなことだけはしないでくれよ、藤ねえ。
テーブルの上の果物ナイフや果物の皮を集め、片付けをしようと立ち上がったそのとき。
「…………シロウ」
どこか言葉を喉の奥につめたまま、セイバーが呼びかける。
「ん、なんだ? セイバーも柿食べるか?」
「……もしかして、貴方は知っていたのですか? あの男が、大河の関係者であるということを」
「ああ、そりゃ、な」
この町でソレっぽい筋の人といえば、まず間違いなく藤村組の関係者だ。よその暴力団が来ることもないではないが、たいていそういうのは藤村組が事前、あるいは直後に情報を仕入れ、一般市民に迷惑がかからないよう対応してくれる。
ヤのつく職業、とはいっても藤村組は一般的なイメージのそれとは違い、町の自警団のような役割が強い。そりゃあまり表立っては言えないこともないではないが、カタギの人に悪さをしないのが絶対的なルールである。
ただ、何年かに一度、ああいう組の方針をまだ理解していない新人が一般人に迷惑をかけることもあったりする。前回は4年前、その時も仁さんが足の小指を切り落とそうとし、被害者に必死に止められたとかなんとか。
新人の不始末は、兄貴分の連帯責任にもなる。強烈な縦社会の極道では当然の話だ。まして俺は藤ねえの弟分という立場だし、一発でも殴られればこうなることは容易に想像がついた。
かといってセイバーの好きにやらせて、あの男をボコボコにするのもうまくない。あんなのでも一応、藤村組の杯を受けていれば藤ねえの身内である。まして万一にもセイバーが怪我なんて負うことを考えたら、許すわけにはいかなかった。
だからなんとか事を構えず、あの場を逃げ出したかったのである。……まあ今回は失敗してこんな騒ぎが起こってしまったが。
「――――――――」
「どうかしたのか? セイバー」
「…………申し訳ありませんでした」
突然その場に土下座したセイバーに、俺の方がびっくりする。
普通に頭を下げるだけではなく、額まで畳へつけて、最大限に謝意を表している。幸いにもここは家の中だから良いが、もし土の上でもまったくためらいそうにない勢いだった。
「ちょ、ちょっと待った! なんなんだいきなり!?」
「申し訳ありません。私が愚かだった」
セイバーは一向に顔を上げようとしない。声は硬く、初めの頃に部屋割りの一件で揉めたときの、感情を押し殺している彼女を思い出させた。
「い、いいから顔を上げてくれ。だいたい何の事―――」
「…………私はシロウを侮辱してしまった。シロウは腑抜けなどではなかったというのに」
ぴたり、と。
思考回路が固まり、そして思い出す。
『あんな暴漢相手に一合も交えず、まして逆に殴られて逃げ出すような腑抜けでは困ります――――』
さっき、セイバーの言っていた言葉。俺の不甲斐なさを怒る言葉を、彼女は口にした。
「いや、別にそんなの気にしてないって」
あの言葉に我慢ができないようだったら、ちゃんと俺が事情を話せば良かったのだ。
たしかに面白くはなかったけど、俺としてはセイバーを守りつつ無事に立ち去る、というのが最善の策だった。それができなかった時点で、セイバーや藤ねえの言うとおり俺はまだまだ未熟なのだろう。
しかしセイバーはやはり顔を伏せたまま、
「力で奪おうとしてくる者には、力で返せばいい。そう考えて、力を揮わないシロウを臆病だと感じてしまった。
しかし私が間違っていました。大河の事を想い、争いを避けようとするシロウこそが、私より何倍も強い。
夫を信じられないなど、妻として失格です」
――――顔を伏せているから、彼女の表情は見えない。少なくともいつも通りはきはきとした口調だし、微動だにしない姿勢は普段と同じ、俺の知っている生真面目なセイバーだ。
ただ――――
「……いいから。かまわないから、セイバー」
彼女が、泣いているのではないかと。
いつもより感情を隠した声を聞いて、なぜかそう思った。
セイバーの肩に手を触れる。とたん、ぴくり、とはねる小さな肩。
「顔、あげてくれよ」
頼み込むと、セイバーはおずおずと面をあげる。声と同じく硬く強ばった顔に涙の跡がないことに、ひとまずほっとした。
「…………シロウ? 怒っていないのですか?」
「なんでさ。気にしてないって言ったろ」
セイバーの瞳が困惑に揺れる。どうも彼女にとっては大事で、俺が怒るのはほぼ決定事項だったらしい。
たしかに、あそこまで言われて怒らないことが、腑抜けと言えば腑抜けなのだろう。
だが。
「セイバーは俺のためを思って言ってくれたんだろ。なら怒る理由がないじゃないか」
「……………………」
「な。だから謝らなくていい。女の子にこんな格好されてたら、そっちの方がよっぽど参る」
セイバーはじっと俺の顔を見上げていたが。
やがてゆっくり顔をほころばせ、
「――――はい。ありがとう、シロウ」
「……………………っっっ!!」
頭が真っ白になる。彼女の浮かべた表情に、一瞬で声を失った。
心臓がばくばくやかましい。カゼでもひいたみたいに顔が熱くて汗がふき出る。それでもセイバーの顔から目が離せない。
息をつめて彼女を見ている俺に不審なものを感じたのか、セイバーの顔が疑問のそれになる。
「? シロウ、どうかしたのですか」
「あ、っ、な、なんでもないっっ」
……助かった。あのままセイバーがあの表情を続けていたら、きっと俺からでは動けなかったろう。
やっと硬直状態から脱し、慌てて彼女に背を向ける。
「じゃ、じゃあそろそろ夕飯でも作るから」
「シロウ、待ってください。先ほどは言いそびれましたが、貴方は怪我を負っている身だ。夕飯の支度は私がします」
追いすがり、俺の代わりに食事を作ろうとするセイバー。
それを強引に振り切って、台所の中に飛び込む。あらかじめ決めてあった食材をとりだしてダンダンと勢いよく包丁を振り下ろした。
「――――――――」
だって、こうでもしてごまかしてないとやってられなかったのだ。
彼女の、セイバーの浮かべた心から安らいだ微笑みが、今も目の奥に強く焼き付いてしまっていて。
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